巨匠の証言バトルで振り返る日本の建築史 石山友美×妹島和世

5月23日から公開が始まる『だれも知らない建築のはなし』は、1970年代から現代に至るまでの日本の建築史を振り返るドキュメンタリー映画である。磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハースら国内外建築家、そして建築におけるポストモダンを定義づけた理論家のチャールズ・ジェンクス、日本発の国際建築雑誌『a+u』を発行した中村敏男など、現代建築の半世紀を牽引してきた巨人たちの貴重なインタビューが、潤沢に余すところなく収録されている。

全編にわたり、ほぼインタビュー素材のみで構成されているが、鑑賞を進めていくと、次第に会話劇のような色彩を帯びていくのが同作の特徴だ。海外勢によるあけっぴろげな日本人建築家への批判に対し、やや諧謔的なアンサーを返す伊東や安藤のそれはいかにも日本人的とも言える一方、彼らよりも一回り上の世代にあたる磯崎は、日本古来の宗教観や歴史を踏まえた独自の建築理論によって、特異な存在感を示す。巨人たちの火花散るやりとりのテンションに、建築ファンならずとも手に汗握るだろう。また、建築関係者にとっては、伝説として語られる1982年の国際会議「P3会議」の内幕など、知らなかった事実が次々と明るみになる、垂涎のドキュメンタリーだ。

今回、公開を記念して同作を監督した石山友美監督と、建築家の妹島和世による対談をお送りする。建築家の石山修武を父に持つ石山、伊東豊雄の建築事務所スタッフとしてキャリアをスタートし、現在は西沢立衛と共にSANAAを率いて、国内外で活躍する妹島。それぞれの立場から、日本の現代建築について語っていただいた。

過去の建築史を知る面白さだけではなく、現在まで続く問題として若い人にも受け止めてもらいたかったんです。(石山)

―『だれも知らない建築のはなし』は、2014年の『ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展』の日本館展示に出品されたドキュメンタリー映像がもとになっていますね。妹島さんは両方とも見られていますが、あらためて感想はいかがですか?

妹島:私たちの世代からすると、若い頃わけもわからないでなんとなく知っていたことを、映画を観て「ああ、こういうことだったんだ!」とわかって面白かったです。1982年当時、世界中の名だたる建築家が招集された「P3会議」の内幕をはじめ、建築家としても初めて聞く話が多くて、驚かされつつ、とても楽しめました。今回の映画版は丁寧に整理されて、以前のものより建築史のタイムラインが強くなった印象を受けました。

妹島和世
妹島和世


石山:もとの映像は、ヴェネチア日本館のディレクターを担当された中谷礼仁さんから依頼を受けて制作したものなんです。日本館の展示は、70年代の小住宅にフォーカスする内容だったのですが、その文脈だと、同時期に重要な作品や論考を発表している磯崎新さんをうまく紹介できないというお話があって。

磯崎新『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
磯崎新『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

―磯崎さんは、都市計画や公共施設などの規模の大きな仕事を多く手がけていますからね。

石山:それで、磯崎さんのインタビュー映像も展示したい、という意図から始まったんです。加えて、70年代は安藤忠雄さんや伊東豊雄さんが海外に出始めようとしていた時期でもありますから、国際的な文脈も映像で押さえたいと。そんなある種のアーカイブプロジェクトとして制作が始まったのですが、それって見ていて面白いものなのかな? と……。

―ひたすら証言を集めてみても、映画としては成り立たないと。

石山:なので何かしらのストーリーラインを付けてあげたら見やすいんじゃないかと思って、70年代以降の建築史に「証言」を当てはめていく構成にしました。さきほどから話に挙がっているP3会議は、「建築の社会的役割」を議論した伝説的な会議ですが、そのテーマ自体は現在まで続いている問題意識だなと感じて。それで映画のはじめに持ってきて、その問いに答える形でそれぞれの人の発言を組み合わせていったんです。

