寺尾紗穂と再び東東京へ。辿り着いた、あるドイツ人宣教師の痕跡

前回のリサーチから浮かびあがった、ある一人のドイツ人宣教師

「BLOOMING」という言葉は「花の咲いた~ / 花盛りの~ / 咲きほこる~」などの意味を持つ。2015年からスタートした「BLOOMING EAST」は、東京の東側における音楽の役割を探りながら、その言葉どおり「新たなる音の花」を同地に咲かせようというプロジェクトだ。このなかで重要視されてきたのが地域のリサーチと地域住民との対話。これまでにコムアイ(水曜日のカンパネラ)やコトリンゴを招いて、リサーチとフィールドワークを重視したプロジェクトを実施してきた。(参考記事:コムアイの東東京開拓ルポ 多国籍な移民との出会いから始まる調査

変わりゆく東京の風景を見つめ、今まさに消えつつある声に耳を傾けること。そのなかで音楽は何ができるのか、可能性そのものを探ること。「BLOOMING EAST」はそうした地道な積み重ねの延長上に何かを見い出そうという、リサーチ型のアートプロジェクトである。

今回のリサーチでのひとコマ

その「BLOOMING EAST」の一環として、昨年より東東京のリサーチを続けているのが寺尾紗穂だ。彼女はシンガーソングライターであると同時に、『原発労働者』や『あのころのパラオをさがして ~日本統治下の南洋を生きた人々』などの著作で知られるジャーナリスト / 文筆家でもある。2018年3月、CINRA.NETでも「BLOOMING EAST」と寺尾によるリサーチに同行したが(参考記事:寺尾紗穂が東京の東エリアを探訪。見えなくなった過去を調査する)、その後も活動を継続。この約1年の間も、継続して取材を重ねてきたという。

前回リサーチより。東京都慰霊堂にて

そうしたなかで浮き上がってきたのが、ゲルトルード・キュックリヒという一人のドイツ人宣教師の存在だった。関東大震災が発生した1923年(大正12年)の前年に宣教師として来日したキュックリヒは、「日本の幼児教育の祖」ともいわれる人物。

墨田区鐘ヶ淵の紡績会社である鐘淵紡績(のちのカネボウ)の敷地内に日本初と言われる託児所や保育園を開設し、工場で働く女工たちをサポートしたほか、同所に教会を開いて墨田区北部にキリスト教の信仰心を伝えた。そうした活動から、鐘ヶ淵の人々からは(本名は発音しにくかったため)「キックリーさん」と呼ばれて親しまれていたという。

前回リサーチより。墨田区社会福祉会館・館長の新田さんから話を聞く

戦後になると、キュックリヒは埼玉県加須市に移って戦災孤児のための施設「愛泉寮」を設立。同施設は現在も児童養護施設や特別養護老人ホームを運営する社会福祉法人「愛の泉」として存続しており、寺尾は2度に渡って加須での取材も行った。彼女はキュックリヒに惹かれる理由をこう説明する。

寺尾:一番は戦災孤児の問題に外国人として取り組んだという点において興味をひかれましたが、彼女の人生自体もまた揺るぎない信念に貫かれていて、福祉に生きた人という感じがします。ほとんどの宣教師が戦争の進行とともに帰国したり、最後は母国に帰国しているのに、彼女は加須で死ぬことを選んだ。こういう人の存在があまり知られておらず、墨田区の歴史のなかでも省みられていないんです。

寺尾紗穂 / 今回のリサーチからのひとコマ

戦災孤児とドイツ人宣教師を巡る、東東京の知られざる歴史を浮かび上がらせること。現段階において「BLOOMING EAST」のリサーチはそうしたテーマを持って進められてきたが、戦災孤児を巡るデリケートなテーマのため、取材は難航。「BLOOMING EAST」を主催するNPO法人トッピングイーストの清宮陵一はこう話す。

清宮:前回のリサーチのあと、取材対象者にアポイントが取れない時期が半年間ぐらいあったんです。初めてお会いする方に「戦災孤児にまつわるリサーチを行いたい」という意図を伝える作業が難航しました。なぜそんなことをしたいのか、何度も聞かれましたし、答えたものの、納得してもらえなかったり訝しがられたり。その連続でしたね。

