女優・中谷美紀の舞台デビュー作であり、『第19回読売演劇大賞 優秀作品賞・優秀女優賞・優秀スタッフ賞』『第46回紀伊國屋演劇賞 個人賞・団体賞』を総なめにした『猟銃』(2011年初演)が、今春、パルコ劇場をはじめ、全国6都市にて再演される。
『ノーベル文学賞』候補にもなっていた昭和の文豪・井上靖による『猟銃』(1949年、新潮文庫)は、妻帯者である三杉穣介と彩子という不倫カップルの13年にわたる物語を、穣介の妻・みどり、彩子、彩子の娘・薔子(しょうこ)という三人の女性が穣介に向けて綴った手紙の文面で浮かび上がらせた短編小説。一組の男女による秘密裏の関係は、文学的な美しい描写によって、不倫関係の煩悶、止まらない愛情、そして巻き込まれた人々の葛藤を描き、物語は彩子の服毒自殺という悲劇的な結末へと突き進んでいく。
「不倫」は、過去から現代まで文学のテーマとしてさまざまな形で描かれてきた。日本に限っても、三島由紀夫が『美徳のよろめき』を、森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』を、夏目漱石も『それから』という傑作を生み出している。いったい、文学にとってどうして不倫は永遠の主題となりうるのだろうか? そして、どうして不倫物語は読者を魅了してやまないのか? 本稿では、善悪という道徳的な判断を一旦保留し、不倫という行為に迫っていきたい。
社会現象を経て、流行語になってしまった「ゲス不倫」
2016年1月14日号の『週刊文春』で、タレントのベッキーと「ゲスの極み乙女」の川谷絵音(Vo)の不倫がスクープされたことを発端とするメディアでの騒動を知らない人はもはやいないだろう。ベッキーにとって初のスキャンダル、妻帯者である川谷との道ならぬ恋、二人の仲睦まじいLINEのやりとり(とされるもの)が流出するなど、この不倫劇は格好のワイドショーネタとして日本中の人々の好奇の視線に晒されることとなった。
このスキャンダルを受けて、ベッキーは記者会見を行い、「誤解を招くような大変、軽率な行為だったと深く反省」していることを強調。「川谷さんのご家族の皆さま、ファンの皆さま、関係者の皆さまに多大なるご迷惑をおかけしてしまいましたことを深くお詫び申し上げます」と謝罪する。記者会見ではこれからの仕事に対して前向きな姿勢を示したベッキーだったが、イメージの悪化を危惧してか、出演するCMの打ち切りや来期の契約を更新しない方針を表明する広告主も現れており、2月からは実質的にタレント活動を休業している。
「不倫は誰もが興味を示さずにいられない話題」と豪語する、不倫専門SNSのCEO
じつは、テレビドラマ『金曜日の妻たちへ』(1983年)が、一般に定着させたといわれる「不倫」という言葉(それ以前は「よろめき」が一般的だったそう)。それが、一夫一婦制という社会道徳から外れた行為であり、字義通り倫理にもとる行為であることは、メディアから指摘されずとも誰もが知っている。
しかし、上記の騒動に留まらず、『セカンドバージン』(2010年)、柴門ふみ原作の『同窓生』(2014年)、『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(2014年)など、不倫をテーマにしたテレビドラマも数多く制作されており、さながら「不倫ブーム」といっても過言ではない状況が近年続いている。もちろん、その背景には視聴者の年齢層が上がり、若者同士の恋愛よりも、不倫のほうが身近なテーマになっているというテレビ業界の事情も推測されるが、それと同時に、性産業や性風俗をテーマに社会活動を行う坂爪真吾が著書『はじめての不倫学』(2015年、光文社新書)において「史上、最も不倫をしやすい社会」と指摘していることも見逃せない。スマートフォンやSNSの普及などによって、不倫に及ぶためのハードルは下がりつつある。極端に言えば、それを望めば、誰もが不倫に走ることができる環境が到来しているのだ。そして、そんな不倫に対して、誰もが興味を示さずにいられないと語るのが、不倫専門SNS「アシュレイ・マディソン」CEOのノエル・バイダーマンだ。
「不倫というのは、誰しもが興味をもつ話題です。なぜかというと、人はみなもれなく次の3つのうち、いずれかに当てはまるんです。1つ目は不倫を防ぎたい。2つ目は自分の交際相手、配偶者がしているかどうかを探りたい。最後が自分がしてみたい。ほとんどの人がそれのどれかには当てはまるので、やっぱりそれは大いなる関心ごとです」(LAURIERより)
既婚者で実際に不倫をしている人は、全体の1割から2割程度?
