故・ジャニー喜多川氏による元ジュニアたちへの性暴力問題が連日報道され、波紋が広がっている。ジャニーズ事務所は性加害があったことを認め、10月2日に会見で今後の方針を発表する予定だ。多くの企業が所属タレントの広告起用を控える方針を発表し、テレビ局などのメディアは過去の報道姿勢やタレント起用についての見解を問われる状況が続いている。
被害者が数百人とも予測される類を見ない性犯罪だが、戦後から半世紀にわたり、その暴力は黙認され続けた。ジェンダーやセクシュアリティを専門とする社会学者の菊地夏野さん(名古屋市立大学 人文社会学部現代社会学科准教授)は、問題が放置された背景の一つに、日本社会に蔓延するホモフォビア(同性愛嫌悪)があると指摘する。
どういうことなのか、インタビューで聞いた。
「性加害」と「性被害」という言葉の限界
―ジャニーズ事務所が会見でジャニー喜多川氏の性加害を認め、事務所の対応や、タレントの広告起用や番組出演の行方などが連日報じられています。まず一連の問題について、どのように受け止めていらっしゃいますか?
菊地:私は芸能界に疎く、今回の事件に衝撃を受けているんですが、数十年間も黙認されて「ないこと」にされてきた深刻な性暴力が表に出て、事務所が記者会見を開き、藤島ジュリー景子元社長が辞任するまで問題化されたのは良いことだと思います。すべてのメディアではないにしろ、メディアはきちんと事件を報道し、追及しようとしています。
そこは評価するべきところだと思うのですが、一方で、問題化の仕方が限られているというか、一面的に見えることがあります。例えば、一連の報道では「性加害」と「性被害」という言葉がよく使われていますが、その言葉自体に限界があると感じています。
―そのことはご自身のブログでも指摘されていました。どういうことなのでしょうか?
菊地:「加害・被害」という言葉だけにしてしまうと問題が「個人化」されてしまい、「加害者」対「被害者」の問題と捉えられてしまう。つまり、「ジャニー喜多川」対「元ジュニアなどの被害者」という個人対個人の戦いのようになってしまって、その背景にある事務所や業界の問題、あるいはもっと広い社会の問題が見えにくくなってしまう側面があると思います。
そして、個人化される分、加害者は悪魔化され、被害者は被害者化されてしまいます。性暴力やセクハラの問題は被害者、加害者両方に対してステレオタイプが向けられ、そのステレオタイプが社会の中で増幅されてしまうのですが、その結果どうなるかというと、一般市民から問題自体が遠ざかってしまいます。
韓国でも2018年に激しいMeToo運動が起きましたが(※)、このことは、その運動の反省や課題として韓国のフェミニストたちが指摘している問題でもあります。「性加害・被害」という言葉が前面化してしまうことに限界があり、「性暴力」という言葉をフェミニズムがつくったものとして捉え直すべきではないか、という主張です。最近まで私自身も実感していなかったんですが、今回の事件が表面化して、この問題をすごく目の当たりにした感じがしています。
(※)2018年、女性検事が上司からの性暴力を告発したことをきっかけに、ノーベル賞候補の詩人の高銀や、キム・ギドク監督ら多くの著名人への告発が相次いだ。
加害者が亡くなるまで私たちは暴力を許してきてしまった
―個人対個人の問題にせず、社会構造に目を向ける必要があるということでしょうか。
菊地:性暴力は個人である加害者が行なうものではありますが、加害者は常に自分の暴力や犯罪を実行できるかどうかということを観測しながら、計算しながらやります。
結局のところ言い換えれば、社会やまわりの私たちが、加害者に暴力をふるうことを許してしまったと言ってもいい。その構図が何十年間も続き、放置され続けたということは、加害者が亡くなるまで私たちはその暴力を許してきてしまったということなんです。
この事件は、ジャニー喜多川やジャニーズ事務所、あるいは芸能界だけが抱えている問題ではなく、もっと広い社会全体の問題であって、この視点は抜け落ちていると感じますが、ジェンダーの問題でもあり、セクシュアリティやホモフォビア(同性愛嫌悪)の問題でもあると思います。戦後からずっとと言っていいほど続いていた長いスパンの事件なので、そのことに立ち返り、もう少し広い視点から考え直すところにきているのかなと思います。
