米津玄師“BOW AND ARROW”のMVで披露したプロフィギュアスケーターの羽生結弦によるスケーティングを解説するテキストが到着した。
テレビアニメ『メダリスト』のオープニング主題歌である“BOW AND ARROW”。MVではプロフィギュアスケーターの羽生結弦とのコラボレーションが実現し、音楽やアニメのファンだけでなく世界中のフィギュアスケートファンから大きな反響があった。振付は羽生が自ら担当。MV監督は林響太朗が務めた。
公開されたスケーティングの解説文はライターの長谷川仁美によるもの。全文を掲載する。
羽生結弦によるスケーティング解説文(文:長谷川仁美)
米津玄師と羽生結弦のコラボ。
2人それぞれが『メダリスト』の原作を読み込み、生まれたのが「BOW AND ARROW」のMVだ。
米津さんの楽曲にも、羽生さんのスケートにも、その作品のむこうには、圧倒的な思いや熱量がある。そうしたすべてを私たちが理解することはできないかもしれない。
それでも、わかることはある。
これはきっと、現時点での米津玄師や羽生結弦にとっての全力、最高傑作なのだろうということだ。
羽生さんは、66年ぶりにオリンピック男子シングル2連覇を果たし、男子シングルとしてただ一人、スーパースラム(オリンピックや世界選手権など、シニアとジュニアの主要6大会すべてで優勝すること)を達成した、唯一無二のスケーターだ。
その彼が「神」と呼ぶのが、米津玄師である。
ハチ時代からのファンで、その楽曲に心の内をえぐられ、勇気という一言では表しきれないほどの勇気を、米津さんから受け取ってきたという。
そんな彼がこの世に生み出した、羽生結弦というスケーターの現時点での最高傑作「BOW AND ARROW」。それがどんな作品で、そこにどんな意味や思いが内包されているのか、紹介する。
羽生さん自らが振り付けたプログラムを滑っている
羽生さんが、初めて、自身でプログラムの振り付けを行った(セルフコレオ)のは、2022年。以降、自身のアイスショーやYouTubeチャンネルでセルフコレオを披露してきた。そこには競技のようなルールはなく、プログラムの長さ(時間)も、盛り込むジャンプやスピンなど技術要素も、全て自由だ。
それに対して、「BOW AND ARROW」はショートプログラムのようなプログラム、つまり、競技で滑るようなプログラムとして振り付けたということで、これまでのセルフコレオとは一線を画している。「BOW AND ARROW」で羽生さんは、フィギュアスケートの現行ルールに沿い、高難度の技を組み込んで、それを全力で魅せているのだ。
ショートプログラム(競技プログラム)を振り付けて
競技には出ていないのに、なぜ、羽生さんは「BOW AND ARROW」をショートプログラムを想定して振り付けたのか。
それは、「BOW AND ARROW」が2分56秒の楽曲であり、2分40~50秒で演技を終えるというルールのあるショートプログラムの演技時間と近似だったためだ。
競技では、制限時間を1秒でも増減すると減点されてしまうため、2分56秒の「BOW AND ARROW」は、このままだと減点対象だ。そこで羽生さんはMVで、楽曲の音が鳴り始めてもしばらく動かず、4秒ほど待つことにした。
滑走時間に関しては、「スケーターが動き始めるか、滑走し始めた時から、プログラムの最後に完全に停止したときまで計測」(技術規程総則第502条から抜粋)というルールがある。そこで、動き出しから完全に停止するまでが2分50秒を超えないよう、序盤4秒は待ち、楽曲が終わる数秒前に動きを止めている。
どんなプログラムを滑っているのか
完全に競技仕様のプログラム「BOW AND ARROW」とはいったいどんなプログラムなのか、順を追って見ていこう。
羽生さんがXで公開しているエレメンツ(7つの技術要素)は、こちら。以下ではこのエレメンツやその他ハイライトについて紹介していく。
シットツイズル
音楽が始まって数秒後、中腰の体勢のままぐるぐると激しく回転しつつ進む技がある。「米津玄師 × 羽生結弦 – BOW AND ARROW対談」にて、羽生さんが「僕が代名詞として使っている振り」と言っていたもので、「シットツイズル」と呼ばれることもある技だ。
17歳の羽生さんが初出場して銅メダリストになった2012年世界選手権(ニース)のフリー『ロミオとジュリエット』(通称:「ニースのロミジュリ」)ではステップシークエンスの一部として組み込み、2014年にソチオリンピックで優勝したときのエキシビション『WHITE LEGEND』では、穏やかに長く見せてきた。
