著名な俳優が名を連ねているわけでもない。2作合わせても70分ほどしかない。しかしそれでも、観た人の心に強く残る映画。それが、佐藤そのみ監督の『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』だ。
宮城県石巻市に生まれ、小学生の頃から地元で映画を撮ることを夢見ていた佐藤監督。だが、14歳のときに発生した東日本大震災により見慣れた景色は一変した。自身は助かったが、石巻市立大川小学校に通っていた2歳下の妹を亡くした。街も人もすべてが変わってしまったなかで、自分はどう生きていくのか――大きな困難のなかをもがきながら進んだ先に生まれたのが、1本の劇映画と1本のドキュメンタリー映画だった。
「震災に正面から向き合わなければ」と大学を休学して撮った『春をかさねて』と、復学後に卒業制作として撮影した『あなたの瞳に話せたら』。両作が生まれる背景にはどのような道のりがあったのだろう。話を聞いて見えてきたのは、佐藤そのみという一人の人間の姿。本稿では佐藤の語りから、紐解いていく。
『春をかさねて』あらすじ:14歳の祐未は、被災地を訪れるたくさんのマスコミからの取材に気丈に応じている。一方で、同じく妹を亡くした幼馴染・れいは、東京からやってきたボランティアの大学生へ恋心を抱き、メイクを始めた。ある放課後、祐未はそんな彼女への嫌悪感を吐露してしまう……。
『あなたの瞳に話せたら』:東日本大震災による津波で児童74名、教職員10名が犠牲になった石巻市立大川小学校。大川小で友人や家族を亡くした当時の子どもたちは、あれから何を感じ、どのように生きてきたのか。それぞれが故人に宛てた手紙を織り交ぜながら、自身も遺族である「私」がカメラを持って向き合う。
「いつか自分が好きな大川で映画を撮りたい」。地元ロケ地の映画に憧れ
父の家系は代々石巻の大川出身で、母は仙台出身です。父も母も中学校教師で、石巻市内の中学校で出会って結婚したそうです。私はひいおばあちゃん、祖父母、父、母、兄、妹の4世代8人家族で育ちました。子どもの頃は絵を描いたり、絵本をつくったりするのが好きで。小学生になると友だちと一緒に山に遊びに行って、小川を見つけたりカニを捕まえたりして、その様子を父からもらったデジカメで撮影していました。
小説や漫画を書くのも好きで、小学3年生の時に「漫画クラブ」を結成したんです。1学年1クラスで、生徒は20人しかいないんですけど、そのうち9人が漫画クラブに入っていました。私は副編集長として、みんなが描いた漫画を家に持ち帰って1冊の本に仕上げるんですが、コピーができないので世界に1冊なんですよ。できた雑誌は教室の片隅に置いて休み時間にみんなで読んでいました。勉強は全然していませんでしたが、何かをつくるのは好きでした。子どもの頃に好きだったのは、アンネ・フランクの伝記や森絵都さんの小説『カラフル』、あと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も好きでした。

佐藤そのみ(さとう そのみ)
映像作家。1996年生まれ、宮城県石巻市出身。幼少期から物語を書くことに熱中し、小学生の時に地元で映画を作ることを志す。2011年の東日本大震災で、石巻市立大川小学校に通っていた2歳下の妹を亡くす。2015年、日本大学芸術学部映画学科に入学。休学中の2019年、地元でキャストを集め、『春をかさねて』を自主製作。復学後、卒業制作『あなたの瞳に話せたら』を製作した。卒業後、テレビ番組制作会社や映画配給会社に勤務する傍ら、2作品の自主上映活動を全国各地で行った。2024年、次代を担う若手映画作家の発掘と育成を目的とした「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」の製作実地研修を受ける監督の 一人として選出され、短編『スリーピング・スワン』を制作。
そうやって遊んでいるうちに、映画だったら自分の好きなことが全部できるんじゃないかと思うようになりました。父が中学校の文化祭で教え子たちと一緒に映画を撮っていて、その影響も大きかったかもしれません。『ハリー・ポッター』のパロディみたいな作品で、すごく下手なんですけど父は自慢げに見せてくるんです(笑)。これなら私にもできそうだなと。
中学校1年生のときに『重力ピエロ』(※1)と『パンドラの匣』(※2)が地元のイオンシネマで上映されたんですけど、前者は仙台で、後者は南三陸で撮影していて、地元でもこんな映画が撮れるんだ! って思ったんですよね。その頃から、いつか自分の好きな大川で映画を撮りたいと思うようになりました。でもまだ、映画監督になりたいとは思っていなかった。映画のDVDでメイキングを見ては、自分も制作部に入ってお弁当を発注したり、現場の掃除をしたりしてエンドロールに名前が出たらいいなと思っていました。
※1 伊坂幸太郎原作、森淳一監督で、2009年に上映された映画。
※2 冨永昌敬監督で、2009年上映の映画。

