小松理虔、田島貴男(撮影:沼田学)、和合亮一(撮影:佐藤匠)
福島県を中心とした常磐線沿線で繰り広げられる舞台芸術の祭典、『常磐線舞台芸術祭』。演劇の上演はもちろん合唱やワークショップ、さらには文化財や食に関するイベントなど、各会場でさまざまなプログラムが用意されているこの芸術祭で、ひときわ異彩を放つイベントがある。作家とミュージシャンが同じ場所に立ち、それぞれの「声」を重ね合わせるコラボレーション企画「Voice on Voice」だ。
その一つとして、福島駅周辺で開催されることが決定しているミュージシャン・田島貴男(Original Love)と詩人・和合亮一のコラボレーション。それは、どんなライブパフォーマンスとなるのだろうか。そして、そもそも二人はどんな関係なのだろうか。本芸術祭の実行委員を務める地域活動家・小松理虔を交えた三人に、震災から12年を経たいま、福島で芸術祭を行なうことの意義について聞いた。
「福島にソウルパワーを放つ」
―『常磐線舞台芸術祭』は、J R福島駅をはじめ、常磐線沿いの各地でさまざまなプログラムが予定されています。そのなかで、田島さんと和合さんが共演するこの「Voice on Voice(※)」というイベントは、どういうコンセプトの企画なのでしょう?
和合:「Voice on Voice」は、私と古川日出男さん、柳美里さん、佐藤厚志さんが、それぞれの場所で、田島さん、後藤正文さん、尾崎世界観さん、Miyaさんというミュージシャンの方々と組んでコラボレーションするライブイベントです。
その場所に立って、生のメッセージを伝え合うというか、その場所でしか発することのできない「声」を、それぞれのやり方で重ね合わせていくようなものにしたいと思い企画しました。
※田島と和合が共演する「Voice on Voice」の企画『浜通りと中通りの境』の詳細はこちら
―具体的にどのようなパフォーマンスを行なう予定でしょうか?
和合:私は詩の長篇のテキストを今回のために書きあげました。これをセッションのたたき台として、田島さんにお渡ししています。それを参考にしていただきながら、自由に音楽のプランを練っていただけたらと願っております。
田島:先日、和合さんと軽く打ち合わせをさせていただいたんですけど、きっかけは2011年の東日本大震災だったとしても、それから12年経って、もういまは次の段階に入っているんじゃないかなって、僕なんかは思うわけですよね。
だから、福島に来たら何か面白いことがある、楽しいことがあるとか、そういう感じでも全然いいんじゃないかと思っていて。その土地ならではの力みたいなもの、僕はそれを「ソウルパワー」と言ってるんですけど、福島のソウルパワーを探して、それを福島という場所で放つというか、何かそういう元気を与えられる企画になったらいいですよね。
和合:私たちが出演する会場は、福島の中通り地区(※)にあるJR福島駅東口周辺を予定しております。中通り地区は原子力発電所爆発後、放射性物資を含んだ雨雲がやってきて、降雨で線量の高い場所があちこちにでき、直接に苦しめられた場所です。
震災以降、中通りの地域には、たくさんの被災者の方々が住んでいたんですよね。そして、福島駅からいろんな場所へ、思いを残すようにして旅立っていき、さまざまな別れと葛藤の場面を見つめてきました。
※福島県中部の地域の呼び名。福島は大きく、東部の浜通り、中部の中通り、西部の会津に分かれている
―なるほど。
和合:私は20代のほとんどを浜通りで暮らしたので、第二の故郷のように思っています。思い入れのある浜通りと、現在に暮らしている中通りの、2つの人生を生きているような感覚が、とくに震災後の私の心のなかにあります。しかし、このことは多かれ少なかれ、浜通りに縁があって、離れた町で暮らしている方々に、共通している気持ちなのではないでしょうか。
「浜通りと中通りの境」と称して、震災後のそれぞれの時間と向き合ってみたい、そしてあらためてそれらをつなげてみたい。そういう感じを、少しでも私の詩と田島さんの歌で表現できたらいいなと思っています。
田島貴男の郡山の思い出──伝説のロックフェスが開催された街
―和合さんは、福島市在住の詩人であり、2011年には遠藤ミチロウさん、大友良英さんらとともに『プロジェクトFUKUSHIMA!』を立ち上げるなど、これまでずっと継続して福島を盛り上げる活動をされてきたわけですが、今回田島さんが出演されることになったのは、少し意外と言えば意外だったのですが。