今回の「BOW AND ARROW」のシットツイズルは、ぎゅんぎゅんと力強い。しかも猛スピードで進んでいく。こんなシットツイズルは、これまでに見たことがない。爆速シットツイズルから始まるプログラムへの期待が、高まっていく。
4Lz(4回転ルッツ)
最初に跳ぶジャンプが「4回転ルッツ」だ。4回転ルッツは難易度が非常に高く、試合で成功させられる選手は非常にわずかだ。
4回転ルッツを日本人として初めて公式戦で成功させたのは、羽生さんだ。平昌オリンピックシーズンの2017年10月、GPシリーズロシア大会のフリーで、代表作でもある『SEIMEI』の冒頭で跳んだ4回転ルッツは、1.14点の加点を受けるすばらしい出来だった。
ただ、その先に、大きな事態が待っていた。
翌11月のNHK杯の練習中、羽生さんは4回転ルッツで転倒。ジャンプの着氷の足である右足の靱帯を損傷してしまう。NHK杯への出場を断念。同時に、史上初の5連覇の可能性のあったGPファイナルへの進出もなくなった。12月の全日本選手権も欠場。2連覇をめざす平昌オリンピックまで、氷の上に乗ることもままならない日々が続くことになったのだ。
慎重な練習を重ねて臨んだ平昌オリンピックで、奇跡のような演技を見せて2連覇を果たしたのだが、4回転ルッツは組み込まなかった。
スケーター人生に大きく関わるほどの大けがのもとになった、4回転ルッツ。羽生さんが、次にこのジャンプを公式戦で見せるまでに、約2年の年月が経過した。
2019年12月のGPファイナルのフリー。4回転ループ(2016年に羽生さんが史上初めて成功させた高難度ジャンプ)とともに、4回転ルッツもきれいに着氷させている。
たった数秒のジャンプの中に、それほどの意味と歴史がある。そんな4回転ルッツを、プロアスリートになり2年半ほど経た今、見せたのが、「BOW AND ARROW」なのだ。
踏み切りの美しさ
今回の4回転ルッツは、斜め上から撮影されているためとても見やすく、その踏み切りの美しさに目を奪われてしまうかもしれない。
フィギュアスケートのジャンプには6種類あるのだが、いずれも左回り(反時計回り)に回転する。ルッツは、左足で後ろ向きに進んでいき、右足のつま先で氷を蹴り上げるジャンプだ。
このとき、左足に注目したい。
ルッツの踏み切りでは、左足のエッジを外側にぐっと倒す。よって、左足は時計回りに回転しようとする。ただ、ジャンプは反時計回りに回転するため、身体は右に回していきたい。そのためルッツでは、踏み切りの瞬間、エッジが身体とともに右に持っていかれてしまうケースが少なくない。
だが、羽生さんのこの4回転ルッツは、エッジが美しく左に倒れていて、踏み切る瞬間には、さらに深く左のエッジがぎゅっと踏み込まれる。ルッツがルッツである証であるような、夢のように美しいシーンだ。今回はジャッジはいないけれども、きっと、この4回転ルッツの加点(技の出来栄え点)は非常に高い。

「BOW AND ARROW」「メダリスト」こだわりの表現
難しいジャンプは体力のある序盤で跳んでおきたい、そして最長2分50秒の中で7つもの技術要素を見せなければならない。そんな思いから、通常は、ショートプログラムの1つ目のジャンプはスタートから20秒付近で跳ばれることが多い。2連覇した平昌オリンピックでも、スーパースラムを達成した2020年四大陸選手権でも、羽生さんはスタートから23秒くらいのところで最初のジャンプを跳んでいる。
それなのに、「BOW AND ARROW」の最初のジャンプ(4回転ルッツ)を、羽生さんが跳ぶのは、動き出しから45秒あたりのところだ。これは、アニメ『メダリスト』のオープニング映像で、狼嵜光がジャンプを跳ぶタイミングに合わせているからだという。とはいえ、ここで最初のジャンプを跳ぶということは、残り約2分で6つもの技術要素を見せなくてはならないということになる。それでも羽生さんは、そう選択した。
そしてまた、このプログラムに4回転ルッツを入れた理由の一つとして、『メダリスト』で夜鷹純が4回転ルッツを跳んだということも挙げていることから、『メダリスト』という競技フィギュア作品へのリスペクトが、ひしひしと感じられる。
3A(トリプルアクセル)
