2010年代はどのような時代だったのだろうか? 振り返るにはまだ少し早いかもしれないが、この混沌と狂騒の10年のはじまりのことはよく覚えている。
<You understood so you shouldn't have fought it(君はわかっただろう、争うべきじゃなかったんだ)>と歌われる“Horchata”から幕開けるVampire Weekendの2ndアルバム『Contra』がリリースされたのは、2010年1月11日のこと。泥沼化するイラク戦争、リーマンショックに端を発する世界経済の低迷……振り返るとかなり悲惨な時代の真っ只中に、この祝祭的な音楽が鳴っていたわけだ。「カテゴライズや偏見、レッテルや先入観への疑問に突き動かされ、多文化と多ジャンル、多重構造を織り込みつつ、全米1位。それは幸福神話が崩壊した2000年代の、それでも先を示す福音のように2010年を照らした」――『snoozer』誌のインタビュー(2011年2月号掲載)の序文にこう書かれているように、『Contra』は間違いなく新しい時代の音だった。
あれから9年。『第56回グラミー賞』を勝ち取った前作から丸6年ぶりとなる新作『Father Of The Bride』が到着した。混乱の時代の終わり、新たな時代の前夜にVampire Weekendは何を描き出したのだろうか。今回、CINRA.NETでは、6人の書き手による6つの視点で本作を紐解いていく。書き手は、オロノ(Superorganism)、角舘健悟(Yogee New Waves)、辰巳JUNK、福岡晃子(チャットモンチー済)、清水祐也、田中宗一郎。2019年、もっとも優れたポップミュージックが切り取った世界の姿を、その眼と耳で確かめてほしい。
「7年前、Vampire Weekendに抱いた執着心の正体」 テキスト:オロノ(Superorganism)
VWを最初に見つけたのは2012年、冬のこと。きっかけは親父の古いiPod touchで狂ったように遊んでいたギターヒーローのアプリ。「狂ったように」、というのは、近所のゲーセンで週末になると朝から晩まで『太鼓の達人』を極めるクソガキ並に遊んでいた、ということ。遊べる曲が少なかったのにも関わらず、毎日、通学中、同じ曲達を何度も何度も聴きながら、必死に画面を叩きまくっていた。選曲は割とジャンルがはっきりとした「ロック」ものばかりで、The White Stripesの“Seven Nation Army”、The Rolling Stonesの“Paint It, Black”、Rise Againstの“Savior”、Weezerの“Say It Ain't So”など。その中に『Contra』のリードシングル、“Cousins”がぽつりと。VWは唯一名前すら聞いたことのないバンドだった。
第一印象は、「変わったバンド名、変わった歌詞、変わったボーカル、変わった構成、そしてムカつくほどキャッチーなリフ、なにこの意味不明なバンド」のようなものだった。むしろ、意味がわからなさすぎて、実際に彼らのことを検索する意思さえ全くなかった。音楽史のことを全く知らなかったにも関わらず、「1970年代に一瞬流行ったパンクバンドなんだろうな」と勝手に解釈していたのを覚えている。
いつもの様に遅くまでパソコンをいじっていたとある夜、私はついにVWをYouTubeで検索することにした。最初に見たのは“Cousins”のPVで、興奮を抑えきれなかった私は彼らの他のPV、ライブ映像、インタビューなど、隅から隅まで探った。見たものすべてが予想外で、新しいものを見つける度に(いい意味で)裏切られるのが楽しくて仕方がなかった。1か月後にはやっと『Vampire Weekend』と『Contra』のCDを両方手に入れ、その数か月後になっても必死にVWを聴き続けた。両アルバムとも、毎日少なくとも2回は最初から最後まで聴いていただろう。
一体なぜあそこまで彼らに夢中になったかは今になってもよくわからない。簡単に言えば、エズラのすべてが最高にカッコよく感じた、という理由がある。けどそれだけで野口オロノのVWへの執着心を説明できるはずがない。多分、初めてVWを聴いたときに思ったあの「は? なにこれ、なんでこんなにいいの?」という疑問に対する答えを切実に突き止めたいからなんだと思う。7年後、VWの素晴らしさについて訊かれても、なかなか上手く説明できない。というか、説明したくない。聴くだけで十分だからこそ最高なんだ、と思う。
「Vampire Weekendから香る、Peaceの世界」 テキスト:角舘健悟(Yogee New Waves)
