自分と世界を再発見する、フィールドレコーディングの楽しみ方

私たちが普段、音源やライブを通して積極的に耳を傾ける「作品」としての「音楽」は、この世界に存在する音の風景の、ごく一部の領域に過ぎない。ふと耳を向けてみれば、駅の発車音や商空間のBGMのような「無名の音楽」から、ビル風の音や雑踏のような「ノイズ」に近いものまで、じつに多様な音の群れが、われわれを包んでいる。

国内外で多彩な活動を展開する小野寺唯は、人々の意識に上ることの少ないこうした音の領域に関心を抱き、ソロやコラボレーションワーク、あるいは実際の都市空間のサウンドデザインの実践のなかで探求してきた音楽家だ。その小野寺の新作『semi lattice』が、フランスのレーベル「Baskaru」より発表された。都市の環境音を大胆にフィーチャーし、都市の生成と音楽の生成を重ね合わせたような小野寺らしい作品だが、そんな彼が「音への向き合い方が似ている」と共感を持っているのが、音楽プロダクション「invisible designs lab.」。山の斜面に設置された装置の上を転がるボールが静かに音を奏でるNTTドコモのCM『森の木琴』で、『カンヌ国際広告祭金賞』に輝くなど世界中の度肝を抜いた、注目の音楽制作チームである。

ともに「フィールドレコーディング」を重要な手法として使う両者は、環境音とどう向き合い、そこにどんな可能性を見ているのか。またそこから派生的に見えてくる、日本人と環境音との付き合い方の、過去・現在・未来とは? 「最近、面白い音楽がない」。そんなことを呟きがちな人にこそ、ぜひ耳を傾けてほしいインタビューとなった。

音楽は表現として市民権を得ているわりに、立場が弱いんです。ポップじゃないものをやろうとすると、途端に「わからない」と言われてしまう。(松尾)

―はじめに、小野寺さんがinvisible designs lab.(以下インビジ)の活動に関心を持たれたきっかけから、お伺いできますでしょうか?

小野寺:最初にインビジさんに興味を持ったのは、NTTドコモのCM『森の木琴』という映像作品でした。こういった広告の場合、派手に要素を積み上げていくアプローチが多いのですが、広告でありながら、非常にシンプルな映像と音だけで、ものすごく説得力のある演出がなされていたのが印象的でした。環境音を楽器の1つとして音楽のなかに取り込むやり方は、いまではそんなに珍しいことでもありませんが、このような試みを広告メディアで実現させる提案力にはすごく共感します。作品や仕事を見れば、ある程度どういう嗜好の方なのかわかるので、「絶対、話が合う!」と思いましたね。

松尾謙二郎(invisible designs lab.):それで、福岡にいらっしゃった際に、われわれの事務所を訪ねてくださったんですよね。

―インビジの普段のお仕事はどのようなものなんでしょうか?

清川進也(invisible designs lab.):広くは音楽プロダクションです。いわゆる広告制作の流れのなかにわれわれもいて、クライアント、広告代理店、プロダクションがいるうちの、プロダクションの部分を任される場合もあれば、作家としてコンテンツ制作を依頼される場合もあります。

松尾:僕はかつて、メディアアートをやっていたんです。もとは音楽大学の学生だったのですが、学内の封建的な雰囲気に馴染めず、美術畑の友人とサウンドインスタレーションを作っていました。それで、これを仕事にして食べていこうと思ったのですが、「メディアアートをやってます」と言っても、誰も仕事はくれない。それでCMの仕事もはじめました。現在は「音楽をどう拡張するか?」をテーマに、楽曲や楽器の制作からスタジオワークまで、「音」を軸にあらゆることをやっています。

左から、清川進也(invisible designs lab.)、小野寺唯、松尾謙二郎(invisible designs lab.)
左から、清川進也(invisible designs lab.)、小野寺唯、松尾謙二郎(invisible designs lab.)

―小野寺さんもオリジナルワークはもちろん、音楽プロダクションCRITICAL PATHにて、国内外の広告メディア、プロダクト / インターフェイス、建築空間のための楽曲提供・サウンドデザインを手掛けていらっしゃいますよね。インビジへの関心は、新しい音楽家像という部分にもあったのですか?