日本社会に蔓延するホモフォビア(同性愛嫌悪)の問題
―ジェンダーやホモフォビアの視点は、一連の報道などでそこまで焦点が当てられていないように感じています。
菊地:1980年代後半以降に北公次さんや当事者の方が告発本を出して、一部のファンから反応があったり、週刊誌でも取り上げられたりしたものの、刑事事件になることもなく、それ以上は広がりませんでした。当時は性の問題は基本的に「下半身」の問題であり、大きな問題ではないという意識があったと思いますし、さらにそれが同性間の暴力で、被害者が男性であったことが拍車をかけていたと思います。
そもそも重要な問題の一つに、つい最近まで男性への性犯罪を処罰することに大きなハードルがありました。2017年まで「強姦罪」は女性への性交のみを対象としていて、この年の法改正によってやっと「強姦罪」から「強制性交罪」(編集部注:今年7月に「不同意性交罪」に改正された)に変わり、男性への性行為も一部ではあるものの処罰の対象になりました。それまでも強制わいせつ罪などはありましたが、強姦罪ほど重く処罰はされなかった。
加害者は法律の穴を利用して犯行を続けてきたわけで、現在に至っても、時効の問題などいろいろな条件はあるとは思いますが、警察は動こうとしません。海外では加害者が亡くなった後に捜査をした事例もありますが、そういう可能性すら探らない。
この問題については「メディアの責任」がしきりに言われていますが、こういった性暴力や犯罪の問題は、メディアだけでできることは限られています。そこを裁くために警察や裁判所があるわけなので、その責任を追及することこそメディアがするべきことだと思います。
そこにあまり目が向けられないのは、被害者が男性で、さらに同性間の暴力であったこと、それを軽視してしまう意識があるのかなと思ってしまうんです。やっぱり「男性が被害者なら大したことがないだろう」という無意識の思い込みがあるんじゃないかと思いますし、それはホモフォビアとつながっています。
「メディアはホモフォビア的な価値観を提示し続けてきた」
―菊地さんはブログで、「そもそもこんなに長い間この問題が放置されてきた理由のひとつには、同性間性暴力であることがある」と指摘し、「昔から今に続く日本社会のホモフォビアが被害者たちを追い詰めていたのだ」と書かれています。
菊地:告発者の手記のなかには「こんなことをいっても馬鹿にされ、自分が変態扱いされるだけ」といった記述がありますが、これは、同性間の性暴力を暴力と認識しない社会のホモフォビアを反映しています。そもそも同性愛者差別は、同性愛者を「性化」します。「性のことしか考えない特殊な人々」とみなすのです。ですから、同性間の性行為は全て「ヘンタイ、アブノーマル」とみなされ、触れてはいけないものにされます。被害者ですらも「ヘンタイ」扱いされるのです。そのため暴力という認識が抜け落ちてしまいます。
じっさい、さまざまな証言の中で、ジャニー氏は「そっちの人」とされ、少年たちも「それを承知でいる」と見られていたというものが多数あります。「少年愛」や「同性愛」という一部の「特殊な趣味」の世界として特別視し、切り離す社会の見方が、問題を隠蔽し放置したのです。
最近の一部の報道でも、元ジュニアの告発された方たちが、微に入り細に入り被害について聞かれる傾向があると感じています。そこには「男性だから聞いていいだろう」という、無意識のジェンダー・バイアスや、同性間の性に対する偏見の混じった好奇心があるんじゃないかなと思ってしまうんです。被害者が女性だったらそこまで被害の詳細については聞かないのではないでしょうか。さらに、一部では「キワモノ扱い」のように報じているメディアもあると思います。
この問題をいち早く報じた『週刊文春』の当時のキャンペーン報道では「ホモ・セクハラ」という言葉が使われています。『週刊文春』の功績とは別に、その言葉自体に差別意識が入っているのではないかという視点は、反省も含めて振り返られるべきなのではないかと思うんです。
