日本における香の歴史は古く、仏教が伝来した飛鳥時代から始まる。平安時代には貴族の嗜みとして親しまれ、『枕草子』や『源氏物語』などの文学にも香に関する記述が多く見られた。鎌倉時代から室町時代にかけては、香木の香りを鑑賞する「聞香」の方法が確立。江戸時代には香木の違いを嗅ぎ分けて楽しむ「組香」の創作や香を鑑賞する道具が整い香道が起こり、日本の伝統文化である茶道、華道とならび浸透していった。
このように時代を経て、厚みを増しながら、人々の生活を彩ってきた日本の香り。その独自の文化を体験できるイベント『言葉でつなぐ、私と香り展』が、2月5日から11日に東京・下北沢のBONUS TRACK GALLERYで開催された。「言葉」と「香り」の密接な関わりに着目した本イベント。その多様なコンテンツを紹介するとともに、メインの展示に携わった小説家・千早茜さんに、日本の香りの魅力や日常での楽しみ方について話を聞いた。
香りを聞いて、言葉を見つける。千早茜参加のインスタレーション
約1400年の歴史を持つ日本の香文化に着目した『言葉でつなぐ、私と香り展』。本展では、視覚だけでなく嗅覚を刺激する新たな体験を提供することを目的として、来場者参加型の新作インスタレーションをはじめ、日本の香文化の歴史、香の原材料、調合してつくられた日本の多彩な香り、お香の楽しみ方などを紹介するコンテンツが展示された。
展示会場に入りまず目に飛び込んできたのは、5つの垂れ幕。そこには言葉が書かれ、垂れ幕の下には5冊の文庫本が置かれている。今回のメインである、香と文学の関わりを双方向から楽しめるインスタレーションだ。

垂れ幕の下に置かれている文庫本を開くと香りの栞が挟まれており、香りがふわりと鼻腔に広がる。この香りは創業300余年の「香老舗 松栄堂」が制作したもの。それぞれに「い」「ろ」「は」「に」「ほ」のマークがついており、異なる香りが挟まれている。本を1冊ずつ取り出し、垂れ幕の言葉との組み合わせを自身の感覚を使って探していく。


垂れ幕の言葉を手がけたのは、直木賞作家の千早茜さん。香道の世界で香りを嗅ぐことは「聞く」と表現されるが、小さな声に耳を澄ませるように香りに集中しながら、じっくりと千早さんが紡いだ言葉を読み込んでいくうちに、さまざまなイメージが連想されていく。盛況のなかでも、集中すればするほど、心が鎮まっていくことが感じられた。
千早さんの言葉から得られるイメージと、5つの香りから得られるイメージを結びつけていくと、次第に好みの香りも見つかってくる。体験の最後に好きな香りの栞を選び、自分が紐付けた言葉のタイトルをつけると、自分だけの香りの栞が完成。多くの来場者がその体験を楽しんでいた。


また、千早さんがどの香りからインスピレーションを得て言葉にしたのか、言葉と香りの組み合わせの答え合わせを知ることもできた。そこに正解、不正解はないが、千早さんの香りの感性に共感したり、違いに驚いたりしながら、言葉と香りの親和性を感じることができたはずだ。
「和の香りの多様さを楽しんで」千早茜が語る香りの楽しみ
言葉と日本の香りの密接な関わりを知り、香りの新たな楽しみ方を知ることができた今回のメイン展示。その制作は、松栄堂が手がけた5つの香りから、直木賞作家の千早茜さんがインスピレーションを得て言葉を紡ぐというかたちで行われたという。これまで『透明な夜の香り』『赤い月の香り』といった「香り」シリーズを手がけてきた千早さんが、今回のコラボレーションにかけた想いとは。
千早:ちょうどいま、小説すばるで「燻る骨の香り」という「香り」シリーズ3作目の連載をしています。これまでは香水がテーマでしたが、今回は和の香りをテーマに書いているので、日本の香文化を知っていただくちょうどいいタイミングだと思い今回の企画を引き受けました。
というのも、今回の小説には「練香(ねりこう)」など様々なお香が出てくるのですが、黒い玉と書いても見たことがなければ伝わりづらいですし、読者のなかには茶道や華道は知っていても、香道は知らないという方もかなりいらっしゃって。今回の展示を通して、和の香りの世界には線香や焼香だけではない、多様な香りと楽しみ方があることを知っていただけたらと思いました。

