佐々木敦×限界小説研究会トークショー

2009年7月、南雲堂より評論集『社会は存在しない ――セカイ系文化論』が刊行されたのを記念して、8月2日(日)、青山ブックセンターにてトークショーが行われた。登壇したのは、著者である限界小説研究会から蔓葉信博、渡邉大輔、そして1980年代以降の日本思想について概観した『ニッポンの思想』を上梓したばかりの批評家・佐々木敦の各氏だ。トークショーでは、論集のテーマともなった「セカイ系」と呼ばれる、2000年代を代表するキーワードを巡り、白熱した議論が展開された。テン年代(2010年代)に批評が向かう道とはどこなのか、その方向性を示唆した貴重なセッションを、ぜひご一読いただきたい。

「限界小説研究会」って、なかなかカッコいいネーミングですよね?(佐々木)

『今日の日はさようなら』(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の挿入歌)の流れる中、登壇者たちが登場。

渡邉:なんか、この音楽を聴きながら登場すると、俺、なにかを卒業するのかなっていう気分になってきましたね…(笑)

山田:(無視して)本日の司会を務めます、山田和正です。よろしくお願いします。まずは登壇者の紹介をさせていただきますと、右端に座っていらっしゃるのが、批評家の佐々木敦さんです。その隣が限界小説研究会から、蔓葉信博さん、そして渡邉大輔さんです。皆さん、本日はよろしくお願いします(会場から拍手)。

本日のイベントは、7月に南雲堂さんから刊行された書籍『社会は存在しない ――セカイ系文化論』(著・限界小説研究会、以下『社会は存在しない』と表記)の、刊行記念トークショーなのですが、まだ読んでない方もいらっしゃると思いますので、まずは自己紹介をしつつ、この本の内容について簡単に説明していただければと思います。

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー
蔓葉信博

蔓葉:蔓葉と申します。僕はミステリ評論を主戦場にしています。今回の論集では軸となっている「セカイ系」というテーマですが、そもそも「セカイ系」とは、2000年代前半にネット上で誕生した言葉で、「物語の主人公(ボク)と、彼が思いを寄せるヒロイン(キミ)の二者関係を中心とした小さな日常(キミとボク)と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的かつ非日常的な大問題とが素朴に直結している作品群」のことを指します。この「セカイ系」という言葉をキーワードに、さまざまな作品を星座のようにつなげて見ることができるし、またそうすることが重要なんじゃないかと考えています。

たとえば、ミステリ業界で言えば、綾辻行人さんが1987年に著した『十角館の殺人』に始まったとされる「新本格」というミステリ界の新たな潮流には、「セカイ系」的な感性と通底するものがあると感じたんです。この感覚を出発点として、本書では日本のミステリ史における金字塔と言われている中井英夫の『虚無への供物』という作品を論じました。

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー
渡邉大輔

渡邉:はじめまして、渡邉です。まず「セカイ系」ということでいうと、実は僕は今から4年前に、批評家の東浩紀氏が配信されていたメールマガジン『波状言論』誌上で、ほかならぬ「セカイ系」についての評論(「<セカイ>認識の方法へ」)でデビューしているんですね。その後も、折に触れて「セカイ系」を論じてきたので、このテーマについては割と年季が入っている(笑)。評論家としては商業誌デビューがたまたま文芸誌(「群像」)だったので、これまで文芸やミステリについて書くことが多かったのですが、普段は映画研究をしているということもあり、今回の評論集では日本映画についての評論を書きました。

蔓葉:具体的な話に入っていく前に、まずはわれわれ「限界小説研究会」という謎めいた組織について解説しておかなければならないと思います(笑)。そもそもの始まりは、作家であり評論家でもある笠井潔さんが中心となった読書会でした。僕は笠井さんからお誘いいただき、参加するようになったのですが、その会では月に一回、会合の場を設け、社会批評やエンタテインメント作品についての評論などをレジュメを作って輪読し、あれやこれやと話し合ったりしています。そうするうちに、何か自分たちでも物を書いて発信しようと思い至り、2008年1月に「限界小説研究会」として単行本『探偵小説のクリティカル・ターン』を南雲堂さんから刊行しました。

