現実には目に見えないはずの何かを見せること。あるいは、かつては存在していたが、今はもう失われてしまった何かを目の前に蘇らせること。本記事の主人公、井手健介は、そんな効能の中に身を寄せる行為を「トリップ」と呼んだ。現実社会からの離脱、異世界への没入、繰り返される酩酊……時に反社会的な意志を持って行われてきたこれらの行為こそ、まさに「トリップ」であり、その効能を果たすアートに、我々はどうしても身を委ねてしまう。
2014年夏に惜しまれつつも閉館した映画館、吉祥寺バウスシアターで働きながら、「井手健介と母船」名義で音楽活動を続けてきた井手。彼はバウスシアターの閉館後、本格的なレコーディングを開始、この度リリースされる1stアルバム『井手健介と母船』を作り上げた。「母船」と呼んでいるかねてからのバンドメンバーに加え、石橋英子や柴田聡子、須藤俊明など豪華アーティスト陣と共に作り上げられた本作には、井手の言う「トリップ」感が渦巻いている。美しく穏やかなバンドアンサンブルが奏でる、まるで水面をたゆたうようなメロウネス。時折垣間見える、狂気的なサイケデリア。そして、どこまでも現実から乖離し続ける言葉。あなたは、ここに何を見るだろう? 丸眼鏡の奥にエロスとタナトスへの憧憬を秘めたアナーキスト、井手健介。彼がこの幽玄なる音世界に辿り着くまでを訊いた、彼にとって人生初インタビューをどうぞ。
バウスシアターでやっていた『爆音映画祭』を通して、僕の人格が形成されていったと思います。
―元々、井手さんは吉祥寺バウスシアター(以下、バウス)で働いてらっしゃったんですよね?
井手:はい、大学を卒業してから9年間働いていました。大学時代に映画部で映画を撮っていたんですけど、その時の先輩がバウスで働いていて、「行くところないんだったら、どう?」って誘ってもらって。
―もともとは、ご自身で映画を撮られていたんですね。
井手:高校生の頃から先生のカメラを借りて、それこそ『桐島、部活やめるってよ』みたいな、まさにスクールカーストの世界で映画作りをしていました。普段全然しゃべらない奴にスポットを当てて、「でも、こいつは男だけの時はめっちゃ面白い!」みたいなことを発信するのがモチベーションだったんですよね。
―映画はずっとお好きだったんですか?
井手:高校の頃まで宮崎県に住んでいたんですけど、映画館もないし、CD屋もないし、本当に自然しかないド田舎で。だから、よく「18歳の頃に何に触れていたかが重要である」みたいな言い方をしますけど、恥ずかしいくらいに何も見てなかったし、聴いてなかったんです(笑)。でも、その頃から映像を撮ること自体は好きでした。
―じゃあ、映画館に足しげく通うようになったのは、大学生になってからですか?
井手:そうですね。映画館にいる時の非日常な感覚がひたすら好きで。1時間半とか2時間は完全に外のことを忘れて映画の世界に没入できるのは、真っ暗な映画館でしかあり得ない体験じゃないですか。それがよかったんですよね。でも、文脈や時代を理解して映画を見るという行為を始めたのは、バウスに入ってからです。
―今振り返ってみて、バウスは井手さんにとってどんな場所でした?
井手:バウスでやっていた、『爆音映画祭』(音楽ライブ用の音響セッティングを用いて大音量で映画を上映するイベント)を通して、僕の人格が形成されていったと思います。その9年間で自分の趣向がどんどん変わっていったというか。最初に『爆音映画祭』で『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(2005年公開、カントリーミュージシャンであるジョニー・キャッシュの伝記映画)を観たんですけど、それが最高で。その後にThe Bandの『ラスト・ワルツ』(1978年公開、アメリカのロックバンド・The Bandの解散ライブドキュメンタリー)を観て「なんだ、この映画は!」って衝撃を受けたり。あと『クリスタル・ボイジャー』(1973年公開、デヴィッド・エルフィック監督作品)っていうサーフ映画があって、後半25~30分くらい、ひたすらPink Floydの“Echoes”がかかるんですけど、それがめちゃくちゃかっこよくて。
―映像と音の関連性の部分で影響を受けることが多かったですか?