千早茜
作家。1979年生まれ。2008年に『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し作家デビューし、2023年には『しろがねの葉』で第168回直木三十五賞を受賞した。
実際に千早さんの言葉で表現された情景には、季節感や温度、湿度までもが漂い、香りをリアルに想像することができる。一方、松栄堂が手がけた5種類の香りから連想する情景が、千早さんの言葉と結びついていく場合もあった。つくり手である千早さんは、どのように香りと言葉を結びつけていったのか。
千早:私は香りを嗅ぐとすぐに色や情景が浮かぶタイプなので、まずは5つの香りを嗅いで浮かんだものを、書きだしていきました。厳密に言えば、浮かんだ景色は日本のものだけではなかったのですが、今回の展示の趣旨としては日本の香りでしたから、日本の風景であればこれかなという感じで文章にしていきましたね。それから色の変化をつけたかったので、5つの香りを春夏秋冬と、京都に振り分けました。
『泥土の花』は春、『湯あみ』は夏、『紅葉』は秋、『焼却炉』は冬、そして『残り香』は京都の祇園。千早さんの香りに対する感性が体験する側と響き合った今回のインスタレーション 展示だが、千早さん自身はこの現地での展示を通してどのように感じたのだろうか。
千早:部屋のなかでひとりで嗅いだ時と空間の広さや人の数が全然違うので、会場では香り方も違うように感じました。そのぶん香りの聞き分けが難しくなって、よりゲーム性が増し、組み合わせを探す楽しさを感じていただけたのではないかと思います。
また、この展示は正解率を競うものではなく、香りに集中することで微細な感覚の変化を探ることに焦点を当てているのも良いと思いました。それから、展示会場には貴重なものも含めて多様な香の原料が展示されていて、香木や練香の楽しみ方まで紹介されていました。今回の連載の山場で使おうと思っていた香木の香りを嗅ぐこともできたので、すごく楽しかったですね。

香りと空間の関係は切っても切り離せないものだ。千早さん自身も、もともと 香りに対してはひときわこだわりがあったそうだが、世の中の香りに対する意識にも変化を感じたという。
千早:2020年、コロナ禍の緊急事態宣言でステイホームを余儀なくされた時期に、「香り」シリーズの第1弾が発売されました。書店も閉まっているところがあったので売れないかと思いましたが、予想以上の反響に、世の中の香りへの意識の高まりを感じましたね。実際に私自身も、家のなかで気分転換したり、仕事とプライベートのスイッチを切り替えたりするために、玄関や仕事部屋、寝室の空間に香りを置くようにしています。
それからホテルに泊まる時は、普段から持ち歩いている自分の好きな天然香料が入った香りのスプレーを儀式のように空間に吹きかけ、その後に持参したお茶を淹れて飲むようにしています。前に宿泊していた人のにおいが残っていると、知らない人の気配を感じてしまうので落ち着かないんですよね。そこで一種の結界というか、香りによって自分のテリトリーに変えることで、安心できる空間にしているんです。
20年以上京都に住んでいたという千早さんは、和の香りにもこだわりがあり、今回コラボレーションした松栄堂のブランドも愛用しているという。最後に、和の香りの日常での使い方を聞いた。
千早:東京に引っ越してきてから気づいたのですが、和の香りを選ぶ時、京都と東京で香りのたち方が違うんですよね。おそらく湿度の問題だと思うのですが、私としては和の香りを選ぶ場所は京都がベストだと感じています。私が和の香りでよく選ぶのは、常温で香るタイプのもの。特に、松栄堂さんが展開している「Lisn」というブランドのサシェ(匂い袋)が、香りも入れ物もかわいくて大好きなんです。
普段は着物箪笥に入れて使い、香りが薄くなったと感じたら新しいものを京都まで買いに行き、入れ替えています。そして取り出したものは、トイレットペーパーの芯の中へ。そうするとトイレ空間にもほんのりといい香りが広がり、2度楽しめるんですよ。
現代の暮らしにどうお香を取り入れる?日常での楽しみ方も紹介
『言葉でつなぐ、私と香り展』では、メイン展示のほかにも、松栄堂の協力によるさまざまな香りのコンテンツが展示され、香りについて多角的に知ることができる内容となっている。日本の香文化の歴史をテーマにしたコーナーでは、香文化の変遷や貴族や武士、庶民の間でどのように香が楽しまれていたのかを知ることができた。

