近年、韓国では「新世代」と呼ばれる作家たちによるSF小説が一大ブームとなっている。その潮流を牽引しているひとりが、キム・チョヨプだ。2019年刊行のデビュー作『わたしたちが光の速さで進めないなら』は韓国内で発行部数35万部の大ベストセラーに。日本でも翌年に邦訳が刊行されると相次ぐ重版となった。
今年9月、日本では3冊目となる単著『この世界からは出ていくけれど』(早川書房)を刊行。SF小説という表現を通じて現実社会やコミュニティの在り方を問い、「決定的にわかりあえないこと」、それでも「なんとかわかりあおうとする人間同士の様」を描いてきたキム・チョヨプによる最新作は、よりそのテーマが色濃くなっていると感じる。11月、『K-BOOK フェスティバル』で来日した作家に希少な日本でのインタビューの時間をいただき、大学で化学を専攻していた彼女のバックグラウンドから近作のテーマまでじっくり話を伺った。
化学専攻で大学在学中に小説家デビュー。科学と社会の相互作用に関心があった
─高校生のとき、映画『トイ・ストーリー3』を見て「いつか私もこんな作品をつくりたい」と思われたとのこと。日本のアニメもお好きと聞きましたが、さまざまなカルチャーに触れるなかで「文学」に惹かれた理由を教えてください。
チョヨプ:小さいころから本を読んだり文章を書いたりするのが大好きでした。ほかにも映画やアニメといったさまざまなカルチャーが好きでしたが、たまたま自分をうまく表現できる方法が「文章」だったんです。ですが、文学の道に進みたいと思っていたわけではなかったので、作家になったのは偶然の要素が大きい気がします。
大学生になるまでは、主にノンフィクションを書いていました。大学を卒業するころに、小説を趣味で書き始めたら「意外と自分は小説を書くのがうまいんだな」ということに気がついて(笑)。それがデビューのきっかけです。
─どんなテーマのノンフィクションを書かれていたんでしょうか。
チョヨプ:私は、自然科学と工学部だけがある大学で、化学を専攻していました。進路を決めたのは、科学ノンフィクションが描く世界に惚れ込んでいたから。当時、私は科学がどのように成り立っているのか、科学と社会がどう相互に作用しているのか、ということに関心を持っていたので、そうした内容のものを書いていました。ほかの大学に通っている学生を対象に、科学について紹介するエッセイやコラムを書いたこともあります。
─ノンフィクションというと、難病のため車椅子を使っているキム・ウォニョンさんと、後天性難聴のため補聴器を使うチョヨプさんが、テクノロジーと障害をテーマに書かれた共著『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(岩波書店)も非常に興味深い一冊でした。
チョヨプ:ありがとうございます。
学生のころに触れた『スター・トレック』や韓国SF文学。いまある現実を異なる角度から見つめられるのがSFの魅力
─日本の評論で「韓国SF文学は社会のありうるべき現実を描き出している」との評を読みました。まさに、チョヨプさんの関心事であったという「科学と社会の相互作用」ともつながると思うのですが、チョヨプさんはSFというジャンルの魅力をどのように感じていますか。
チョヨプ:正直に話すと、SFを好きになった理由は「おもしろい」からです。本でも映画でも、SFの物語は現実から離れられるような感覚がありとても楽しかった。また、子どものころから科学がとても好きだったので、科学に関連するすべての物語を楽しみながら読んでいて、そのなかにSFがありました。
─過去に夢中になったSF作品は?