田島:じつは僕は高校のころ、福島県の郡山に住んでいて、福島とは関わりがあったんですよ。中学校3年のときに、兵庫県の芦屋から郡山に引っ越してきて、高校3年までいて。僕が暮らしていた当時は、文化芸術に関しては、ホント何もなかったですけど(笑)。
まだ新幹線が通ってなかったときなので、郡山にはレコードショップが1軒しかなかったし、楽器屋さんも1軒しかなかった。僕は小さいころから音楽を志していて、中学1年のときからバンドを組んでいたんですけど、ホント情報がいっさい入ってこなくて。だから、早く東京に出たいって、ずっと思っていたんですよね(笑)。
田島:でも、1974年に『ワン・ステップフェスティバル』という、当時としてはかなり大規模なロックフェスが、郡山で開催されたらしいんですよ。内田裕也さんがプロデュースして、オノ・ヨーコさんとかも出演した、伝説のイベントだったみたいで、当時の写真とかは僕も見たことがあるんですけど、それが誇りだったみたいなところがあって。
ただ、イベントはとにかく大赤字だったらしくて、それ以降、郡山では一切ロック系のフェスをやらなくなったという噂も聞きましたけど(笑)。
『1974 ONE STEP FESTIVAL』 / DIW by diskunionのYouTubeより
和合:私は福島市の生まれで、少しだけ郡山で暮らしていたこともあるのですが、やっぱり福島というのは、どうしても東京と仙台に、人が流れていってしまう場所なんですよね。
ただ、震災以降、少し意識が変わってきたようなところがあって。これは郡山や福島に限らずですけど、とくに若い人たちの生き方そのものが、最近ちょっと変わってきたようなところがあるじゃないですか。
震災とコロナを経て、ありのままの自分の暮らしを楽しむという考え方を持った若い人たちが、非常に多く見受けられるようになってきたという……。
田島:それはすごく良いことじゃないですか。たしかにフェスとかイベントに関しても、いまは地方都市で開催されるもののほうが、都心のものより盛り上がっているような感じはありますよ。
震災に対するアーティストと詩人の向き合い方
―そもそも、田島さんと和合さんはどういったつながりなのでしょう?
田島:和合さんが震災直後に、自作の詩をいろいろとTwitterにアップしていて。それを僕がリツイートしたりしたのが、きっかけだったかな?
和合:そうですね。当時、私は「詩の礫」というTwitterで毎晩自作の詩をツイートする活動をしていたんですけど(※)、あるときそれを田島さんがリツイートしてくれていることを発見して。それで、私のほうからダイレクトメールでメッセージを送らせていただいたのが、そもそもの始まりです。
私自身、田島さんの音楽は昔からとても好きだったので、大きな励ましをいただいたような心持ちになりました。すると、田島さんがすぐにメッセージを返してきてくれたんです。まさか、直接にキャッチボールをさせていただけるとは。田島さんの誠実なメールの文面が、いまも心に深く残っております。
※和合が被災6日目からTwitterで発表した詩。書籍にまとめられ、『詩の礫』として徳間書店より出版されている(外部サイトを開く)
田島:そうでした(笑)。さっき言ったように、僕も高校時代を郡山で過ごしたものですから、震災後の福島のことは、いろいろと気にかけていたんですよね。
昔の友だちのところを訪ねていったり、じつはボランティアも1年ぐらいやっていて。それは福島ではなく、宮城の山元町っていうところだったんですけど。実際に行くのと行かないのでは、やっぱり感じることも違っていて。
福島は当時──それはいまも続いているのかもしれないけど──非常にアンビバレントな位置にいたというか、実際すごく複雑な状況だったじゃないですか。原発のこともありましたし。そうしたなか、和合さんは詩人ならではの感覚で、当時の痛みとか怒りを言葉にしていて、すごく良いなって思ったんですよね。
和合:田島さんが一時期、郡山で過ごされていたというのは存じ上げていたんですけど、目に留めてくださったのはすごくありがたいことだなって思って。そのあとも、ときどきメッセージのやりとりをさせていただくようになったんですよね。
東日本大震災から12年、福島の現在地
―ここで実行委員に名前を連ねている小松さんから、あらためて芸術祭についてご説明いただけますか?
