成熟しても色褪せない『川』のスケート的作法。「若者の文化」を大人はどう見守り、関与する?

全国の路上を流れ流れて、各地のスポットとスケーターを写真に収め続ける集団「川」。フォトグラファー・荒川晋作と関川徳之の姓に由来する同プロジェクトは、2020年より雑誌『川』(オークラ出版)を制作。3月には5号目となる「野生」をリリースした。

既存のスケート雑誌のテイストとは明らかに一線を画す『川』。京都府京丹波の山奥に生まれ、全国各地を転々としてきた荒川と、20歳で横浜から石川県金沢市に移住して13年になる関川は、同誌を「スケート雑誌」だとは言っていない。

しかし『川』の誌上で起こっているのは、これまで「ダサい」とされてきたこと、素通りされていたなんでもないものに独自の文脈を与え、面白さを見出すことで起きる価値の反転であり、それはスケートカルチャーの担い手が絶えず行なってきたことである。そういう意味で、猫、花、海が誌面に掲載されていようが、スケーターが写っていなかろうが、『川』の作法はスケート的である。

そして、自由な振る舞いをはばからない『川』のあり方は、荒川や関川がスケートカルチャーの中心を担う「若者」を経て、スケーターなりに年齢を重ねていくこととはどういうことかを問うてきたからこそ生まれたものではないかとも感じる。「若者の文化」あるいは若者から、若者でなくなった人間は距離を取り、やがて退場していくのか。それとも持続的な関わりしろを探ることができるのか。二人の言葉は、そんな問いへのヒントとなるのではないだろうか。

「野生」のスケーターは、10年後にいるんだろうか

─最新号のテーマである「野生」は、巻頭で大きくフィーチャーしているスケーターの本郷兄弟(兄・本郷真太郎/弟・本郷真輝)を撮影しているなかで、早い段階で決まっていたそうですね。

青いキャップが本郷真太郎、赤いキャップが本郷真輝(写真提供:川)

荒川:いま22歳の真太郎は15歳のころから一緒にいるくらい付き合いは長いんですけど、彼らって本当に野生的なんですよ。スケボーしてて暑かったら街中で脱いじゃうし、Tシャツと短パンで靴下も履かずに走ってるみたいな。なんだか懐かしい感覚を抱くやつらで。

関川:濡れてる地面をTシャツで拭いたりしますからね(笑)。

荒川:彼らをたとえるなら動物園にいるウサギじゃなくて野ウサギ。僕らは転んでるところとか、スケートする合間もずっと撮ってて、スケーターの扉のページでポートレートがわりに使ったりするんですけど、彼らは使えそうな写真がなかったんですよ。

─なるほど。

荒川:「なんでだろう?」って考えてわかったのは、すばしっこくて撮れてないんだということ(笑)。僕のお気に入りの1枚でもあるんですけど、これはいまいちピントがあってないんですよ。そこにいたと思ったらもういない。

関川:野生動物ってそう簡単に撮らせてくれないですからね(笑)。やんちゃだけど、でも本当に感動するくらいい子たち。

荒川:で、スケボーはめちゃくちゃうまい。犬みたいに兄弟でじゃれ合いながら、いろんな街で滑れる地形をスケボーでぐるぐる探し回ってる。

このままいったらどんな大人になっていくんだろうという楽しみと不安が同時にあるような野生の匂いがするスケーターが、10年後にいるんだろうか。そんな思いがよぎって「野生」というテーマにつながっていきました。

本郷真太郎、本郷真輝、座間翔吾を特集した『角』(『川』のYouTubeより)

誰かに「飼われてほしくない」

─そうした目線は、スケートカルチャーの中心を担う、本郷兄弟のような「若者」の時期を同じく経て、年齢を重ねて初めて生まれてくるものだと思うんです。「若者」と「大人」のそれぞれの定義や境界線はひとまずさて置いて、二人はスケートボードに関わる大人という存在に変化してきたからこそ、いま「野生」という言葉に琴線が触れた部分もあるんでしょうか。