Yogee New Wavesを始める21歳ごろ。僕は日本語というものに強く固執していて、英詞の入った音楽を聴くことができなかった。聴いていたとすれば、The Baker BrothersやThe New Mastersounds、UnderworldやSquarepusherのような、詩がメインではない洋楽。そこから海外カルチャーを吸収していたように思う。いろんな友達が洋楽を勧めてくれたのだけれど、ちっとも聴く気になれなかった。今でも、基本的にビートものじゃないと! っていう気持ちはあまり変わっていない。だが、Vampire Weekendだけは少し違った。
Vampire Weekendの音楽の根底に共通する「Peaceの香り」、これにぐっときてしまう。そのPeaceを、マッチョイズム的に解決するのではなく、自然の美しさと人の営みから解き明かそうとしている気がしてならない。あの少しヘンテコな歌い方も、バタバタしたドラミングさえもちっとも気にならない。そのくらい大きなことを彼らは音楽に昇華している。
この「Peaceの香り」が日本人のこころにすっと入ってくるのはどうしてなんだろう。ボーカルのエズラは日本のアニメが大好きらしく、実際に『ネオ・ヨキオ』(2017年に公開されたNetflixオリジナル作品)というアニメを制作したことでも知られている。日本のアニメによくある、呑気な生活のなかに突然現れる大事件。日々の退屈から脱するエスケーピズムの連続。この日々のコントラストが僕も大好きで、彼の作品にも無意識下で反映されているんだろうと勝手に妄想する。
『FUJI ROCK FESTIVAL '18』のGREEN STAGEで観た彼らのライブ。5年前くらいにアップされたライブ映像を見たことはあったけれども、実際にライブを観るのは初めてだった。映像越しに見ていたエズラは、サングラスにジージャンをまとったクールなアメリカの青年だった。それから5年が経ち、どんな表情をしているのかとても楽しみだった。まず、最初に驚いたのは、エズラの素っ頓狂なほどの自然体である立ち振る舞いだった。5年間ほどの歳月はアーティストにとって、脱皮と思考の進化をひたすらに繰り返す長い長い時間であって、彼は僕の予想をはるかに超える落ち着いた表情をしていた。そして、彼を中心に広がるようなオーガニックで平和な音の連続。
ロックを表現するとき「Pop」や「Cool」という言葉がよく使われるけれど、Vampire Weekendは「Peace」。これしか言いようがなかった。Peaceというのは、言葉に形容し難く、経験することでしか得られない面白いものだと思う。彼らのライブを見る機会があったら、是非とも体験してもらいたい。僕もPeaceを探して音楽をしている一人でもある。
今作、『Father Of The Bride』は、平和な音楽のなかでエズラの声がときに風になり、森になる。奇跡としか言いようのない出会いも、花が咲き、そして枯れることも自然の美しさであると僕は紐解く。エズラの恋い焦がれるPeaceの世界が、決してファンタジーなんかじゃないと僕は強く信じている。
「エズラ・クーニグ、カルチャーヒーローとしての肖像」 テキスト:辰巳JUNK
エズラ・クーニグはさまざまなカルチャーを引用する表現者だ。彼のバンドVampire Weekend自体、アフロポップとバロックを組み合わせたサウンド、そして意識的な「アメリカのおぼっちゃま大学生」イメージで注目を集めたなりゆきがある。新作タイトル『Father Of The Bride』にしても、製作初期に鑑賞した1991年の同名映画に由来するそうだ。
日本文化に限ってもエズラのリファレンスは数多い。新曲“2021”では細野晴臣が無印良品に提供した音楽をサンプリングしているし、「トクガワ」「ライジング・サン」といったリリックが飛び交う2010年作“Giving Up The Gun”は日本の鎖国時代を研究した同名書籍が着想源だ。
2017年には、日本式アニメを志したカトゥーン『ネオ・ヨキオ』まで製作している。ここではCLAMP『東京BABYLON』がひとつのベースとなっており、そのほかにも『らんま1/2』や『新世紀エヴァンゲリオン』のモチーフを散見することができる。
こうした多文化を引用するエズラ・クーニグの作風には「批評性」があげられる。そもそもエズラ自体が批評的な人物だ。たとえば『ネオ・ヨキオ』製作のルーツには、『ママレード・ボーイ』など1980~1990年代の日本アニメにおけるニューヨーク描写を好んで見た思い出がある。幼いながらにして他国によるホームタウン描写を意識的に楽しむなど、この時点で批評的な視点と言えるのではないか。
さらに、エズラの作品群は自他ともに認めるほど「シュール」だ。カルチャーの引用にしても明らかに「批評性」を匂わせるのだが、その意図は明かされぬまま、ゆるやかに終わってしまう「シュール」さ。このテイストがあるからこそ、ファンは彼の作品について考え論じることをやめられなくなってしまう。