『はじめての不倫学』において、坂爪はアメリカや日本の民間アンケートデータなどから「既婚者の中で実際に不倫をしている人は多く見積もっても、全体の1割から2割程度」と推測している。不倫には、離婚や慰謝料、社会的な非難といったリスクがつきまとうが、それらが抑止力とならない人々は意外にも多いようだ。歴史上においても、多くの国の法律や、宗教の戒律で不倫は禁じられてきたが、それが根絶されたことはなかった。
「モーセの十戒には『隣人の妻を欲してはならない』という記述があり、ユダヤ教のタルムード、イスラム教のコーランでも不倫は禁止されている。しかし、いずれの社会でも不倫はなくなっていない。旧約聖書で一夫一婦制を死守できた夫婦は、わずか1組(イサクとリベカ)だけである。旧約の世界の有名人であるアブラハムも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、当たり前のように婚外セックスを行い、複数の妻(奴隷を含む)をめとっている」(『はじめての不倫学』より)
自らも不倫経験のある作家の瀬戸内寂聴は、エッセイ『ひとりでも生きられる』(1973年、青春出版社)において、不倫を「人間の本性」と語っている。
「男と女はなぜ恋をしあうのか。家庭があり、貞淑な妻があり、頼もしい夫がいても、なぜ男と女は妻以外の女、夫以外の男に心をひかれ、肉体で愛しあうのか。人間だからと答えるしかない。人間ははじめからそういうようにつくられているのだ。それが人間の自然の感情だし習性だから、人間は自分たちで自分の心に鎖をつけるため結婚制度や一夫一婦制を考えだしたのだ」(『ひとりでも生きられる』より)
「誰しもが興味を持つ」「人間の自然の感情」である不倫を、作家・井上靖はどう描いたか?
では、「誰しもが興味をもち」「人間の自然の感情だし習性」である不倫を、井上靖はどのようにして描いたのだろうか? 小説『猟銃』に即して見ていこう。
主人公・彩子は、夫である門田の不貞行為によって離婚をし、娘である薔子とともに生活を送っていた。しかし、そんな彩子は従姉妹であるみどりの夫・穣介と惹かれ合い13年間にわたって不倫を続けていた。『猟銃』の物語は、薔子の手紙からはじまる。母が服毒自殺を選ぶ前日、「焼いて頂戴」と言われた母の日記を読んでしまった薔子は母のすべてを知る。そこには「罪、罪、罪」という文字とともに、深い懊悩が刻まれていたのだ。穣介にあてて、薔子はその動揺をこう述べている。
「私は今まで愛と言うものは、太陽のように明るく、輝かしく、神にも人にも永遠に祝福されるべきものだと信じていたのです。(中略)どうして陽の光も射さず、何処から何処へ流れていくかも知られない、地中深くひそかに横たわっている、一筋の暗渠のような愛と言うものを想像できたでしょう」(『猟銃』より)
次に綴られるのは穣介の妻・みどりから穣介への手紙。彩子は、穣介と関係を持ったそのときから、みどりにこの関係が明らかになったら死ぬことを決意していた。しかし、関係の当初から、すでにみどりは二人の逢瀬に気づいていたのだ。読者は、みどりの手紙から、すでに彼女と穣介の夫婦仲は冷えきっており、彼女もまた騎手や大学講師、芸術家などと不貞を重ねていたことを知る。だが、そんなみどりの奔放な行動に対し、穣介は見て見ぬふりを決め込む。そしてその態度が、みどりの行動に拍車をかける。彼女の本心は、ただ、穣介を振り向かせることにあったのだ。
「猟銃で雉や山鳩をお狙いになるくせにどうして私の心をお射ちになれませんでしたの。どうせお騙しになるのなら、何故もっとむごく、とことんまでお騙しになりませんでしたの」(『猟銃』より)
