芸術祭ラッシュの中で異彩を放つ、世界的なアーティストがディレクションしたハードコアな国際展
この夏から秋にかけ、全国各地で相次いだ芸術祭ラッシュもようやく終盤。東へ西へと駆け巡った熱心なアートファンでも、正直「ちょっと多すぎるのでは……」と食傷気味の人がいるだろう。でももう少しだけ、好奇心を奮い立たせて西へ向かってほしい。全力でオススメしたい国際展が始まったからだ。
その名も『岡山芸術交流 2016』。岡山城周辺の徒歩15分圏内という、ごく限られたエリアで31組のアーティストが作品展示を行う同展は、現代美術の醍醐味に溢れた展覧会だ。
アーティスティックディレクターを務めるのは、イギリス出身のリアム・ギリック。人が集うためのミーティングスペースを仮設したり、何らかの議論を促すための問いかけを造形化する彼は、「リレーショナルアート」と呼ばれる動向と結びつけて語られることの多いアーティスト&キュレーターである。
リアム・ギリック《開発》2016 / Courtesy of the artist and TARO NASU, Tokyo / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
リレーショナルアートを大まかに説明するならば、作品の制作過程の一部をパブリックに公開し、その変化自体を作品として位置づける1990年代初頭からの芸術動向と言えるだろう。リレーショナルアートは、日本国内ではややアレンジを加えたかたちで受け入れられ、地域主体の芸術祭で多く見られるワークショップ型や観客参加の要素を持つ作品(最近「地域アート」と呼ばれようになった作品群のことだ)の理論的基盤になっている。しかし、ここには大きな問題がある。
本来、アートの役割はエンターテイメント的な心地よさとイコールではない
ここ数年、日本のアートを取り巻く環境は大きく変わり、公共や社会とのなんらかの接点を作家や作品が意識的に持つことが強く求められるようになった。しかしそこで要求される「公共」性や「社会」性の実体とは、エンターテイメント的な楽しさやリラクゼーション的な心地よさとイコールである場合がほとんどだ。
その「快」自体を真っ向から否定する理由はないが、数億円、数十億円を投じる商業的な娯楽産業と同じ尺度でアートの善し悪しをジャッジするのは無意味だし、それにアートが勝るはずもない。「快」だけを求めるなら、遊園地やインターネットサービスがあれば十分なのだ。
また、そもそも公共性や社会性は、動員や収益という数字のみで測れるものではない。むしろ少数の意見や自分とはまったく異なる価値観の存在を知り、それらが示唆するオルタナティブな可能性を、社会運営のための選択肢の一つとして捉えることこそが、その意義である。その意味で、『岡山芸術交流 2016』がもたらす詩的なイメージと体験は、アートだからこそ可能な公共と社会についての提案になっている。
世界トップクラスのアーティスト31組による、「誤読」や「境界」が共通する作品の数々
前置きが長くなってしまったが、ここからは『岡山芸術交流 2016』の出品作品の一部を紹介していきたい。
まずは、メイン会場である旧後楽館天神校舎跡地で展示を行う荒木悠の『WRONG REVISION』。直訳すれば「間違った改訂」となる、『利未記異聞』という名の同作が扱うのは、瀬戸内海から九州沿岸で盛んなタコ漁と、日本におけるキリスト教の流入のあいだに隠された驚くべき物語である。西洋において悪魔の化身とされるタコが日本のキリシタンを誘惑したり、さらにはキリスト教徒の弾圧にも関与していたのだ、との荒木の主張を信じるか信じないかはあなた次第……といったところだが、このような歴史や文脈の積極的な「誤読」は、『岡山芸術交流 2016』の全体を通底するテーマのように思える。
荒木 悠《利未記異聞》2016 / Courtesy of the artist / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
日本の豆腐からインスパイアされた謎の言語を発明し、なぜか3D映像にするトリーシャ・バガの『Beautiful Lunchtime Michael』のキュートなデタラメさ。
トリーシャ・バガ《素晴らしいランチタイム マイケル》2016 / Courtesy of the artist and Greene Naftali Gallery / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
アントン・ヴィドクルのSF的映像作品『The Communist Revolution Was Caused By The Sun』は、神秘主義や旧ソ連の政治高官たちはマイナスイオン健康法に熱心だった、という眉ツバすぎる設定と完成度の高い映像のギャップが楽しい。
アントン・ヴィドクル《共産主義革命は太陽が原因だった》2015 / Courtesy of the artist / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
また、岡山城の櫓門内で『Bow to Bow』を展示した島袋道浩は、武器だった弓が弦楽器を演奏するための弓に変化したかもしれないと仮定し、とても詩的で美しい映像と音楽を仕上げている。
島袋道浩《弓から弓へ》2016 / Courtesy of the artist / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
歴史において常識とされる物事を、大胆かつ巧みに転換させてみせるこれらの「誤読」は、『岡山芸術交流 2016』のもう一つの重要なテーマである「境界」へと接続されるだろう。その架け橋となるのが、3シリーズを展示した下道基行である。