山田:僕も簡単に自己紹介をすると、ふだん出版社の編集の仕事をしていまして、むかし『QUICK JAPAN』という雑誌で佐々木さんの連載(「ISMISM」。単行本『絶対安全文芸時評』に収録)を担当していたんですね。また、個人的に「限界小説研究会」の方々と交流があることもあって、今回のトークショーでは両者を仲立ちするかたちで「司会」をさせていただいています。

なぜトークのお相手が佐々木さんなのかというと、この『社会は存在しない』は「セカイ系」論集と銘打たれていますが、いままでは「セカイ系」といえば『ほしのこえ』とか『イリヤの空、UFOの夏』、『AIR』といったアニメやライトノベル、美少女ゲームといったオタク系のジャンルの話だと思われていたわけです。しかしこの本では、それらに加えて映画やダンス、青木淳悟や中井英夫の小説、新本格ミステリなども「セカイ系」論の題材として扱われている。これらを網羅的に語れる人といえば、佐々木さんくらいしかいないだろう…ということでこのトークショーが実現しました。

佐々木:それにしても「限界小説研究会」ってカッコいいネーミングですね!

渡邉:そうですか? 僕は一度もカッコいいと思ったことはないですけど(笑)。

佐々木:限界小説って、いったいどんな小説だよ?、とか思うじゃないです か。

渡邉:ああ、それはそうですよね。ちょっと持ってきて読ませろよ、みたいな感じはありますよね(笑)。

『ゼロ年代の想像力』にアンチを突き付けた本だなと(佐々木)

渡邉:では、いよいよ『社会は存在しない』についての話に入りたいと思いますが、本書は、いわゆるゼロ年代におけるサブカルチャーの中で、大きな注目を集めた「セカイ系」という概念について、さまざまな分野をテーマにして書かれた本です。

山田:その前段階として補足しておくと、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』では、「セカイ系」と呼ばれる物語の形式は、TV版『新世紀エヴァンゲリオン』以降、ゼロ年代の前半までは流行ったけれども本質的には90年代的なもの、もはや時代遅れのものとして扱われています。

宇野さんの整理によると、90年代に世の中の価値観が劇的に変化し、結果「何が正しいのかわからないから何も選ばない」というかたちで「キミとボク」のセカイにひきこもるようなタイプの作品が流行した。次いで、何が正しいかが客観的に決まらないなら自分の価値を信じてサバイバルに勝ち抜くことを選ぶ「決断主義」が現れる。『バトル・ロワイヤル』や『DEATHNOTE』ですね。そしてさらにそのあと、殺伐としたゲームから降りてコミュニティやコミュニケーションを重視する作品が浮上している。…ということでしたが、『社会は存在しない』は、「セカイ系」は時代遅れではない、どころか帯の文面を借りれば「いま、新たな『セカイ系の時代』が始まる」(笑)という主張をしている本ですね。

渡邉:山田さんの整理を僕なりに補足すると、この本は、単純に「セカイ系」は時代遅れではないと主張しているというよりも、そうした「時代遅れ」で「貧しい」想像力だとして簡単に片づけようとする宇野さんのような態度自体を、より深部から捉え直してみる試みとしてまず重要ではないかと思っています。おそらく読者の方々の中にも、本のタイトルから、なんで今更「セカイ系?」と思った方も多いのではないでしょうか。とはいえ、そうした点にこそ、「セカイ系」の扱いにくさ、語りにくさは表れている。そうしたリアリティそのものをここでもう一度問い直すことに、このKYな(笑)本の一つの意義があると思います。

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー
佐々木敦

佐々木:僕はトークショーの依頼ってほとんど断らないんですが、今回も引き受けた時点では『社会は存在しない』っていうタイトル以外なにも知らなくて。読んでみたら、はっきり「反セカイ系」に対するアンチの立場を打ち出していることがわかって驚いた。なので今日、こうして参加させていただいていますが、僕は限界小説研究会とは基本的に無関係な人間であり、僕がこの場に居ることと、僕自身が個々の論に対してどう思ってるのかっていうことは別であるということを、まずはっきりさせておきたいと思います。

山田:ではまず、佐々木さんに本の感想をお伺いしたいのですが…。

佐々木:こんなに宇野さん批判の本だとは思っていなかったので、びっくりしました。とはいえ、面白かったです。これから「セカイ系」に関心を持たれる方は、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』と併せて、本書を読むべきなんじゃないかと思いますね。