井手:そうですね。『爆音映画祭』は、チョイスが批評的というか。主催者の樋口泰人さん(映画・音楽評論家)が批評家目線で、「この映画の中では、この音が大事だ」って感じたところに焦点を当てて、音をミキサーで調整するんです。それは、単に映画の中で一番目立つ音を大きくするといった調整ではなくて。たとえば、『GERRY ジェリー』(2002年公開、ガス・ヴァン・サント監督作品)だと、砂漠を二人の男がトボトボとひたすら歩くシーンがあって。足音がずっと鳴ってるんですけど、爆音にすると、その音は歩いている映像とは明らかにずれているのがわかるんですよ。要するに、あえて音をずらすことによって、新たな見えざる何者かの存在を浮かび上がらせようとしたのではないかと。そうやって「見えないものの存在を感じる」という価値観と出会った時に、映画って面白いなと思って、どんどん惹かれていったんです。音に気をつかえば、観ている人の意識は拡張されて、スクリーンの外にまでグワッと世界が広がるんだなって。
―『爆音映画祭』で得た「見えないものの存在を感じる」という感覚は、今、音楽を作る上でも影響を受けていると思いますか?
井手:コードとメロディーができた時に、それが持っている性格みたいなものを感じて、ずっと鳴らしていると、画が見えるというか……エモーションと映像が合わさった、トータル的な情景みたいなものが見えることがあるんです。それが掴めたら、あとはただそれを歌詞にするだけという感じで曲を作ってるんですけど、そこには映画を見てきた経験が関係しているかもしれないですね。
映画って、やっぱり相当理知的な人がやるものだと思うんですよね。僕の実感ですけど、音楽は何よりも肉体と密接で、とにかく直感的なもの。
―バウスで働いていた時から、井手さんは「井手健介と母船」名義で音楽活動は開始されているんですよね。そのきっかけは何だったんですか?
井手:音楽は、大学の時から適当に家で作ったりしてたんですよ。映画はたくさんの人がいないと作れないけど、音楽ならひとりでギター1本だけあればできるかもと思ったので。歌うのは前から好きだったし、意外とオリジナル曲が1曲できたので、「じゃあ、ちょっとやってみよう」って。最初は軽い気持ちでした。
―でも、「音楽ならひとりで作れる」っていう発想の元には、かなり強い表現欲求がありそうですけど、どうでしょう?
井手:表現欲求は小さい頃から相当ありますね。中学生の頃はひとりでラジオ番組を作っていましたから。自分でしゃべって、好きな曲をかけて、録音したものを夜になったら自分で聞くっていう、ただそれだけなんですけど(笑)。他にも、漫画を描いたり、絵を描いたり……幼稚園くらいの頃から、何かしら作っていましたね。運動が圧倒的に苦手で、ものを作ることのほうがひたすら楽しいし、気持ちいいなって思ってました。
―その中でも、音楽が自分にしっくりきたという感じだったんですか?
井手:どちらかというと、映画って、やっぱり相当理知的な人がやるものだと思うんですよね。僕の実感ですけど、音楽は何よりも肉体と密接で、とにかく直感的なもの。思いついたその瞬間にものを出せるのが面白いなって思います。受け取る側としても、音楽のほうが肉体的な快楽はある気がして。
バウスがなくなってなかったら確実に(今回のアルバムは)作ってないですね。
―今回の1stアルバム『井手健太と母船』は、去年の夏にバウスがなくなってからレコーディングを開始されたんですよね。やはり、バウスがなくなったことは、きっかけとしては大きかったですか?
井手:こんなこと言うと変だけど、バウスがなくなってなかったら確実に作ってないですね。バウスでは週6くらいで働いていたので、レコーディングをするという発想すら頭になかったんです。でも、バウスがなくなって時間の余裕ができた時に、その頃から一緒にやり出した達久くん(山本達久。ドラム、パーカッションを担当)が、「レコーディングしようや」って言ってくれて。
―山本さんが声をかけてくれたことが、一歩踏み出すきっかけになった?
井手:……僕、今まで生きてきて、選択をしたことがないような気がしていて。ずっと目の前に差し出された手に引っ張られてきたし、ドアが空いてるから入ってみるっていう感じで生きてきちゃったんですよ。
―でも、今作の制作には石橋英子さんや須藤俊明さん、柴田聡子さんなど、錚々たる顔ぶれが参加されているじゃないですか。こういったプロフェッショナルな方々との作業って、なんとなくではできない、踏ん切りをつけて音楽制作に向かわないとできない作業だと思うんですよ。
井手:ああ、もう、始めてからその大変さに気づくっていう感じでしたね。石橋英子さんは達久くんが紹介してくれて、デモ音源を渡して「弾いてください」ってお願いしたら、すぐにお返事をくださったんですけど、レコーディングの初日に愕然としました。挫折っていうか……「僕からこの人たちに音楽的なことを伝えるための言語を何も持っていない」っていうことに気づいてしまって。制作中もよく「どういうイメージか全然わからない」って言われたりして、「すいません、時間ください」って言って……それでやっと「ああ、ぼんやりしてちゃだめなんだな」っていうことがわかって。
―人と作業をしていく中で、改めて、自分が音楽で表現したいものが見えてきましたか?
