「フジワラノリ化」論 第8回 堂本剛 彼は“本格派”なのか 其の五 まとめ:正直しんどいのか、しんどくないのか

其の五 まとめ:正直しんどいのか、しんどくないのか

SMAPが苦しんでいる。人気は安定している。しかし、その安定した人気が、一切の拡大を呼ばなくなったという状態にあるのだろう。木村拓哉のナルシスティックな様はあらゆる羨望が自身に集中した上での立ち振る舞いである以上許されるべきとは思いつつも、やや度を超えているように見えるし、元気なキャラでSMAPのテンションを引っ張っていた香取慎吾も、それ相応の加齢を経て、落ち着く場所を探し彷徨っている。そんな中、従来のキャラクターを引きずった「こち亀」の両さん役をやったら、これが大コケ。よく知らんけども、SMAPをブッキングできれば安心という、その先のクオリティまでに頭を及ばせない作り方がそれなりに機能してきたのだろう。おまえ、よく慎吾ちゃんをブッキングできたな、これでもう安心だぁ、カンパーイ、というような。国民的アイドルという称号が最も似合うのは、SMAPだった。

しかし、国民的アイドルとは、何をもってそう呼ばれるべきなのか。それは、CDが売れるとか、ドラマの数字がとれるとか、そういった数字で示されるものではないと考える。個人的な定義はこうだ。「ただそこで何かさせているだけで大丈夫」ということ。「SMAP×SMAP」という番組が正にそうだった。料理を作らせて、「できたー」、どっちがおいしいですか、こっちかな、「やったー」というこの構成が許されたのは、彼らが国民的スターだったことの証明である。放送作家の作った通りにコントを演じれば、SMAPって笑いもイケると評価され、メンバーの誰それが逮捕されれば、番組の中でその謝罪を劇画ちっくにやらせてしまう。「ただそこで何かさせて」おけば、もう安心だったのである。ブッキングしただけで乾杯できたのは、その安堵感があったからなのだ。しかし、今はその限りではない。定義にあてはめていくとそれが許されるのは、SMAPではなく嵐である。休日の昼過ぎにやっていた東京フレンドパークの真似事のような番組もゴールデン枠に移行するようだし、かつて、木村、中居、香取辺りが一緒に映っている時に感じた「今日はみんな集まってる」という稀少感を、松本、二宮、桜井辺りに感じないこともない。SMAPが、先輩としての愚痴と過去の残像を掛け算させた少年隊のような生き残り方をするのか、いっそのこと解散させてしまうのかは分からないが、「SMAPの譲り方」は、ジャニーズというファミリーツリーの保ち方の今後に大きく関わってくることだろう。

グループではなくコンビということもあろうが、堂本剛にはKinKi Kidsという屋号に固執しようとする気配があまり感じられない。むしろ、外へ出て行く意識が強い、それはこれまで述べてきた通りだ。これもやや繰り返しになるが、彼に降り掛かっている問題とは「オレって誰よ、という問いかけをし続けるオレを見てて欲しい」という厄介な宣告に対してファンがどこまで付き合っていけるかである。じっちゃんの名にかけてジャニーズに心酔するファン以外に新規開拓が成されていない現状に、どのタイミングで堂本剛が気づけるかである。「新・堂本兄弟」を観ていると、そこでの堂本剛の振る舞いは、意識的に丁寧なパフォーマンスを排除しているように思える。どこに連れて行かれて何をさせられてもジャニーズとしての所作を難なくこなさなければならないこの住まいの作法に逆らっている。逆らっているとはいえ、それはとりわけ攻撃的なものではない。無愛想とかテキトーとかではなく、振る舞いが「口べたなミュージシャンが必死にトーク番組でテンション上げてます風」なのだ。こいつら身内みたいなもんだし、だから、おれ、結構、テンション上げて喋れてるけど、というような。番組進行は基本的に光一が担っていく。堂本剛は足を組みながらちょっと斜に構えた臨み方をベースにして、光一がオジサンキャラで笑いを取り終えた頃に、興味なさそうな感じを守りながら前に出てきて会話を繋いでいく。テンションを、その場にいる高見沢やブラザートムらのファミリーが守っていく。テレビというより、ロックバンドが慣れないラジオをやっているような感じ。愛想のある笑いは取れないが、身内ネタを注いで、支え合って強引に盛り上げていく、その手のラジオに近い。KinKi Kidsに挟まれたゲストは、それが相応の年齢の人であっても、何故だか恐縮しているように見える。自分の左右で「相方が」とやられるからそりゃ当然だろうが、それよりも、この場の、このファミリーのルールにどう付き合えば正解なのかを模索しなければならない緊張感と、その緊張感を決してほぐさない、堂本剛のミュージシャン風の無愛想がその緊張に拍車をかけてさせているのだ。