『社会は存在しない』というタイトルは、イギリスの政治家マーガレット・サッチャーの言葉から取られています。要するに、現代の世の中には「社会領域」というものがなくて、自分の身の回りの「私的領域=小さなセカイ」と、途方もない遠くまで広がっている「無限遠点=大きなセカイ」しかないという意味だと思いますが、本書の内容を象徴している言葉ですよね。

若手批評家のアンソロジーとして、批評対象の選び方も含めて面白いと思うし、通奏低音としての「セカイ系」批判への批判という筋が通っているのもいい。ゼロ年代もあと半年っていう時期に出たことにも、何か意味ありげだな、と考えることも可能かな(笑)と思いますね。

『エヴァ破』とか『1Q84』っていう「セカイ系」的な作品が、2009年にドーンと出てきたのも意味ありげですよね(山田)

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー

山田:ありがとうございます。たまたまここ最近『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、『エヴァ破』と表記)とか、村上春樹の『1Q84』とか、「セカイ系」のルーツと言える人たち――たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は『AIR』のシナリオライター麻枝准に大きな影響を与えた作品ですけど――の新作がまたドーンと出てきたのが2009年だったというのも、意味ありげですよね。あれ、「セカイ系」2周目入った? みたいな(笑)。

佐々木:『エヴァ破』について言えば、どうして人々はこんなに盛り上がってるんだろう?とまず思うんです。僕は、TV版のエヴァと本作では、そんなに変わってないんじゃないかな、と思っているんですよね。つまり、TV版のときに言い損ねたこと、もしくはうまく伝えきれなかったことを、15年経って庵野秀明も大人になり、過不足なくうまいこと言えたんだな、という印象がある。

蔓葉:おそらく、多くの人は佐々木さんのような理解なのではないか、と思います。その理解でいうなら、僕は『エヴァ破』に関しては否定的です。作品の表現としては、過剰さと表現不足なところが混濁した、旧劇場版のほうが圧倒的に好きですから。

かつてのエヴァは、そこに溢れているディスコミュニケーションの感触が衝撃的でしたが、いまでは作者の庵野さんを含めて制作者も観客も大人になり、普通に楽しめるエンタメになっている。それでも、次回作ではなにかとんでもないことをしてくれるんじゃないかっていう期待もあるから、いまどきの作品との比較では、擁護していきたいです。というのも、『エヴァ破』から個を超えた人と人とのつながりが大切だというように理解する人に対して、われわれは本書で「そう簡単に「セカイ系」の外には出れないよ」、と主張しているんです。

渡邉:エヴァに関していうと、TV版と今回の劇場版(『エヴァ破』)の変化は、90年代からゼロ年代における文化のパラダイムシフトをクリアに象徴していると感じたんです。つまり、まず90年代って、引きこもりなんかに象徴されるように、個人の「実存」とか「内面」とか「自意識」っていうものがとてもフィーチャーされていた時代ですよね。僕らなんかも、「キレる17歳」なんて言われた世代ですけど、言うまでもなく90年代のTV版はそういう雰囲気を象徴する作品だった。

しかし今回の映画では、「実存」や「内面」の問題は後景に退いていて、もっとフラットな世界が描かれている。ほとんど自分の「内面」へのオブセッシブな衝迫がなく、登場人物たちが親密でゆるやかなコミュニケーションのネットワークを形作っている風景が、なんだか意外に感じました。シンジやアスカ、レイなんかは、TV版では個々に自分の殻に閉じこもっていたキャラだったのが、『エヴァ破』ではアスカが料理なんて作っちゃってるし、新キャラのマリも「ガンガンいくぜ!」みたいな「肉食女子」的キャラクターです。こういった新作の要素は、宇野さん的にいえば「バトルロワイヤル」とか「決断主義」を表現しているということになるんでしょうけども。

日常が戦争になってしまった世界、それが「例外社会」なんです(渡邉)

佐々木:それは、『エヴァ破』には「社会が存在している」ってことになるんですよね?