左から:石山友美、妹島和世
左:石山友美

―それで、バトルさながらの会話劇が生み出されていたのですね。そもそも、ヴェネチアに出品した映像を、映画として作り変えようとしたのはなぜですか? きっかけは『イメージフォーラム・フェスティバル』ディレクターの山下宏洋さんからの上映依頼だったそうですが。

石山:それもありますし、ヴェネチアで上映されたものを学生に見てもらったときに、「へー、ポストモダンの潮流があったんだ。P3会議というものがあったんだ」というような感想が多くて。建築史を知る面白さはあっても、現在進行形の問題としては受け止めてもらえなかったんです。それもあって、建築家ではなく、編集者として時代を見てきた二川由夫さん(父、二川幸夫が国際的な建築雑誌『GA』を創刊)のインタビューを追加することで、自分の問題として観てもらいたい気持ちがありました。

P3会議は日本の建築家が世界と出会う、大きな体験だったのだと思います。(妹島)

―映画でも大きく取り上げられるP3会議は、1982年にアメリカで開かれた国際会議ですね。「建築界のゴッドファーザー」といった異名を持つフィリップ・ジョンソンとピーター・アイゼンマンが呼びかけて、世界中の建築家が集まり、「建築の社会的役割」について語り合いました。若かりしレム・コールハース(アムステルダム生まれの建築家。2014年『ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展』の総合コミッショナーを務めた)をはじめ、日本からは、磯崎さんが当時無名だった安藤さん、伊東さんを伴って参加したんですよね。

妹島:じつは私は、ちょうどP3会議があった頃に伊東さんの事務所で働かせてもらっていたんです。今でこそ、日本と世界の間にはネットワークがあり、若い建築家も何か発表すれば、海外からすぐにコンタクトがあったりしますよね。でも当時、世界はすごく遠かった。伊東さんもその下にいる私たちにとっても、P3会議はまったく未知の場所でした。

伊東豊雄『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
伊東豊雄『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

石山:アイゼンマンは「そこに世界があった」と言っていました。

妹島:本当にそうだったんだろうなと思います。映画の中でも、ヨーロッパ出身のレムが「自分は(アイゼンマンに)磯崎を紹介してもらえなかった」なんて言っていて、当時のアメリカが中心たろうとする建築界の空気も伝わってきますね。

レム・コールハース『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
レム・コールハース『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

―P3会議という未知の場所に行くにあたり、当時伊東さんはどんな様子でしたか?

妹島:伊東さんもまだ大規模な公共建築を手がけていらっしゃらなかったし、そもそもそんなに仕事もなかった。それで会議でプレゼンテーションするために新しいプロジェクトを構想する、という感じでしたね。のちに「シルバーハット」(1980年代の伊東の代表作。メタルを素材とする、かまぼこのような半円形が特徴で、開閉可能な天井部のテントによって半屋外の居住空間を実現した)と名付けられた伊東さんの自邸を構想していた時期だったのですが、それまでの自分の考えを1回まとめてみようと、たしかスタッフみんなで準備しました。

シルバーハット
シルバーハット

石山:会議では76年に発表した小住宅「White U(中野本町の家)」の評価が高かったようですね。そのことが後々誕生するシルバーハットに間接的に影響したようです。

中野本町の家 ©多木浩二
中野本町の家 ©多木浩二

―映画によると、安藤さんが「住吉の長屋」のプレゼンをしたところ、出席者の1人から批判を込めた無言の拍手を受けるなど、日本人が手痛い洗礼を受けた場面もあったのかと。

妹島:会議に出席していた建築家の中で、伊東さんや安藤さんのような小さな建築をプレゼンした人はいなかったのでしょうね。帰国後、伊東さんはどんな話が出たか話してくださり、たしかに「White U」のほうが評価されたということだったと思います。それからもう1回考え始めたと記憶しています。そういう意味でも、P3会議は日本の建築家が世界と出会う、大きな体験だったのだと思います。

伊東さんも安藤さんも「70年代は苦しくて、社会とどう向き合うか考えていた」っておっしゃっているけれども、作品を見るとけっこうやりたいことをやっている(笑)。(石山)

―妹島さんが独立した87年というのはちょうどバブル期のピークで、磯崎さんはもちろん、伊東さんや安藤さんとも世代間の違いがあると思います。妹島さんご自身は、80年代以降にどのような意識で建築に携わってらっしゃいましたか?