『あなたの瞳に話せたら』@SonomiSato
東日本大震災が起こったのは中学生のとき。つくることが生きる原動力に
東日本大震災が起きたときは、中学2年から3年にあがるときでした。津波によって、妹も、知っている人たちも、たくさんいなくなって、街も家のなかの空気もすべてが変わってしまいました。震災が起こるまで、私は自分の生まれた環境がとても幸せだと、子どもながらに感じていたんですが、震災ですべてが一変してしまった。そのことがなかなか受け入れられませんでした。いつか震災前の状態に戻れるんじゃないか、戻りたい、この状況を変えたいとつねにもがいている感じでした。

『あなたの瞳に話せたら』@SonomiSato
通っていた大川中学校は1階が津波で浸水して使えなくなってしまったので、内陸にある中学校の教室の一部を間借りして通うことになりました。その様子は『春をかさねて』でも描いています。私、中学2年まで生徒会に入っていたんですけど、本当は放送委員になって昼休みに好きな音楽をかけたかったんですよ。それで、震災の直前に生徒会を勝手に辞めていて、間借り校舎に映ったタイミングで放送委員になって。ただ、間借りしている立場なので、好きに放送できないんですね。こうなったらもう自分たちでラジオ番組をつくるしかないなと。
そこから放課後に放送委員のメンバーで台本をつくって録音をはじめました。録音の方法がわからなかったので、カセットテープに録音したものを家に持ち帰って好きな音楽を重ねたりして、CDに焼いていました(笑)。できたCDは大川中の各学年に配って給食時間に聞いてもらいました。それを10回は続けましたかね。いま思い出しても楽しかったです。当時は、目の前の時間を楽しく生きるにはどうしたらいいか必死で、つくることが自分の生きる原動力になっていました。

映画を学びに上京。大事なものから逃げている感覚もあった
震災後も、やっぱり映画をつくりたいという気持ちは変わらなかった。さすがに、震災直後は何か書いたり読んだりすることはできませんでしたが、メディアの取材を受けたり、映画関係者のボランティアの人たちと出会ったりすることによって、「撮る」ということはつねに意識せざるを得ない環境にありました。

『あなたの瞳に話せたら』@SonomiSato
志望校は、最初から日本大学芸術学部の映画学科しか考えていませんでした。小学校6年生のとき、ある人に「映画が撮りたいなら日芸という大学があるよ」と教えてもらったんです。『パンドラの匣』の冨永監督も日芸出身と知って、そこに入ろうと決めていました。他の選択肢はなかったです。2015年の4月に上京して、日芸映画学科の監督コースに入りました。
入学してまず感じたのは、自分が全然映画を観足りていなかった、ということ。石巻から物理的に離れたことで、大事なものから逃げている感覚もつねにあって、毎日何をするでもなく、どうしよう、どうしよう、と思っていました。撮影実習では、録音・撮影コースや演技コースの人たちと班を組んで撮影するんですが、私は知識も足りないし、みんなで仲良く楽しくやろうっていうノリについていけなくて、実習を休むこともありました。

一方で、座学はとても楽しくて、なかでも「前衛映画史」という授業が好きだった。ケネス・アンガーやマヤ・デレン、ルイス・ブニュエルといった、石巻にいる頃には見られなかった作品に触れられて、すごく面白かったんです。その授業でクリス・マルケルの作品を見て、自分はこういう作品が好きなんだって明確にわかりました。大学2、3年生のときは、映画は撮らずに観るだけでいいかもしれない、自分には映画は撮れないんじゃないかと思っていたかもしれません。
撮影の失敗、休学の決意——「震災と向き合って作品をつくらなければ」という思い
大学3年のときの実習で、初めて石巻で劇映画を撮影したんですが、それが全然うまくいきませんでした。『バカンスよ永遠に』という10分ほどの作品で、震災を直接的には描いていませんが、震災で感じたことや過去に縛られている気持ちを表現しようとしました。だけど、スタッフと連携がうまくとれなくて、撮りたいものが撮れなかった。失敗だったんですよね。
4年生になったら卒業制作で30分の作品を撮るんですが、これでは良い作品は撮れないと思いました。卒業制作では震災の映画を撮りたいと考えていたけれど、この状態でみんなをまた被災地に連れてくるのはあまりに申し訳ないなと。自分は一旦身を引こうと思って、3年生の終わりに「4月から休学させてください」と先生に伝えました。

