今さら人に聞けない、写真再入門 Vol.2 龍馬の秘密も暴く? 初期写真の魅力を高橋久美子と探る

今見ている目の前の光景を、絵で再現するのではなく、そのまま写し取りたい。そんな人間の欲望が長い年月を経て結実した「写真」は、19世紀前半に同時多発的に生まれ、幕末の日本にも入ってきました。海を超えて初めて日本に写真技術が伝来した頃、それはどう受け止められ、当時の写真師たちはどんな想いで被写体にカメラを向けたのでしょう?

そこで今回は、幕末好きでも知られる作家・作詞家の高橋久美子さんと、東京都写真美術館リニューアル準備室を訪問します。同館は、高橋さんがかつて在籍したチャットモンチーの活動本格化を機に上京して以来のお気に入りスポットだとか。侍や幕末の志士、庶民らの姿を伝える古い写真に惹かれるという彼女の案内人は、同館の三井圭司学芸員。贅沢な個人授業のはじまりです!

「サムライも偉人もホントにいた!」と実感させられる初期写真

集合場所は、東京・神田にある「東京都写真美術館リニューアル準備室」。現在、同館は2016年秋のリニューアルオープンに向けた準備をここで進めています。

高橋:今日はよろしくお願いします。東京都写真美術館は、私が10年ほど前にチャットモンチーのデビューにあわせて四国から上京して以来、東京で見つけた楽しみの場所の1つなんです。

高橋久美子
高橋久美子

三井:ありがとうございます。よく訪れてくださるそうで、どんなところを気に入ってもらえたんですか?

高橋:私が詩や文章で「言葉」を残そうとするように、写真を撮る人も何かを残したくて撮るのかなと思うんですね。だから写真展に行くと、写っているモノも興味深いんですが、「どんな気持ちで撮ったんだろう?」と考えながら観るのが好きで。もともと歴史好きなので、古い写真には特に興味があります。

三井:僕の研究領域がまさにそうで、「写真」がこの世界に誕生した19世紀の写真史を専門にしています。古い写真のどこに魅力を感じます?

三井圭司
三井圭司

高橋:歴史上の人物ってどこか遠い存在ですが、写真で対面した途端「自分のご先祖と友人だったかもしれない」と想像しちゃうくらい、距離が縮まる気がして。あと、昔の人物写真の目が好きです。すごく強い目をしている写真が多くて。

三井:僕も当初は、チョンマゲを結う侍の世界なんて、自分と遠すぎて理解できない気持ちもありました。でもあるとき本物の侍の写真を目にして、ホントにあの髪型で、刃を腰に差してる! と驚いて(笑)。それが今の研究に進んだモチベーションの1つとも言えます。

高橋:うんうん。わかりますその感覚!

「日本最初の写真」は3つ存在する?

初期写真への想いを交わし、いよいよレクチャーに。「日本の写真の『始まり』」には、3つの視点があるそうです。まず「『日本人を撮った』1番古い写真」は1851年、アメリカ人によるもの。アメリカ船が救助した漂流船に乗っていた日本人男性が、サンフランシスコで撮影されています。

三井:(資料を開き)これがその写真です。世界最初の写真方式・ダゲレオタイプで撮られています。銀メッキをした金属板に像を焼き付ける方式ですね。

『(栄力丸船員 いわぞう)』H.R.マークス 嘉永3-4年(1850-51) ダゲレオタイプ 川崎市市民ミュージアム蔵
『(栄力丸船員 いわぞう)』H.R.マークス 嘉永3-4年(1850-51)
ダゲレオタイプ 川崎市市民ミュージアム蔵

高橋:すっごい綺麗ですね! 細かい服のシワまでちゃんと出てる~。

三井:きちんとした機材と腕があれば、今のデジタル写真より解像度が高くなりうる技術だったんです。

高橋:「IWAZO」さんっていう名前が書いてある。男の人ってお化粧しないから、すごく昔の写真でも「近所にこんな人いそう」って思うことが多い。面白いですね。

続いては「『日本で日本人を撮った』最初の写真」。1854年、ペリー再来航に同行した写真師、エリファレット・ブラウン・Jr.によるものです。高橋さんは、侍を写した1枚が気になったよう。