荒川:大人としての目線はあると思います。スケートボードに子どものころから関わり、いま起きている大きな変化に至るまでのプロセスを見てきたなかで、オリンピック以降にどんなことが起きていくんだろう、ということが多くのスケーターと同じく考えていることです。

いまスケートパークがたくさんできているのはとても喜ばしいけど、一方でそこで必ず出てくるのは「パークがあるからそこで滑ればいいじゃん」という意見です。自分はパークを否定するつもりはまったくないし、ストリートだけを肯定するつもりもないけど、画一的に誰かに決められていく可能性があるなかで、ストリートをホームにしている子たちがいなくなっていくのか、逆にパークをホームにしている子たちが「外に出てみよう」となっていくのか、それとも出ていかなくなるのか。どう変わっていくかはシンプルに気になりますよね。

どうなるのかはわからないし、「こうあるべき」だという主張を自分の活動のなかに込めて誰かに押しつけたり、手出しをしたいわけでも正直ないんですけど。

─変わっていく可能性がある風景や出会ったスケーターを淡々と記録していきたい、と。

荒川:そうですね。僕らの役目があるとしたらそういうところなのかな。ただ、「飼われてほしくない」という願いはあるかもしれないです。

─飼われてほしくない、ですか。

荒川:人間は誰でも、なにかしらのかたちでどこかに「所属」はするとは思うんです。ただ、心は飼われてほしくない。

たとえば、海外でものすごく活躍していて、路上で撮ったビデオパートをガンガンつくって、憧れの海外のデッキカンパニーのライダーになることを目標にしていた若いスケーターがいたとする。そのスケーターは世界的なコンペティションに出て活躍したことで脚光を浴び、国内の企業がスポンサーについた。それは本当に素晴らしいことだけど、一方で、スポンサーシップなどから国内の路上を滑ることが難しくなっている話を聞くと複雑な気持ちにもなります。

時代とともにスケーターの環境や状況は変化していくけど、心は飼われずに自由にやりたいようにやっていってほしいんです。僕は自発的なエネルギーが一番美しいと思っているから。

写真提供:川

「これだけは使ってくれ」。関川が選んだ一枚

─『川』はこれまで「日常自体」「こころ」「◯」「バランス?」「野生」と毎回のテーマはありますが、共通の価値軸みたいなものはあるんでしょうか。

荒川:一言でいうと、「自由であること」の感覚を持って臨むことなんじゃないかなと思います。スケートボードの根底には、自発性だったり、自由みたいなものがあると思うんです。

「こういう技、スタイルがカッコいいんだ」っていうみんなの思い込みをぶっ壊して、ダサいっていわれてたものを新しいやり方でカッコ良くしていくやつが必ず現れて、前に進んでいく。この連続がつねに起きてるような気がします。

─それでいうと、『川』の写真や構成は、既存のスケート誌とはかなり毛色が異なりますよね。地方・郊外の住宅地やスケートできそうにない路面で滑るスケーター、メイクできずに転んだ瞬間、一般的なスケート誌ではセレクトされないであろうチェーン店や薬局の看板が写るローケション──。

そもそも灯台や猫、花などスケーターが写っていない風景写真でも誌面が構成されていますよね。巻頭の見開きは植物とスケボーを持っていない本郷真太郎くんとその仲間たちでした。

関川:これは、荒川に「これさえ使ってくれたらほかは使わなくてもいい」と言ったくらいお気に入りの写真ですね(笑)。

彼らと浜松にいったときに海を見つけて、「泳ごうぜ!」って勢いよく向かったんだけど、とても泳げるような場所じゃなかったんですよ。「これは絶対に死んじゃうね」って。野生的な彼らも、立ち尽くして指をくわえながら海を見るだけ。脅威もふくめて自然を感じてる瞬間を捉えた写真です。

荒川:画としてのカッコよさは当然あるんだけど、関川の「これだけは使ってくれ」って写真に、毎回「これ!?」って最初は困惑しますね(笑)。でも関川の言ってることは理解できるし、それをなんとかはめて構成していくと、自分の発想にないものができていくんですよ。