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー

渡邉:いや、「内面」を否定して彼らが外部とのコミュニケーションや闘争に出ていくと言っても、だから社会が存在しているんだという話ではありません。むしろここでのアスカとシンジの関係性っていうのは、公共性や社会性が消滅した後の、もっと私的であるほかない関係性なんです。宇野さんのよく使った言葉で言えば、「中間共同体」や「小さな成熟」を作る関係性だと言ってもいい。

また、マリのガンガン敵をやっつけようぜ!というような、いわゆる「決断主義」的なスタンスも、同じようにこれまでの社会の安定性が失われたからこそ出てくるものだと思います。そこらへんが今回の評論集の問題意識とも通じる、非常に「ゼロ年代的」な要素かなと…ちょっとわかりにくいでしょうかね。

山田:何をもって「社会が存在している」と呼べるかは、「社会」をどう定義づけるかによると思います。『エヴァ破』の世界って、本書や『例外社会』で笠井潔さんが言っている「例外社会」的だということなんじゃないですか?

渡邉:そうですね。「例外社会」という言葉は、ドイツの公法学者のカール・シュミットが、社会的な公共性や、憲法秩序(制度)というものが失効してしまった世界を「例外状態」と呼んだところから来ているんです。現代の例外社会というのは、いわばそうした例外状態の「常態化」、安定的な日常世界の中に、その外にあるはずの無秩序な「戦争」状態が入り込んできてしまう状況のことを言っています。例えば、加藤智大容疑者が、秋葉原の交差点に突っ込んで多数の死傷者を出したアキハバラ事件のようなものが、日常的に起こってしまうような社会を指しているんです。

山田:『社会は存在しない』で言う「社会」とは、おおむね市野川容孝さんが『社会』という本で言っている「社会」、つまり社会保障制度や人びとが互いに支え合うという価値観としての「福祉社会」のことですよね。現代はそれが消失した、殺伐とした状態だと。そこで「社会」を築こうと思っても、つまり綾波が「ぽかぽかしたい」とか言っても(笑)いきなり使徒が来て街(日常)をぶっ壊してしまう、みんなでご飯を食べる可能性すらいつ奪われるのかもわからないのが「例外社会」だと。

蔓葉:「例外社会」といわれてもピンとこない人もいらっしゃるかと思いますが、実はリオタールという哲学者が、1960年代に当時の主に人文学の場面における混乱状態をふまえ、「大きな物語の失墜」がはじまっているといいました。簡単に言えば、人々が信じられる共通の価値観がなくなってしまった社会の状態を表した言葉なんです。文化が発達するにつれ、社会への信頼が失われていく。その意味では、われわれが日頃感じている社会への不信感は、どこかで鋭敏に「例外社会」的なものを感じているからこそ生じているといえます。

渡邉:そして、笠井さんは本書収録の論文で、そうした「例外社会」こそを、「セカイ系」の第二ステージと捉えるべきだと書いています。それで言うと、今回の『エヴァ破』というのは、――『エヴァ』は「セカイ系」の起源だとよく言われますが――いわば、90年代の「実存的セカイ系」から、2010年代の「例外社会的セカイ系」へのシフトを描いた作品だと理解することができそうです。

また、その話と繋げると、佐々木さんは新刊の『ニッポンの思想』で、いまの批評というものが、思想の実質的な中身を問うより、どんどん「プレイヤー化」、「パフォーマンス化」していると指摘されていましたね。それってつまり、「批評的なもの」の外部がなくなり「何でもアリ」になっている点で、「批評の例外状態」と呼んでもいいかと思うんです(笑)。そう考えると、本書と『ニッポンの思想』は、考え方が通底しているのかな、と思いますが。

佐々木:せっかくだから内輪話をしますと、『ニッポンの思想』は、当初の企画ではまさに「セカイ系」的なアイデアをもとに書こうとしていたんですよ。

山田蔓葉渡邉:おおーっ。

佐々木:日本のマンガ家を2人、小説家を2人、劇作家を2人、みたいに90年代の後半から出てきた表現者たちをピックアップして、彼らがおおむね「セカイ系」的な世界観をもっており、それは何故なのかっていうことを、具体的な作品を取り上げながら考えてみたいと思っていたんです。しかし、折しも出版された宇野さんの『ゼロ年代の想像力』が、まさに「セカイ系」を葬送してしまったので、その時点でそうした本を出しても大波に巻き込まれるだけだと思って断念したんです。

細田守作品の変化、『時をかける少女』から『サマーウォーズ』へ

山田:『エヴァ』の話にちょっと戻ると、TV版は後半、登場人物たちの「内面」の問題ばかり扱っていました。「心の持ちようを変えれば世界は変わる」みたいなセリフすらある。さっき佐々木さんは、エヴァは昔と変わってないとおっしゃってましたが、ぼくはそう思わなかった。『エヴァ破』には、気の持ちようひとつで「僕はここにいてもいいんだ!」なんてことにはならないからです。むしろキャラクターたちが気持ちを前向きにもち、行動しはじめていたところに使徒が襲来して破算する。マテリアルな領域で事件が起こって自意識を浸食するわけだから、TV版の最終話とは真逆なんです。