そうした試行錯誤を続けるなかで、「BLOOMING EAST」の活動に賛同する協力者が少しずつ増えてきた。点と点が繋がり、線と線が結ばれるなかで、地元住民のあいだでも忘れ去られつつあった東京イーストサイドの歴史がふたたび躍動し始めたのだ。

今回のリサーチからのひとコマ

鐘ヶ淵の歴史を辿る。時代を越えて現代にも残る善意の灯

3月某日、寺尾や「BLOOMING EAST」スタッフ一行は、以前のリサーチでもお世話になった墨田区鐘ヶ淵の日本オープンバイブル教団墨田聖書教会へと向かった。ここはキュックリヒによって信仰に目覚めた住人たちの尽力により、1954年(昭和29年)に設立された教会。可愛らしい教会のドアをノックすると、石川良男牧師と妻・葉子さんが我々を迎え入れてくれた。

まずは、前回もお伺いした日本オープンバイブル教団墨田聖書教会へ

墨田区北部の歴史に詳しい文筆家でもある葉子さんは、数少ない資料や当時を知る住人たちの証言を集めながら、キュックリヒとカネボウの関わりについての調査を続けている。初めての対面ながら、困難な調査を続けるもの同士のシンパシーがあるのだろう、葉子さんと寺尾のあいだですぐさま情報交換が始まった。

葉子:キュックリヒさんは戦後、放火の犯人にされてこの地区を出て行ったという噂を耳にしたのですが、そんなことってあるのかな? と思ってたんですね。ずいぶん長い間鐘ヶ淵に暮らしていたのに、その足跡が何も残っていない。最初はとても漠然としていて、何から調べていいか分からなかった。雲を掴むような状態でしたね。

左より:清宮陵一(「BLOOMING EAST」主宰)、寺尾紗穂、石川良男牧師(日本オープンバイブル教団墨田聖書教会)

繊維産業が国の基幹産業の一つだった戦前、鐘ヶ淵はカネボウの城下町として発展を遂げた。町には女工たちが通う編み物教室やお花教室が立ち並び、工場の周りには多くの社宅が立ち並んでいたという。

だが、そうした鐘ヶ淵の栄光も長くは続かなかった。2000年代に入るとカネボウの経営悪化による解散、会社消滅により町は活気を失い、現在では典型的な高齢者の町になっている。

葉子:東京スカイツリーができてから墨田の人の流れも変わったけど、古くからの住民はその流れに乗れず、シャッター商店街が増えているんですよ。そのなかで教会が役に立てることもあるんじゃないかと思うんですよね。ちょっと疲れたときにフラッと教会にきて、少し楽になって帰っていく場所というかね。私がここに来た2000年ごろはホームレスの方もよく来たんです。

葉子さんによるキュックリヒについての話に耳を傾け、メモをとる

空襲の被害が大きかった墨田区には、かつて教会が前身となった孤児院が存在したが、それらの多くは現在、幼稚園や児童養護施設として運営されている。なかには親から虐待を受けた子供たちも多いらしく、寺尾もまた「戦災孤児と虐待児、背景は大分違いますが、子供を救いたいという人が奔走しているという点で、あのころと今、人の善意の灯は消えていないと感じますよね」と話す。

寺尾:キュックリヒは墨田を去ったわけですが、彼女から教えを受けていた人のなかに信仰心はしっかりと根付いていて、それが墨田聖書教会という形で結実したのも改めて素敵なことだと思いました。墨田という土地でキリスト教という異文化がどういう風に受け入れられていったのか、現在にいたるまでどういう人がこの教会の門を叩いたのか。教会に集う人々の顔ぶれやそれぞれ願いというものは、時代を映す鏡でもあるように思えますよね。

実際に鐘ヶ淵を探索。地図をもとに手がかりを探す

鐘ヶ淵の住宅街の一角に、コンクリートに囲まれた小さな公園があった。その名もカネボウ公園。ここはかつてカネボウの敷地だった場所で、片隅にはカネボウ発祥の地であることを伝える石碑と戦災供養塔が建っている。石碑の後ろにはカネボウと鐘ヶ淵の関係について解説されているが、キュックリヒのことは一言も触れられていない。それを見た寺尾は「やっぱりキュックリヒさんがいたという痕跡も全く残ってないんですね」とつぶやいた。

