高校生のときに2人組ユニットRYTHEMとしてメジャーデビューを果たした新津由衣さん。その後、紆余曲折を経てソロプロジェクトNeat'sを始動させ、現在は音楽活動のみならず、アートワーク全般、映像の編集、そしてCDのプロモーションや販売までをも手がけるDIY型アーティストとして精力的に活動をしています。とにかく「もの作り」が大好きで、自分自身を表現するためならフォーマットを選ばずなににでもチャレンジする、華奢で繊細そうな見た目からは想像もつかないほどのバイタリティーは一体どこから生まれてくるのでしょう。その秘密を知りたくて彼女のスタジオを訪ねました。
テキスト:黒田隆憲 撮影:豊島望
Neat's(にーつ)
元RYTHEMのボーカル&キーボディスト、新津由衣によるソロプロジェクト。 作詞・作曲・編曲のみならず、アートワークや作品のディストリビューションも自ら手がけるDIYな活動も話題になっている。バンドスタイルでのライブと並行して、"Bedroom Orchestra"と称した、ループマシーンやサンプラーを駆使した独奏スタイルのライブも精力的に行っている。
物心がつく前から家庭内に溢れていた、
「もの作り」ができる環境
父親がクリエイティブな仕事をしていたこともあり、物心がついた頃にはすでに「もの作り」をしていたというNeat's。母親に連れられ、近所の絵本作り教室に体験入学したのはわずか3歳の頃でした。「スーパーマーケットで買ってもらった、お気に入りの星のキーホルダーが突然しゃべりだし、ひとりぼっちの主人公『ユイちゃん』にとって唯一の友だちになるも、最後は宇宙へ帰っていく」という、大人顔負けのストーリーをその頃にはもう作り上げていました。
Neat's:あの頃、家の壁には常に模造紙が貼り付けてあって、絵を自由に描かせてもらっていました。むしろ「描け、描け」とすすめられていましたね(笑)。小さく絵を描いていたらダメで、(壁の)端から端まで使って「とにかく大きく描け」って。4歳になると、エレクトーンを習い始めました。家にあったエレクトーンを母が演奏しているのを聴いたり、自分でも触ったりしているうちに演奏したくなってきて。気付けば鼻歌で曲も作ってました。家族で車に乗っていると、よく「しりとり歌合戦」をしていたんですけど、既存の歌が思いつかないときには即興で作曲していました。初めて作ったオリジナル曲は、しりとり中に「よ」がまわってきたときにとっさに作った「ようかんの歌」です(笑)。
音楽を作るきっかけとなったのは、
父親が「天才」と呼んだ同世代のアーティスト
日曜日になると、家ではクラシックをはじめ、井上陽水や松任谷由実、ビートルズ、スティーヴィー・ワンダーなど「古きよき名曲たち」が必ず流れ、それを当たり前のように聴いていたNeat'sは、いわゆる流行りの歌謡曲などを積極的に聴くことはなかったそうです。小学生になると、同級生たちはみんなアイドルの下敷きなどを競って持つようになりますが、そういう文化には全く馴染めず、学校が終わるとまっすぐ家に帰って絵本を描く毎日でした。
Neat's:エレクトーンは習っていたけど、まだその頃は絵を描く方が好きだったんです。音楽を本気で好きになったのは、中学生のときに、宇多田ヒカルさんを聴いたことがきっかけです。父がCDを買ってきたんですよ、「天才が現れた」って。流行りの音楽が流れる家庭でもなかったし、父親が新譜を買ってくるなんてこともなかったから、我が家ではちょっとしたニュースでした。最初に聴いたときは、正直なところ複雑というか、悔しかった。同世代だし、勝手にライバル意識を燃やしてたのかも。特に歌詞の乗せ方が独特というか、「そこで言葉を切るのか!」って思うところがたくさんあって。そのうち「自分でもやってみたい」って思うようになっていきました。
中学に入ると、ひたすら曲作りの毎日でした。エレクトーンで弾いたフレーズをカセットレコーダーに録音し、それを再生しながらさらに音を重ねてMDプレーヤーにまとめていく。そのプロセスを繰り返しながら、一人でオケを完成させていきました。Neat'sはメロディーだけでなく、伴奏も一緒に頭の中に浮かんでくることが多かったそうです。そうやって複数の楽器を重ねていくアレンジ方法を、すぐに身につけることができたのはエレクトーンをやっていたおかげかもしれません。
Neat's:確かに、エレクトーンは、1人でオーケストラを演奏する楽器ですからね。作る曲は一風変わっていました。特に歌詞は、井上陽水さんからの影響が大きかったんですよ。テープレコーダーについて歌っているのに、「テープレコーダー」という言葉が最後まで全くでてこない曲“AとB”(井上陽水奥田民生)とか、当時はラブソングが全盛だっただけに衝撃的でした。今は、コンピューターを使ってもっと本格的な宅録(自宅録音)をしていますけど、気持ちの部分は全く変わっていない。この頃にやっていたことが原点だと思いますね。
「もの作り」が、
趣味から仕事になった瞬間
その頃はまだ本格的に音楽にはのめり込んでおらず、絵を描くことの方が好きだったNeat's。「ゆくゆくは映画を作りたい」と考えており、あくまでも音楽は「趣味」であって、自分がやりたい「仕事」ではなかったそうです。
Neat's:「いつか自分で監督する映画の主題歌として自分の音楽を使おう」っていうふうに思っていましたね。だから、エレクトーンで架空の映画サントラなどを作ることが多かった。中学生の頃、演劇部のオーディションへ行くんですけど、それも「自分の映画に出演するには、演技を練習しなくちゃ」と思ったからなんですよ(笑)。いつも目を閉じて、自分が誰かに変身しているところを妄想したりしていました。妄想癖は、今も全然なくならないんですよね(笑)。
中学を卒業後、神奈川県内屈指の進学校である多摩高校へ進学。演劇部のオーディションで、後にRYTHEMを結成する加藤有加利と運命的な出会いを果たします。クラスの席も隣同士だった二人は意気投合、一緒に軽音楽部へ入部することになりました。
Neat's:最初は誘われたバンドで、コピーをやっていました。そのバンドを続けつつ、ソニー・ミュージックのオーディションを二人でこっそり受けたら受かっちゃったんです(笑)。デビュー前の育成期間中に、ディレクターにアピールしたいと思って、夏休みに20曲も作って提出したら、スタッフみんなが面白がってくれたんですよね。今聴いてみても、アイデアや視点がすごくユニークなんですよ。「穴」についての歌とか、“落とし物センター”や“点滴”、“金魚”なんていう名の曲とか。あとは、ずっと「Be Here」って言ってるだけの、スティーヴィー・ワンダーふうの曲もありましたね(笑)。
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