井手:そこは、あんまり変わらないんだなって思いましたね。たとえば“青い山賊”だったら「光が逆光で射しているイメージ」とか、自分の中にある情景に向かって忠実にアレンジしていけばいいんだなって。僕の曲にはそれぞれにエモーションがあるんですけど、それは僕が持ってるエモーションではなくて、その曲自体が持っているエモーションなんです。僕は、それをただ何回も再生する道具という感覚で音楽をやっているというか。
―自分が表現したいことをみなさんと作りあげた、というよりも、曲が持つエモーションを形にしていった感覚なんですね。
井手:そうですね。僕は、できるだけ自分と音楽は切り離したいんです。ただ、自分自身の内に向かっていく「ほの暗さ」みたいなものが出てしまう部分もあるんですけどね。あとは、改めて歌詞を見てみたら、昔のことを思い出している歌が多いなって。「今、こういう気持ちです!」っていう感じじゃなくて、もう終わってしまった過去とか、今いる場所から遠く離れた記憶のこととか、今の時点からは失われてしまったことを歌っている歌詞が多いと思います。
僕、子どもの頃、『ドラゴンボール』で敵がやられるシーンのあの昇天する感じで興奮してたんですよ。めっちゃ気持ちよさそうだなと思って見ていたんです。
―今回のアルバムでは、1曲目の“青い山賊”では<いくら目をつむっても あの日の言葉忘れない>って歌っているし、2曲目“帽子をさらった風”でも<目を閉じれば雲に手が届きそうだよ>って歌っているし、すごく「目をつむって」いますよね。そこからも、やはり井手さんは「今」見えているもの以外のものを描こうとしていると感じたんですけど、自分の表現が常にそういう方向に進むのはどうしてだと思います?
井手:郷愁というものに琴線が触れるんだと思いますね。もう失われたものに想いを馳せる。届かないから気になってしまう。そういう感情が単純に好きなんだと思うんです……でも、なんで好きなんだろう?
―それって、井手さんが大学生の頃に映画館に通うようになったことから繋がっている感覚だと思うんですよ。暗がりに居場所を見出す感じというか、現実ではないものに魅了される感覚。井手さんは、本質的にそこを求めているんじゃないですか?
井手:ああ、そうですね。映画とか音楽に触れていて何が楽しいかって、やっぱり、「ここではないどこか」に行けることで。僕は、日常的な歌が苦手なんですよ。身の回りのものだけで完結している映画も苦手で。サイケなもの、トリップさせてくれるものが好きなんです。目をつむってどこかに連れていってくれる感覚が好きだし、自分が作る音楽もそういうものでありたいんだと思います。日常的な歌の中にも、ここではないどこかに連れていってくれる歌はあって、そういうのは好きだなって思うんですけどね。
―さっき「肉体的な快楽」という言葉も出ましたけど、トリップって、音楽や映画の持つすごく大きな効能ですよね。歴史的に見ても、人々がアートにトリップ感を求める理由って、社会に対する反抗だったり、現実からの逃避だったり、色々あると思うんですけど、井手さんの場合はどうですか?
井手:「今」から逃げているっていうことかもしれないけど……ただただ夢見がちなんですよね。実際に僕が経てきた道もそうなんですけど、フワッと吹いてきたものに自然と引っ張られて生きてきた感覚がすごくあって、それが歌詞にも出てると思うんです。ウワーって眩しい光に自分が溶けていくような感じ。抗いようのないものに身を寄せるというか。
―それは、「無力感」とかではなく、あくまで「快楽」?