小野寺:従来の音楽プロダクションの枠組みを超えたところで、音を使った新しい表現を提案しているところは非常に共感できますし、お互いの目的も近いと思うので、これまでも何度かお仕事でご一緒させていただきながら、先輩であると同時に勝手に同志だとも思っています(笑)。

『EXPERIMENTAL SOUND, ART & PERFORMANCE FESTIVAL - 2009 -』+LUS(小野寺唯、小柳淳嗣、濱崎幸友、神谷泰史)展示風景
『EXPERIMENTAL SOUND, ART & PERFORMANCE FESTIVAL - 2009 -』+LUS(小野寺唯、小柳淳嗣、濱崎幸友、神谷泰史)展示風景

松尾:僕らがいま取り組んでいるような仕事が可能になった背景には、メディア環境の変化もあったように感じます。自分たちの仕事と社会のニーズに関連が生まれはじめたと感じたのは、5年くらい前からですね。従来のテレビCMのような広告が相対化されて、クライアント側も新しい表現を求めるようになりました。

清川:音楽はただでさえ目に見えず、抽象的なものなので、企業と仕事をするときは「なぜこの音楽が必要なのか?」「なぜわれわれのような仕事をする人が必要なのか?」という、役割や機能の部分を根本から説明をしないといけないんですよね。

小野寺:社会では当たり前に求められることなのですが、オリジナルワーク以外でも、音がすべてを語っていると言って説明義務を怠る人が多いように感じます。さまざまな立場や分野の人と協働する場合、言葉という共通言語がもっともコミュニケーションを円滑に進められるのであれば、プレゼンテーションも含めた説明、解説というのは、音と同等、あるいはそれ以上に重要だと思います。

松尾:音楽は表現として市民権を得ているわりに、立場が弱いんですよね。ポップじゃないものをやろうとすると、途端に「わからない」と言われてしまう。だから小野寺さんがおっしゃったように、自分で作品が作れて、それを売り込めて、社会と組んできちんと仕事ができる能力が、いまのアーティストには求められていると思います。

小野寺:広告であっても、いままでなかったものを作ろうとしているわけですから、受け手にとってもはじめての経験なわけで、理解を促すための努力は必要でしょうね。

フィールドレコーディングには、自身のいる空間や環境への理解を広げてくれる意義がある。(小野寺)

―ところで、2組の共通点として、フィールドレコーディングした音素材を楽曲に使用している点があります。小野寺さんの新作アルバム『semi lattice』でも、東京とバルセロナで録音された環境音が、楽器音と等価に組み合わされている。コンピュータであらゆる音を自由に作れる時代に、そうした方法を使うのはなぜでしょうか?

小野寺:自分は作曲家なので、フィールドレコーディングにだけ熱心になっているわけではありませんが、曲中に情緒として環境音を挿入するのではなく、1つの楽器(音色)の選択肢として環境音を使いたいと思っています。特殊なデバイスで水の電気分解音を録音したり、コンタクトマイクやニードルマイクを使って、日常では決して聴かれることのないミクロな音響現象をレコーディングしたり。『semi lattice』だけでなく、これまですべての作品で、そういった環境音を一聴するだけではわからないくらい加工を施しつつ使用してきました。

小野寺唯

―たしかに『semi lattice』も、にわかには解きほぐし難い、いくつもの音のレイヤーが複雑に絡み合いながら進行していく作品で、その音像は非常に豊かさを感じさせます。

小野寺:2000年代後半に、多くの楽器メーカーがハンディレコーダーを発表し、制作者にとってフィールドレコーディングがより手軽で身近なものになりましたが、フィールドレコーディング自体や、そのような作品を含めて、そこまで興味を持てなくなっていたんです。しかし、読んだり観たり聴いたりというのと同じで、観察することが作ることを促すところもあるので、いまでもできるだけレコーダーと共に出かけるようにしています。それに、単に音の記録ということ以外にも、フィールドレコーディングには、自身のいる空間や環境への理解を広げてくれる意義もあるので。