世間を欺くことによって最高潮に達する二人の蜜月
そして、三番目に綴られた彩子の手紙は、服毒自殺の前に書き上げた遺書。この手紙のなかで、彼女は穣介との不倫のきっかけとなった、京都での「愛される女の幸福を私の全身に花のように結晶」させたできごとから13年間にわたる日々を綴っている。中でも、もっとも二人が燃え上がった瞬間が、熱海ホテルでのできごと。白いシーツに横たわりながら、二人はこんな睦言を交わす。
「貴方が二人で悪人になろう、みどりを一生二人で騙してくれないかと仰言った時、私は何の躊躇もなく、どうせ悪人になるくらいならいっそ大悪人になりましょう。みどりさんばかりでなく、世間の人全部を騙し通しましょうと申しました」(『猟銃』より)
世間を欺くことによって最高潮に達する二人の蜜月は、離婚届を「卒論」と呼び交わしながら盛り上がったベッキーと川谷の姿にも重なる。もちろん、その蜜月は日記に「罪」と乱暴に刻みつけるような罪悪感と表裏一体の関係にあった彩子は、止めることのできない自分のなかに巣食うもう一人の自分を「蛇」と表現する。
「人間の持っている蛇とは何であろうかと、一人で考える時がありました。ある時は我執、ある時は嫉妬、ある時は宿命でありましょうかと。その蛇が何であるか現在でもわかりませんが、しかし、とにかく貴方があの時仰言ったように、まさしく私の身体の中には一匹の蛇が棲んで居りました」(『猟銃』より)
文学において、「不倫は文化」ではなく「倫理」でもある
そんな「蛇」に追い立てられながら身体を重ねてきた彩子と穣介は、その快楽に溺れれば溺れるほど、引き返す道を失い、不倫譚は悲劇へと突き進む。それは、これまで幾度となく繰り返されてきた「お約束」的な破滅への物語とすらいえるだろう。けれども、そんなストーリーに、どうして人は魅了されてしまうのだろうか? それを考えるとき、瀬戸内寂聴が書くこんな感情の機微は、注目に値するだろう。
「私は自分の夫も子供も捨て、自分を活かしきろうとして、常に断崖のギリギリの上だけを歩きつづけていた。幸福になることは、私が私に許せなかった。夫と娘を捨てた女は、幸福になってはいけないのであった。世間の道徳をふみにじりながら、私が倫理的だといえば人は嘲笑するだろう。道徳破壊者にも倫理はある」(『大切なひとへ 生きることば』光文社)
なんと、瀬戸内は「不倫をする人にも、その人なりの厳格な倫理がある」ということを述べている。情念と欲望がうずまく「ドロドロの不倫劇」は、「ゲス不倫」を発端にしたメディアの盛り上がりを見てもわかるとおり、大衆娯楽の専売特許だといえるだろう。しかし、そこに「独自の倫理」を見出したとき、不倫はにわかに文学としての色合いを帯びてくる。そこには、人間にとって法律や社会道徳以上に大切な「自身の倫理」に従う美学があり、それを徹底する美しさが生まれるのだ。そんな「倫理的人間」の美しさに惹かれ、人は不倫文学に耽溺することをやめられないのではないだろうか。文学において「不倫は文化」なのではなく、「不倫は倫理」であるようだ。そして、社会道徳に外れた倫理的人間は破滅へと導かれ、「倫理」と「倫理」の衝突に巻き込まれざるを得なかった人々も、いつの間にか大きく変わってしまった人生に対する戸惑いを抱えながら生きていかなければならない。彩子は死を選び、瀬戸内寂聴は俗世を捨てた。彩子の通夜の晩、同じ部屋で彩子の遺体と穣介、みどりの三人が抱えた沈黙を、薔子がこう記述しているのは象徴的だ。
