女性が女性を魅了することを意味する「ガールクラッシュ」がK-POPのガールズグループにおける主要コンセプトとして定着して久しい。ガールズグループに対する女性人気の高さは少女時代(2007年デビュー)やf(x)(2009年デビュー)、2NE1(2009年デビュー)らの頃から目を見張るものがあったが、近年はBLACKPINK(2016年デビュー)が一般的にガールクラッシュの代表格と称されるなど、その潮流が受け継がれている。
と、ここまでガールクラッシュについての具体的な説明を避けて話を進めてきたのは、筆者自身がこの言葉に引っかかりを感じているためだ。そもそも女性が惹かれる女性像というのは、当然ながら画一的なものではなく、多様であるからである。
実際にRed VelvetやTWICE、IZ*ONEなど、いわゆるコンセプトとしてのガールクラッシュに必ずしも当てはまらないようなグループが数々の女性誌で表紙を飾ったり、メンバーのメイクアップ動画を公開している現状もある。また、女性ファンがガールズグループに向ける憧れのまなざしは外見だけではない。その名も“Girl Crush”という曲もリリースしているグループMAMAMOOはパフォーマンス、そしてメンバー自身の自己表現が同性から大きな支持を呼んでいる。言うなればガールクラッシュとは始めからコンセプトにするまでもなく、それぞれのアーティストが表現を通じて示すアティチュードであり、その結果としてのガールクラッシュなのではないかと思うのだ。
今回は、コンセプトとしてのガールクラッシュに感じた違和感を切り口に、それを乗り越えていく女性アイドルたちが表す今とこれからの姿をとらえたい。
コンセプト化=「求められる私」になること? 記号化した振る舞いをすることの居心地の悪さ
ガールクラッシュに限らず、グループや楽曲のコンセプトというのは日韓問わず近年のアイドルカルチャーを語るうえで話題に上がりやすいキーワードだ。その発信源は運営元やメディアであったり、ファン同士で情報を共有する際に用いられたり、またアーティスト本人が自称するパターンもあるなどさまざまだ。ではなぜ、ことアイドルカルチャーを語るうえでコンセプトが重宝されるかといえば、物事を単純にするためだろう。
人は情報を得たり共有したりするとき、またはそれを消費するときに、ある程度の共通概念にあてはめて考えたほうが安心するものだ。また、シーンが拡大するなかで様々なグループが生まれるとともに、そのファンダムも拡大していく。大きくなったファンダム内で、コンセプトはコミュニケーションを活性化するための記号として機能する。つまりコンセプト付けとは、アーティストの本質を表すというよりも、他者に向けられた振る舞いという意味合いの方が強い。
そして自分自身を記号化して振る舞うことは、ステージに立つ者のみに限られた体験ではない。この社会に生きていれば「いま、この場所で、私が求められていること」を察知し実行せざるを得ない局面に出会う。それは家庭内、友人・恋人間、またSNS上など、一見すると自由意思が尊重されているように思える場であっても当てはまるのではないだろうか。だからこそ我々は、ある一定の文脈内での振る舞いを迫られる居心地の悪さを知っている。筆者が抱いていたコンセプトとしてのガールクラッシュに対する違和感は、恐らくそこに記号化の押し付けに似たものを感じていたからだと思う。
しかし同時に、その期待に応えなかった場合、他者と断絶する恐怖が待ち受けているがあることも確かだ。「求められる私」になることを受け入れるか、孤立するか──二択にも思えるようなこの問いに別の道筋を示してくれたのが、次世代ガールズグループITZYが先日リリースした新曲“WANNABE”が体現したアティチュードである。
2020年3月に“WANNABE”を含む新作『IT'z ME』をリリースしたITZY
「TWICEの妹分」として世に送り出されたITZYが体現する、「私がなりたい私」
ITZYは芸能事務所JYPエンターテイメントの練習生5人によって結成された。これまでにWonder Girls、MissA、TWICEと人気ガールズグループを輩出した同事務所が繰り出す「大型新人」として、また「TWICEの妹分」という枕詞とともに紹介されるなど既存グループの系譜を背景にした期待を投げかけられるなか、彼女たちはデビュー曲“DALLA DALLA”(韓国語で「違う違う」という意味)で<君の基準に私を合わせようとしないで/私は今の私が好き/私は私だよ><My life 勝手にする 止めるな/私は特別だから>と、世間から向けられていた相対評価的な視線を痛快にはねのけ、特別な自分を認めながら2019年に誕生した。
その後、次作“ICY”の<君の考えに私を合わせる気はない><They keep talkin' I keep walkin'>というパンチラインでその姿勢を強めた彼女たちが歩を進める先は、最新作“WANNABE”の<I wannabe me me me><誰がなんと言おうと私は私/ただ私になりたい>、つまり自己探求であることが示されている。
また、彼女たちの言う「私」は、社会と切り離された、浮世離れした存在や、セルフィッシュな存在としての響きを持たない。ITZYの楽曲では「私」とともに、<お姉さんたちは言う/大人になるにはまだ遠いって>(“DALLA DALLA”)、<shout out to私のママ/Thank you to 私たちのパパ>(“ICY”)、<人は他人の話をするのが好きみたいだけど 他人の人生になんでそんなに関心を持つの>(“WANNABE”)といった他者との関わり方も捨てずに描かれている。
その上で最新作“WANNABE”では過去2作と比べても、自己へ向けるまなざしがより深化している。例えばMV内において“DALLA DALLA”“ICY”ではエキストラの顔がはっきりと捉えられているのに対し“WANNABE”では他者(エキストラ)の存在はありながら、ダンスフロアのような場所でメンバー・イェジの周りを取り囲む人々の顔はマスクで覆われている。 また“WANNABE”でハイヒールを脱ぎ捨て、裸足でランウェイを歩くユナは無数のフラッシュを浴びるが、彼女を撮影する観衆の顔は各々が掲げるスマートフォンによって隠されているのだ。「社会の中の私」の視点はそのままに、作品を通じて段階を経ながら、彼女たちの自己探求の深まりが実直に提示されているように感じる。