もう一つ付け加えるとしたら――エズラ・クーニグの作品には、俯瞰や皮肉はあっても「冷笑」はない。「批評」的である作家にしては珍しいこのタッチは、表現者自身の哲学が反映されているはずだ。人生の憂鬱を回想した際、エズラはなんとも彼らしい人生観を明かしている。
「人生に何の意味もないのなら、そこにユーモアを見出せばいいんじゃないかって自分に言い聞かせてるんだ」(『The Sunday Times』誌、2019年3月掲載インタビューより)
いつなんどきも魅力を探りだし、楽しまんとする姿勢。それこそ、膨大な文化を愛するカルチャーヒーローの肖像なのではないだろうか。
「Vampire Weekendからの優しい招待状」 テキスト:福岡晃子(チャットモンチー済)
レコーディングの最中、宇宙で自分しか気にしていないであろう音の迷いを、延々と朝まで模索する魔のループに陥ってしまうことがある。どうして、誰も気に留めないようなことに執念を燃やしているのか? 多くの人は首を傾げてしまうかもしれない。
自身を納得させるため、現状最高の音を見つけるため探究する作業であることは間違いないのだけど、多分、聴いてくれる人への敬意がないとその執念は生まれることはない。探究をやめるのは非常に簡単なことで、一度それで納得してしまうと音楽は進化しなくなる。そうなってしまうことが、バンドにとっては一番怖いことではないかと思う。どこまで、何を燃料に、執念を燃やし走り続けることができるかがバンドであり続ける永遠のテーマのような気がする。
Vampire Weekendが自分たちの成長とともにリスナーにも新しい景色を見せようと歩み続ける様は、わたしにとって憧れの対象以外の何者でもない。バンドマンであれば誰しもが目指す背中であって欲しいけど、そんなこと気にしていない人もいるし、忘れてしまう人もいる。常に前進あるのみという綺麗事が易々と成立しないことはみんなわかっていることだけど、そこで実験や研究をやめてしまうのはミュージシャンとしては怠惰である。だから彼らも次のアルバムを作り上げるまでに時間を必要としたのだろう、と勝手に想像している。
話を戻すと、Vampire Weekendには「音楽とリスナーへの敬意」が明確にある。その意識が音作りやアレンジに大きく作用していると言い切れるほど、隅々にまで血と愛が行き届いている。曲中のすべての音が互いに抱きしめ合い、溶け合い、リスナーに優しく語りかける。そんな「いい曲」を作る彼らが私はとても好きだ。
進化を止めることなく、6年という期間で自分たちの立つステージをまた変えてしまった彼らのアルバムは、リスナーを新しい場所へ導いてくれる優しい招待状だと言える。バンドをやめてもバンドマンでありたいと思わせてくれるアーティストがいてくれることに心から感謝しているし、そういう音楽がかっこいいんだと大声で伝えられる人間になれたらいいなと思う。バンドをやめたからこそ、そう思う。
「成長小説としてのVampire Weekend」 テキスト:清水祐也
イギリス人作家イーヴリン・ウォーの小説『ブライヅヘッドふたたび』とVampire Weekendの関係について、日本で語られることはほとんどない。しかし中心人物のエズラ・クーニグはバンドの初期三部作を『ブライヅヘッドふたたび』になぞらえており、たとえばデビュー作『Vampire Weekend』の日本盤のみにボーナストラックとして収録されていた“Arrows”という曲の歌詞は同作をモチーフにしたものだし、2ndアルバム『Contra』のタイトルも、作中に登場する「コントラ・ムンドゥム(世界に対峙する)」というラテン語の台詞が由来のひとつになっている。
邦訳が絶版状態だったことも海外との認知度の差に拍車をかけていたが、1981年にイギリスで制作されたジェレミー・アイアンズ主演のドラマ版(当時の邦題は『華麗なる貴族』)が2014年に日本のケーブルテレビで放送されたことで初めて作品に触れ、その魅力の虜になった人も多かったのではないだろうか。
Vampire Weekend“Arrows”を聴く(Apple Musicはこちら)
Vampire Weekendの1stアルバムには“Oxford Comma”なる曲が収録されていたが、『ブライヅヘッドふたたび』の主人公チャールズ・ライダーは、オックスフォード大学で貴族階級のセバスチャン・フライトと知り合い、厳格なカトリックである彼の家族が暮らす宮殿、ブライヅヘッドでひと夏を過ごすことになる。
物語の前半は、チャールズとセバスチャンの同性愛にも似た友情と、彼らのキャンパスライフが描かれているが、それはどこかVampire Weekendのエズラ・クーニグと、もう一人のソングライターだったロスタム・バトマングリにも重なるものだ。ところが、アルコール中毒で自暴自棄な生活を送るセバスチャンの存在は徐々にフェードアウトしていき、物語の後半の焦点は彼の妹ジュリアと、チャールズのラブストーリーへと移り変わっていく。やがて二人はお互いの信仰の違いを乗り越えて結婚することを決意するが、そんな矢先、信仰を棄てイタリアで愛人と暮らしていたジュリアの父親が病に倒れ帰国。死の床でカトリックに改宗する父の姿を見た彼女は激しく動揺すると、チャールズに別れを告げるのだった。