三人が思い思いのお考えを持って、黙って座っていらっしゃる。薔子には大人の世界が、堪らなく、淋しく悲しく怖ろしいものに思えて来たのです。(『猟銃』より)
アンビバレンツな感情が揺れ動くなか、中谷美紀が4年ぶりに演じることを決断した、2016年版『猟銃』
2011年にカナダ・モントリオールの劇場「USINE C」と日本各地で上演された舞台版『猟銃』は中谷美紀が、みどり、彩子、薔子という三人の女性をすべて演じるという演出が採用された。一人三役という、初舞台を踏む女優にとってはこれ以上ない重責だが、中谷の演技、朗読によって三人の手紙からは、人格を持った個々人の姿と同時に、不倫事件をめぐる「女性たち」のリアリティーのある肉声が響いてきた。
この舞台を演出した演出家、フランソワ・ジラールは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でリヒャルト・ワーグナーのオペラ『パルジファル』、シルク・ドゥ・ソレイユ『Zed』などの演出を手がけ、映画監督としても『レッド・バイオリン』で『第72回アカデミー賞音楽賞』を受賞している。「『猟銃』の完璧さに匹敵しうるものは一つもない」と原作に惚れ込んだ彼が生み出す舞台は、水、石庭など禅的なモチーフの舞台美術と、アブストラクトな音楽によって、秘めやかな美しさと、力強い存在感が両立するものだった。中谷が演じる舞台の後ろには、穣介役を演じる俳優、ロドリーグ・プロトーが、猟銃を手にしながら一切言葉を発することなく佇み、時にその銃口は中谷を捉える。抽象表現ならではの緊張感が、そこには出現していた。
『猟銃』の成功は、当時の中谷にとって「人生そのものが変わった」「触れたことのない新しい扉を開いた」と語るほどメモリアルなものとなったようだ。しかし、『ロスト・イン・ヨンカーズ』(2013年)、『メアリー・ステュアート』(2015年)などを経て、舞台女優として磨きをかけた中谷は、『猟銃』の初演を振り返り、「2011年の『猟銃』は、まだまだ拙かったなと反省することも沢山」と口にする。女優としてひと回りもふた回りも成長を遂げた彼女は、今回まったく新しい『猟銃』に挑もうとしているようだ。
「最初にこの物語を読んだ10年前よりも、より物語が悲しく思えてきたというか、深く迫ってきたっていうのはありました。自分も歳を重ねたということもありますね」(「エンタステージ」より)
同じインタビューで、中谷は自分を変えてくれた『猟銃』という作品を「もう一度演じたいという気持ちと、もう二度と演じたくないという気持ちが混在している」と正直な気持ちを語っている。そんなアンビバレンツな感情は、もしかしたら彩子が感じた不倫の喜びと不安にも通底するものかもしれない。そして、彼女はもう一度演じることを選択した。いったい、4年後の『猟銃』は、彼女にどんな扉を開かせてくれるのだろうか?
- イベント情報
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- 『猟銃』
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2016年4月2日(土)~4月24日(日)
会場:東京都 渋谷 パルコ劇場
原作:井上靖『猟銃』
翻案:セルジュ・ラモット
日本語台本監修:鴨下信一
演出:フランソワ・ジラール
出演:
中谷美紀
ロドリーグ・プロトー
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