カネボウ公園
石碑に刻まれた文字を丹念に読み解く

鐘ヶ淵探索の重要な手がかりとなるのが1941年(昭和16年)の地図だ。地図上では隅田川と荒川、綾瀬川に囲まれた一角にカネボウの敷地が広がっており、キュックリヒが立ち上げた福音教会の文字も見える。地図上では工場を取り囲むように社宅が並んでおり、その場所では現在もいくつかの町工場が操業している。寺尾も目の前の風景と地図を見比べながら、「これはおもしろい。東京西部と比べると、まだまだ古い家が残っていますね」と目を輝かせる。

プロジェクトのスタッフらと当時の地図を参照する
ところどころ当時の地図から変わらずに現存する家屋が見受けられた

社宅が立ち並んでいた一角を抜けると、鐘ヶ淵駅と堀切駅のあいだを結ぶ東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)の線路沿いに出た。道端には菜の花が黄色い花を咲かせていて、春の到来が近いことを伝えている。次の場所に移動する車のなかで、寺尾がぽつりぽつりと話し始める。

春の兆しを感じる東武伊勢崎線の線路沿い

寺尾:やはり碑のような目に見える形で残す運動をしておかないと、次の世代には引き継がれないのだということを痛切に感じますよね。社史も同じで、カネボウがキリスト教精神を取り入れて良心的な経営をしていたこと、その中心に教会の活動があったはずなのに、きちんと記録していなければ、なかったことになってしまう。

価値がきちんと伝わらないまま後世の人に壊されてしまうんですよね。「きちんと残すこと、伝えること」とはどういうことなのか、書き伝える仕事をしている私自身にも突き付けられたような気持ちになりました。

カネボウ公園にあった碑の裏側。碑の由来が記されている

終戦直後の若者にとって、とても大きな存在だった教会という場所

この日最後にお話を伺ったのが、かつての鐘ヶ淵と教会の関係について知る小用行男さん。1935年(昭和10年)に墨田区押上で生まれた小用さんは、戦後まもない時期から墨田区八広の曳舟教会に通う一方、カネボウの女工だった方と結婚した。小用さんは現在83歳とは思えない快活さで、キリスト教に関心を持ったきっかけについて話し始める。

小用さん:終戦直後、宣教師が町中で聖書を配布することがあったんですよ。私の場合は浅草松屋の横でそれを受け取りまして。母親は私が3歳のときに亡くなっているし、父親は病気で、妹はまだ小学校2年生。

貧乏していたことも影響して、関心を持つようになったんです。それで寺島(現在の京島)4丁目にあった興望館セツルメント(生活向上のための社会運動と、付随する宿泊所、授産所、託児所などの設備)のなかの曳舟教会に通うようになるんですね。

取材に応じてくださった小用行男さん

当時、曳舟教会に通っていたのは平均年齢19歳という若い世代。いずれも未来の見えないなかで藁をも掴むような思いで教会へやってきた若者たちばかりだった。小用さんも生活のため牧師になろうとしたことがあったそうだが、叔父の援助を受けてメッキ業を始めることに。20歳のとき独立し、身体を壊して工場を畳むまで、がむしゃらに働いた。

小用さん:私の友人にも孤児だった男がいますけど、教会があったから救われた。私だって教会がなかったら町のチンピラになっていたかもしれないわけで(笑)。

曳舟教会と鐘ヶ淵紡績は密接な関係を持っていたようで、小用さんは「昭和27~8年かな、鐘ヶ淵紡績のグループが何人も曳舟教会を訪ねてきました」と当時のことを振り返る。戦前の女工たちを苦しめた厳しい労働環境は改善され、カネボウのなかの福利厚生施設で合唱サークルが立ち上がるなど、レクリエーションの機会も多かったようだ。小用さんと奥様はその合唱団で活動し、奥様の亡くなった後も小用さんは合唱を続けているという。寺尾は小用さんとの会話をこう振り返る。

寺尾:「教会がなかったら町のチンピラになってたかも」という小用さんの言葉は心に残りましたね。空襲こそ逃れたものの、父母を亡くした青年を支え続けた信仰というものの力を感じました。

小用さんは教会と関わられたころからずっと合唱を続けておられるわけで、信仰一辺倒のストイックなものだけでなく、それと共に賛美歌含めた音楽があったということも素敵ですね。