時は流れ、第二次世界大戦中に軍隊に押収されたブライヅヘッドに将校として赴任したチャールズは、荒れ果てた宮殿に落胆するが、建物の奥で当時のまま残されていた教会を見つけ、過ぎ去った時を回想する。こうした感傷は、確かにVampire Weekendの3rdアルバム『Modern Vampires Of The City』にも通じるもので、作品全体を覆い、印象づけていたと言えるだろう。
Vampire Weekend『Modern Vampires Of The City』を聴く(Apple Musicはこちら)
それから6年、Vampire Weekendがロスタム・バトマングリの脱退後に初めてリリースする新作『Father Of The Bride』は、昨年クインシー・ジョーンズの娘ラシダとの間に第一子をもうけたエズラ・クーニグが花婿役となり、Haim三姉妹の次女であるダニエル・ハイムを花嫁役に迎えた、結婚にまつわる3曲のデュエットソングが軸となっている。
タイトルはヴィンセント・ミネリ監督の同名作をリメイクしたスティーヴ・マーティン主演のコメディー映画『花嫁のパパ』へのオマージュだが、歌詞を読めばわかるように、アルバム自体は同作を下敷きにしているわけではない。3曲のデュエットのうちの1曲であり、アルバム冒頭を飾る“Hold You Now”では、太平洋戦争を描いたテレンス・マリック監督の映画『シン・レッド・ライン』(1998年)から、激戦の舞台となったソロモン諸島に伝わるメラネシア語の聖歌がサンプリングされ、ラストの“Jerusalem, New York, Berlin”では、パレスチナ統治を巡る100年以上もの宗教的対立の引き金となった、1917年のバルフォア宣言について言及されているのだ。
日本盤のボーナス・トラックにあたる“Lord Ullin's Daughter”では、俳優のジュード・ロウによってスコットランドの詩人トーマス・キャンベルによる同名の詩が朗読されているが、そこでは結婚に反対する父親から逃げようとして、恋人と一緒に波に飲まれる娘が登場する。
では結局、全18曲にもおよぶ本作で、エズラ・クーニグが伝えたかったことは何なのだろう。それを読み解くことは難しいが、もしも本作が『Modern Vampires Of The City』の後日談だとするならば、『Father Of The Bride』とは死してなお子どもたちを支配しようとする因習、「ファーザー・オブ・ザ・ブライヅヘッド」であり、宗教や人種といった様々な価値観の違いを超えて結ばれようとする、現代の若者たちの物語なのかもしれない。
「人々を団結させるものは何か? 物語だ(ティリオン・ラニスター)」 テキスト:田中宗一郎
優れたポップの役割とは「時代のナラティヴ」を提示することだ。つまり、作品やパフォーマンスを通じて、受け手のすべてが現実の不条理や亀裂を認識し、誰もが解決すべき問題意識を共有できるようなナラティヴ(物語)をオファーすること。そして、未だまどろんでいる世界中の受け手を未来への想像力と行動へと掻き立て、思想や立場の違いを超えた場所でユナイトさせ、作品には書き込まれていない「結末」に向かわせることだ。2010年代後半を席巻したMCU映画(2008年公開の『アイアンマン』からはじまる『マーベル・コミック』を原作としたスーパーヒーローの実写映画化作品群)やHBOドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』といった傑作群の偉大さは、こうした文脈でこそ評価すべきなのは言うまでもない。
そして、この2019年、そうした世界的なポッププロダクトと比べるに値する徹底的な決定打がポップミュージックの世界で産み落とされた。Vampire Weekendの4thアルバム『Father Of The Bride』だ。その真価を、ソングライティング、プロダクション、リリック、曲構成と長さ、アルバム全体の構成ーーあらゆるポイントから書きつくしたい。何故なら、この作品はあらゆるパラメータにおいて破格の傑作だから。だが、字数がない。時間もない。なので、ここでは本作で提示されたナラティヴについて「本作のタイトルの解釈」という一点でのみ書きたい。1時間で書く。5分で読んで下さい。パラノイア全開でいく。よろしくどうぞ。
Vampire Weekend『Father Of The Bride』を聴く(Apple Musicはこちら)