エリファレット・ブラウン・Jr.『田中光儀像』1854年 ダゲレオタイプ
エリファレット・ブラウン・Jr.『田中光儀像』1854年 ダゲレオタイプ

高橋:わ、すごくなで肩のお侍だ……。

三井:この写真については、面白い出来事がありました。『キュレーターズ・チョイス』(2006年)という展覧会で、この写真を外壁に大きく掲示したんです。そしたら不思議な男性が受付にやってきて「あの写真の方にお会いしたい」と。話を聞くと、その方は古武術の師範だそうで、写真の侍を見て「この人はデキる人だ」と強く惹かれたらしくて(笑)。なで肩も、首の筋肉がすごく発達しているからなんですよね、きっと。

高橋:ヘぇ~! じゃ、この写真のお侍も、武道の達人?

三井:田中光儀といって、当時はまだ格の低い侍だったそうです。ただ、撮影者のブラウン・Jr.の警護も担当したようで、これは想像の域を出ませんが、腕っ節が強く、滞在時の警護にも身体を張ってくれた、そのお礼の意味もあって撮ったのかも。なお田中さんは、後の明治には最高裁の裁判官まで出世します。

高橋:謎の古武術師範の眼力、当たってた(笑)。

最後は「『日本人が撮った』最初の写真」です。これは開国直前の1857年に、薩摩藩主・島津斉彬を写したもの。薩摩藩の写真術研究グループによる撮影で、国の重要文化財です。

高橋:おぉ、人物がもんやり浮き上がっている感じです。

「薩摩藩主・島津斉彬像」ダゲレオタイプ
「薩摩藩主・島津斉彬像」ダゲレオタイプ

三井:これもダゲレオタイプで、彼らは「直射影鏡」と訳したそうです。

高橋:斉彬公は、これを見てどんな反応を示したのかな? 「これが、世の顔か!?」とか。

三井:当時の日本文化では、基本的に肖像は遺影でした。縁起が悪いって話にもなりかねないので、保守的な人は撮られるのも嫌だったと思うんですよ。その点、彼は好奇心と広い知見があったのだろうと、この1枚でもわかりますね。

高橋:先鋭的な殿様だったのかな。写真と一緒に人の歴史が残っていたり、そうでなくても色々想像できたり、やっぱり初期写真は面白いですね!

幕末~明治の写真師列伝——絵師出身のアイデアマン・下岡蓮杖

続いては「日本人写真師」に迫ります。先ほどの薩摩藩のように、写真術は軍事やビジネスにもつながるため、幕末までは機密的に研究が行われていたと推測されています。対して開国後の日本に誕生した日本人の写真師たちによる写真館は、写真がより身近になる下地を作り、日本の写真が海外へ広がるきっかけにもなりました。彼らは外国人に写真術を学び、1860年代に相次いで写真館を開業します。

三井:日本初の写真スタジオは、アメリカ人の商人であり写真家、オリン・フリーマンが横浜に開いたもの。そこで鵜飼玉川(うかい ぎょくせん / 日本初の商業写真家)が学び、やがて自ら東京で写真館を始めます。続いて下岡蓮杖(しもおか れんじょう)が横浜で、上野彦馬(うえの ひこま)が長崎で開業します。いずれも日本最初期の写真家たちですね。

高橋:私、『没後百年 日本写真の開拓者 下岡蓮杖』展(東京都写真美術館、2014年)を観に行きました。彼はもともと画家だったんですよね。

下岡蓮杖『(糸つむぎ)』鶏卵紙に手彩色 1863-1876年頃 東京都写真美術館蔵
下岡蓮杖『(糸つむぎ)』鶏卵紙に手彩色 1863-1876年頃 東京都写真美術館蔵