「人の思いが場所を越えて繋がっていくということを、偶然に導かれながら探っていきたい」(寺尾)

こうした地道なリサーチの先には何が待っているのだろうか。それは寺尾はおろか、「BLOOMING EAST」を主宰する清宮陵一ですら分からない。だが、そうしたリサーチを重ねるなかで寺尾が東東京の人たちと交流を重ね、その土地の風土に深く踏み込みつつあることは間違いはない。また、清宮によると「BLOOMING EAST」のチーム内でもリサーチに対する意識が変わりつつあるのだという。

清宮:以前はリサーチについて構えて考えていたんですけど、今は日常のなかに「BLOOMING EAST」の活動が無理なく入り込んできてるんです。「たまたま近くに寄ったからこのまえお世話になった誰々さんのところに挨拶にいこう」というように、ふらりと立ち寄る機会も増えました。

遡れば江戸の頃より負の側面を背負うことが多かったこの地域にあって、ご近所づきあいそのものがこのプロジェクトと混ざり合ってきたら、この仕組みは長く続いていくんじゃないかと思っているんですよ。こういった経験を多くの人が味わえるようになったら、それはこの土地にとっても豊かなことなんじゃないかなと思っています。

今回のリサーチからのひとコマ

寺尾もまた、「BLOOMING EAST」での活動を通じて、記録として残されてこなかった東東京の知られざる歴史を調査することに大きな意義を感じているようだ。

寺尾:孤児たちの救済について、もちろん仏教のお坊さんとして活動された方もいたとは思うんですが、今回はスタートが墨田聖書教会さんで、キュックリヒさんという一人のドイツ人宣教師の存在があった。足跡も東東京にとどまらず、埼玉の加須に及んでいます。

そこには「日本人宣教師として墨田でずっと活動してきました」というケースとは違うダイナミズムがあるような気がしているんです。これからも人の思いが場所を越えて繋がっていくということを、偶然に導かれながら探っていきたいと思います。

今回のリサーチからのひとコマ

ちなみに前出の葉子さんの話によると、キュックリヒは関東大震災の惨状のなかアサガオを育てる日本人の姿を見て感銘を受け、言葉も通じない異国の地に住み続けることを決心したという。この逸話は不思議と「BLOOMING EAST」のコンセプトにも通じている。

音楽の枠に留まらずに縦横無尽に活動する音楽家が、東東京エリアを舞台に種を蒔くように多様な人々に出会い、水を遣るように土地の歴史を深く学び、いつか大輪の花を咲かせようと取り組むリサーチ型のアートプロジェクト(「BLOOMING EAST」のウェブサイトより)

寺尾や清宮たちが種を蒔き、丹念に水を与えてきた土壌に小さな芽が顔を覗かせ始めた。いつの日か、100年近く前にキュックリヒの心を揺さぶったアサガオのように色鮮やかな花が東東京の地を彩ることだろう。

イベント情報
「BLOOMING EAST x 寺尾紗穂 リサーチ」

本リサーチは、これからも続きます。今後も東東京を軸にして、多様な価値観や文化と出会いながらプロジェクトを進めていくにあたって、お話を伺わせていただける方や訪問場所についての情報を募集しています。主に東京の東側で、戦災孤児に関する情報、戦前からあるキリスト教教会に関する情報をお持ちの方は、メールにてお寄せください。

プロフィール
寺尾紗穂
寺尾紗穂 (てらお さほ)

1981年11月7日生まれ。東京出身。大学時代に結成したバンドThousands Birdies' Legsでボーカル、作詞作曲を務める傍ら、弾き語りの活動を始める。2007年ピアノ弾き語りによるメジャーデビューアルバム「御身」が各方面で話題になり,坂本龍一や大貫妙子らから賛辞が寄せられる。大林宣彦監督作品「転校生 さよならあなた」の主題歌を担当した他、CM、エッセイの分野でも活躍中。2014年11月公開の安藤桃子監督作品「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)に主題歌を提供している。2009年よりビッグイシューサポートライブ「りんりんふぇす」を主催。10年続けることを目標に取り組んでいる。著書に「評伝 川島芳子」(文春新書)「愛し、日々」(天然文庫)「原発労働者」(講談社現代文庫)「南洋と私」(リトルモア)「彗星の孤独」(スタンド・ブックス)がある。



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