関川:スケボーを持って家から出て、気になるものがあったら足を止めて、なにもないところで技をやったり、自分のリズムで街を滑る。

これってカメラを持って写真を撮りにいく感覚とすごく近いんですよ。だから、スケートと近い感覚で撮った写真は、それが花や猫の写真だったとしてもスケートの写真だと思うし、スケーターの写真の隣に並んでも違和感がないんですよ。『川』ではそういう自由な精神状態で撮影してますね。

2023年3月11日〜4月23日、登戸の川風ガーデンで開催された関川の個展『覚醒』

「ダサい」地方の看板を、なぜ避けなくなったか

─まさに、既存のスケート誌のトンマナようなものからは離れながらも、その違和感がないところが『川』を読んでいて不思議に感じた部分だったんですが、いまの話を聞いて腑に落ちました。

荒川さんは「『川』を“スケート雑誌”といったことはない」とのことでしたが、スケートの根本にある、自由なメンタリティで継続と破壊を繰り返して、ある種のオルタナティブをスケーター自身がつくり続けることを体現しているように思えますし、表現は異なれど、そういった点では紛れもなく「スケート雑誌」なのではないかなと、個人的には思いました。

荒川:やっぱり、それも自分たちにとっての「自然な状態」にこだわるようになったからできたことだと思うんですよね。

アメリカの『Thrasher Magazine』みたいな王道のスケート誌では──これは写真全般にいえることですけど──光量が十分に多い写真がきれいとされるので、三脚を何本も立ててラジオスレーブで同期させてストロボをバチバチにたいて、陰影がパキっと出た画でスケーターがメイクした瞬間を収めます。

これが日本のスケートフォトグラフィーに持ち込まれたとき、それを雑誌で見た僕らはめちゃくちゃ影響を受けました。現在はそうした写真が主流になっているし、僕らもいまでも同様のアプローチをすることもあります。ただよくよく考えてみると、あれはアメリカ固有の環境で自然に出てきたアプローチだと思うんですよ。

─と、いいますと?

荒川:アメリカって広大な大地とスケートへの寛容な文化がある程度あるので、そりゃストロボも何本もセッティングできますよね。それと比べて日本は密ですし、キックアウトされるまでの時間も早ければ確率も高い。セッティングして撮り始めたら警備員が来て準備が無駄に終わる、なんてことはよくありますし、アメリカよりもハードな環境だと思うんですよ。

であれば、カメラの感度もものすごく進化していますし、その暗黙の了解を必ずしも守る必要はないんじゃないか。もし難しい環境なのであればそのセッティングを省略してスケーターの努力が実る方法を優先したほうがいいんじゃないか、というのが僕の考えで、日本の環境を考えるとそのほうが自然な気がするんです。

─そういう感覚は若いころからあったんですか?

荒川:いや、年齢を重ねるようになってから生まれてきた意識のように思いますね。たとえば、自然豊かな田舎というより、ショッピングモールとかチェーン店がポツポツあるような田舎/郊外を殺風景でつまらないと感じたり、日本語の看板とかダサいなと思って、そういうロケーションは極力排除してました。

─ただよくよく考えてみると……。

荒川:アメリカのスケート写真のロケーションもほぼ田舎だし、看板だって普通に写ってますよね。それが彼らにとって自然なスポットなんですよ。でも僕らは自分たちの住んでるそういう場所を若いころはなんとなくダサいと思い込んでいて、でもひとたび海外の写真となるとカッコ良く見えちゃう。僕は田舎育ちなので、若いころは「田舎はダサくて都会はカッコいい」みたいなフィルターもありました。

ただ、次第に雑誌やメディアなどがカッコいいと取り上げる「ストリートカルチャー」のイメージに、さらに加えようとする「ストリート感の演出」が自分には重くなっていったんです。

じゃあ自分にとって自然なかたちってなんだっけ? と思うようになったのが30代前半くらい。そこからいい意味で肩の力が抜けていって、「自然にカッコいいものがカッコいい」と考えるようになって、自分が育った、いわゆるカントリーサイドで撮影することが増えていきました。

写真提供:川

面白さを見出し、価値を反転させるスケーターの作法

─スケーターって、風景やオブジェクト、スタイルなど、これまでダサいとされてきたものであったり素通りされてきた「なんでもないもの」に対して、独自の文脈で面白さを見出しながら、価値を反転させて押し上げていくエキスパートでもあるように思うんです。