そういう観点から『社会は存在しない』を見ると、まさに「内面」や自意識の問題として「セカイ系」を捉えるのではなくて、むしろ自意識の前提となる「社会構造」の問題として捉えようとしていると言えると思います。「社会構造」の変化を考えずに自意識の問題としてだけ処理しても不十分、というか。

渡邉:僕も山田さんの話にまったく賛成で、やっぱりこれまでの90年代に照準を合わせた「セカイ系」の言説にしても、「キミとボク」のような自意識の問題を重視していたわけです。僕自身もそうでした。しかし、今回の本では、みんな驚くほど「自意識」の話なんてしていない(笑)。

ものすごく乱暴にまとめると、この本の主張のキモは、いまや「セカイ系」の争点というのは、「自意識」や「主体」ではなく、社会や文化の「構造」の問題になっているんだということです。そうすると例えば、宇野さんの『ゼロ想』の議論では、ヘタレな「セカイ系」的自意識では格差社会で戦えないから外に出ろ、というふうになっていた。でもそれは、ロジックが転倒していた。というより、いまだに「セカイ系」を90年代的な実存的回復の枠組み(「引きこもり/心理主義」)で議論を組み立てている点で、実は保守的なロジックを温存しているのではないか、と感じてしまうんですね。

映画監督の細田守さんの作品についても、そうした観点から見れます。前作の『時をかける少女』は、ヒロインがタイムリープというタイムスリップのような能力を手に入れることで、好きな男の子との出会いの一回性の意味を問う、というような作品でした。いわばあれはヒロインの「実存」の問題を扱う作品だったわけです。でも最新作の『サマーウォーズ』では、もっと大きな、「社会構造」というか、佐々木さんが『ニッポンの思想』で使っていた言葉でいえば「ゲームボード」の上で生きる私たちがどのように行動していくべきかといったテーマが込められているんですよ。

昔からあった「セカイ系」的感性が、なぜ今ここまで注目されるの か。僕の関心はむしろそこにある(佐々木)

佐々木:ところで「実存」と、「構造」とか「社会」っていうものは、そもそも二項対立で捉えられるものなのかな?

渡邉:ご指摘はもっともで、例えば、個人的にもそれは、この本の中で密かに示されている「セカイ系」に対する二つの立場の違いに表れていると思っています。というのは、まず冒頭にある笠井潔さんの「セカイ系と例外状態」という論文。ここでは、繰り返すように、いまの「セカイ系」は一種の例外状態という、外部がなくなり、のっぺりした「一元的」な世界と類比的に捉えられるべきだとされている。

しかし一方で、小森健太朗さんの「モナドロギーからみた舞城王太郎」では、「セカイ系」とはひとびとのオタク的な閉じた世界が、「多元的」にいくつもいくつも存在している世界のことだと主張されている。これは、セカイ系を構造や社会から見た捉え方と、「実存」から見た捉え方の違いと言えるでしょう。これは一見すると対照的な「セカイ系」のイメージですが、しかし個々の「実存」の住む世界が多元的になったからこそ、すべてが一つのフィールドに乗せられるようになったとも言えるわけで、両者を簡単に区別することはできない。

蔓葉:渡邉さんの理解を踏まえれば、そうしたさまざまな「セカイ系」についてのイメージを整理するためにこの本を書いた、ということになりますね。

佐々木敦×限界小説研究会『社会は存在しない ――セカイ系文化論』刊行記念トークショー

佐々木:「セカイ系」っていう言葉で表される作品のポイントは、要するにボクの中にセカイがあるのか、セカイの中にボクがあるのか、そのどちらかに極端に振り切ってしまっている、ということだと思うんです。ただ、そうした作品は、ここ10年くらいに出てきたものではなくて、本書でも論じられているように、中井英夫とかシリコンバレー精神とか、歴史を遡ったり、日本の外部にも見つけることができる。

