其の三 「なぜ、光一を「相方」と呼ぶのか
Kinki Kidsを考える上で最も重要なのは、彼らが互いを「相方」と呼び合うことだと思っている。「いや、うちの相方がね」と、一方がいない時に相手を指すようにも使うし、「じゃあそれは相方から」と、そこにいる時も「相方」を使う。ご存知「相方」とは、お笑いコンビがお互いを呼び合う際に使われるのが一般的である。相方には、旧来、遊郭で性的サービスをしてくれる女性のことを指す意味があるようだが、まあそれはいい。とにかく、アイドルが使う名称ではなかったはずなのだ。ミュージシャンならまだ無難だろうが、それでも2人組のミュージシャンがこう呼び合うのを聞いたことが無い。松本さんは「稲葉君」と呼ぶし、稲葉君は「松本さん」と呼ぶように。実際、「相方」という言葉って、そんなに実生活に具体的に登場する言葉ではないのかもしれない。男が、結婚した奥さんを「連れ」と呼ぶことがある。とはいうものの、本当に「いやあ、ウチの連れがね、」と話す男はあまりいない。しかし、その響きはどうしてだか体に染み込んでいる。「相方」も同じようなものである。「相方」と発するやり取りを、あちこちで見かけているわけではないのだ。
むしろお笑い芸人にとっても、やや風化した言語だという気がする。文章記事として「相方・○○が」という使い方を用いる機会はあれど、「うちの相方がやなぁー」と話をする場面にはあまり出くわさない。矢部は例のイントネーションで「岡村さん」と言い、松本は「浜田が」と乱暴に言い、石橋は「憲武が」と下の名で呼ぶ。あるとすれば若手コンビで、それは何だか「お笑い芸人プレイ」というか、芸が板に付いていないからこそ「相方」と呼んでしまえるように思える。「相方」という呼び方は、2人の距離を密接にするように見せかけて、ホントの所は遠ざけている。Kinki Kidsの仲が良いか悪いかをここで予想しても何の意味もないので控えるが、お笑いにおける「相方」にはプロ意識の獲得という意識が忍び込んでいる。だが残念なことに実際は、若手芸人が「相方」を繰り返す度、何だか素人っぽさが増幅していく。お笑い芸人っぽいことをやっている素人たちに見えてくるのだ。
Kinki Kidsの2人はどうして互いを「相方」と呼び合うのだろうか。考えられるとすれば、アイドルという閉鎖性なイメージからの脱却と、ジャニーズにおいて稀少なコンビグループとしての特徴付けのため、この2点である。まず、アイドルのイメージからの脱却としての「相方」を考えてみる。SMAPはメンバー間を「君」付けで呼ぶことが多い。木村君、草なぎ君、或いは、慎吾ちゃん、と親しげである。TOKIOはもうちょっと体育会系というか、リーダーを除けば呼び捨てが多い。Kinki Kidsを飛び越えて、もうちょっと若手を見ると、君付けも呼び捨ても混在している。つまり、呼び方に統一方針を持たずにいる。そもそも気にしていないのだろう。SMAPは確実に気にしているし、TOKIOもチームワークの見せ方を考え抜いている。Kinki Kidsが「相方」を使うのは、その近しい先人たちのコピペと思われるのを防ぐ意図があるのかもしれない。
仲は悪くないけど、決して強固なチームではない。「2人で一緒にやっていけるしこれからもずっとやっていこうとは思っているけれど独立したってやっていける自分と相方の構築」のために「相方」を使う。そして、コンビであることを明確化する意味もある。ところで唐突だが、タッキー&翼は失敗に終わったと考えていいだろう。各々がそれぞれに個として人気のある状態だった2人を、(コンビ名をつけずに)「&」で足し算したタッキー&翼には、コンビである必然性が決定的に欠けていた。滝沢がカッコいいとされる文脈に今井翼は絡んでこないし、今井翼がカッコかわいい(不可思議な言語だ)と愛でられる環境に滝沢がどうだからという前振りは無い。「&」で繋がっているが、「&」はいつでも切り離せる仕組みでもある。しかし、こちとらKidsである。2人で一つの名前なのだ。少年隊のようにトリオ編成であれば、例えばイケメン、ムードメーカー、ほのぼの系と役割分担をすれば済むのだが、コンビでは役割を背負わせることで分類していくのは難しい。だからこそ「相方」という呼び方を浸透させることで、Kidsは「&」では出し得ない連帯を外に向かって見せつけたと考えることができる。
Kinki Kids(の周辺)は、タッキー&翼より、むしろWaTを意識せざるをえないだろう。ウエンツ瑛士と小池徹平のコンビは、とにかくバランスが良い。ウエンツの適応能力は「男ベッキー」とは褒めすぎかもしれないが、その場面ごとに今見せるべき所作を正確に勘ぐっていく。ジャニーズのお笑いは、その多くが、その当人を信奉しているという前提に酔いしれているにすぎないのだが、ウエンツのお笑いセンスは、お笑い芸人のやり取りに放り込んでも過不足ない勝負を繰り広げてみせるほどだ。相方の小池徹平は丸の内OL辺りが一斉に飼いたがるような可愛らしさを持っていて、捨てられた雑種犬のようなウルウルした大きなお目めで集客する。ウエンツの切り込みと小池の集客、WaTはコンビとしてアイドルをやり遂げる作法とポイントを自力で体得しようとしている。
堂本剛と堂本光一は、もはやコンビではないのかもしれない。それこそタッキー&翼のように、「&」くらいが似合う。それは仲がどうのと言った感情論ではなく、彼らが目指そうとしている方向性が明らかに違うからだ。堂本光一は、王子様、その後自虐ネタに走り、ある種、ジャニーズというシステムに院政を敷こうとしかねない気配がある。一方、堂本剛は、アイドルである自分と、個人としての自分、そのギャップに対して深入りするようになった。自身でパニック障害だったと吐露したり、手を変え(品を変えずに)名を変えたプロジェクト行ったりと、そのそれぞれから見えてくるのはコンビ芸からの逃走である。だからこそ今、Kinki Kidsにおける「相方」との呼び合いが、窮屈な印象を与えてしまっている。この呼び方を止めたほうが良い、そう提案してみる。次回は、「Kinki Kidsからの脱皮は、進化か消耗か」と題して、今挙げた、堂本剛の、個人としての企みに照射される違和感を探りにかかりたい。
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