2つ目のジャンプが、トリプルアクセル(3回転アクセル)だ。普段から羽生さんのトリプルアクセルは安定しているため、今回のこのジャンプは簡単……かといえば、そんなことはない。
短い助走からすぐに、「カウンター」という難しいターンを見せ、そのままトリプルアクセルを跳ぶ。つまり、後ろ向きからひゅっと前向きになった瞬間、タイミングを待ったりせずにすぐトリプルアクセルを踏み切る、ということだ。これは、前に振りむいた時の足元が安定しにくいため、難しい跳び方になる。
さらに、トリプルアクセルを降りた瞬間には、星のきらめくような音に合わせて着氷したその足でツイズル(片足でくるくる回る技)を入れている。
これら一連の流れを、(今回はいないけれど)ジャッジの目の前の位置で跳んでいる。競技会では、ジャッジの目の前では特にミスをしたくないもの。しかも、フェンスに近いので、恐怖心もある中で跳んでいる。このトリプルアクセル界隈には、難しいものがてんこ盛りにされているのだ。
FSSp(フライングシットスピン)
『メダリスト』ファンにはおなじみの「フライングシットスピン」。このスピンは、主人公 結束いのりが見せた技として、「ブロークンレッグ(フリーレッグを横に突き出すポジション)」も入れて組み込んでいる。
ただし、ここで終わらないのが羽生結弦だ。
途中のブロークンレッグのあとに、「シットバック(シットビハインドともいう。フリーレッグを、氷についている軸足の後ろに位置させる)」という難しいポジションに移行。しかも、スピンを終えたあとは、ニースライドで膝立ちしており、どこか『メダリスト』の登場人物「夜鷹純」のような雰囲気も醸し出している。
レイバックイナバウアー
ショートプログラムの7つの技術要素ではないのだが、表現として入れているのが、「レイバックイナバウアー」だ。左右の足を180度に開き、それを前後に開いて横に滑っていく「イナバウアー」で、さらに上体を後ろに倒し(レイバック)ながら進んでいく。背中から腰にかけてをかなり反らせる、高い柔軟性がなくてはできないポジションである。
羽生さんはレイバックイナバウアーを、「そして掴んだあの煌めきも全て君のものだ」というフレーズで見せる。ここまで手にした数々の栄光や、プロとなって史上最高峰のこのプログラムを見せていることなどが、フレーズと相乗する。極上の数秒間を堪能したい。

Photo by 林響太朗
4回転サルコウ+3回転トウループのジャンプコンビネーション
2つのジャンプを連続して跳ぶのが、ジャンプコンビネーション。「BOW AND ARROW」では、4回転サルコウ+3回転トウループを“プログラムの後半に入れている”。これが難しいのだ。
「BOW AND ARROW」で4回転サルコウ+3回転トウループを跳ぶのは、スタートから約2分のあたり。ここまでの間、羽生さんはほぼずっと全力疾走しているような状態で、そこから4回転+3回転を跳ぶのだ。非常にきつく難しいことは、想像に難くない。
さらに、このジャンプの難しさには、ショートプログラムというものの特性も関係してくる。ショートプログラムでは、ジャンプを3つ……ものすごく簡単にいうと、1つはアクセル、1つは単独ジャンプ、1つはジャンプコンビネーション……跳ぶことが決められている。
ジャンプコンビネーションというのは1つ目のジャンプできれいに着氷できないと2つ目のジャンプを跳べないものだ。そのため、できれば、ショートプログラムの最初のジャンプをコンビネーション予定にしておき、それがもし失敗してコンビネーションにならなくても(単独ジャンプとカウントされる)、その後の単独ジャンプの後ろにもう1つジャンプをつけてコンビネーションジャンプにすればいいと考えてジャンプ構成を組むのが、通常だ。今回のように3つ目のジャンプをコンビネーションジャンプにすると、ここで失敗してジャンプをコンビネーションにできなかった場合、そのジャンプはショートプログラムでの要件を満たさなくなり、無価値0点になり得点が大幅に下がってしまうからだ。
にもかかわらず、「BOW AND ARROW」で羽生さんは、3つ目のジャンプをあえてコンビネーションにしている。ここから感じられるのは、「ここでは絶対に失敗しない」という絶対的な自信だ。
平昌オリンピックでのコンビネーションジャンプ
羽生さんが2連覇した平昌オリンピックのショートプログラムで跳んだジャンプは、4回転サルコウ、トリプルアクセル、4回転トウループ+3回転トウループ。今とは少しジャンプの種類が異なるが、3つ目のジャンプをコンビネーションにしているというものすごい構成は、変わっていない。