この『Father Of The Bride』というタイトルは、1950年に公開されたヴィンセント・ミネリの映画『花嫁の父』からの引用だ。詳しくは実際の映画を見てほしい。だが、まずは想像してもらいたい。花嫁として愛する娘を送り出す際に、父親たちが感じる思いとはどんなものだろうか(筆者の娘はアリアナ・グランデと同い年なのでとても切実な問題だ。いや、ここ、失笑するところ)。
そこには相反する感情が渦巻いているはずだ。大切に育てた自らの分身がさらなる広い世界に羽ばたくという喜ばしき瞬間を、自分の命のある間に見守ることができたという最良の喜び。世界でもっとも大切なものを手放すという惜別の悲しみ。愛する娘が「果たして今よりもさらに幸せになれるのか?」という不安。おそらく、そうしたすべてがないまぜになっているに違いない。
だが、もし彼のなかに、花婿に対する不信や疑心暗鬼があった場合にはどうだろう。もし仮に、その花婿が間違いなく「悪」と呼びうるような存在だったとしたら。にもかかわらず、愛する娘はその男を誰よりも愛しているのだ。どうする? 娘を救わなければならない。父親は激情に駆られる。親族一同をすべて敵にまわしたとしても闘わなければならない。だが、そうなってしまった場合、娘にとって、世界にとって、父親は誰よりも悪魔に近い存在になりうるだろう。
ベルリンの壁崩壊から30年。グローバリゼーションが行き届いた2010年代という時代はあらゆる意味で変化のディケイドだった。テロリズム、移民問題、ブラック・ライヴズ・マター、格差経済、ナショナリズムとファシズムの台頭、文化の内向き化現象、ブレグジット、トランプ政権樹立、ブロック経済、アイデンティティ・ポリティクス革命、多様性という立場を称揚するあまりダーウィンの進化論を否定しようとする自称リベラル、黄色いベスト運動ーーいくつもの社会の膿が吹き出すと同時に、それを是正する過程でさらなる局地的な争いが巻き起こることになった。つまり、『Father Of The Bride』というタイトルは、このディケイドにおいて同時多発的に世界中で巻き起こった局地的な衝突と分断のアナロジーなのだ。
件の世界の変化は、自らの「大切な娘」を守ろうとする「悪魔のような父親」をいたるところで生み出した。世界中の父親たちはこんなふうに考えている。「自分自身の大切な何かが猛烈に脅かされている。私はそれを守るために全力で闘わねばならない」。それぞれの父親たちがどんなイデオロギーや宗教観を持っていて、どんな社会的な立場なのかは重要ではない。ポイントはたったひとつ。彼らが互いに世界のいたるところで争い始めーー改めて本作のアートワークを見てほしいーー「地球という家族」を完全に崩壊させるに至ったということ。愛がゆえに悪魔と化した「花嫁の父親」たち同士のぶつかり合い、それこそが2010年代という時代の正体ではなかったか。
そして、今、人類はバラバラになった。我々がもっとも真剣に向き合い、誰もがユナイトするに足る「気候変動」というナラティヴは隅に追いやられることとなった。かつての国境による分断よりもさらに細切れになった。果たして、この「花嫁の父だらけの世界」という混乱の時代を我々は乗り越え、新たな未来というひとつの目的の下、ひとつになることができるのだろうか?ーーそれこそが『Father Of The Bride』が提示するナラティヴにほかならない。
思い出してほしい。MCU映画『インフィニティ・サーガ』やHBOドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』が提示したナラティヴのことを。このふたつのサーガが、どちらも同胞や家族への愛や自らの信念から生まれたいくつもの正義が衝突し合い、互いに争うことで、かつてのコミュニティーがすっかりバラバラになってしまうというプロットを持っていることを。だが、やがて互いの違いを乗り越え、互いの罪を許しあうことで再びひとつになろうとする、そんなナラティヴを提示していたことを。これは偶然だろうか。日本と北朝鮮以外の国の人々の大半がこのふたつの作品に夢中になったこと自体、こうしたナラティヴを世界中の潜在意識が欲していたことの証明なのではないか。
アルバム『Father Of The Bride』は「ラップがポップになった時代へのインディーロックからの回答」と位置づけるだけでは済まされない傑作だ。これは単なる「2019年におけるもっとも優れたポップアルバム」ではない。ジャンル横断的なサウンドと、あらゆる社会属性、文化や立場の異なるクリエイターたちが入れ替わり立ち替わり加わるという集合知を最大限に活かしたプロダクションスタイルそのものが、しかるべき社会やコミュニティーのモデルになっている。60分近い間、過剰にエモーショナルになることなく、肌の温もりのような温度を保ちながら、決してシリアスにもダウナーにもセンチメンタルにもなることなく、穏やかでチアフルなフィーリングを保ち続ける理由は何故か。このアルバムは、この混乱の時代を終わらせようと、次の時代の到来を予告したアリアナ・グランデの『thank u, next』(2019年)のさらなる次の時代の扉を開く作品であり、今年最初の傑作であるソランジュの『When I Get Home』同様、自らの出自に向き合い、これまでのポップミュージックの歴史という血の轍を再訪し、有史以来ずっと続いてきた白人男性中心社会で起こった惨劇や罪の数々に思いを馳せた上で、すべての人々に語りかけようとした作品だ。