妹島:伊東さんはなんとなく「自己否定」と「自己肯定」を重ねながら次のステップに進んでいく思考の建築家だと思うのですが、私は目の前にあるものをなんとかやってきたタイプだし、今もそれは変わらないですね。たまたまバブルのピークがまさに落ちようとしているときに独立したので、ちゃんとした仕事は全然なかったです。

妹島和世

―P3会議の頃の伊東さんや安藤さんもそうでしたが、みなさん、仕事のない時代を体験されている。

妹島:そうですね。世の中の景気はすごかったですし、当時の潤沢な予算が日本にスター建築家を生み出した側面もあると思いますが、私の周りは無風状態。ビッグプロジェクトに携わるような大変な目にも遭わなかったけど、遭えもしなかった。あぶない仕事はたくさん来ましたけどね。プランを練って、プレゼンに行って、「じゃあ明日契約しましょう」となったら、不動産屋さんが夜逃げしちゃったり(笑)。

バブル期に建てられたスーパードライホール(1989年 / フィリップ・スタルク)『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
バブル期に建てられたスーパードライホール(1989年 / フィリップ・スタルク)
『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

―うわあ。

妹島:バブルの終わりですからね。だから、仕事があったらコツコツと作るだけだったんです。私が(社会的・建築的な)問題意識が他の人に比べて少ないということもあるかもしれないけれど、伊東さんたちの世代が映画の中で言っているような、「建築家が世の中から疎外されている」「認められてない」「立場がない」みたいなところまで思う余裕もなかったです。今の若い建築家たちは、また違った意識を持っていると思いますけどね。でも、磯崎さんやアイゼンマンのような、キャラクターの強い人が今はなかなか現れないのもちょっと寂しいですね。

石山:社会との葛藤がある一方で、じつはそれとは関係なく、建築家が好き勝手に作品を作っていたというのも、建築の歴史なのだと私は思います。伊東さんも安藤さんも「70年代は苦しくて、社会とどう向き合うか考えていた」っておっしゃっているけれども、作品を見るとけっこうやりたいことをやっているんじゃないかって気がするんです(笑)。私自身も、個人の才能の発露として建築があってほしいという思いがあります。

石山友美

―それぞれの建築家の作品や著作に触れても、みなさんキャラクターが強いし、あえて言えばエゴイスティックでもある。でも、映画の中では伊東さんは「建築は社会とつながれてない」と言うし、安藤さんも「僕は世間を味方にしないといけないんだ」と、社会との関係性が希薄になっていることを、現代の建築の課題として語っています。

安藤忠雄『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
安藤忠雄『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

石山:そうなんですよね。とはいえ、70年代の小住宅って「一発、やってやるんだ!」という純粋な、若さゆえの勢いがあったと思うんです。今と同じように、当時あった社会的な問題に向き合おうとする姿勢は作品を作るときの動機の1つだったとは思いますが、一番根底にあるのは作家としてのエゴだったんじゃないかと思っていて、これはすごく重要なことだと思うんです。今の若い世代の建築家の人たちが、やはり社会と向き合って、地域のコミュニティーと関わって地域活性化を図るという、いわゆる「コミュニティーデザイン」の動きも、新しい何かを生み出すためのきっかけとしてやっているのだとは思いますが……。

ポストモダン建築・新宿区歌舞伎町二番館(1970年 /竹山実)『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
ポストモダン建築・新宿区歌舞伎町二番館(1970年 /竹山実)
『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

湘南台文化センター(1990年 / 長谷川逸子)『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama
湘南台文化センター(1990年 / 長谷川逸子)
『だれも知らない建築のはなし』 ©Tomomi Ishiyama