小松:僕は福島県のいわき市を拠点に、震災以降、食や観光、文化芸術など、さまざまな地域活動を行なってきたのですが、そのなかでたまたま『新復興論』(ゲンロン叢書)という本を出す機会があって。
小松:そこで今回の芸術祭のプログラムディレクターを務めている柳美里さんとつながりができて。震災から10年以上経ったけど、被災した人たちとそうでない人たち、あるいは原発事故の影響を受けた地域とそうでない地域など、さまざまな線引きが、いまだになされているなっていう話になったんです。
そういうなかで、もう一度、芸術や文化の力で、その線を超えて人と人がつながっていくようなきっかけを提供できる舞台芸術祭を開催しようじゃないか、と始まっていったんです。
―基本的には、柳美里さんと、フェスティバル・コーディネーターを務める平田オリザさんが、旗振り役になっている感じなのでしょうか?
小松:そうですね。柳さんは2015年から福島県の南相馬市に移り住まわれて、そのあと2018年に南相馬の小高というところに「フルハウス」という書店をオープンされて。さらに、その近くにアトリエ「La MaMa ODAKA」をつくり、浜通り地区でいろいろなことをやられているんですよね。
その一方で、平田オリザさんも、2015年から双葉郡の高校の演劇プログラムに参加されるなど、演劇とか舞台芸術の表現の場が、浜通り地区にいろいろと生まれてきたようなところがあって。それが今回の舞台芸術祭の根底にあるように僕は感じています。
「線」が持つ、ポジティブとネガティブな意味
―今回の芸術祭は「つなぐ、」ということが、メインテーマになっているんですよね。小松さんは「手繰り寄せる、線を」というステートメントを書かれていますね。
小松:そうです。なぜか僕が書かせていただいて(笑)。『常磐線舞台芸術祭』という名称なので、「線」をテーマに書いたんですけど、やっぱり帰還困難区域であるとか、震災以降、福島にはいろんな線引きがされていて。
先ほどから何度か話に出てきていますけど、そもそも福島県は、「浜通り地区」、「中通り地区」、そして「会津地区」といったように、縦に大きく3つに分かれているんですよね。当然ながら、海沿いの浜通り地区とそれ以外の地域では、被害や復興の程度も違っていて。
そうやって線を引くことで、わかりやすくなった部分もあるけど、それによって内と外じゃないですけど、境界線のように分け断たれた部分っていうのもあるように思うんですよね。それは、震災から12年経ったいまも。
―なるほど。
小松:だからこそ、そういう「線」を超えて、県外の人も含めて、皆でつながり、喜び合う場所というか、一つの空間にいて、一緒に何かを味わったりすることってすごく大事だと思うんです。
誰かと何かを共有した瞬間、その線が消えたり、ぐちゃぐちゃにズレたりするようなことを意識したプログラムがこの芸術祭では各地で組まれているんですよね。
あと、やっぱり僕らって、どうしても物事に「線」を引いてしまうというか、あの人はこうで、僕らはこうでとか、結局他者と「線」を引くことでしか、自分を規定できない生き物ではあるんだけど、「線」というのは、引くだけのものではなく、「線」があるからこそ、それを手繰り寄せることもできるわけで。
―たしかに「線」というのは、面白い言葉ですよね。ポジティブな意味も、ネガティブな意味もあるというか。
小松:そうなんですよ。「線」があるからこそ、つながりを感じることができるというか、「線」を引っ張ったときに、「あ、あっちに何かあるぞ」って、他者とのつながりを感じられたりもするっていう。
それは、「線」のポジティブな側面だと思うんですけど、「線」を引かれて、苦しくて辛い思いをしたこの土地だからこそ、もしかしたら「線」が持つ、そういう希望的なものを僕らはどこかで感じているのかもしれないというか。それをこのステートメントで表現できたらいいなっていうのは思っていました。
田島:『常磐線舞台芸術祭』がユニークなのは、一つ大きな会場があるわけではなく、開催期間中、さまざまな場所で、いろいろな規模のプログラムが繰り広げられるところな気がします。
小松:そうなんですよね。田島さんと和合さんのイベントは、先ほど言っていたようにJR福島駅周辺で開催されて、同じ「Voice on Voice」の企画でも、佐藤さんとMiyaさんのイベントはJR亘理駅周辺で開催されるので、じつは福島県ではなく、宮城県なんですよね。