プログラム後半での加点
後半の最後のジャンプは、ジャンプの基礎点が1.1倍になるというルールがある。つまり、3つ目を基礎点の高いジャンプコンビネーションにして、それを後半で跳べば、高得点につながるのだ。
よって、「BOW AND ARROW」このジャンプ構成は圧倒的に高得点が出せるものなのだ。そういうものを、羽生さんは見せている。
「飛べ!」
羽生さんは、「飛べ」という声を聞くと、4回転サルコウ+3回転トウループを踏み切る。
「飛べ」という言葉……羽生さんのファンたちはここから、2014年GPシリーズ中国杯のことを思い浮かべるかもしれない。
この大会のフリーの6分間練習で、羽生さんは他選手と激突し、激しく流血。そのまま医務室に運ばれた。試合は、羽生さんの様子が分からないまま進んでいったが、出番を迎えると頭に包帯をぐるぐる巻きにした羽生さんがリンクサイドに登場した。その後、その状態のままフリーを滑り切るのだが、あの時、リンクに出ていく羽生さんが自らを鼓舞するために叫んだ言葉が、「飛べ」だった。

CCoSp(足替えコンビネーションスピン) ビールマンスピン
いろいろなポジションを見せ、途中で軸足を替える(足替え)スピン。このスピンで回転しながら腕を伸ばしに伸ばし、ブレードをつかみ、そのまま足を背後からぐいっと持ち上げてくるのが「ビールマン」ポジションだ。
ビールマンは、腰も背中もかなり反らせることから、柔軟性が必要な技。「レイバックイナバウアー」と同じく、男性の場合は、身体の柔らかい小さなころにできても、大人になり筋力がつくと身体が固くなってできなくなることも多い。羽生さんにもビールマンスピンを見せない時期があったが、2022年にプロとなったあと、27歳からたびたび演技に組み込んできた。
男子スケーターが、一度封印したビールマンスピンを再び見せるのは、かなり稀有なこと。そもそも競技に必要な技ではない上、羽生さんはすでにプロに転向したあとだった。それでも、羽生さんは取り戻した。4回転ジャンプを跳ぶための筋力と、ビールマンスピンも可能な柔軟性の両立は、長年にわたり強い信念を持ちつづけ、地道に積み重ねてきたトレーニングの賜物だ。どんなときも、“羽生結弦らしい味わい”を求め、“スケーターとしての矜持”を持っているからこそ、たどりついた一つの結実ともいえるだろう。
それが、30歳男子スケーターである羽生さんのビールマンスピンというものなのだ。
こだわりを込めた、競技用プログラム
羽生さんはこのプログラムに「いろいろこだわりを込めました」と話している。「あの頃焦がれたような大人になれたかな」という歌詞のくだりでは、空を仰ぐようなポーズを見せたり、「強く引いた」では弓を引く動作を見せたり、羽生さんのこだわり、想いを各所に見つけたい。
ショートプログラム「BOW AND ARROW」
冒頭部分、白い息を吐きながら楽曲の始まりを待つ羽生さん。その足元、これから滑るはずの氷面には、すでに無数のトレース(滑った跡)が見える。
また、4回転ルッツを跳ぶために向かっていく氷の面を見ると、そこだけものすごく白い。氷が削られた跡だ。あの場所で繰り返し4回転ルッツを踏み切って着氷したということを示している。
映像の中で、私たちはさまざまなトレースを見ることができる。たった一人で、この撮影の数時間だけで、あれだけのトレースが残るほど、羽生さんは「BOW AND ARROW」を滑っていたのだ。
それなのに、この日の羽生さんは汗をかいていない。普段の練習や試合、アイスショーなどではかなりの汗をかいているのに。遠くからでも、吐く息が白く広がるのが見える。とても寒い。寒いというより、冷たい。落とされた照明でリンクは暗く、動き回る照明がまぶしい状況でもあった。高難度ジャンプを跳んだり、難しいプログラムを滑り切ったりするのには、厳しい環境だったようにも感じられる。
にもかかわらず、羽生さんは全力に全力を重ねた。ものすごいレベルの技を組み込み、数々の栄光を手にしてきた先の羽生結弦の姿はこれなのだと、全世界に未来永劫残してもいいと思えるレベルまで、何度もジャンプを跳びトレースを描き続けた。そうやって生まれたのが、奇跡のような最高傑作、ショートプログラム「BOW AND ARROW」なのだ。
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