『川』を読んだときも、「こういうロケーションで、こういう撮り方をしてもカッコいいじゃん」と、自分の視点が変化していく面白さがありました。いわゆる郊外・地方とされるスポットでスケートボードの写真を撮ることの魅力ってどういうところにあるんでしょうか。

荒川:都市空間であれ地方であれ、自分にとっての面白さを見出すために、スポットや地形に対して反応する能力、感性のようなものはスケーターとって重要になってきます。それに、「あるものでなんとかしよう」とするのがスケーターのいいところで、僕がスケーターを好きな理由でもあります。

スポットなんてなくても板を置けば滑れるし、フラットしかなくても皆で工夫をして遊べる空間をつくる。だから、「こんなマニアックなところでやってるやつがいるのかよ!」「なにやったんだこれ!」っていう発見はいろんなスポットを探すなかでありますね。

ただ、都会と地方を意識的に区別してるわけでは正直ないんですよ。滑る場所もスケーターが行きたいところに行くことのほうが多い。それでも『川』っぽい色が出るのは、僕らと同じく忙しくない場所を好むスケーターが周囲に多いからかもしれません。

写真提供:川

─撮る側も滑る側も、自然なかたちでその場所にいるからこそカッコ良くなるのであって、それは必ずしも都市か地方かによらないということですよね。

荒川:そうですね。だから「いいスポット」の定義も一概にはいえないんですよ。

関川:僕らはそのスポットでスケーターに滑ってもらわないとなにも始められないですからね。

荒川:そうそう。スケーターの特性や得意なことにスポットがハマらないと、そのスケーターがどれだけうまくても良さを発揮できないんですよ。スポット単体で良し悪しを判断するのが難しい。

都会だったらなおさらですけど、写真のなかに要素はいくらでも盛り込めるんですよ。ただ、最低限の要素で自由に考えていくことが一番面白い。スポットに必要な条件は「スケートができるかどうか」だけで、そのできるかどうかも、場所の特徴をとらえて、それに合わせた反応をしていきながら拡張していく。そうすると、いろんな種類の掛け合わせがあって、極端にいえばどこでもスポットになるんですよね。

別にスケーターの能力次第で撮れはするし、カッコ良くもなるんですけど、スケーターが工夫するのと同じように、スケートの写真をもっと広くとらえて、よりカッコ良くするのが僕らの役割なんじゃないかと思います。

写真提供:川

「行け!」と言ってほしい

─フォトグラファーにとって、スケーターは被写体ではなく「共作者」ということですよね。そこで気になるのが、スケーターとの関係性についてです。スケートカルチャーの中心は若いスケーターになるわけですから、長く撮る側として携わるほどに年齢の差は開いていくわけですよね。

荒川:20歳くらい年が離れた子と一緒に遊んだりしますからね(笑)。

─それって一般的にはけっこうありえないことだと思うんです。一緒に仕事するわけでも、学校でなにかを教えるために時間をともに過ごすのでもなく、遊びながら本当の意味でのフラットな信頼関係を築くわけですよね。

大人が若い世代に対してどこまで後押しをするのか、またどのように経験や知恵を伝えていくか、そもそもその必要があるのかも含めて難しい問いがあるなかで、スケートは怪我というリスクをつねに抱えてもいるので、より難しい。

だからこそ、荒川さんが過去のインタビューで語っていた、撮影中に若いスケーターに告げられた「『無理しないでね』って言われると萎える」という言葉は、スケーターとフォトグラファーのいい関係性なしには起きないやりとりだと感じたんです。若いカルチャーの担い手との信頼関係を築くうえで、どのようなことを考えているんでしょうか。

荒川:撮影中に若い子から言われたのは、「気合入れてるところだから『行け!』って言ってほしい」と。

関川:それでいうと、今日、19歳のスケーターと撮影しててまさに同じことがありましたね。彼はできるとまったく思ってなかったことがあったんですけど、「僕はできると思うよ」と言ったんです。そしたら、彼は初めて「できるかも」という思いが芽生えて、トライしたら実際にメイクできた。

荒川:え、できたんだ!

