―最近PARTYが手掛けた作品では、1人の少女の成長をマルチスクリーンの映像で追ったSony「make.believe」のCMが話題になりましたね。デジタルな表現でありながら、肉体を持った生身の人間による「体験」が伝わってくるような、不思議な感覚を視聴者に与える作品でした。
Sony「make.believe」CM
ソニー が打ち出したブランドメッセージ「make.believe」 のテレビCM。伊藤直樹がクリエイティブディレクターとして企画し、200台以上のSonyの商品と、70人以上が参加したパフォーマンスを1カットで撮影した。デジタルとアナログを併用し、ある女の子の「ものがたり」を描き出している。
伊藤:我々PARTYは「物語技術の研究所」と名乗っていて、人々の「物語性」や「体験」を重視した作品制作を行っているんです。「デジデジし過ぎないデジタル表現」とでも言いましょうか。
―「デジデジし過ぎないデジタル表現」ですか。ユニークな言葉ですね。
伊藤:僕は高校で文学に目覚めた遅咲きの文化系なので、根は肉体系なんです。「三つ子の魂百まで」ではないですけど、その感覚が今になっても抜けないんですね。だから、デジタルな表現にも身体的な感覚をどこかに注入したくなるし、それが自分の取り柄だとも思っています。それをさらに突き詰めていくと、「タンジブル(触知可能)」という発想に行きつくんです。
―「タンジブル」とは、どのような表現なのでしょうか?
伊藤:デジタルコミュニケーションには、大きく分けて「デジタル空間だけで完結するもの」「AR(拡張現実)など、感覚をデジタルにより拡張するもの」「デジタルからリアルの身体性に戻すもの」の3種類があります。最後の「リアルの身体性に戻すもの」がタンジブルです。
―なるほど。具体的なものだと、例えばどういったものになるのでしょうか。
伊藤:例えば野球をしていた人にとってホームランを打った時の感覚は忘れ難いものがありますが、そういったものをシェアする表現も技術的には可能になりつつあります。イチロー選手のバットにチップを埋め込んで、ボールが芯にあたる感覚を再現するなんてことも面白いかもしれません。
―デジタルを通じれば、そういった他人の感覚を共有できるんですね。
伊藤:そうですね。ただ、デジタルは確実にイノベーションを起こす技術ではあるけれど、「デジタルありき」で物事を考えると、「デジデジし過ぎる表現」になってしまう。あくまでもデジタルは、アイデアを飛躍的に良くする「ふりかけ」のような存在であって、それ自体が主役になるものではないんです。
―つまり重要なのは「アイデア」だということでしょうか?
伊藤:アイデアもそうですが、それが生まれてくる土壌は「ライフ」なんです。僕はPARTYのスタッフに「ノーライフではマズい」と言っているんですが、クリエイティブなことをしたい人は、とにかく表現欲求ばかりが高まってしまって、生活をないがしろにしてしまうことも多いですよね。それが原因で恋人と別れてしまうなんて人も多いじゃないですか。でも本当は、「ライフ」がしっかりしていなければ、身体性に根ざしたクリエイティブは生まれてこないんです。だから、ただ単にデジタル技術を見せびらかすのではなく、新しい技術により新しい物語を生みだすことではじめて、人は感動するし、「こんなのなかった」と驚くんです。
―アナログな感覚を失ってしまっては、感動を呼ぶモノ作りは難しいんですね。
伊藤:アナログとデジタルの両方を圧倒的に肯定する感覚が、新しい道を切り開くのではないかと思っています。例えば、伝統工芸には伝統工芸の良さがありますよね。その良さを深く突き詰めて理解する一方で、デジタルイノベーションの力を信じるという「2つの人格」をこれからのクリエイターは持つべきだと思います。
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