今年、2枚連動企画ミニアルバム『BOYS』『GIRLS』をリリースしたフジファブリック。10月25日に行われた9年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブでは、初期の名曲を含む演奏を披露し、大きな感動を呼びました。そんな彼らのサウンドの「要」となっているのが、キーボーディスト・金澤ダイスケさん。先のミニアルバムでは、作詞作曲はもちろん、プログラミング、そしてミックスまで一人で手がけた“裸足のバレリーナ”をはじめ、華やかなシンセサウンドを散りばめた“マボロシの街”など、コンポーザーとしてもますます大きな存在感を放っています。そんな彼に、自らのルーツや、フロントマンの急逝から再び立ち上がるまでのストーリーも含めたバンドヒストリーを、たっぷり語ってもらいました。
テキスト:黒田隆憲 撮影:中村ナリコ
フジファブリック
2000年、志村正彦(Vo,Gt)を中心に結成、2004年メジャーデビュー。叙情性と普遍性と変態性が見事に一体化した独特の魅力で評価を得る。2009年末、志村が急逝。2011年夏、山内総一郎(Vo,Gt)、金澤ダイスケ(Key)、加藤慎一(Ba)の3人体制にて新たに始動。2015年、コンセプトミニアルバム『BOYS』を6月24日に、『GIRLS』を10月14日にリリース。10月より、日比谷野音、NHKホールを含む全国ホールツアーを開催。
小学生の頃から
ピアノを上手く「弾けてしまった」
金澤さんが音楽に目覚めたのは小学生のとき。音楽の授業で習うハーモニカやピアニカ、リコーダーといった楽器の中でも、特にピアニカを他の人たちよりも上手く演奏できたことが、ピアノを始めたきっかけだそうです。ちょうど同じ時期に、7つ下の妹(当時3歳)がピアノを習い始め、それに便乗するような形で金澤さんもレッスンを受けるようになりました。
金澤:ピアノを習い始めたら、それも弾けてしまったんですよね。クラシックのメソッドを深く追求していくのは向いていなかったのですが、「とにかく楽しく演奏したい」という気持ちは当時から今も続いてます。キーボーディストとして最初に衝撃を受けたのは、すかんちの小川文明さんでした。中学3年生のときに文化祭でバンドをやることになって、本当はギターを弾きたかったんですけど、メンバーに「お前はピアノが弾けるんだからキーボードだ」って言われて、初めてバンドでキーボードを弾いたんです。そのときにコピーしたのがすかんちでした。それで、小川さんが演奏している映像を見たときに、「この人、ギタリストよりもロックじゃないか?」と思って。プレイとしては小川さんに道筋を指し示してもらったような気がします。
アメリカ出身のピアノを主体としたスリーピースバンド・Ben Folds Fiveとの出会いも、金澤さんにとって衝撃的でした。ピアノをリズミカルに弾いたり、メロディーも含んだバッキングやギターのようなリフを弾いたり、「これまで知ってたロックバンドとはちょっと違う」と中学生ながらに感じたそう。
金澤:家にアップライトのピアノがあって、それをリズミカルに弾いてみたら、「いいな!」と思ったんですよね。その頃から、なんとなく、曲作りはやっていました。ピアノをワチャワチャ弾きながら、なんとなくメロディーっぽいものが浮かんできたりして。当時は録音機材を持っていなかったので、全部頭の中に記憶していましたね。今、フジファブリックで曲を作るようになって、「あ、これは中学のときに家で弾いてたメロディーと同じだ」って思うこともあります。記憶力がいいというよりは、その頃の手グセから抜け出せてないんじゃないかな(笑)。まあ、手グセもある意味オリジナリティーですからね。
初めてスタジオに入ったときから感じた
フジファブリックの可能性
高校を卒業し、上京した金澤さんは、主にサポートメンバーとして数多くのバンドに参加していました。そこで演奏したたくさんのフレーズを、自分自身の「引き出し」としてストックできたことは、その後の曲作りにも活かされているそう。そして2003年1月、当時のベーシストに誘われる形で、フジファブリックに正式メンバーとして加入します。
金澤:初めてスタジオに入って一緒に合わせたときから、「可能性」を感じましたね。僕が今まで聴いてこなかった音楽をたくさん知っている人たちだと思ったし、とにかくすごく楽しくて。このバンドにいることで、自分も新しい発想ができるようになるんじゃないかと思えたんです。その頃は「このバンド、かっこいいね」みたいな話をよくしてましたけど、いざそれっぽくやってみても、似ても似つかないものになるんですよ。当時から、いい意味で不器用だったんだと思います。憧れているバンドがいても、それを取り入れたときに自然と自分たちのオリジナリティーにできたというか。
金澤さんをバンドに誘ったベーシストは、金澤さんが加入直後、脱退することに。その後、加藤慎一さん(Ba)、山内総一郎さん(Gt)が加わり、志村正彦さん(Vo,Gt)、足立房文さん(Dr)の5人編成になります。そして2004年、シングル『桜の季節』でメジャーデビュー。プロデュースはGREAT3の片寄明人さん。天王洲アイルにあった「スタジオテラ」にてレコーディングが行われました。
金澤:すごく大きなスタジオだったことを鮮明に覚えてますね。「プロはこんなところでレコーディングするのか!」と。片寄さんは、とにかく話が面白くて、ここで言えないような話も含めて色々教えてもらいました(笑)。演奏に関しては、自分のストロングポイントをサッと見つけてくれて、そこを伸ばしてくれる。それが、今の自分の個性にもつながっている気がします。ホント、お兄さん的存在です。
金澤も曲作りを積極的に担うようになった
バンドとしてのターニングポイント
順調なスタートを切ったフジファブリック。しかし2009年5月、スウェーデンのストックホルムでレコーディングされた4thアルバム『CHRONICLE』をリリースした半年後、彼らは試練を迎えます。同年12月24日、ボーカルであり、ほとんどの作詞作曲を担当していた志村さんが急逝。翌日には公式サイトで正式発表され、年末のフェスは、演奏が予定されていたセットリスト通りに過去のライブ映像を流す、という異例の形で行われました。
金澤:当時は、とにかく喪失感が大きくて。表立った心の乱れはなかった分、自分がそれをどう思っているのかがよくわからないっていう、非常に混乱した状態ではありましたね。そのときは、すべての選択肢を考えました。でも、「フジファブリックを続けていきたい」という気持ちは割と早い段階からあって。「じゃあ、どうやって?」っていうことをみんなで時間をかけて話しました。そしてあるとき山内くんが、「俺が歌う」と言ってくれたんです。
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