『春をかさねて』@SonomiSato
休学した当初は何のプランもなかったですね。震災の映画を撮りたいとは考えていましたが、無理かもしれないとも思っていました。そもそも、震災の映画を撮りたいと思う以前は、震災と関係ない映画を撮りたいと思っていたんです。中学生のときから被災者として取材を受けてきて、高校生のときも「大川で震災の映画を撮るために上京する少女」みたいな感じで新聞に大きく取り上げられてしまった。大学に入っても、まだ何も成し遂げていないのに、震災を体験しているというだけで先生から期待されてしまう。でもそれは私の実力とは関係ないんです。
それで、一時期は家にこもって震災と関係ない脚本を書き続けました。だけど、いくら書いても震災を通して得た気持ちや考えが脚本ににじみ出てきてしまう。これは逃れられないなと思いました。一度正面から震災と向き合って作品をつくらなければと思い、休学を決めました。

『春をかさねて』@SonomiSato
自分と、周囲の子どもたちを重ねた『春をかさねて』。休学中に脚本・撮影に向かう
休学をして、ともかく脚本を書こうと、夏過ぎまではアルバイトをしながらプロット(構成)を一人で書き続けました。何十通りものプロットを書いては削っていき、2018年の9月ごろに『春をかさねて』のかたちに近いものができました。休学中に撮影を終えるために、2019年の3月に撮影することを決めて、いままさに卒制に取り組んでいる同級生に手伝いを頼みに行ったり、キャストを探すために石巻に帰ったりして、撮影の準備を進めていきました。

@SonomiSato
主人公の「祐未」と「れい」には、自分の要素に加えて、周りの友人や新聞で読んだ子どもたちの要素を入れています。子どもたちだけでなく、お父さんやお母さんたちの当時の気持ち、住民の人たちのこと、本当は置いていきたくないけど、次に進むために置いていかなきゃいけないものを閉じ込めたいと思って脚本を書きました。セリフは、しっくりくるまで何度も書き直しました。

『春をかさねて』@SonomiSato
現場では役者さんに自由でいてほしいと思ったので、皆さんが役から感じていることを見せてほしいというスタンスでいました。演出というよりも、その場の雰囲気をつくることを重視していましたね。祐未役の斎藤小枝さんと、れい役の斎藤桂花さんは学校が違うので、仲良くなってもらうためにレクリエーションの時間をつくったり、皆さんが安心できる場をつくることを心がけていました。スタッフは私の実家に寝泊まりしていましたが、母と祖母には美味しいご飯をたくさんつくってもらいました。
撮影を終えると同時に復学して、大学に通いながら『春をかさねて』の編集をはじめました。1年かけて自分一人で編集したんですが、あまりにも大川や作品への思いが強すぎるために自分が見せたいものばかりを詰め込んでしまって、作品の核が見えない状態になっていたので、そののちに友人に手伝ってもらいながら、また1年かけて編集して完成させました。
自分一人で編集していたときは、祐未が大川小学校に行くシーンで、校舎を上から撮ったショットとか、そこがまさに大川小だと分かる映像をたくさん入れていましたが、震災に関係のない友人の目が入ったことで、そうしたショットはすべて抜きました。逆に、祐未がれいに見つからないように大川小の校舎の中に逃げるシーンで入る粗い映像は、後から足しました。あれは『春をかさねて』を撮る3、4年前に一人で大川小に行って、特に使う目的もなく撮っていた映像です。その頃は被災者というだけで脚光を浴びてしまうことにとても悩んでいた時期で、そういう自分の気持ちと祐未の気持ちが重なるかな、と思ったんです。

