vol.269 シップシッパーシッペスト(2010/4/1)
女子高生から湿布の臭いがした。不満の矛先は修学旅行の自由時間が充分に与えられていない点のようで、やれ農業実習だ、やれ工場見学だと、折角行くのに、観光がないがしろにされていてどうしょうもないと、憤っている。一昨年までは長崎、去年までは京都だったのに、今年はシンガポール、だから超嬉しいのに、農家の一日体験ってそれありえないんだけど。だし、気まずそうじゃねぇ、と語尾を上げれば、背中をポリポリ掻いている。湿布の接着部が気になるらしい。
この子は、どうして湿布をしているのだろう。シンガポールでの農業体験を強いる学校の意図とは何だろう。こちとら、学園生活を終えて10年ほど経過すると、脳内に残っている想い出とやらは好都合に洗われていて、良き出来事はふんわりと暖かく、悪き出来事はドラマチックに着色されていく。「三丁目の夕日」の頃が実は最も犯罪件数が多かった時代だったという裏話を頻繁に聞く。映画に流れているような人情は確かに根付いていたけれど、反面、世の激変は街を殺伐とさせていたという両面を際立たせている。でもそうではなかったはずだ。人情と殺伐の間には単なる日常が佇んでいたはずで、それは、学園生活でも同じだ。好きな女の子にチョコレートを貰った日と、他校のヤンキーにカツアゲされた日を克明に記憶しているかもしれないが、それ以外の日こそ学園生活であったはずだ。
だから、湿布が痒い、農業体験がウザい、それはとても学園生活の生臭さを持ち運んでくる。明日の英語の授業で訳す順番が当たると予想される前夜、ここら辺だけを訳しておけば大丈夫だろうと思いながらも、でも最近あの先生、3センテンスくらい同じ人に訳させる場合もあるからなと慎重な予測をし、もう少し先まで訳しておくか、ああウゼえ、これこそ、あの頃の日々だったのだと思い出す。
一人が電車を降り、湿布臭の発生源の方だけが残る。携帯に内蔵されたゲームをやりながら、ため息をついている。シンガポールでの農業体験が、ますます嫌になってきたのだろう。この時自分は、それくらいイイじゃん、どうせ一日で終わるんだしと思ってしまうのだけれども、それは何の効果も持たない。最近、「それは○○歳になれば分かるよ」と続けて言われて、頭のどこかがひび割れする嫌悪を持った。分からないことが分かるようになっていく速度と量は、事前に計測できない。それを単純計算する人が、どうにも解せない。
加齢だけで何がしかが豊穣になるという安直な数式は、単なる保身ではないか。修学旅行での農業体験に悩む女子高生から漂ってくる湿布の臭いに、○○歳になった皆さんは向き合えるのだろうか。整理整頓からこぼれた痒みに、そのうち治るよ、という待機命令は不躾だ。一歩間違えれば、いや、間違わなくても変態だが、思わずクンクンその湿布臭を嗅ぎ直す。グッタリうなだれてみせるサラリーマンと、弾ける湿布臭を撒き散らす女子高生、その悩みの深度は、そんな簡単には比較出来ないのだという当たり前のことを、しっかりと考え込まなければ気付かなくなっていることを、やや恐ろしく感じた。
vol.270 愛の内出血(2010/4/12)
最近、モノを投げると思った通りのところへ行くのである。遠距離からのゴミ箱への投てきや、机から数歩歩いたところからPCの脇へとボールペンを投げる技術、ここ2週間ほど、とりわけ調子が宜しいのである。ここまで精度が高いとアレンジを加えたくなってしまうのがキムヨナ精神で、ペンを回転させて着地という魅せる技もあれば、少し遠めの位置から滑らせるように、すなわち、シャレたバーで「あちらのお客様からです」とグラスが滑ってくるアレのように、ペンを PCに寄せたりしている。そのどれもが上手くいくのである。繰り返しになるが、この安定感は早くもキムヨナの再来ではないかと噂されそうなほどだ。安藤美姫のように、着地の瞬間までハラハラする必要がないのだ。
ところが、紐がほどけてしまった織田信成のように、道具側は悲鳴を上げていたようで、回転着地を幾度とやられた赤ペンは内出血を起こしている。ご存知のように赤ペンの内出血とは赤ペンの死である。内出血しているにもかかわらず持ち主に黙りこんでいると、突然ペン先から多量に出血し、持ち主と赤ペンの関係は、いくらその付き合いが長かろうとも険悪なまま終わる。どうして言ってくれなかったのさ。だっておまえさんを心配させたくなかったのさ。というメロドラマは無い。ふざけるな、と、ゴミ箱へ一直線、死を急がせる。