―『週刊文春』やBBCの報道、その後のカウアン・オカモトさんの会見によって、CINRAも例外ではないのですが、多くのメディアがこの問題を取り上げるようになりました。そのことは意義があると思うのですが、たしかに、同性愛への偏見や差別を煽ってしまう報道や取り上げ方がされていないかということは、もっと気をつけるべきかもしれません。
菊地:時代や社会、メディアにおけるジェンダーやセクシュアリティの捉え方というところも見ていかないと、表面的な責任の追及だけで終わってしまうのではないかと危惧しています。
たとえば、テレビを筆頭とするマスメディアがこれまでジェンダーやセクシュアリティをどう扱っていたかというと、かなり問題がありました。お笑いやバラエティでいわゆる「ホモネタ」は定番中の定番でしたよね。タレントや芸能人を「男らしくない」とか「おかま」としていじったり笑ったりする。私は子どもの頃から「なんでこれが面白いんだろう、これは笑っていいのか」とすごく嫌で、それもあってテレビを見なくなったんですが、私のように違和感を持っていた人はいたと思います。でも、これが面白いし話題になると、テレビなどのメディアはホモフォビア的な価値観を社会に向けてずっと提示し続けてきたわけですよね。
最近、LGBTQの可視化に伴ってそういった表現が問題視され、減ってきたところだと思います。ただ、これは一部の番組に限らず、テレビなどのメディア業界全体が抱えていた問題です。「時代が変わったからやめよう」ということだけではなく、この問題に対する反省や総括がないことが気になっています。
男性被害者であり、同性間の暴力であること
―この問題が世間で取り上げられるようになり、長年訴えることができなかった被害をたくさんの人たちが打ち明け始めています。男性への性被害で、さらに同性間であるということが、被害者にとって声をあげづらい状況になってしまうのはなぜなのでしょうか?
菊地:すごく複雑な問題で、説明も難しく感じているのですが、ジェンダーに関するステレオタイプの中に、「性規範のダブルスタンダード」というものがあります。
男性は強くたくましくリーダーシップをとり、性的な面でも女性に対して積極的に欲求や欲望を向けて、強引なくらいに振舞っても、その方が男らしくていいこととされる。一方で女性は、おとなしく、綺麗で優しく、性に関してはとにかく受身でなければいけないし、自分の身は自分で守らなければいけない。そういった不均衡な思い込みのことを指します。
男性は多少乱暴なことをしてもセクハラや性暴力と問題化されず、むしろそれがあって当然だとされてしまう。少し前まで、強姦(編集部注:現在の不同意性交)の事件の判決文にもそういったことがはっきり書かれていたような状況でした。
その考えが支配的な社会だと、男性が性被害に遭った場合、被害者が自身のジェンダーアイデンティティについて物凄く混乱させられてしまうということが指摘されています。「男性が被害に遭うはずがない」という認識を社会が持っていて、被害者もそれを内面化しているからです。被害者は女性のみで、男性は被害に遭うはずがないと。これが発展すると若い女性しか被害に遭わず、スカートを履いているとか、タンクトップで肌を露出しているから被害に遭うのだと思われてしまう。現実にはジェンダーや年齢関係なく被害に遭いますし、肌の露出は関係ありません。
それなのに、社会には男性が被害者だったら大したことないだろうとか、たとえちょっと問題があったとしても、男の子、男性は強いのだから女の子や女性ほどショックを受けないだろうという思い込みや捉え方がある。また、被害に遭う男性は「男らしくない」「男性失格」と受け止めてしまう。
それによって被害者自身が混乱してしまい、自分が自分でなくなるような不安や自責、自己否定の状態に陥ってしまう。同性からの被害に遭ったときに、被害に遭ったのは自分が同性愛者だからだろうかとか、同性愛者だとみられたから被害に遭ってしまったんではないかと思ってしまう。