それはたぶん、「福島という線を超えて宮城に行く」という意味もあるように思っていて。
田島:というか、常磐線は、沿岸部の浜通り地区を南北に走っている鉄道ですけど、そもそも福島駅は中通り地区で、『常磐線舞台芸術祭』と言っておきながら、じつは常磐線だけにとらわれていない。
いまもなお残る被災地に引かれた「線」
―「点と点を結んで線にする」ではないですけど、「つなぐ、」というコンセプトは、地理的なことにも関係しているんですね。
小松:そうですね。あと、移動するときに、いろんなものを見て、いろんなことを感じてもらいたいっていうのが、きっとあると思うんですよね。
常磐線一つとっても、走っているうちにどんどん風景が変わっていくし、それこそ被災の状況や復興の状況も、場所によっていろいろ違うので。移動しながら、その場所場所の風景を見てもらいたいというのもあるんですよね。
和合:いま、線引きの話がありましたけど、実際、被災地に行ってみると、いまだに明確な「線」があることが、きっとわかると思うんですよね。浜通り地区の空気感と、福島市のある中通り地区の空気感は、いまもやっぱりちょっと違っていたりするので。
先ほどもお話いたしましたが、私は20代のころ浜通りの地区の南相馬でずっと暮らしていたものですから、その両方の空気感を知っているというか、2人の自分がいるようなところがいつもあります。その違いみたいなものと、そして変わらずに共通しているもの、その両方を追いかけていきたいと思っています。
それがつまりは、自分の心のなかに知らないうちに引かれている「線」の本質を見極めて、超えていこうとすることになるんじゃないだろうか……。田島さんの音楽と懐の深さに、思い切って飛び込ませていただきながら、探していきたいと思っています。
東京の人にとって常磐線はエアポケット?
小松:あと、常磐線の話でつけ加えるなら、今回の芸術祭は、じつはコロナの前から準備していたんですよね。
というのも、2020年の3月に、常磐線の富岡・浪江間の運転が再開して、震災以来9年ぶりに常磐線の全線が開通したというのがあって。それで『常磐線舞台芸術祭』という名前にしたんですけど、そのあとコロナ禍になってしまって……。
―そこも、ようやくといった感じだったんですね。
小松:そうなんです。あと、たまたまちょっと前に、常磐線に関する本の執筆に関わる機会があったんですけど、常磐線って、もともと常磐炭田の石炭を、東京のほうに運び出すために発展した路線なんですよね。
ただ、もしかすると東京の人たちにとって、常磐線はある種エアポケットみたいになっている路線な気がしていて。西に行く電車と北に行く電車の終着地は、大体みんなわかるというか、東海道線は横浜とか静岡のほうに行くし、東北本線は仙台に行って盛岡に行くって知っていると思うんですけど、常磐線は北のほうに延びている電車っていうイメージがあるのかなって思っていて……。
―基本的には、東京の日暮里から、千葉、茨城、福島を経由して、宮城県の岩沼まで行く路線ですよね。
小松:そうなんです。そのへんのことも、この機会に感じてもらえたら良いなっていうか、震災から運休し、全線が再開するのに10年近くかかったなんてことも、ほとんど知らないかもしれない。だからこそ、いまの福島を皆さんの目で見て、感じてほしいっていうのもあるんですよね。
和合:2020年に、常磐線が全線再開通したということで、暮らしてきた方々の生活が変わってきたということがもちろんあるでしょうし、浜通りに心を残したまま出ていかざるを得なくて、遠く離れた町で暮らしていた人々も、ようやくこれでいつでも帰ることができると思われた方が、多かったと思うんですよね。
物理的・具体的にということももちろんありますが、心と心とがあらためて連結しはじめたという象徴的な意味が、この「常磐線」という言葉には宿っているように思います。それをしっかり守っていくために、たくさんの人々がこうやって集まり始めているという感覚を、芸術祭に参加する数多くのみなさんとともに分かち合っていきたいです。
震災や復興も大事だけど、まずは福島に来てほしい
―では最後、参加者にはこの芸術祭に参加してもらいたいと思っていますか?