恋人が多額の借金を背負っていたと分かったら肩代わりするかどうかという不毛な例え話が始まったのでその場を立ち去ろうとしたのだが、即座にいくらかの男子が当たり前だよいくらでも払うよと切り返したので立ち上がれなくなってしまった。そしてその話をふった女子も、そうだよねそれが愛だよねと頷いているので、ちょっと待てちょっと待てと頭の中で反復しながら鶏のささ身を箸でツンツンしていると、君はどうだいと問われたので、「それはその時にならないと分からない」と正直に答えると、ささ身に各々の唾が振りかかるほどの非難が集中する。それって、愛が無いよと、口を揃えながら。
そのう、あのう、愛というやつですが、とにかくそれは特殊性の元に語られる。つまり、これは特別なんだよ、というアピールを、漢字で「愛」に変換していく。しかし、その特殊性は、実際にどうのというよりも、「なう」のアピールの具材に使われる。「たられば」の破壊力補填に「愛」が使われる陳腐にどうしても価値も見出せないのだけれども、借金のたとえ話のように、その意図された補填にキチンとウットリする・させるという呼吸が生まれているのをよく見かけてしまう。これが僕には、怪しくってたまらない。払うに決まっているよ、と言うことが、その時に払うかどうかではなくて、むしろ現時点でのアピールに力点を置いているからだ。だから僕は、「それはその時にならないと分からない」と何度か繰り返した。
実は、赤ペンの内出血の話とこの愛の話をどこかで関連づけて良さげなコラムにして終わらせる予定でいた。タイトルを「愛の内出血」にしておいたのも、そうまとめあげる無闇な自信があったからだ。しかし、実際、この段になってみれば、結びつける糸口なんてないでやんの。非常に無責任なコラムとなってしまう。でもこれだけは言えそうだ。「それはその時にならないとわからない」と考えている方が、結果的に、その物事に対しては真摯な結果を導けるのではないかと。
vol.271 喧嘩上等バーガー(2010/4/19)
「日本のハンバーガーよ、もう遊びは終わりだ」とある。ところで遊んでいたのは誰なのだろう。こちらは少なくとも真剣に食べてきた。てりやきバーガーのタレの量がやたら多くタレを飲み込むと喉が軽く痛むほどであったとしても、それが敢えててりやきを選んだ者の嗜みだと、不満を漏らすことなどしなかった。みんなそうだ、真剣に向き合ってきた。口を大きく開けてハンバーガーを捉えようとする、口をあんぐりと目を下にやった時の眼差し、あの眼に遊びの気持ちは無いのであって、それは、宣言する君たち側が100円に値下げしたり高級バーガーを出したりと血迷っている間も、貫徹してきた態度である。広告メッセージとしてのインパクトを狙ったのかもしれない。それはそれで宜しい。しかしこちとらが腹立たしく思っているのは、彼等がジャンパーの裏にこのメッセージを載せていることだ。
張り切り満点で出迎えてくれるレジの彼女にハンバーガーを頼む。ストックから取ろうと後ろを向く。その時に彼女の背中に「日本のハンバーガーよ、もう遊びは終わりだ」とある。僕が頼んだハンバーガーはそれまでずっとそのままでやってきたハンバーガーだったから、彼女的に、僕の頼んだそれは、遊びっぱなしのハンバーガーとなる。再びこちらを向いて「お待たせしました」と彼女は言うけれど、腹心は「いつまでも遊んでんじゃないわよ」ということなのだ。暴走族は、背面に「喧嘩上等」と書き、聞いてもないのにその意志を伝えてくるが、彼等のほうがむしろ謙虚だ。なぜならば、こちらから「おうおう、喧嘩はどうだい」と問いかけなければ危害を加えてくる事は無いから。しかし、このジャンパーは違う。これまで通りのハンバーガーを頼んだ後で、遊びは終わりだと言われる。武器は持ってないと言ったのに金属バッドを振りかざす悪徳ヤンキーの手法だ。本物のヤンキーは仁義を持つが、こういう裏切りチンピラ野郎は加減を知らない。