『春をかさねて』@SonomiSato
一緒に編集作業を行った友人とは、とにかく祐未が映画の中で「立つ」ようにしようと話しながら編集していきました。彼が「この映画は祐未の話であり、れいの話だよね」と言ってくれたので、そのことが表せるように、ラストは何度もやり直して、これ以外やりようがないというところまで詰めていきました。
『春をー』で描ききれなかったことを入れた卒業制作『あなたの瞳に話せたら』
『春をかさねて』の編集と並行しながら、大学の卒業制作でつくったのが『あなたの瞳に話せたら』です。『春をかさねて』にはいろいろな要素を詰め込みましたが、大川の状況も刻一刻と変わっていきます。子どもだけでなく、大人には大人の大変さがあるので、『あなたの瞳に話せたら』には『春をかさねて』では描けなかった要素を盛り込みたいと考えました。

@SonomiSato
当初は、異なる立場や世代の人たちの手紙を並べたオムニバス形式のような作品にする予定でした。大川小で亡くなった先生のご遺族や、亡くなった子どもを探すために、重機を使って校庭で捜索活動をしていたお母さんに出演を依頼しましたが、立て続けに断られてしまいました。皆さん丁寧に私の話を聞いて悩んでくれたんですが「やっぱりいまは難しいです」と。
卒業制作は締め切りがあるので、どうしようかと考えてお願いしたのが、哲也くんと朋佳ちゃんです。二人とはよく会っていましたが、彼らも私と同じように、被災者としての自分以外に、どういう自分があるのかといった葛藤を抱えているように見えました。哲也くんと朋佳ちゃんと私が出ることで、そうした部分を描けるんじゃないかなと思ったんです。

『あなたの瞳に話せたら』より、哲也くん @SonomiSato

『あなたの瞳に話せたら』より、朋佳ちゃん @SonomiSato
手紙という形式にしたのはいくつか理由がありますが、まずひとつに、ナレーションをつけたりインタビューしたりという形式にはしたくないと思っていたことがあります。自分が取材を受けた番組でそうされたときに違和感があったので、自分は同じことを誰かにしたくないと思ったんですよね。あと、クリス・マルケルの『サン・ソレイユ』(※)という作品が好きなんですけど、世界を旅するカメラマンから届いた手紙をある女性が読んでいて、そこにいろんな映像が差し込まれるんです。いわゆるドキュメンタリーっぽい映画にはしたくないと思って、手紙の形式を採りました。
※1982年製作のフランス映画。日本とアフリカ、記憶や旅をテーマに、フィクションやドキュメンタリー、哲学的考察が混在したマルケルの代表作のうちのひとつ。

『あなたの瞳に話せたら』@SonomiSato
『あなたの瞳に話せたら』をつくったときから、上映は『春をかさねて』とのセットでと考えていました。それぞれ独立した作品で、同じぐらい伝えられるものがあると思っていますが、『あなたの瞳に話せたら』で『春をかさねて』の背景を伝えることで、大川への理解も深まるし、観た人を置いていかないようにするためには、2作品合わせて上映することが大事だと思っています。
自主上映を重ね、「自分のものだけではない」作品へと広がっていった
『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』は、いまでは全国の劇場で公開されていますが、当初は広く見せようという気持ちはあまりありませんでした。クオリティに自信がなかったのと、批判が怖かったんです。地元にもいろいろな考えの人がいるので、その人たちの心をえぐるものだったらどうしようといった不安がありました。いまもその気持ちは、大きくは変わってないように思います。
だけど、各地から声をかけてもらって自主上映を重ねていくうちに、この映画はもう私のものではないということがわかってきました。映画を見て涙したり、感想を語ってくれたり、私よりもこの作品を大事にしてくれる人がたくさんいることがわかったんです。特に2022年12月に大川地区のコミュニティセンターで200人近い方に見てもらってからは「映画が行きたい方向に行かせてあげよう、私が映画に付いていこう」という気持ちになって、上映会の回数もどんどん増えていきました。