妹島:たしかに、従来の建築のかたちと、「コミュニティーデザイン」がこれからどう交わっていくのかは、私も気になるところではあります。今は手探りの状態ですよね。

石山:ポストモダンの建築って、バブルの象徴と見なされて過剰で装飾的なデザインだと考えられているけど、楽しい建築が多いですし、私はみんなが言うほど悪くないと思っています。今回の映画でも、いくつかの建築は実際に足を運んで撮影に行ったのですが、やっぱり傑作は今見ても面白い。若い建築家たちが真面目に「社会との関係」ばかりに向かい過ぎてしまうと、本来の建築の楽しさもなくなってしまうんじゃないかと思うんです。それに、流行っていうのは怖いもので、映画の中でジェンクスも、建築界の流行というのも、ファッションと同じで何年かで入れ替わってしまうもので、どんどん淘汰されちゃうんだって言ってます。そうやってポストモダン建築も忘れ去られてしまったという歴史があって、しかしファッションとして消費されない建築が現在でも可能だとすれば、そこには社会との関係だけではなくて、もう1つ、作家のエゴというものも大事なんだと信じているんです。この二つって言葉にすると相反するものに聞こえるかもしれませんが、実は共存できるんじゃないかと、そう思いますね。

「みんなの家」プロジェクトで、まち作り自体に触れられると気づいたんです。今までできるだけ頑張って仕事をしてきたつもりだけど、「与えられた場所でちんまり暮らしましょう」みたいなことでしかなかったのかもしれない。(妹島)

―一方で妹島さんは、伊東さんの呼びかけで、「みんなの家」(東日本大震災の被災地に住民たちが集まるための公共の場を作るというプロジェクト)にも参加されていますよね。これも、コミュニティーデザインの1つに位置づけられると思います。

妹島:従来の建築に対する危機感が、やっぱりあるんですよね。それは日本国内だけでなく海外でも起こっていることで、たとえば、性能のいい建築への偏重。オフィスも家も、空調がよく効くこととか、清潔さだとか、そういう価値観でまちがわーっと埋められていって、統一的な美意識が作られてしまう。そこでちぢこまって暮らすのって、堅苦しいですよね? 私が小学生の頃は、道が舗装されてなくて、歩くとベタベタ泥が跳ねるのが気持ち悪くっていやだなと思っていたけれど(笑)、今や全部アスファルトで、土に触れる機会すらないでしょう。そうすると暮らしを支える精神的な部分も固まってしまうじゃないかと思うし、建築もどんどん息苦しくなってしまう。本当はもっとのびのびと使ってもいいはずなのに。

金沢21世紀美術館 ©SANAA
金沢21世紀美術館 ©SANAA

Co-concepteurs : © Kazuyo Sejima + Ryue Nishizawa / SANAA, Tim Culbert +Celia Imrey / IMREY CULBERT, Catherine Mosbach
Co-concepteurs : © Kazuyo Sejima + Ryue Nishizawa / SANAA, Tim Culbert +Celia Imrey / IMREY CULBERT, Catherine Mosbach

―なるほど。

妹島:「みんなの家」で一番面白かったのは、そこの人との話し合いを通して、自分たちのまちは自分たちで考えて、作るのだと気づかされたことです。それまで「周囲の環境と合う家を作りたいです」なんて言ってきたけれど、考えてみたら、建築家としてだけじゃなく、市民としても、まちを自分たちで作るという権利があるし、義務も当然あるんですよ。今まで、自分ではできるだけ頑張って仕事をしてきたつもりだけど、それでも「与えられた場所でちんまり暮らしましょう」みたいなことでしかなかったかもしれない。

宮戸島月浜のみんなの家 ©SANAA
宮戸島月浜のみんなの家 ©SANAA

―これからの建築を考える上で、そこに1つの回路を見出したと。

妹島:回路というわけではないです。でも「みんなの家」を作る過程で、被災地の漁師の人たちが本当にドキッとするようなことを言ってくれるんですね。「自分たちの子どもたちに自慢できるようなまちを作ろう」とか。最初は、ビクビクしながら「どういう建物にしたらいいと思われますか?」なんて意見を尋ねていたんですけど、「俺たちはあんたがプロだから話を聞いているんだよ。そっちから『これがいい!』という提案をしてくれよ!」と言われたりして。みんなでやるからには自分をおさえることも必要かと思い込んでいたのですが、建築家である自分も「みんな」に入るのだから、自己主張をせずに他人のためにと一方的に考えることが正しいわけではないというのも発見でした。