下岡蓮杖は、絵の師匠の使いで訪れた旗本屋敷で、ダゲレオタイプ写真に出会って驚嘆したといわれ、一転して写真を志し、紆余曲折の末に1862年に写真館を開きました。外国人向けの記念写真や美人画風写真のほか、日本の暮らしを伝える写真も手がけます。

三井:蓮杖は絵筆では実現できない写真の表現力に惹かれ、その道に進んだのではないでしょうか。そんな彼の写真は画面が絵画的に構成されていたりして、今見ても「お、格好いい」と思わせるものがあります。

高橋:私、下岡蓮杖のそこが好きなんです。当時の写真は記録を超えて、アートとしても撮られたり、見られたりという感じもあったんでしょうか?

三井:当時、写真は依頼を受けた専門家が撮るもので、今のように細分化していませんでした。でも現代の目で見ると、美術や報道に近い特徴を感じる写真もある、ということですね。ただ、そういう点では、僕は内田九一(うちだ くいち)も構図作りに長けていたと思っています。明治天皇の写真が有名で、歌舞伎の写真も多く手がけた人。没後に彼をモデルにした歌舞伎『魁写真鏡俳優画』も生まれたくらいです。32歳没で、短命だったのが残念。

高橋:内田さんは、大久保利通や桂小五郎を撮っていて、坂本龍馬の奥さん・おりょう(楢崎龍)といわれる女性の写真も残していますよね。

内田九一『長崎港』 明治5(1872)年 アルビューメン・プリント
内田九一『長崎港』 明治5(1872)年 アルビューメン・プリント

三井:一方で、下岡蓮杖はすごいアイデアマンで新しいモノ好き。彼は92歳まで生き、コーヒー、ビリヤード、牛乳屋、乗り合い馬車などの事業にも関わったんです。他方、晩年は絵画に立ち戻った人でもありました。

自作カメラなど機材にこだわり、書物も残した理系写真師・上野彦馬

さて、もう一人の写真師・上野彦馬は、下岡蓮杖とは色々な意味で対照的。坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、中岡慎太郎など幕末の志士を多く撮影したことでも知られます。化学者として長崎の医学伝習所で働いていたときに写真を知り、技術的関心と共にアプローチしていきます。

三井:彦馬は出発点が化学なので、やはり技術的なところで、非常にクリアで丁寧な画像を追究した写真に見受けられます。

高橋:たしかに家族がほのぼの写る、とかじゃないですね。みんな真正面を向いて「決めてる」感じ。

三井:そこも理系っぽいというか、自由な逸脱はあまり許さず、バシっと定型に決めたがる写真。そこが格好いいと言う人も、または味気ないとも言う人もいるかもしれません。

上野彦馬『題不詳(田崎道孝像)』 明治4(1871)年 アンブロタイプ
上野彦馬『題不詳(田崎道孝像)』 明治4(1871)年 アンブロタイプ

そんな彦馬の写真研究は、自らカメラを作る挑戦から始まったとか。感光材に用いる薬品なども研究しますが、当初、成果は充分満足のいくものではありませんでした。転機は、スイス人カメラマン、ピエール・ロシエとの出会い。

三井:ロシエの機材を借りて撮ったら、超簡単にいい写真が撮れたようで。「結局、機材なんじゃない?」となったんでしょうか(笑)。結局ロシエを通じて機材一式を買い取るんですが、それが150両の大金。一緒に研究していた津藩(三重県)士に工面してもらい、上手くいきました。ただ、その報告に行くと、今度は「いいねぇ、キミ、うちの藩で働きなさい」と故郷の長崎を離れざるを得なくなってしまう。でもそこで、写真技術も含めた化学書『舎密局必携』を執筆し、帰郷後に写真館を開くんです。

高橋:写真術の書物も残したんですね。さすが理系。下岡蓮杖も上野彦馬も、それぞれの生き様、人柄もすべて写真に出ている気がして、興味深いです。

初期写真の体験講座——写真の原点「カメラ・オブスクラ」を被る!