第二次世界大戦時に日本軍が占領地に建立した神社の鳥居の現在を追った写真作品であるシリーズ『torii』は、今では公園のベンチとして誤用=活用されている鳥居の姿などを捉えている。もし仮に日本が戦争に勝っていれば、現在も信仰の象徴としてあったはずの鳥居の朽ちた姿には、誤読だけでなく歴史の分岐点 / 境界線が潜んでいる。
下道基行《シリーズ「torii」(テニアン、アメリカ/花蓮、台湾/シンガポール/サイパン、アメリカ/台中、台湾/台中、台湾/サハリン、ロシア)》2006-2012 / Courtesy of the artist / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
そしてそれは、もう一つの展示作品が示す日常と密着した境界線へとつながっていく。14歳の中学生に「自分が境界と感じるものは何か?」という作文を書いてもらい、そのテキストを作品化した『14 Years Old & The World & Borders, Okayama』は、どんな時代にも、誰の中にもある境界を例えばこんな風に示す。
「私の中学校では他組のクラスに入ってはいけないというきまりがあります。友達と一緒にいたくてもいられません。そしてそれが目に見えるものだけでなく私の中にもできていってしまう気がします」
下道基行《14歳と世界と境 岡山》2016 / Courtesy of the artist / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
「将来の夢は、通訳かバレリーナ」という一人の少女が感じている境界線は、ごくささやかな日常に引かれたもので、だからこそ普遍的である。このような境界の示唆は、作品のみならず、同作が展示された旧後楽館天神校舎跡地とも呼応しあう。
準備期間のうちもっとも時間をかけてこだわった、作品と設置場所の関係
旧後楽館天神校舎跡地は、最初は旧中四国農政局の庁舎、2012年までは岡山後楽館中学校・高等学校の校舎、そして現在は市の資材置き場として使用される、さまざまな時代背景を持つ場所だ。カラフルな鉄の矩形で異なる部屋同士をつなぐホセ・レオン・セリーヨの『Place occupied by zero(Okayama Pantone 072,178,3245)』や、旧後楽館天神校舎跡地の水質検査をした証明書を掲示するキャメロン・ローランドの『Korakuen Tenjin Water Test』は、目には見えないが、確かに時代と時代を分かつ旧後楽館天神校舎跡地に宿る境界を露わにし、あるいはそこから創造的に飛躍する批評的な試みとして機能している。
ホセ・レオン・セリーヨ《詩(朝に登り二度と同じようにはそこにいない)》2016 / Courtesy of the artist and josegarcia, México / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
記者会見の質疑応答でリアム・ギリックは「準備期間の2年間で、もっとも時間をかけたのは作品を設置する場所の選択だった」と回答したが、たしかに、これまで紹介してきた場所と作品を結ぶ関係性は、『岡山芸術交流 2016』のもっとも優れたポイントである。行政機関による公共事業の拠点であり、子どものための教育の場であり、市のインフラの一部を支える旧後楽館天神校舎跡地は、同展のメインテーマである「Development / 開発」と密接である。
また、古代オリエント美術の豊かなコレクションで知られる岡山市立オリエント美術館に展示されたジョーン・ジョナスの『They Come to Us Without a Word II』は、1936年生まれのジョナス本人と子どもたちがキュートなパフォーマンスを通じて、柔らかな生命讃歌、物質と経済重視の歴史観への再考を促している。キリスト教以前の時代、あるいは他の文化圏で信仰された母系社会の考古遺物も数多く並ぶ美術館だからこそ、同作のテーマはより鮮明になる。
ジョーン・ジョナス《彼らは無言でやってくるII》2015/2016 / Courtesy of the artist and Gavin Brown's Enterprise, New York / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
この他にも、林原美術館に展示された、人と自然の関わりをユーモアとアイロニーを込めて表現する、ピエール・ユイグ、レイチェル・ローズ。
ピエール・ユイグ《未耕作地》2012 / Courtesy of the artist and Esther Schipper, Berlin / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
レイチェル・ローズ《すべてそしてそれ以上》2015 / Courtesy of the artist, Pilar Corrias, London and Gavin Brown's Enterprise, New York / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
岡山県天神山文化プラザの地下に展示された、近代社会における文化消費の変遷やSNS登場以降の自己啓発をシニカルに批評する、眞島竜男、サイモン・フジワラ。
眞島竜男《281》2016 / Courtesy of the artist and TARO NASU, Tokyo / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