関川:やっぱり背中を押してあげるのってすごく大事ですよね。僕らは撮影者として彼らの滑りをずっと見てるので、多少アドバイスできる部分はあるんですよ。

ただそこには対等な関係がまず前提にないといけないですよね。対等じゃないとその言葉は上からの物言いになるし、押しつけになっちゃう。けど対等であれば耳も傾けてくれるし、同じ言葉でもアドバイスになるんじゃないかなって。

僕は普段スケーターたちを年下って感覚で接したことなくて、むしろ真太郎と会うときはちょっと緊張するくらいで、たまに怒られたりもしますね。もちろんご飯は奢りますけど(笑)。スケートっていう共通言語が1つあるから、変に世代を意識することもないのかなと思います。

荒川:僕の場合は、以前、真太郎と2人で山梨まで行ったときに「32歳っておじさんだと思うでしょ」って聞いたら、「思います」って言われたんですよ。そのときに僕は自分がおじさんなんだと潔く受け入れた(笑)。そうすると、僕らと同世代くらいのやつらが若いスケーターたちにどんどん嫌われていくさまも思い出すんですよね。

スケーターのなかでよくあるのが、「このスケボーのビデオ観といた方がいいよ」ってアドバイスなんです。それは本当に良い作品ではあるんですけど、時代背景をふまえた当時の衝撃はいまの子たちに100%伝わることはないんですよ。

そこから更新に更新を重ねたもっとすごいものが彼らの周りにはあふれてますし。いまのスケーターは信じられないくらい進化していて、僕らが若いころには絶対にいなかった次元の子たちがたくさんいるので、絶対に敵わない。むしろ尊敬しかないですよ。

─なるほど。若いスケーターたちがなぜ「行け!」という言葉を欲するのか、二人が築いている関係性から理解できたような気がします。

これ以上はなにも起こらなくていい

─いまのスケーターには敵わないとありましたが、技術的な部分だけでなく、表現の幅は広がっていると思いますか。

荒川:昔は1つの流行と変化のサイクルがあったように思うんですけど、いまは同時にすべてがある、という印象です。「こういうのがスケートだから」みたいな価値観よりも、「みんな好きなようにやればいい」という状況にはなっていますよね。スケーターごとにこんなにも違うことが、SNSや動画などによってより明らかにもなりましたしね。

このあいだも、若いスケーターに「スケボーの情報源は『川』とYouTubeです」って言われて、幅がすごいなと(笑)。『川』に出たいって言ってくれるスケーターも増えてきましたし。

─徐々に『川』の広がりを実感している、と。そうしたなかでの今後の展望を教えてください。

関川:『川』というホームがあって、自分の写真を撮ることにも注力できているいま、本当に幸せでこれ以上なく最高なんですよね。だから、これ以上は起こらなくていいとも思っています(笑)。

荒川:僕も同じくいまが最高だな。ただ、もう少し海外のスケーターの目にも触れられるようにはしていきたいですね。とはいえ、物事を大きくすると小さくするのが大変なので、基本的には僕とノリ(関川)でシンプルなかたちで自由に続けていきたい。

仮にスケートボードを撮らなくなったとしても、そのときの自分たちの興味の赴くところに向かっていくと『川』になる。そういう意味では、『川』はずっとなくならないような気もしています。

参考資料

*『WORKSIGHT』19号「スケーターたちのフィールドノートプロジェクト『川』の試み(外部サイトを開く

プロフィール
(かわ)

2016年、二人のフォトグラファー荒川晋作と関川徳之により始まったプロジェクト。チーム名は両人の姓に共通する「川」の文字に由来する。十代の頃より変わらずスケートボードとカメラに没頭したままの生活を続けている。近年は釣竿も持ちながら、世に隠された「スポット」を求め津々浦々を流れる。自ら縫う和綴じで制作した「川の本」に始まり、2020 年からはおよそ半年に一冊のペースでオークラ出版より本をリリースし続けている。2023年3月には「川」5号目「野生」を出版。



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