この作品は、2020年代というさらなる激動の時代に向けて、世界中の市井の人々が生きる上での指針でさえある。我々はどこの馬の骨ともしれない花婿という他者への「信頼」という受難を受け入れ、もっとも大切な娘を現実という荒海のなかに手放す「勇気」を手に入れることができるだろうか。すべての父親たちはアッセンブルしなければならない。死と戦争だけが抗するに値する敵なのだから。今、目の前に敵が待ちかまえている。2020年代における世界中の父親たちの課題は決して容易ではない。今、愛は試されている。
本稿のそれぞれの書き手が選曲したVampire Weekendの特集プレイリストを聴く(Spotifyを開く)
- リリース情報
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- Vampire Weekend
『Father Of The Bride』(CD) -
2019年5月15日(水)発売
価格:2,592円(税込)
SICP-61171. Hold You Now feat. Danielle Haim
2. Harmony Hall
3. Bambina
4. This Life
5. Big Blue
6. How Long?
7. Unbearably White
8. Rich Man
9. Married In A Gold Rush feat. Danielle Haim
10. My Mistake
11. Sympathy
12. Sunflower feat. Steve Lacy
13. Flower Moon feat. Steve Lacy
14. 2021
15. We Belong Together feat. Danielle Haim
16. Stranger
17. Spring Snow
18. Jerusalem, New York, Berlin
19. Houston Dubai(日本盤ボーナストラック)
20. I Don't Think Much About Her No More(日本盤ボーナストラック)
21. Lord Ullin's Daughter feat. Jude Law(日本盤ボーナストラック)
- Vampire Weekend
- プロフィール
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- Vampire Weekend (ゔぁんぱいあ うぃーくえんど)
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2006年、米NYコロンビア大学在学中に、エズラ・クーニグ(Vo,Gt)、ロスタム・バトマングリ(Key,Vo)、クリス・バイオ(Ba)、クリストファー・トムソン(Dr)の4名で結成。早期から注目を集め、激しい争奪戦の末インディーレーベル「XL Recordings」と契約。2008年にリリースされたデビューアルバム『Vampire Weekend』はデビュー作にして全米・全英チャートいずれもトップ20入りを果たす。2ndアルバム『Contra』(2010年)は全米チャート1位を獲得し、グラミー賞にもノミネート。3作目『Modern Vampires of the City』(2013年)では2作連続となる全米チャート1位を記録し、インディーロックバンド史上初の2作連続全米1位という快挙を達成。同作は『第56回グラミー賞』最優秀オルタナティブ・ミュージック・アルバム賞を受賞。2016年、メンバーのロスタム・バトマングリが脱退を発表。エズラ・クーニグ(Vo,Gt)がソングライター / プロデューサーとして参加したビヨンセ「Hold Up」(アルバム『Lemonade』収録)で、『第59回グラミー賞』ノミネートを獲得。これまで『Summer Sonic』『FUJI ROCK FESTIVAL』への出演を含む計7度来日。2019年、レーベルをコロンビアへ移籍し、6年振り新作『Father Of The Bride』を発売。全米チャート1位を獲得。
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