大学卒業後は、テレビの制作会社に就職した後、映画の配給会社に転職して、映画を劇場公開する仕事に携わりました。会社を辞めたタイミングで暇になって、ふと『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』を映画館で流したいと思ったんです。それで仕事を通じてつながっていたシアター・イメージフォーラムの人にメールを送りました。それが2024年の4月のこと。そこから同館での公開が決まり、全国の映画館での上映も決まっていきました。
映画を通して、記憶を植えられた気がする——私の救いで、誰かの救いに。
大学時代は、人と一緒に何かをつくることに抵抗があったし、地元の人たちとコミュニケーションをとることにも、いつも怖さがありました。『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』をつくった背景には、映画の現場で地元の人たちと同じ時間を過ごしたい、そしたら私も少し成長できるかもしれないという思いがありました。その願いは果たせたと思うし、映画をつくったことで私自身が良い方向に変わったと思います。
映画以外の方法では、同じことはできなかったと考えています。大学生になってからは講演で被災体験を語ってほしいとか、文章を書いてほしいという依頼もいただきましたが、そうするとどうしても依頼者の人が求める被災者像を出してしまうんですよね。誰かのためになる話じゃなくていいから、自分が震災直後に見てきたもの、感じてきたこと、あの場にいて思っていたことを、それが道徳的に良いかどうかはわからなくても詰め込みたかった。それはやっぱり映画でしかできなかったんだと思います。

『あなたの瞳に話せたら』@SonomiSato
『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』をつくった頃は、妹の声をほぼ忘れてしまっていて、妹の記憶が残っているうちに映画に残しておきたいという気持ちが強くありました。でも、今は映画をつくってしまったからなのか「震災を伝えなきゃいけない」といった気持ちはほとんどありません。映画を見てもらうことで、みんなのなかにちょっとずつ記憶を植えられた気がするから、そんなふうに思えるんでしょうね。
『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』があることで、いま私はかなり安心して生きています。地元の方もこの映画を大事に思ってくださっていて、上映情報を発表するたびにすごく喜んでくれるんです。上映されるたびに、自分たちは置いていかれている存在ではないんだ、忘れられている存在ではないんだって感じてくれているんじゃないかな。そういう意味で、『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』は私の救いであり、誰かの救いになっているのかもしれません。

『春をかさねて』@SonomiSato
ときどき私も劇場でお客さんと一緒に観るんですが、はじめてこの作品を見る方は新鮮に受け取って感動してくださるので、そのたびに映画は生き物だなと感じます。つくり手である私から離れて、いろんな場所で新しく生きることができるんですね。両作品とも、14歳のときの経験から生まれたものなので、自分の生きた形跡が、こうやっていろんな人の手元に渡って新しい感情を生み出しているのだと思うと、今日まで生きてきて良かったなと思います。
震災から14年目の3月11日にあわせて、また各地で上映をしてもらえることになりました。『春をかさねて』と『あなたの瞳に話せたら』を通して、震災当時のことや、震災から今日までの人生をあらためて見つめてもらえたら嬉しいですし、震災という文脈から切り離しても、この映画のなかに存在している人たちの言葉や動きを楽しんでもらえたらいいなと思っています。

- 作品情報
-
『春をかさねて』
全国順次公開中
2025年3月15日(土)~21日(金)まで下高井戸シネマ、3月23日(日)~4月8日(火)までシネマ・チュプキタバタ、3月28日(金)~4月3日(木)まで菊川・Strangerにて上映
製作・監督・脚本・編集:佐藤そのみ
出演:
齋藤小枝
齋藤桂花
齋藤由佳里
芝原弘
秋山大地
安田弥央
幹miki
鈴木典行
撮影:
織田知樹
李秋実
録音:
養田司
中津愛
工藤忠三
- 作品情報
-
『あなたの瞳に話せたら』
全国順次公開中
2025年3月15日(土)~21日(金)まで下高井戸シネマ、3月23日(日)~4月8日(火)までシネマ・チュプキタバタ、3月28日(金)~4月3日(木)まで菊川・Strangerにて上映
監督・撮影・録音・編集:佐藤そのみ
- プロフィール
-
- 佐藤そのみ (さとう そのみ)
-
映像作家。1996年生まれ、宮城県石巻市出身。幼少期から物語を書くことに熱中し、小学生の時に地元で映画を作ることを志す。2011年の東日本大震災で、石巻市立大川小学校に通っていた2歳下の妹を亡くす。2015年、日本大学芸術学部映画学科に入学。休学中の2019年、地元でキャストを集め、『春をかさねて』を自主製作。復学後、卒業制作『あなたの瞳に話せたら』を製作した。卒業後、テレビ番組制作会社や映画配給会社に勤務する傍ら、2作品の自主上映活動を全国各地で行った。2024年、次代を担う若手映画作家の発掘と育成を目的とした「ndjc:若手映画作家育成プロジェクト」の製作実地研修を受ける監督の 一人として選出され、短編『スリーピング・スワン』を制作。
- フィードバック 2
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-