“WANNABE”を収録したITZYの新作『IT'z ME』(Apple Musicはこちら)
観衆に囲まれランウェイを歩くユナがスマートフォンのインカメラに写る自分を、そして一人きりでトイレに佇むリュジンもまた鏡に映る自分を見つめている姿からは、どんな居場所に身を置こうともそれぞれの立場で「私が求める私」をまなざすことが表されている。それゆえに、K-POPという巨大なショービジネスの渦中に身を置く者として発する<No matter if you love me or hate me, I wannabe me one and only me>(愛されようと嫌われようと、私はたった一人の私になりたい)という言葉の切実さが、社会において在るべき姿を求められながら生きざるを得ない全ての人々の心に共感をもたらすのではないだろうか。
「等身大」や「ありのままの自分で」という自己肯定感とも異なる新鮮な響き
今のところ、他者の主体性も尊重しながらあくまで現実的に「私が求める私」を求め続けている彼女たちの<I'mma do my thang, Just do your thang>(“WANNABE”) というステートメントは、相手を突き放すものではなく「あなたはあなたのすべきことをすればいい」という愛情をはらんでいることに気づかされる。自分自身の主体性を切実に求めることは、翻って他者の主体性を尊重することにも繋がるのだ、と。
“WANNABE”の作詞曲を手がけたプロデューサーチームGalactika*のインタビューによれば、本作のインスピレーションは“DALLA DALLA”のレコーディング時に「(これから)どんな歌手になりたいの? ロールモデルは誰なの?」と聞かれたメンバーが「私たちは私たちになりたいです」と答えたことにあるという。
K-POPがシーンとして拡大するなか「大型新人」「TWICEの妹分」といった立場を求められながらデビューした彼女たちが、記号化や断絶でもなく「私が求める私になる」ことを作品を通して表明したことは、「等身大」や「ありのままの自分で」という自己肯定感とも異なる新鮮な響きを持つ。
TWICEやITZYらを育てたパク・ジニョンのビジョンを反映させた新プロジェクト『Nizi Project』
思えば、「K-POP」も一つの記号だ。韓国では自国の大衆音楽のことを「가요(カヨ、歌謡)」と呼んでおり、我々が言うK-POPとはもともと海外向けの言葉として生まれたものだったからである。
しかし最近では、韓国のオーディション番組『PRODUCE 101』シリーズの日本版が輩出したグループJO1は、日本人メンバーによって構成され日本を活動拠点としながら、楽曲や振付、MV製作には韓国のクリエイター陣が参加しており、また「応援広告」などのファン活動もK-POP的側面が大きいことから「J-POPかK-POPか?」という議論も呼んでいる。K-POPのカルチャーが日本のシーンに流入され新たな現象が生まれることで、従来のカテゴリー分けが揺さぶられている。
K-POPから生まれた新しい現象という意味でいえば、1月からHuluで放送中のオーディション番組『Nizi Project』(通常「虹プロ」)も同様だ。この番組はTWICEやITZYを擁するJYPエンターテイメント主催によるガールズグループのオーディションに密着するもので、参加資格として国籍は不問ながら日本語のコミュニケーション能力が求められており、新グループの活動拠点は日本であることが予定されている。
TWICEやITZYらをスターダムへ導いた同事務所の創業者で音楽プロデューサーのJ.Y.Parkことパク・ジニョンは、2007年の時点で「韓流文化だからといって必ずしも韓国人が歌う必要はない」「これまでは映画、ドラマ、音楽など韓国のコンテンツを海外に出したが、これからはシステムを輸出しなければならない段階だ」と語っていたが、『Nizi Project』は同氏による長年のビジョンを反映させたプロジェクトといえるだろう。
求めるのは「自分の声・表情・個性で歌って踊ること」
そんな『Nizi Project』で印象的なのは、全くの未経験者からJYPなど韓国芸能事務所の練習生まで多様なバックグラウンドを持つ参加者に対し、パク・ジニョンが「自分の声・表情・個性で歌って踊ること」を強調して求めている点だ。
例えば、JYP練習生として参加した山口真子が「自分のコンセプトをまだつかめていないことが悩み」と語ったのに対し、同氏は「コンセプトは必要ない。僕たちは皆もともと特別だからです」という言葉を投げかけた。その後、このアドバイスを受けた山口が披露したダンスに「僕は山口さんをよく知らないけれど、とても一生懸命に生きている人なんだと感じました。人は長く見てみないとわからないけれど、山口さんは成功しても人として変わらないと思います」と評価している。
ここで気づかされたのは、ダンスや歌はアーティストのアティチュードを表現する手段であるという何ともシンプルなことだ。もちろんこの考察はパク・ジニョンのコメントから読み取ったほんの一例であり、多様に存在するアーティストの指針を定義できるものではない。しかし、もともと特別な自分を認めたうえで、それを外へ表すテクニックを身に付けていく『Nizi Project』の参加者を見るうち、周囲から期待されるコンセプトを乗り越え、表現を通じてアティチュードを体現していくK-POPガールズグループの姿と重なっているような気がした。そのアティチュードは「いま、この場所で、私が求められていること」ではなく「いま、どんな人が、どんな私になっていくか」という点で共鳴する。彼女たちはまだ先輩たちのようなアイドルになる前の段階だとしても、「あえて何かになる必要はない、私はただ私の時が完璧」(“WANNABE”)なのだ。
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