井手:僕、子どもの頃、『ドラゴンボール』で敵がやられるシーンのあの昇天する感じで興奮してたんですよ。かめはめ波や元気玉に曝されている敵の顔が、どんどん真っ白になっていって、縦の線だけになって、最後は目と口だけになって消えていく。あれがめっちゃ気持ちよさそうだなと思って見ていたんです。たぶんあれ、やられている奴らも最後は気持ちいいと思うんですよね(笑)。光と共になるような安寧というか、すごく激しいものに包まれているんだけど安らかになる感じ。それって、爆音を聴いている時に急にフワッとなる感覚にも近いと思うんです。だから、自分で曲を作る時も、コード進行もメロディーも、どうすれば確実に一番気持ちいい場所に積み上げていけるかを考えているんですよ。単純に言うと、全部気持ちよさの追求だと思います。
いけないものに何回も手を出してしまうような、不道徳な感じ(笑)。そう考えると、歌詞はエロいんですよ。
―「気持ちいい」とか「快楽」という言葉が今日何度も出てきましたが、その感覚って、音楽や映画以外で得られることはありますか?
スタッフ:井手くん、前にアルバムの話をしている時に性愛について語ってたよね? “青い山賊”はセックスの歌だって言っていたような。
井手:ああ、そうそう、セックスのことは結構意識してるかもしれないですね。ただただ気持ちよさに向かっていく感覚は常にあるんですよ。
―え、じゃあ、“青い山賊”の<頭の中はいつもあのことでいっぱい>って、セックスのことなんですか!?
井手:いや、まあ、聴いてくれた人それぞれの「あのこと」でいいと思うんですけど。でも、(続く歌詞は)<夜は果て>ですからねえ……(笑)。はっきりとそれを指すわけではなくて、頭の片隅にはあるような、曖昧なものなんですけど。この曲は、いけないものに何回も手を出してしまうような、不道徳な感じ(笑)。でも、それもすでに終わって果てているという。不道徳で甘美なイメージがあったのかもしれないです。そう考えると、僕の歌詞は捉えようによっては結構エロいかもしれません。“幽霊の集会”とか……。
―言われてみれば、確かに……。でも、そういう不道徳さ、見えない快楽に誘われる感覚を音楽や映画を通して得る体験って、失われていく傾向にありますよね。バウスがなくなってしまったことは、そのひとつの象徴だったような気もするんです。井手さんは自身で音楽を鳴らすことによって、次は自分の手で、人々がトリップできる場所を生み出そうとしているような強い意志を感じました。
井手:意志っていうほど強くはないかもしれないけど、やっぱり自分は「何かが終わってしまった後に歌える歌」を歌っている感覚が強くて。今はもうないものについて、ひたすら歌っている……自分のそういう素養に、バウスがなくなったっていう現実がフィットしてしまったんだと思います。
―この先は、井手さんが聴き手をトリップさせていく立場ですね。
井手:聴いてくれた人がそう感じてくれたらすごく嬉しい。僕は、自分の曲を聴いて「画が浮かんだ」って言われるのが好きなんです。曲の中には余白を残して、聴いた人がそれぞれ色づけられる部分があるように作っているんですよね。だから、聴いてくれた人が経験してきた中で生まれるイメージと、僕が生み出すものがぐちゃぐちゃに混ざって、その人なりの情景が浮かんでくれたら、それはめちゃくちゃ嬉しいですね。
- リリース情報
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- 井手健介と母船
『井手健介と母船』(CD) -
2015年8月19日(水)発売
価格:2,592円(税込)
PCD-244151. 青い山賊
2. 帽子をさらった風
3. 幽霊の集会
4. 雨ばかりの街
5. ロシアの兵隊さん
6. 誰でもよかった
7. あの日に帰るよう
8. ふたりの海
9. 魔法がとけたら
- 井手健介と母船
- イベント情報
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- 『井手健介と母船 1stアルバム発売記念ツアー』
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2015年10月12日(月・祝)
会場:兵庫県 神戸 旧グッゲンハイム邸2015年10月13日(火)
会場:愛知県 名古屋 K.D ハポン2015年11月10日(火)
会場:東京都 吉祥寺 STAR PINE'S CAFE
- プロフィール
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- 井手健介と母船 (いでけんすけとぼせん)
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東京を拠点に活動する井手健介を中心としたバンド。現在のレギュラーライヴメンバーは、井手健介(ヴォーカル&ガットギター/エレキギター)、墓場戯太郎(ベース)、清岡秀哉(ラップスチールギター/エレキギター)、山本達久(ドラムス)、ジュネーヴの4時(コーラス&キーボード)。ほか、幅広いミュージシャンの参加を得ながら活動中。2013年に『2月のデモ(長い犬と黒い馬)』(井手健介ソロ)、2014年に『島流し』と2枚のCDRをライブ会場限定で発表。1stアルバム『井手健介と母船』を2015年8月19日にP-VINE RECORDSよりリリースする。
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