これまで僕がどれほど君のことを愛し続けてきたのか分かっているのかい。こんな古びたラブソングにゃ悪寒がするが、かといって強気な女子をクールに演出するディーバのキラーチューンの類いにも悪寒は続く。態度を改めようとする時に、いきなり向こう岸に行ってしまう、という事が多いのだ、最近どうにも。ハンバーガーも然り。どうやったらこの橋を渡れるのかなあという所から相談しましょうという話なのに、すでに向こう岸ですから、と報告を受ける。アンド、新しいことへの感度が甘すぎるのだよ皆さん。そこに振りかけられる劇的なメッセージに酔いしれる。そのうちに、それを知らない人、事を、下に見るようになる。遊びはもう終わりだ、というのは、未知を愛でながら既存を無知化する、無恥な感性に迎合するメッセージなのだ。
「日本のハンバーガーよ、もう遊びは終わりだ」に対して、どこぞの老舗バーガー屋は答えるべきだ、「別に遊んでいたつもりは無い。これが今まで通り、日本のハンバーガーだ」と。そしたら、僕はそっちに並ぶ。一生懸命、沢山食べる。売られた喧嘩は買おうじゃないか。
vol.272 女性の時代が「初まる」(2010/4/26)
終電間際、改札の前で、カップル達が別れを惜しんでいる。惜しみすぎて接着、見せびらかしたいのか接着、接着しとけばそれは愛の具体だからと接着、そのベッタベッタな様をじっくりと見ることにした。つまり、美術品を前後左右から眺めることで表現の細微を受け取っていくように、イチャツキを見てみるのだ。まずは、女の後ろ姿と抱きつく男の顔が見える。ここから見ると、男のワイルド路線が臭い立つ。「俺ってワイルドだろ?」という顔をしている。自己申告。あいにくワイングラスを持ち合わせていなかったので渡す事が出来なかったが、男はワイングラスを欲している顔立ちだった。左へ回る。男の手は女の腰にまわされている。男の両足が女の両足の外側に置かれている。つまり、女の足は動かせないようになっている。訪問販売の名手が、ドアを閉められないように玄関とドアの間にすぐさま足を突っ込むあれと似ている。ということは女子が、この状況を本望と感じているかは、女子の顔を見なければ分からない。嫌々つき合わされているとしたら、おいらはただじゃおかないぞ、と先取りヒーロ気分。
女の顔が見えるように移動する。女はうっとりしている。いわゆる、とろけそう、というやつなのか、体がふにゃふにゃしている。ふにゃ、を感じた男が支え直している。何やら耳元で囁いている。何て言ってるのだろう。明後日の情熱大陸は誰かな? 違う。じゃがりこっていっぺんに食べちゃうよね? 違う。僕たちに終電はやって来ないのさ。これか。そしたら女は返すのさ。「始発は?」とね。男は答える。こんな気持ちは始めてさ、だからこれがある意味、俺の始発なのかもしれない。漢字検定準1級を取得したばかりの彼女は気付いてしまう。「start」の時に使うのが「始めて」、「first」の時に使うのが「初めて」、ということは、この場合、こんな気持ちは初めてさ、が正しい。女に疑念が涌く。この男、ロマンチックの前に素養はどうなのよと。
と、いうような流れがあったかどうかはいざ知らず、いよいよ終電は近づいている。ここで僕はとんでもない場面を見てしまう。抱きつかれた女が、目線を、終電時間を示す電光掲示板に向けた。その電光掲示板は簡易的なもので、現在時刻は書かれておらず、終電と思しき時刻だけが表示されている。女は男を抱き返すように右手を男の腰にやった。男はいよいよ盛り上がってきたと確信を高めているだろう。女が腰にやった右手の中指だけを上げ宙に浮かす。その、立てた中指に、フリーになったままの左手を近づける。中指に、ブラウスの裾を挟んで時計を出す。時間を確認したのだ。あと、何分で終電かを。
何だか僕はとっても、恐くなった。男は相変わらずワイングラスカモンな顔で酔いしれているに違いない。女はそれに答えた。答えたが、終電もちゃんと気にした。あと、8分だから、あと5分くらいは大丈夫。はい、では、うっとり。前後左右から見てみたといっても、その間、10秒くらいのもんである。その間、男は酔い続けていた。女子は、うっとりして、ふにゃっとして、ぎゅっとして、電光掲示板を見て、時計を確認して、またうっとりした。終電の各駅停車に揺られながら、僕は、これからは女性の時代だなと、思った。ちょっとそれ使い方違いますけども、と言われるのを承知で、何度もそう思った。
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