「フジワラノリ化」論 −必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考− 第5回 優香 其の五 まとめ:優香の死に方

其の五 まとめ:優香の死に方

とにもかくにも、この連載のテーマとなっている藤原紀香の離婚について触れておかなければならない。当初の予定を変更致しまして、というやつだ。陣内智則と藤原紀香が離婚した。主な原因は陣内の浮気だと言われている。そうならば、そうなのだろう。この連載的に注視しておかなければならないのは、その離婚届を預けた藤原紀香は赤十字の広報特使としてケニアのナイロビを訪問していたという事実であろう。本来、離婚とか結婚の類いは、当人が会見を開く開かないに関わらず、何かの最中に行われるものではない。区切りの良いタイミングを待つ必要は無いが、わざわざアフリカへ行っている間にする必要性は更に無い。この時期を設定したのは意図的だったとすべきだろう。飛行場の帰国ロビーで取材を受けた藤原紀香は、アフリカでは生きるか死ぬかの狭間にいる子供達が……という、恐ろしく紋切り型のコメントを笑顔で放った。結婚もしたことがない自分に、離婚とやらの流れは分からない。だが今現在、今件について、10割という完全な割合で陣内に非があることになっている。果たしてこういう離散に10割ということがありえるのだろうか。藤原紀香にも責任があんじゃねーかという話ではない。離婚という結論が目の前にあって、それをアフリカのタイミングに置く。そして帰国会見で、ネガティブな方向性から反転するように「それどころではない」と笑顔で熱弁する、これが藤原紀香、そして「フジワラノリ化」なのである。思わず手を叩いた。あっぱれ、である。階段を、また登ったのだ。

第5回 優香

まとめの論考を「優香の死に方」と題してみた。ある転機に死なない作法を身につけておかなければ、はやり廃りというもんは、どんなタレントであろうと直接降り掛かってあっという間に消えてしまうものなのだ。若槻千夏が一瞬いなくなり戻ってきたらそこには木下優樹菜がいた。大沢あかねがいた。ならばと少々グレードアップしてバラエティの司会業やお笑いタレントの横を狙おうと持ったらそこにはベッキーがいた。一度縮んでしまうと、やはりバネがだらんと伸びてしまうものであって、もう一回強引に伸び縮みを見せつけても、やはり鮮度が落ちているのだ。藤原紀香や篠原涼子のように、やや停滞した時期を持ちながら再浮上したケースは稀であって、明日は大丈夫でも明々後日辺りは分からない世界なのだ。

優香も例外ではない。初回の論考で「優香じゃなくても良いじゃんをやるのが、優香なのだ」と書いた。勿論、今でもその考え方に変わりはない。その在り方というのは、比較的飽きられずに済む在り方である。言うならば、既に、常に、飽きられている存在でもあるのだ。飽きられても「飽きた」という状態が続いているのだ。優香が出てきたからといって優香だっ! と興奮することはない。この興奮の低さは人気がないから、ではない。むしろ、加点なのかもしれない。ユッキーナが出てくれば、興奮する。旬の食材を適宜提供してくれた嬉しさである。お客さん、今日はこんな新鮮なのが入ってるよ、という興奮に基づく需要と供給だ。しかし、寿司屋に旬の食材だけがあっても仕方がない。定番があれば、つなぎの一品も必要だろう。優香というのは、実はどの「品」でもない。掲げる看板がない。こういう時にはこれ、で優香は出てこない。むしろ、ひとまずこれ、或いはとりあえずこれ、なのである。中継ぎ投手のように、とりあえず保たせておくに真っ当な人選なのだ。その「保持」能力は、ちょっとした鮮度を悠々と凌駕する。優香の強度はもうそこしかない。優香が出てきたからといって優香だワーキャーとはならない(女性ファッション誌に優香があまり呼ばれないのは、そのワーキャー度の需給関係が合致しないからだろう。要するに驚けないのだ)。女性タレントの人気って、ワーキャーと比例するはずなのであるが、優香は違う。それは何と近似するかとなれば、むしろ、キチンと山を通り過ぎたお笑い芸人の嗜みに近いのである。一発屋芸人ではなく、落ち込みつつも谷底には落とされずに淡々とお笑いを続けているタイプ。優香の消費というのは、そういう「淡々さ」に支えられている。くしゃっと笑う。グヒヒと声を鳴らす。その行為に鮮度はない。でも食べる、そういう消費体系だ。

志村けんって、真面目な顔で話し合ってしまえば、面白くないわけである。しかし、面白いかどうか語り合ってはいけない所にいるのだ。それだけの地位にいるから、ではない。よく噛んで味が染み出るタイプではないということだ。片手間感と言ってみようか。「腕がある」というような、その○○を保有してはいないのだけれども、その○○に当てはめることが出来る何かを持っていたとしても、それは別に単に今、フィットしているに過ぎないのであって、今が過ぎれば明日が問われてしまう。ドリフ時代、志村けんと加藤茶は「うんこチンチン」という端的な掛け算で子供の笑いをとった。とても、軽い。軽さというのは、優香に通底している言葉である。しかし、軽さを前にしてそれが受けたのであれば、今度はその軽さを徹底的に放射していく。志村けんは今でも、自身のコント番組で、トイレに入っれウンチしたらゲリピーだったみたいなネタをやる。本当は、もういいのである。でも、もういいという声に従うのは、良くないのである。視聴者というのは面倒だ。あれば無しにしてくれと言うし、無くなればやっぱやってくれと言う。志村けんというのはそういう存在だ。志村けんに慕われる優香であるが、優香の引き続き方というのは、この志村けんの延命方法に近接するのではないかという読みがある。

王様のブランチから小林麻耶が卒業し出水アナになった時、格落ちした感触は否めなかった。例えばそのブランチの司会が優香から大沢あかねに変わったとする。本来はとんでもない格落ちなのだけれども、実際の感触としては何にも感じないような気がするのである。優香という存在は誰とも代替可能だろう。それでも代替しないのである。それは志村けんと同じようなことだ。物事を座標軸で測るにはその中心点に極めて平均的で安定しているその物事の基軸がいなければならない。その中心点の存在を考えずに、人はその座標軸を読もうとする。しかし、それは「読めた気がしている」にすぎないのだ。志村けんや優香は座標軸の真ん中にいる。お笑いの、であり、女性アイドルの、である。座標軸は語られることがない。誰かを語ろうとする時、人は、その座標軸から置いてけぼりにされている人、飛び跳ねて出て行く人を語ろうとする。

優香は泳ぐ。語られない分、誰でも代替できそうな分、自由に泳ぎ渡る。泳ぐ際に、どこへ向かって泳いでいくのか、何を着て(或いは何を強調して)泳いでいくのか、誰と泳いでいくのか、その詳細はまだまだ見えてこないけれども、泳ぎ続けることだけは分かるのだ。しかも、どんなにアクロバティックに泳ごうが、座標軸の真ん中周辺から外へは泳いでいかない。遊泳禁止区域にわざわざ足を踏み入れはしない。それがこれからの優香のモットーになるはずだ。優香はどうやって死んでいくのか、これはもう、「死んだふり」以外はあり得ない。浅瀬で溺れた振りをするのだ。ヘンテコな結論だが、優香が朝起きて「今日も優香を頑張ろう」と少しでも思っていれば、優香は死なないのだ。これからも優香は、「語られずに」テレビの中を動き回る。想定の範囲内で動き回る。いつまでもいつまでも。未だ、志村けんがトイレでゲリピーをやるように、優香はなんとなくそのままに、くしゃっと笑い、グヒヒと声を鳴らすだろう。



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