ここで体験型授業(?)に移り、初期写真の仕組みを教えてもらうことに。現れたのは、ふつうの段ボール箱の中央に虫眼鏡を取り付けたものです。そこにトレーシングペーパーを貼ったもう1つの箱を重ね、頭からかぶります。

東京都写真美術館のスクールプログラムで使われている段ボールカメラ(写真家・佐藤時啓さんの考案)
東京都写真美術館のスクールプログラムで使われている段ボールカメラ(写真家・佐藤時啓さんの考案)

高橋:おぉ、「NO MORE 映画泥棒」の人みたい!

三井:でしょ? こうして被って、あとは重ねた箱をずらしてピントを合わせる……ぜひやってみてください。

高橋:わ~、ちゃんと画像が、窓の外を走ってる電車が見える! 上下左右が逆になるんですね。

三井:これが写真の原理です。箱の中が「暗室」で、そこに虫眼鏡を通して光が入る。それがトレーシングペーパーに投影される仕組みですが、光はレンズに入ってきた角度から曲がれないので、上下左右が反転するんです。あと被写界深度(ピントの合う範囲)がすごく狭くて、つまりピントが合うところとぼやけるところの差が強調されます。画像としてはそこが格好いいでしょう?

高橋久美子

高橋:うんうん。こうして見ると、ふつうの景色も別世界、ドラマチックに感じますね。見たいもの、残したいものをくっきり撮れて、見たくないものはピントを合わなくていいというか……これも肉眼との大きな違いなのかな。

遠い目で先を見つめる坂本龍馬の有名な肖像は、「質の悪い複製写真」の特徴だった?

続いて取り出されたのは、下岡蓮杖や上野彦馬の時代の印画紙「鶏卵紙」です。文字通り、卵の白身で紙をコーティングしたもの。紙繊維の上に卵の透明な層を作ることで、その上に塗る薬品(硝酸銀)を発色させる画像が、よりクリアに見えます。

高橋:ははぁ~白身ですか……。でも、卵って腐ったりしないんですか?

三井:薬品が入ってますし、卵は少量で乾いてますから大丈夫。なお、この時代の「ネガ」にあたるものは、ガラス板に画像を焼き付けるガラス湿版。当時はこれで原板を作り、そこから鶏卵紙にプリントしました。さらに、プリントに顔料で色を付けたものなども登場します。見る側にとって、文字通り写るものが色付く感じがありますね。

東京都写真美術館のワークショップで制作された鶏卵紙のプリント
東京都写真美術館のワークショップで制作された鶏卵紙のプリント

高橋:当たり前だけど「昔の時代にも色があったんだな」っていう、リアリティーが湧きますね。場合によっては色があるほうが、レトロとか地味とかいう「脚色」がされないとも感じます。

一方で、このガラス湿版そのものを鑑賞することもできます。三井さんが見せてくれたのは、小さな桐箱に収められた年代物の「ガラス写真」。透明から薄いアイボリーに向かうグラデーションによるネガ像なので、裏に濃色の紙などを入れるだけで、ポジ像がくっきり浮かび上がります。

三井:ところでこの写真、左に座っている人に見覚えありませんか?

高橋:ん……あっ三井さん? めっちゃ似てる!

三井:曾祖父です(笑)。ケースに記述があり「明治27年5月18日 三井和平 36歳」とあります。ちなみに僕は今45歳。

三井学芸員の曾祖父が写る、明治時代の「ガラス写真」
三井学芸員の曾祖父が写る、明治時代の「ガラス写真」

高橋:曾お祖父さんが自分より年下のときの姿が、こんなリアルに見られるなんて……何とロマンチック。

三井:僕はこの曾祖父に会ったことはありません。それでも、写真1枚で「こんなに自分と似てるのか!」とわかる。絵画じゃここまでインパクトはなかったと思います。顔だけでなく、指先の感じまで似てるっていう(苦笑)。