チョヨプ:学生のときはドラマ『ドクター・フー』や『スター・トレック』シリーズが好きで、よく見ていました。昔のドラマをよく見漁っていましたね。あとは、SFの設定が背景にあるゲームにもハマりました。
本で言うと、私が学生のころは韓国でSF小説がそこまで出版されていなかったんですね。数少ないなかで、高校3年生のときにキム・ボヨンさん(※1)やペ・ミョンフンさん(※2)といった韓国の作家さんが書いたSF小説に触れました。そのころに発表されていた作品は卓越していて、私の「骨」になっている気がします。
※1:キム・ボヨン:1975年生まれ、2004年に作家デビュー。『全米図書賞』に短編集がノミネートされるなど、新世代に大きな影響を与えたSF作家。日本では今年5月に『どれほど似ているか』(河出書房新社)が刊行
※2:ペ・ミョンフン:1978年生まれ、2005年に作家デビュー。キム・ボヨン同様、韓国を代表するSF作家のひとり。著書に『タワー』(河出書房新社)など
─ご自身でSF作品を書くようになって、読み手だったときとは楽しみも変わりましたか?
チョヨプ:SF作品を見たり、読んだりするのは変わらず好きですが、書き手になって感じるのは、このジャンルの奥深さ、一つには絞りきれないさまざまな魅力があるということです。
なかでも、いまある現実をさまざまな角度や視点から捉え、これまでとは違った観点で現実を見つめることができるのは、間違いなくSFが持つ強力な魅力の一つだと思います。ただ、韓国は現実的な読者が多いという状況もあり、現実とかけ離れた物事を語るよりも少し現実社会の要素があるものが好まれるため、韓国SFもそのような読者の傾向の影響を受けているのではないでしょうか。
─韓国の読者の姿勢も作品に反映されているんですね。
チョヨプ:そうですね。ただ、私は読者の声やレビューを意識し過ぎないように努めています。もちろん、読者からの声が、私が作品を書き続ける原動力になっているのですが、あくまでもそれは外部の視線。人の意見はさまざまで、その人自身の状況によって感じ取るものが異なってくることもあります。それよりも、最も重要な基準は自分自身にあるべきだと考えています。
「人間同士は到底わかりあえないと思っていても、理解しようとすることを諦めるという考えはしたくないんです」
─新刊の短編集『この世界からは出ていくけれど』(早川書房)では、どの作品も互いに真には理解しあうことができない、異なる考え方や立場にある二者の交流が描かれています。これまでも、チョヨプさんは、決定的にわかりあえないことと、それでもわかりあうために努力をする人の姿を描いていますが、なぜ「なんとかわかりあおうとする様」を描き続けるのでしょうか。
チョヨプ:私にとって「他者を完全に理解した」という表現は、ある種暴力的にも感じられます。人はあくまでも他者であり、個人であり、完璧に理解することはどう願おうと叶わないと思うからです。
それが大前提として、大人に成長する過程で私にもたらされた大きな気づきがあるとすれば、他者が私のすべてを完全に受け入れることができなくても、私の一部は他者に少しずつ受け入れられている、ということです。
─「完全」に理解しあうことは難しくても、「一部」は受け入れられている。
チョヨプ:はい。『この世界から出ていくけれど』は、私が理解した世界をもとに、私のなかにある気づきの欠片のようなものを表現したいという気持ちで書いた作品です。人間同士は到底わかりあえないと思っていても、理解しようとすることを諦めよう、やめようという考えはしたくないんですね。
私は化学を専攻してきましたから、知らないことがたくさんあっても、その世界をもっと知りたい、アプローチしたいという姿勢を持っています。なので、わかりあうことを追求していきたい気持ちがあります。
マイノリティを「受け入れる」という言葉に感じていた違和感
─これまで、日本では小説を3冊刊行されています。作品を追うごとに「他者との理解」というテーマが色濃くなっている印象がありますが、なにかご自身のなかで変化があったのでしょうか?