小松:これだけ面白いプログラムが、短期間にギュッとまとまっているイベントは、ほかにあまりないと思うので、単純に、田島さん、和合さんをはじめ、この豪華な出演者たちのパフォーマンスを見てみたいっていう、それだけで来ていただいても全然いいと思うんですよね。出演者も震災から12年経ったいまだからこそ語れること、表現できることっていうのも、きっとあるはず。
だから、別に震災とか復興っていうことは、それほど考えず……もちろん、頭の片隅に入れておいてもらえたらうれしいですけど、この芸術祭で披露されるさまざまな表現のなかに、きっといろいろなものが転がっているはずなんですよね。常磐線に乗って福島に来てみたら、何か面白いものが絶対見つかると思うので、まずは福島に来ていただけたらうれしいです。
和合:これだけの規模のフェスティバルは、恐らく国内でも最大級の一つだと思うので、単純にそれを味わう気持ちできていただけたらいいと思いますし、これがあるから福島にいけるという人も、きっと多いんじゃないかと思っていて。
今回私は、「日没をまつれ 2023」という合唱のイベントの企画もやっているのですが(※)、南相馬の小高中学校の生徒たちがつくった“群青”という歌だったり、私が作詞させていただいた“夜明けから日暮れまで”や“光の走者よ”という曲だったり、福島の浪江町発祥の歌である“大地讃頌”だったり、ぜひ福島の地で歌ってみたかったと言ってくださる方がけっこういらっしゃって。
そういうふうに、これまでなかなか行く機会がなかった方々も、これをきっかけにぜひ一度、福島に足を運んでみてもらえたらなって思います。
※被災地を視察しながらの合唱の体験ツアー。詳細はこちら
―コロナもありましたし、ようやくという感じですよね。
田島:そうですよね。こんなことが起こるとは、誰も思わなかったわけで。僕が思うのは、震災のこともそうだし、コロナもそうだけど、昔の人たちはこういうことをいくつも乗り越えてきたんですよね。
たとえば、東日本大震災よりも遠い昔、津波がやってきた浸水範囲の境界線上にたくさん神社が建っていたりするし、やっぱり過去ずっとそこに住んでいた人たちは、確実に頑張ってやってきたわけですよ。われわれもその一人であって、それと同じことをやるんだっていう。そういうことなんじゃないかなっていう気がしています。
小松:そうですよね。昔の人たちも、そうやって頑張って乗り越えてきたわけで。そういう意味で、時代を超えた人たちとの「つながり」も感じ合えるような機会になればいいなって思いますよね。
和合:それは、私も同感ですね。「つなぐ、」というのは、県内、あるいは県外からくるさまざまな人たちを「つなぐ、」ということであると同時に、昔の人とも気持ちを「つなぐ、」ということでもあって。とくに演劇というのは、人が全然違う人間になりきって、そこにある違う人生を濃密に生きていく芸術なので、そうした力がすごくあると思うんです。
その感覚みたいなものは、じつは『常磐線舞台芸術祭』の大きなテーマとして、とても大事であると確信いたします。「常磐線」という「線」をめぐる、新しいフェスティバル。見えない「線」を、本当にまたぎ越していくための、私たちの第一歩が、ようやく見えてきた気がいたします。
- イベント情報
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- プロフィール
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- 田島貴男 (たじま たかお)
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1966年、東京生まれ。85年に結成した田島を中心とした前身バンドが87年にORIGINAL LOVEと改名。91年にメジャーデビュー。最新作は2022年リリースの「MUSIC, DANCE & LOVE」。バンド形態での表現だけではなく田島貴男としてフットストンプやフットタンバリンも使用した独自の「弾き語り」、「ひとりソウルショウ」などのスタイルでもライヴを行なっている。
- 和合亮一 (わごう りょういち)
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1968年生まれ、福島市在住。詩人。中原中也賞、晩翠賞、萩原朔太郎賞などを受賞。2011年、東日本大震災直後の福島からTwitterで連作詩「詩の礫(つぶて)」を発表し国内外から注目を集めた。詩集『詩の礫』がフランスにて翻訳・出版され、ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞(フランスからの詩集賞は日本文壇史上初)。国内外におけるポエトリー・リーディングの評価が高く、坂本龍一氏、吉永小百合氏、大友良英氏、高野寛氏、haruka nakamura、あらかじめ決められた恋人たちへ、などのミュージシャンや俳優らと共演を果たしてきた。
- 小松理虔 (こまつ りけん)
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1979年、福島県いわき市小名浜生まれ。地域活動家。地元の商店街でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、食、医療福祉、文化芸術などの分野でさまざまな企画、情報発信に携わる。いわき市の地域包括ケアの取り組み「igoku」でグッドデザイン賞金賞、初の単著『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞をそれぞれ受賞。ほかの著書に『新地方論 都市と地方の間で考える』(光文社新書)など。
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