高橋:それは親近感も湧きますねぇ。やっぱり写真はすごい。こうして世代の離れた子孫にまで、自分の存在を伝えることができるんですから……。

さらに三井さんは、ネガ原板として使うガラス湿版も見せてくれました。また、感光紙の上に直接、葉っぱや切り紙(ネガでも可)を乗せて焼き付ける「日光写真」も体験。写真は光だけでなく影の部分も重要だと教えてくれます。

 

三井:龍馬の写真は、海の向こうを見るような遠い眼差しで知られますが、それは質の低い複製写真に見られる特徴なんです。じつは原板のガラス湿版には瞳も綺麗に写っています。同じ写真もよく調べると……という例で、そういうことが結構あります。僕ら研究者は、資料にない部分を妄想するのも仕事のうちですが(笑)、逸話や想像だけでなく「写真そのものを見る」ことがやっぱり大切です。

高橋:日光写真は自分でもやってみたい! 昔の写真師も今の私みたいに、「へぇ~面白い!」「こんなんあるんだ?」って感じで、いろんなことをやってみたんでしょうね。

神保町の本棚で、パリの写真市で——旅する日本の初期写真

最後に、こうした古い初期写真が今でも売買されているお話を伺いました。私たちは古い写真に対して、時代の隔たりだけでなく「美術館で会える遠い存在」とも思いがちですが、必ずしもそうではないようです。

三井:神保町の古書店などに行くと、今も古い写真アルバム、たとえばフェリーチェ・ベアト(1863年から21年間横浜で暮らしたイギリスの写真家)のアルバムがコレクターズアイテムとして売られていたりします。フランスでは毎年、写真見本市『パリフォト』に世界中のギャラリーが集い、古い写真のブースでは、僕も文献でしか知らなかった写真と出会うことも。パリでは同時期の休日に『フォトビンテージ』という催しもあり、ふだんブランド店などが営業する通りに、ずらりと机が並んで写真が集まります。そこに内田九一の写真なども出ていましたね。

三井圭司

高橋:なんと! 今でも買えるんですね。ひょっとしたら海外で、龍馬の写真が売られてたりするかも? 土方歳三なんかは洋装だから、向こうでは目立たなくて埋もれてたりとか!?(興奮気味)

三井:その可能性もゼロではないかも? 特に下岡蓮杖の写真は、外国人のお土産になったものも多く、十数年前までは日本国内にも少なかったんです。東京都写真美術館にある150点のコレクションも、多くは海外から購入されました。

高橋:価値に気付かれないまま埋もれてしまったり、ましてや処分されたら残念ですね。

『没後百年 日本写真の開拓者 下岡蓮杖』展図録
『没後百年 日本写真の開拓者 下岡蓮杖』展図録

三井:そう。だから『下岡蓮杖展』は海外の人にも知ってほしくて、展示も図録も、英語の記述を頑張ったんです。先祖が日本に滞在した方々も多くいるでしょうし、欧州では民家の地下室に、100年以上前のものがポンと置かれていることが平気であり得るので。それらの発見に少しでもつながればとも思います。1枚でも新たに見つかれば、研究資料としても貴重ですから。

イメージだけでなく、「モノとしての写真」が持つチカラを感じ取る

初期写真の研究では、イメージ同様、裏側などに添えられた文字、つまり「誰が誰を / 何を撮ったか」などの情報も重要です。収納してあったケースの作りや、押してある判なども鍵になります。三井さんの曾お祖父さんの写真も激似でしたが、文字が添えてあったからこそ、確証になったそう。

三井:さらに、ある傾向の写真がまとまって集まることで、見えてくるものもあります。これは写真に金色の文字が書かれてる、こっちは赤色の文字だな、と集めてみたとき「ん、赤い文字のときはいつもこの敷物が写ってる?」といった発見もあり得るんですね。そうした要素間のつながりも重要です。

高橋:そうか~、三井さんのお仕事は専門家ならではというか、ある意味捜査官みたいでもありますね。私たちは写っているイメージばかりに目がいきますけど。そこまで力を注いで調査していただいた成果を元に、わかりやすく作ってくれた展覧会を今まで観てたんだ。