「フジワラノリ化」論 第8回 堂本剛

同じ無愛想でも、その無愛想とやや異なっていたのが「正直しんどい」という番組だろう。その回ごとのゲストとゆるゆると街歩きをしたりする番組なのだが、ポイントは、そのVTRがたまに止められて、そのVTRを観ている堂本剛に移り、「これはさー」と一言付け加える場面。割とクラシックなやり方でスタッフいじりをしたり、随分とテンションがあれですね、と自己分析をしたりする。あるファミリーの中でそれなりにテンションをあげていこうとする無愛想が「新・堂本兄弟」だとすれば、個に立ち返った無愛想をそのままに吐き出したのが「正直しんどい」である。「正直しんどい」というのは、その前に「ハツラツとアイドルやっていますけども、」が頭につくのだろうか。ハツラツとアイドルやってますけども、正直しんどいんです、というのがこの番組の動機だとしたら、この番組の役割はもう終わっている。なぜならば、正直さぁと吐露されなくても、そのしんどさを前に出してくる堂本剛にこちらがもう慣れてしまったからである。もっと言うと、飽きてしまったからである。「正直しんどい」はこの9月で終わり、10月から「24CH△NNEL(ツヨチャンネル)」が始まるという。ニュース記事をそのままひっぱると、「剛が毎週、人生の中でかなえたい100項目をクリアしていく。『見てくださる方々にたくさんの希望を与えられるようまっすぐに楽しみたい』と抱負」とのことだから、ゆるゆるを見せてアイドルから脱却した(と自分で思っている)段階で、今度は、自由に「オレって」という自己を積極的にブラウン管に通しちゃって構わないと判断したのだろう。自分の喋り方、歩き方、食べ方、悩み方、それらが誰かの手助けになると思い込まなければ、一つのテレビ番組のスタートにあたって「たくさんの希望を与えられるように」というような、捻りのない発言を残すことはできないはずなのである。

彼は多分、まだまだ、自分という「個」を押し出してくるだろう。自分にまとわりつく構造をシンプルにして「個」に絞れば絞るほど、自分の命は長くなると信じていることだろう。しかし、それは違う。彼の「個」の発散に付き合っているのは、「コンビ」であり、「グループ」であり、「個」より「コンビ」として映る堂本剛に寄り添いたがるお客さんなのである。それは揺るぎようのない事実である。自身が自分と葛藤して「これからは『個』でいいんだ」という結論を強めれば強めるほど、今度は、今まで見守ってきた側の葛藤が始まり、強まっていく。堂本剛には、どうやらその危惧が欠けているように思えてならない。その危惧が具体化する日は遠くないのではないか。「個」を導く為に、本格派を気取り、従来のアイドルから脱却しようと試みる彼は、その過程において、まず何を失ってしまうのかに考えを及ぼさせるべきだ。生臭い忠告だが、このままでは彼は現在のファンを取りこぼしていく。それは、正直な所、彼にとって、しんどいことではないだろうか。



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