チョヨプ:以前に比べると、最近書いている作品は異なる者が互いの領域に侵入したり、浸透しようとしたり、そのことによって複雑に両者が絡み合う場面を考えている気がします。以前は、両者間に距離があったり離れていたりする話を書いてきたと思いますが、もっとそれぞれが「個体」として区別できないような状態に変化してきていると感じています。
つまり……『この世界〜』を書いたのは2、3年前のことになりますが、現在はより「汚染された関係」のようなものを書いているんです。その関係は決して否定的な意味ではなく良い面もありますし、もしくは良い/悪いという基準を超えている状態なのかもしれません。
─「汚染された関係」について、もうすこし具体的にお伺いしてもいいですか。その関係は、依存し合うのでしょうか、それとも対立しているのでしょうか。
チョヨプ:依存し合うことも対立することも含めた、すべての「共存関係」を指しているのですが、現代の社会において、人と人との「共存」や「共生」ということがよく語られますよね。私はずっと不満に思っていたことがあるのですが、いまの社会ではいわゆるマイノリティとよばれる少数者に対して、マジョリティが「受け入れる」という言葉を使うことがあります。ややもすれば、それはマイノリティを見下すような態度で、いま共存/共生が語られるときにも、そんな意識が少なからずあるように感じるんです。
ですが、私が最近思うのは、現代社会はもう、さまざまな存在が共存「しなければならない」状況にあるということです。もともとそうであるべきだったのが、歩みが進み、必然の状態になってきていると思うんですね。
─共存/共生しなければならない状況。
チョヨプ:はい。たとえば新型コロナウイルスによって世界が混乱したときも、私たちはコロナと共存するのか、しないのか、選択できる状況ではありませんでした。すでに、ウイルスは私たちの生活のなかに存在しているので、「受け入れたうえでどう生活するのか」を考えなければいけなかった。
苦しい例えではありますが、人間関係においても共存するかしないかを選択するような状況ではなく、共生「しなければならない」と私は考えています。なので、たとえ異なる二者だとしても、一緒に生きていかざるを得ないほど浸透し合っている関係というものを小説のなかで表現していきたいと思っているんです。
「理解しようとする」ことの暴力性や限界。そのジレンマが作品に反映されている
─まさにいまは過渡期にあり、共生「しなければならない」という考えをめぐって大きな川が流れていると感じます。『この世界〜』の収録作『マリのダンス』は、異なる方法で世界を認知する二者が交わる話。共生に向けて歩みを進める人々の揺らぎが書かれていると感じたのですが、いかがでしょうか。
チョヨプ:私は小説を書くときに、メッセージのようなものを意識しないようにしているんですね。それは、メッセージを前面に出してしまうと、物語が本来持っている光のようなものが隠れてしまう気がするからです。なので、小説を書くときは「問いを投げかける」ようにしていて、その問いをより具体化しようと努めています。
『マリのダンス』は異なる二つの世界は一緒に生きられるのだろうか、という問いからスタートしました。日本がいまどのような状況かわかりませんが、韓国では若い世代と年配の世代のあいだで大きな分断や衝突のようなことが起こっています。これは単に、ジェネレーションギャップという言葉では片づけられず、見ている世界そのものが違うのではないかという印象を私は持っています。つまり、この作品では、見ているものが異なる両者が共生できるのか、という問いを投げかけたかったんです。
─『ローラ』では、3本目の腕をほしがる恋人・ローラの思いを理解しようと旅をする主人公が書かれています。先ほど、「マジョリティがマイノリティを受け入れる」という態度への疑問が語られていましたが、小説のなかでローラが「(主人公の旅は)私のためじゃなくてあなた自身のためにしたことだよね」と話す一節があり、チョヨプさんのなかで他者を理解しようとすること自体の「暴力性」について意識的に書かれているのかなと感じました。
チョヨプ:まさにその通りです。『ローラ』は、相手を理解しようとする人たちが持つ暴力性やその限界について、ソフトに描いた作品になったと思います。大学などで科学を学ぶ人たちを見ていて思ったのは、彼らは科学という名のもとに自然を破壊したり、動物を剥製したりと、「理解しようとする」姿勢のなかで正しくないことも行なってきたのではないか、ということでした。
自分のなかで正当化していても、もしかすると理解しようとする試みそのものが相手にとっては望んでいないことかもしれないし、傷つけることになるかもしれない。それでも、理解することを諦めてほしくない気持ちもある。つまり、相手を理解しようと努める背中も押したいけれど、そこには暴力性や限界もあるということを絶えず警戒心を持ちながらアプローチしてほしいという想いもあるんです。そうしたジレンマが、作品のあちこちに反映されているのではないかと思いますし、まさに作品の意図を理解いただけて嬉しいです。
作家にできるのは、暗い世界に光を探し、良く見える世界に闇を探すこと
─日本では、韓国文学はフェミニズムと結びつきながら読まれている傾向があります。「韓国文学は個人を通して社会のことを描く」との評も拝見したのですが、チョヨプさん自身は現在の韓国文学の潮流をどう感じていらっしゃいますか?