つまり「セカイ系」という問題自体は「ゼロ年代ニッポン」に固有のものではなく、垂直にも水平にもひろがっている。にもかかわらず「セカイ系」を論じることに何の意味があるかというと、それは、そういう昔ながらの問題に「セカイ系」という言葉をマーキングしたからです。なぜ今、あえて「セカイ系」なのか?、僕の関心はむしろそこにある。こんなに「セカイ系」っていう言葉が連呼されるイベントってあんまりないと思うけど(笑)。

山田:もう二度とないと思いますよ(笑)。一応クギを刺しておけば「そんなの昔からあったよ」というのはいわゆる遠近法的倒錯で、順序が逆転している。佐々木さんが言う通り、名づけられ、枠組みが整理された“からこそ”現在から遡って過去のものも発見できたわけで、「前からあった」とか言えるのは、この本がまさにそういうパースペクティブを示したからです。

また、過去の「セカイ系」的なものと現在のそれとの「差異」と「変遷」に注目したのが本書のポイントなので、「みんななんで語りたがるんだろうね」問題にまとめてしまうと、その「違い」の部分が無視されてしまう気がする。なにより、これまで批判か揶揄の対象でしかなかった「セカイ系」を再定式化し、きちんと捉え返したところが本書の最大の特徴でしょう。

佐々木さんはさっき『エヴァ破』についても「なぜ人びとが話したがるのか」と言っていたし、限界小説研究会は作品とその背景の「社会構造」に関心がある、佐々木さんは語りたがる人たちに興味がある、ということでしょうか。

佐々木:宇野さんは「セカイ系」的な想像力に対して「決断主義」という方向性を打ち出した。本書では「そうじゃない」と言うのであれば、ではどうすればいいのかということを聞きたい。「セカイ系」が表象している問題とはどんなものであり、そしてそれに対してどう振る舞うべきなのかという、この二点をはっきり述べることが、「セカイ系」批判に対するアンサーなんじゃないでしょうか。「ポスト・セカイ系」をどう打ち出していくのかっていうことが重要で、この本の続編が「セカイ系文化論2」であってはいけない。

批評家としてのスタンスについて

渡邉:なるほど。とはいえ、佐々木さんと僕らの「セカイ系」に対する捉え方には少なからず隔たりがあるような気がしますし、そもそも今回の本は共著という形なので、ポスト「セカイ系」に対する一つのクリアなパースペクティブをここで語るのは難しい気がします。そこで、問いをずらすようで恐縮なんですが、それはこれからの批評はどうやって書いていくのか?という問題にも繋がりますよね。

佐々木:そう思いますね。

渡邉:例えば、佐々木さんはインタビューで、東さんを筆頭とするゼロ年代の批評っていうのは、あるひとつのテクストと、同時代が抱えている文化的な構造を対応させてみせるというスタイルが一般的だと言ってらっしゃいます。僕もまさにそうした批評を書いてきましたが…。

蔓葉:ただ、そうした批評のスタイル以前に、批評の必要性を感じていないひとたちはある程度いると思うのです。作品は作品で楽しんで読めばいいのではないか、それをいちいち社会的な構造と結びつけるのは、評論家の職業的な勇み足なんじゃないのか、と思ってらっしゃる方も多いと思うんですよ。それはそれで正しいこともあると思うんですが、作品に触れ、何かヤバいことが起きていると「ビビッ!」と来たとき、何かを語りたい気持ちになる体験ってありますよね。評論家は、一人でもそういう体験をした人がいると想定して、その人が感じたことの補足というか手助けをするために、専門的な知識を駆使して文章を書くことが本分なんじゃないかと思うんです。

渡邉:佐々木さんの批評家としてのスタンスは、そうした作品と社会を照らし合わせるのではなく、「自分の面白いと思ったものを伝えたい」ということですよね。

佐々木:一言でいうなら「ここになんかあるよ」ということを伝える作業ですね。基本的にそれしかやってきていないし、それでいいと思っています。みんながそうあるべきだとは思ってないですが。そうした行為は、批評とは呼ばないのかもしれないけど、僕は批評だと思ってるんです。

逆に僕は、ある作品でも作家でも、何らかの時代的な背景と繋げて読んでいくことって、いくらでもできちゃうと思うんです。そういうことをどれだけ主張しても、すべては結局、他者によって相対化される自分の主観の問題になっちゃうんじゃないか。さらに言えば、引きこもりのように脳内世界に住むことと、今述べたように、自分の脳内を社会とつなげて主張してみることって、ほとんど同じことだと思うんですよ。今はことさら「社会」や「公共性」という問題系を立てることが流行っていますが、そこでいう「社会」も実は「セカイ」と同じようなものです。だから、どうしてもそうなってしまう、という現象を今後どうするべきか、という問題はあると思います。

批評って、作家や作品に対する「片思い」なんです(渡邉)

山田:佐々木さんは、『ニッポンの思想』のあとがきで、『未知との遭遇』というタイトルの新刊を出すと予告されていますね。それはどういった本なんですか?