展示会場の奥には、香の原材料も展示され、白檀、沈香といった香木や、料理でも使われる桂皮や丁子や大茴香、樹脂状の安息香や乳香、樹液が結晶化した竜脳、保香剤として使われる貝香と、多種多様な香りとかたちを知ることができた。これらの原材料をいかに調合し、豊かな香りを生み出すかはお香のつくり手の感性や技術にかかっているのだという。


桂皮
現代でもさまざまなかたちで楽しまれ、気分転換したいときやリラックス、集中したいときなどに使われているお香。日常でのお香の楽しみ方を伝えるコーナーでは、多様なお香のかたちが紹介されていた。
お香の種類は大きく分けて「直接火をつけるタイプ」「常温で香るタイプ」「間接的に熱を加えるタイプ」と3つある。
直接火をつけるタイプは、香木などの香料を練り合わせ乾燥させてつくられ、ポピュラーなスティック型のお線香、長時間燃焼できる渦巻型、短時間で香りが広がるコーン型がある。

火を使わずにほのかな香りを楽しみたい場合は、常温で香る匂い袋を使う。匂い袋には丁子、甘松、竜脳、白檀などの香料を刻んで調合したものが入っており、箪笥に入れたり、洋服のポケットやポーチに忍ばせたりして使うことができる。
香りの文化に興味を持った方は、間接的に熱を加えるタイプのお香に挑戦してみるのもいいだろう。花などの形に押し固めた印香、平安時代の文学にも登場する練香、香りを繊細に鑑賞する聞香や空薫を楽しめる香木があり、ひと手間かけて薫じ、ゆったりとした時間を楽しむことができる。展示では電気香炉を使い、実際に香木や練香の香りを楽しむ体験もでき、暮らしにお香を取り入れるさまざまな方法を知ることができた。


電気香炉を使った香りの体験

展示会場の外には遊びながらお香の原料を学ぶことができる、子どもたちに人気のコンテンツも。
現代に生きる人びとの何気ない日常に、彩りをそえてくれるお香。記憶や感情と結びつき、自由にイメージを広げられる香りは日本の伝統文化という敷居を超えて、日常に気軽に取り入れられるものだ。小説を読む時にお香を薫くなど、自分なりの香りの楽しみ方を見つけてみよう。
- イベント情報
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『言葉でつなぐ、私と香り展』 ー 日本の香りと言葉が織りなす空間で、私だけの香り体験を ー
場所:下北沢 BONUS TRACK GALLERY
会期:2025年2月5日(水)〜2025年2月11日(火・祝)
主催:文化庁
企画・運営:TOPPAN株式会社
協力:香老舗 松栄堂・CINRA, Inc.
- プロフィール
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- 千早茜
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作家。1979年生まれ。2008年に『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し作家デビューし、2023年には『しろがねの葉』で第168回直木三十五賞を受賞した。
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