チョヨプ:さまざまな作品が生まれているので、一つの傾向をピックアップすることはできないのですが、「フェミニズム」や「クィア」というテーマが最近の韓国文学で急浮上しているのは間違いない事実です。
また、韓国の読者層は20〜30代の女性で再編されているという状況にあり、その世代がフェミニズムやクィアに関心を持っていることも理由としてあります。肯定的な傾向だと思いますが、異なる少数者の問題など多様なトピックが存在しているわけですから、一つの明白な潮流があるというよりも、さまざまな潮流が共存していることが望ましい状況であると私は考えます。
─韓国のSF文学も同じテーマで語られることが多いですか?
チョヨプ:「SF」という言葉からイメージするのは、西欧におけるSFの概念だと思います。白人男性を中心とした帝国主義的な考え方がSFにもあったとすれば、韓国のSFの根っこはそこからスタートしていません。むしろ、少し離れたところからスタートし、新たに派生した最近のジャンルとも言えます。従来的なSFの影響を受けにくいところから始まっているということは、良い側面もあるのではないかと私個人は思っています。
じつは、韓国のSF文学界は男性作家よりも女性作家が多い、というほかにはないユニークな業界です。そして、実際の現実社会の状況を反映している、というのも韓国のSF文学の大きな特徴だと思います。
─SF文学はさまざまな未来を描くジャンルだと思いますが、チョヨプさんが自身の作品で未来を書くときに考えていることを最後にお伺いしてもよいでしょうか。
チョヨプ:私が未来を描くとき、現時点よりも悪い世界を書くこともあれば、現時点より少しは良くなっている世界を書くこと、現実と似通っているけれど別バージョンの世界として書くこともあります。どんな形態の未来だとしても、完全なユートピアやディストピアはないと思っているんです。いくら、ほの暗い現実だとしてもどこかでより良くしようと動く人も存在するはずですし、外から見れば完璧な世界でも内部では排除が起こっていることもある。その社会からはみ出してしまったり、居場所のなかったりする人はいると思うんです。
なので、作家にできることは良く見える世界を描くのではなく具体的なシーンを描いていくということだと思っています。例えば悲観的な暗い世界に見えても、そのなかにある光を探すこと。またはとても良く見える風景でも、そのなかにある闇を探すこと。その両面性を捉えるように努めるのが、作家にできることなのではないかと思います。
- 書籍情報
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『この世界からは出ていくけれど』
2023年9月20日(水)発売
著者:キム・チョヨプ
訳:カン・バンファ、ユン・ジヨン
価格:2,640円(税込)
発行:早川書房
- プロフィール
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- キム・チョヨプ
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1993年生まれ。浦項(ポハン)工科大学化学科を卒業し、同大大学院で生化学修士号を取得。在学中の2017年、『第2回韓国科学文学賞』中短編部門にて『館内紛失』で大賞、『わたしたちが光の速さで進めないなら』で佳作を受賞し、作家としての活動をスタート。短篇集『わたしたちが光の速さで進めないなら』(早川書房刊)は韓国内でベストセラーとなり、韓国の新世代SFシーンを牽引する作家となった。他に長篇『地球の果ての温室で』、第二短篇集『この世界からは出ていくけれど』(ともに早川書房刊)等がある。2021年、キム・ウォニョンとの共著のノンフィクション『サイボーグになる』(岩波書店刊)で『韓国出版文化賞』を受賞。
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