被害者がこう思い込んでしまうのは、日本社会にあるジェンダーのステレオタイプや、ホモフォビアが原因です。実際は、少年や男性に加害をするのは同性愛者とは限らないし、異性愛者もたくさんいるということが調査ではわかっています。もちろん被害者の性的指向もジェンダーも関係ない。今回もジャニー喜多川が同性愛者であると言われているわけですが、決してそれはわからない。真実がどこにあったかはわからないし、突き詰めて言えば、人間の性的指向は変わることもあるし、自分でもわからないこともあって、不定形です。
LGBTQが可視化され、結婚の平等が裁判になっているいまでも、多くの人たちが「人間には2種類いて、同性愛者と異性愛者に分けられる」となんとなく思っている感じがします。自分はそうじゃないけど同性愛者の人たちがいるのね、と。でも本当はそうではなくて、なかには自分のセクシュアリティがはっきりわかる人もいますが、揺れ動く人も当然います。本来セクシュアリティは不定形であるからこそ、それぞれの人の、そのときの思いや状況を個々に尊重しなければいけない。けれど、そういう認識には至っていません。同性同士ということを過剰に他者化して「異質なもの」とするのはおかしいですし、そして大前提として、同性間、異性間に関係なく、性暴力は罪に問われるべきなんです。
被害者には何も悪いところはない
―ジェンダーとホモフォビアの視点からも今回の問題を振り返るべきという指摘はおっしゃる通りだと思うのですが、なぜ、その視点の議論があまりされていないのだと思いますか?
菊地:やっぱりジェンダーやセクシュアリティの問題はすごく自分自身や立場が問われることなので、自分の問題にしたくないということがあるんじゃないかと思います。ジェンダーの問題は、突き詰めると世界の認識が崩れるようなところがあります。これまで「正しい」とされていたことや自分自身を支えていると思っていたものを覆さないとわからない。それは不安になりますよね。社会の見え方が大きく変わるし、そこへの恐れが大きいのだと思います。
マスメディアは、異性愛主義やシスジェンダー中心主義、ホモフォビアなどのジェンダーやセクシュアリティの秩序を再生産してきたところがあります。その典型がお笑いやバラエティ番組ですね。そこを少しでも変えて、そうではない情報発信や報道をすると、世の中は前向きな方向に変わっていくと思います。全番組がいきなり変わらないにしても、ちょっとずつそうではない報道をすることも大きいと思います。
―被害者にとっては、やっと問題が明るみにされたという状況です。事務所は救済措置を約束していますが、そのほかにも、被害者のためにどういったことが必要なのかも、最後にお伺いしたいです。
菊地:これまで被害を訴えた方たちの証言や記者会見を見ていても、被害者の方たち自身が、社会に浸透したホモフォビアに苦しめられているのではないかと感じるときがあります。男性から被害を受けた自分は男らしくないとか……そういった悩みは男性の被害者に起きることなんですが、それはそうじゃない。被害者には何も悪いところはありません。そして、これは同性愛とか異性愛とはまったく関係のない暴力なんです。
そもそも男性への性被害に詳しいカウンセラーは非常に少ないと思うんですが、そういった視点がもっと提示されたり、提供されたりした方がいいんじゃないかと思います。そうしないと、当事者の苦しみはそのままになってしまう。
同性間の事件や男性被害者だと、そこで生じる固有の問題や苦しみがあるので、やはり被害者の方と接する機会を特に持っているメディアの方々は、その視点にも意識を向けて、そこから解放されるような情報ももっと増やしてほしいなと思っています。
- プロフィール
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- 菊地夏野
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名古屋市立大学人文社会学部教員。宮城県生まれ。社会学ジェンダー論、フェミニズム理論。主著に『日本のポストフェミニズム』(大月書店)、『ポストコロニアリズムとジェンダー』(青弓社)。編著に『クィア・スタディーズをひらく』シリーズ(晃洋書房)など。
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