高橋久美子

三井:今は写真なんてどこでも見られるじゃん、と言われます。たしかに画像はネットでいくらでも閲覧できて、本も豊富にある。でも、モノとしての写真実物を目の前にする体験は、今なお貴重だと思うんです。さらに、専門家にわからない発見が、ふつうの人によってもたらされる可能性もありますから。

高橋:なで肩のお侍の力量を見破った、お師範さんの話なんかもそうですよね。

三井:そういうことが起きると、その人自身にとっても良い経験だし、僕ら研究者にとっても有益なことです。だから展覧会という場は大切にしたい。東京都写真美術館には、古い写真をお持ちの方が情報をくださることも多いんです。

高橋:うちの実家も幕末くらいからある家なので、探してみようかな。大正あたりの写真なら、きっとまだあるんと思うんですけど。

三井:大正の頃から、一般の人々が撮った写真が出てくるんですね。その行為が広まる中で「写真表現」が生まれてくる。商売ではなく写真を撮る行為が広がってから、表現としての写真が本格的に生まれたのだと考えます。

高橋:なるほど~。そこで出てくるわけですね、そういったアートな動きが。

三井:僕が担当しているシリーズ展覧会『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史』(東京都写真美術館、リニューアル後に総集編を予定)のタイトルも、単に写真の夜明けという意味ではなくて。美術館にとっては表現の誕生こそが「夜明け」と言えますから、その「まえ」ということで付けたんです。

『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史[北海道・東北編]』(東京都写真美術館、2013年)
『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史[北海道・東北編]』
(東京都写真美術館、2013年)

高橋:そうか! でも写真の面白さって、まさに今お話してくれたところでもありますよね。表現になっているものと、記録や報道っていうものが多面的にあって。私、これまで下岡蓮杖の写真は勝手に表現として見ていた部分がたくさんあって、今日、当時の写真のあり方を教わってまた違う見方ができそうです。その上で、やっぱり感じ方は見る人によっても違うだろうし。その両面に気付けたのも、貴重な体験でした。ホントにありがとうございます。

楽しい時間を通してあらためて実感できたのは、幕末から維新への社会の激動も、日本の写真の歴史も、それこそ「一夜にして」ではなく、個々人の挑戦や、文化的・技術的な出来事の積み重ねでもたらされたという事実。そう考えると、初期写真が教えてくれることは、写真の今、そして未来にもつながります。

「言葉を残す」作家活動をする高橋さんが、「写真を残す」人々と時を超えて交差したひととき。最後に彼女のこの言葉を紹介したいと思います。

「今書いている言葉は、もう明日の私からは生まれてこないのだろう。だから愛おしい。だから今、書きたいと思う。私の進む靴の裏に一歩ずつ違う判子を付けて、瞬間瞬間の証を押していく」(『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』より)

書籍情報
『下岡蓮杖: 日本写真の開拓者 (Shimooka Renjo: A Pioneer of Japanese Photography)』

2014年3月13日(木)発売
価格:3,024円(税込)
発行:国書刊行会

高橋久美子
『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』

2013年2月20日(水)発売
価格:1,296円(税込)
発行:毎日新聞社

連載情報
相撲情報マガジンTSUNA

「高橋久美子のどすこいコラム」連載中

プロフィール
作家・作詞家。ロックバンド・チャットモンチーのドラム・作詞家として活躍後、作家に。ももいろクローバーZやSCANDALなどへの作詞提供も話題となる。近著に『ヒトノユメと高橋久美子が行く!』、エッセイ集『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』(毎日新聞社)など。

高橋久美子(たかはし くみこ)

三井圭司(みつい けいし)

東京都写真美術館学芸員。19世紀写真史を専門に研究し、手掛けた展覧会には、『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史』(2007年より4回シリーズ、美術館リニューアル後に総集編を開催予定)、『没後百年 日本写真の開拓者 下岡蓮杖』(2014年)などがある。



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