佐々木:『ニッポンの思想』は、意図的にニュートラルな書き方をしました。あれは一種のテスターのような働きをする本だと思います。つまり、それぞれの読者がこの本を読んで抱く反応によって、その人が持つ「思想」に対するバイアスが明らかになるようになっている。

次の本では『ニッポンの思想』で述べたような状況の中で、自分がどう考えてきて、どう振舞うべきだと思っているか、ということについて語ろうと思っています。僕の本のことは別にしても、ゼロ年代はもう終わりで、さすがに「次」をどうにかしなきゃいけない。ゼロ年代の批評は、この作品について論じると、論じてる私の立ち位置はどうなるのか、という先読みばかりしているように見える。それはもう終わりにして欲しいんです。反動的な言い方と受け取られるかもしれないけど、これからは、ある作品とか批評対象について、それについて思考せざるを得ない何らかの強い必然性があって、それに突き動かされているような批評が読みたいんです。

山田:なるほど、「個々の作品」に向かい合う批評を書くと。でも例えばその対極には東浩紀さんみたいな、新しい「理論」を作り、実践することで批評のフレームワークを刷新することに命をかけてきた批評家もいますよね。東さんはここ数年、パフォーマンスの面ばかりが取りざたされるようになっていますけど、本質的にはあのパフォーマンスだって批評の形式をアップデートするという一貫した意図に基づいてやっていると思う。限界小説研究会は……どっちかと言えばどっちのタイプなんでしょうか? 蔓葉さん、いかがですか。

蔓葉:東さんは、何かを読んで、その向こうにある構造が見えてしまう人だと思うんですよね。僕自身、そういう読み方に憧れているところもあるし、憧れ云々を抜きにして、どうしても構造が見えてしまう作品もある。その構造を他人に強要する権利はないと思っていますが、それをしていかなければならない局面も出てくるかもしれない。この複雑な思いを交通整理した結実が、この本かもしれないですね。

佐々木:僕は、理論というのは、個々の作品分析に使えるものをその時々に使えばいいという立場です。構造なんて見出そうと思えば幾らでも見出せるし、それを補完してくれる理論は必ずどこかにある。それはもうフォーマット化されていて、ゼロ年代の批評はその内側での優劣を競っているように思えてしまう。でもそれ以前に問題なのは批評に向かうインセンティヴです。

去年のことですが、早稲田文学で10時間シンポジウムが開かれたとき、パネルディスカッションで僕は、批評という営みが、自己実現と成功願望のツールになりうることを東浩紀が証明したと評したんです。でも僕は、それもいいんだけど、それだけじゃないと思うわけです。つまり、何かに遭遇してしまったから、出会ってしまったから、なにかしらの言葉を紡がざるを得なくなって、そこから批評が生まれてくるのだということです。

東くんは、佐々木さんはそういうけど、成功願望を抜きにして、人はなにかをしますか、と答えましたが、彼の考えも、今では大きく変わってきているんじゃないでしょうか。だって、そもそも批評なんかやっても成功願望が満たされるわけはないし(笑)、それ以外の方法でも、どうすれば自己実現できるのかなんてわからないわけじゃないですか。だから僕は、そういう動機付けとは違うところから発された批評を提示していきたいんです。

渡邉:佐々木さんの新刊が楽しみですね。これは今の佐々木さんの話とも通じる気がするんですが、僕が批評に感じる倫理性というのは、すごい単純なことなんだけど、批評ってようは「片思い」なんですよ。こっちは一生懸命「この作品はすごい!」と書いても、別に作家に頼まれたわけではないし、それを彼らが受け入れるとも限らない。つまり、何が言いたいかというと、批評とは「セカイ系」なんだ!…という熱いフレーズで終わりたいのですが(笑)。