サイモン・フジワラ《ジョアンヌ》2016 / Courtesy of the artist and TARO NASU, Tokyo Commissioned by FVU, The Photographers'Gallery Photographers'Gallery and Ishikawa Foundation Supported by Arts Council England / © Okayama Art Summit 2016 / Photo:Yasushi Ichikawa
資本主義における労働を作品の主題とすることの多いペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイスが、仕事の行き帰りに大勢が行き交う野外に設置されるなど、場とアートの共鳴はあらゆる場所で起こる。
屋外作品 展示風景(一部) / (左)ローレンス・ウィナー《"1/2はじまった 1/2おわった たとえいつであろうとも"》2008/2016 / (右)ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス《より良く働くために》2016 / © Okayama Art Summit 2016 / Photo: Masahiro Ikeda
「この場所にこの作品が置かれた理由はなぜ?」と推理しながらの街歩きは、『岡山芸術交流 2016』の大きな楽しみである。
一瞬の「共生」ではなく、自立した「個」を育てる。『岡山芸術交流』が示唆した「公共性」のあり方
冒頭で私は、「アートだからこそ可能な公共と社会についての提案になっている」と『岡山芸術交流 2016』を評した。なぜならば、これまで紹介してきた作品群に内在する思わぬ「誤読」や「境界」の提示と飛躍、そしてそこから生じた多様な可能性や扱いの難しい問いこそが、公共と社会の柔軟性・強度を高めると感じており、そしてそう信じているからだ。
地域や他者との協働や共生を謳い、まるで接着剤のようにアートをあてがうアートプロジェクトは、実際のところ「アートは必ずポジティブな何かを成し遂げる」という楽観的な結論ありきのビジョンによって構想されている。その結果、批評的な問いや議論は最初から放棄され、動員数や記事の掲載数など、目に見える数値目標ばかりが先行するのが日本の芸術祭や国際展の典型である。その有り様は、「護送船団方式」とも揶揄される日本の公共事業に酷似している。そのような場において、公共性や社会性が培われるはずもなく、瞬間的な組織力を高めこそすれ、構成員としての個が自立するための意思や運動能力は、じわじわと奪われていく。その結果がどうなるか。その答えは、アートに限らず、今日の日本で生きている多くの人々の実感そのものである。
『岡山芸術交流 2016』のシンボルマークは謎めいた目のかたちをしている。これはリアム・ギリック本人がデザインしたもので、岡山市内のいたるところに掲示されている。この意匠が意味するものについてギリックは多くを語っていないが、これは同展に訪れた一人ひとりが「目」となり、自立した孤人 / 個人として今日の社会を見つめる必要性と関係しているように思う。
『岡山芸術交流 Okayama Art Summit 2016』メインビジュアル
公共性とは、誰かから与えられるものではない。あるいは今すぐ作り出せるものでもない。まずは主体的に見つめること。シンボルの目がそうであるように、可能な限り真剣に。そうやって無数の視点が向けられた先に、はじめて公共は立ち上がってくるはずだ。岡山駅の正面口に掲示された巨大なビルボードには、目のデザインに加えて、全参加作家のファーストネームが列記されている。そしてその最後は「and You.」という一文で締めくくられている。たしかに『岡山芸術交流 2016』はハードコアな国際展ではあるが、私たち観客を排除していない。その目は、アーティストたちの目であると同時に、岡山を訪ねた観客たち、そしてもちろん岡山で暮らす人々の目でもある。公共を育てるのは、全ての人なのだ。
岡山駅に掲げられた、アーティスティックディレクターのリアム・ギリック監修の「ビジュアルメッセージ」 © Okayama Art Summit 2016 Photo: Hiroyasu Matsuo
- イベント情報
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- 『岡山芸術交流 2016 Okayama Art Summit 2016』
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2016年10月9日(日)~11月27日(日)
会場:岡山県 旧後楽館天神校舎跡地、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、旧福岡醤油建物、シネマ・クレール丸の内、林原美術館、岡山城、岡山県庁前広場、岡山市内各所
参加作家:
リアム・ギリック(アーティスティックディレクター)
荒木悠
トリーシャ・バガ
ノア・バーカー
ロバート・バリー
アナ・ブレスマン ピーター・サヴィル
アンジェラ・ブロック
マイケル・クレイグ・マーティン
ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス
サイモン・フジワラ
ライアン・ガンダー
メラニー・ギリガン
ロシェル・ゴールドバーグ
ドミニク・ゴンザレス=フォスター
ピエール・ユイグ
ジョーン・ジョナス
ホセ・レオン・セリーヨ
眞島竜男
カーチャ・ノヴィスコーワ
アーメット・オーグット
ホルヘ・パルド
フィリップ・パレーノ
レイチェル・ローズ
キャメロン・ローランド
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