左から:石山友美、妹島和世

まちや人との関わり方によって、いろいろな関係が生まれたり、膨らんだりする建築を作りたい。(妹島)

―まさに、「コミュニティーデザイン」を進める中で、「従来の建築家のあり方」が問われているんですね。

妹島:それと「みんなの家」には、頼まれた人、施工する人、使う人、という分業があまりないのも良かったです。場所ができ上がる過程を、全員が一緒に喜べるんですよね。普段はクライアントに無事に納品できるか心配で、竣工を純粋に喜ぶという瞬間がじつはあまりなかったのではと思わされました。みんなの考えの連鎖で建物が作られていくことは、建築の1つのあり方として素晴らしいと思います。

―会話のプロセスが建築を作っていく。

妹島:それはこの映画にも共通するかもしれません。ストーリーらしきものはあるけれど「こういう台詞をしゃべってください」という演出はない。かと言ってただ台詞が点在しているわけではなく、ダイナミックな関係が読み取れる。そして見る人の立ち位置、年齢や立場によっても見方が変わる自由さもある。私も、そういう建物を作りたいわけです。まちと一緒に働く建築というか、まちや人との関わり方によって、いろいろな関係が生まれたり、膨らんだりする建築。

石山:そこは私自身も一番大事にしているところです。もともと群像劇が好きで、自分でコントロールできないものに強く惹かれるんです。編集というコントロールは介入していますが、そういう気持ちで作ったつもりです。いろいろな人たちが、互いに会話し合っているような、そういう映画だと思います。

『だれも知らない建築のはなし』ポスタービジュアル
『だれも知らない建築のはなし』ポスタービジュアル

―P3会議で問われていた「建築の社会的役割」は、現代にも通ずる話ですし、建築に限らない普遍的な問題だと感じました。この映画自体が、新たな議論の場にもなっていきそうですね。石山さんはこれが監督2作目ですが、今後どんな作品を作りたいと思いますか?

石山:基本的にはフィクションを作りたいんです。自分で物語を構築することをやっていきたい。でも、今回ドキュメンタリーを作ってみて、思ったよりも楽しかったんです。作っているあいだは相当苦しいんですけど、ずっと建築を勉強してきたこともありますし、建築について考えることや、見に行って体験することが自分自身の一部のような感覚があることに気づきました。どういうかたちかわからないですけど、建築という対象には、いつの日かもう一度チャレンジしてみたいと思いますね。

作品情報
『だれも知らない建築のはなし』

2015年5月23日(土)からシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
監督:石山友美
出演:
安藤忠雄
磯崎新
伊東豊雄
レム・コールハース
ピーター・アイゼンマン
チャールズ・ジェンクス
中村敏男
二川由夫
配給:P(h)ony Pictures

プロフィール
妹島和世 (せじま かずよ)

建築家。日本女子大学大学院修了後、伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、87年に妹島和世建築設計事務所設立。95年西沢立衛とSANAA設立。主な作品に、梅林の家、犬島「家プロジェクト」、金沢21世紀美術館*、ROLEXラーニングセンター*、ルーブル・ランス*等。*印はSANAA 第12回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展総合ディレクターを努める。日本建築学会賞、プリツカー賞など受賞多数。

石山友美 (いしやま ともみ)

1979年生まれ。日本女子大学家政学部住居学科卒業。磯崎新アトリエ勤務を経て、フルブライト奨学生として渡米。カリフォルニア大学バークレイ校大学院、ニューヨーク市立大学大学院で建築、芸術論、社会理論を学ぶ。ニューヨーク市立大学大学院都市デザイン学研究科修士課程修了。在米中に映画制作に興味を持つようになる。監督デビュー作『少女と夏の終わり』は第25回東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門公式出品。



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