佐々木:僕の場合、何かに遭遇した後、「僕」はこう思う、っていうところはなるべく前面に出さないで、個人的な意見をカッコに閉じる。その上で、この作品は何をしようとしているのか、できるだけリテラルに抽出する。ただ、それでも僕が読んだ、というこの「僕」は絶対に取れない。

『ニッポンの思想』は、テクストから純粋に読み取り得るものとは、かなり違う方向に日本の「思想」が流れていってしまった歴史を書いた本です。その結果、今の思想の状況を招いているわけですが、遡行的に見れば、それも一種の必然であったと考えられる。でも、それももう終わりだと思います。「批評」とか「思想」はもともと「セカイ系」的なものです。その意味で「セカイ系批判」も「セカイ系」です。だからこそ「セカイ系」性の不可避をちゃんと認めた上で、これまでとは違ったやり方で、そこから抜け出る方法を探さなくちゃならない。

山田:それではここで、質疑応答に移りたいと思います。

質問者:大変貴重なお話をありがとうございました。興味深かったのは、自意識や「内面」の問題を、「社会構造」に置き換えて考えるという試みが本書に込められているということでした。

ゼロ年代の問題点として挙げられるのは、批評のもつメタな言語性っていうのが、ネタ、あるいはベタと区別がつかなくなって、機能してこなくなったことだと思うんですよね。メタな言語を担保する基盤は、これからどうにかして作っていかなければならないと思うんです。渡邉さんの論文では、アダルトビデオや『電波少年』といった題材を取り上げながら、「擬似ドキュメンタリー」という問題について論じられていますね。そこにある「擬似性」っていうのは、メタ的な立場に立っているからこそ出るものだと思うんですよ。お聞きしたいのは、その「擬似性」はどのようにして担保されているのか、ということなんです。

渡邉:ご質問ありがとうございます。もともと「擬似ドキュメンタリー問題」というのは、『ブレアウィッチ・プロジェクト』のように、ドキュメンタリーのような現実感を擬似的に仮構したフィクション映画に、ハリウッドのモダンな映画技法からの変容の兆候がある、と問題提起するものです。

そこで、いまのご質問を窺うと、この言葉のうち、「擬似性」という部分に注目をされ、それをある種の「メタ的な視点の確保」だと解釈されたように思います。しかし、僕自身は、むしろあらゆる映像が「擬似的」なものとなった映像世界について問う問題だと理解しているんです。

つまり、それは言ってみれば、映像の「擬似性」を担保する何らかの物質性というか、固有性が絶えず疑われてしまうリアリティが常態化しているということです。これを映画の「例外状態化」だと言ってもいい(笑)。僕の理解では、この本で扱った題材は、そうした現代の傾向を如実に反映しているコンテンツなのです。したがって、ご質問に戻ると、僕個人としては、映画に限らず、もはやメタな批評性とベタなリアリティを区別することはますます困難になっていくような気がします。とはいえ、そうした世界と「批評的」に向き合う意志は今後も捨てるべきではないでしょうね。

山田:残念ながら、このへんで時間が来てしまいました。本日は長時間にわたりご静聴くださいまして、ありがとうございました!

(会場から大きな拍手)

書籍情報
『社会は存在しない』

2009年7月6日発売
著者:限界小説研究会 編
価格:2,650円(税込)
刊行:南雲堂

リリース情報
『ニッポンの思想』

2009年7月17日(金)
著者:佐々木敦
価格:840円(税込)
発行:講談社

プロフィール
佐々木敦

1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。雑誌エクス・ポ/ヒアホン編集発行人。BRAINZ塾長。早稲田大学および武蔵野美術大学非常勤講師。『ニッポンの思想』『批評とは何か?』『絶対安全文芸批評』『テクノイズ・マテリアリズム』など著書多数。

蔓葉信博

1975年生まれ。ミステリ評論家。『ジャーロ』『メフィスト』『ユリイカ』などに寄稿。「ケイオス・メルヘン――古野まほろ論」(『メフィスト』09年VOL.1)、「菅野よう子と広告音楽」(『ユリイカ』09年8月号)など。

渡邉大輔

1982年生まれ。文芸批評家。『群像』『ユリイカ』『メフィスト』などに寄稿。論文に「<セカイ>認識の方法へ」(『波状言論』22号)、「ポスト・ハリウッドは規約で遊ぶ。」(『ユリイカ』08年7月号)、「現代ミステリは「希望」を語る」(『メフィスト』09年VOL.2)など。



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