松尾:僕の場合、環境音を使ったり、アナログな方向に向かう発端になったのは、パソコンで音楽が作れるようになった1990年代後半ごろ、ラップトップミュージックのライブを観て、「ライブ中になにをやっているかわからない!」と疑問を覚えたことです。あれって、音源は勝手に流しておいて、メールを打っていてもいいわけですよね(笑)。それが嫌で、自分の仕事ではパソコンの画面から抜け出すことをやらないといけないと意識しました。

―僕もあの手のライブをはじめて観たとき、なにをしているのかわからず戸惑いました(笑)。一方、清川さんは最近まで大分県で音を集めまくっていたそうですね。

清川:「おんせん県おおいた新フロジェクト」という企画で、4か月間、大分の80市町村を巡っていました。列車の走る音からクラブのママの投げキッスの音まで、大分に関わる音を集めて、約2分30秒の滝廉太郎の曲“花”を作ったんです。

―すごい!(笑) 「この辺りでこの音が録れそう」と目星をつけて行くんですか?

清川:いや、ランダムに録っていたので、あとで地獄の編集作業を迎えました(笑)。これまでどうして誰もやらなかったのかというと、単純にすごく手間がかかるから。でも、意外とその手間が大事だと思います。たとえば僕らが子どものころは、レコード1枚を買うにも、雑誌でその存在を知り、店まで歩いて行って、ほかのレコードと見比べたりしながら買うわけです。すごい手間だけど、それが音楽の価値の一部を作り出していた。現在の音楽とリスナーの関係は、「どこでもドア」で登山している感じですよね。

小野寺:特に日本では、そういった重層化されたコンテクストまで読み解いてくれる、文芸的な意味における音楽の力が弱くなっている気がします。気になってはいるんだけど、緊張を強いられて疲れるからアート系単館映画には足を運ばないという気風に似ていて、快感原則をいかに喚起、実現するかが作品における商業的価値の重要な部分になっている。コンテクストと快感原則的な気持ちよさを両立させるバランスの取り方が難しくなってきているように感じます。

―快感至上主義的になっていやしないか、と。

小野寺:なにかを作ろうとしたときに、感情移入させて泣かせたり、笑わせたり、気持ちいい気分にさせたりという音楽しか作れなくなってしまうということで、そういった要素も音楽の一部だけど、自分はそれが一番重要だとは思っていなくて、それ以外にも音楽にとって優先すべきこと、音だからできることがあると思っています。そうした音楽を否定するわけではありませんが、すべてがそうである必要はない。感情移入させること自体をテーマにするのではなく、違うところから音楽を作り上げることに興味があるので、聴き手を一瞬立ち止まらせて、考えさせることがもっとも重要だと思っています。

日本のカフェではほぼ必ず音楽が流れていますが、海外だと日本ほど当然ではなくて、流れていない店もけっこうあります。(清川)

―お話をうかがっていると、フィールドレコーディングという行為は、たしかに普段とは異なる角度から世界を解釈して眺める、1つの契機になりそうですね。

清川:フィールドレコーディングした音素材を使うとき、音に規則性を関係づけることが大事なんです。僕の場合、「規則性を作り出す方法」と「既存の規則性を拝借する方法」の2つあって、前者は録った素材をリズムが感じられるように並べるやり方。後者の例でわかりやすいのは「ドドド、ドドド、ドドド」という「ハーレーダビッドソン」のバイクのマフラー音で、あれは楽譜でいうところの三連符なので、そのままリズムとしても使えるんです。(笑)。

清川進也

小野寺:汽笛などの規則的な街の音を使用したスティーブ・ライヒ(ミニマルミュージックの巨匠)の作品“CITY LIFE”にも同じようなアプローチがありましたね。たとえば音に規則性を関係づけることを作曲とするならば、広義の意味で、電車の時刻表も一種の壮大な楽譜になりますよね。電車が演奏者で、時刻表が五線譜の役割をしているわけですから。

一同:たしかに。面白い!

―普段から環境音に意識を向けられているみなさんにとって、日本の都市の音環境はどう思いますか? それぞれの店舗が思い思いの音楽を爆音で路上に向けて流している状況に、ちょっと辟易することもあるのですが……。

松尾:昔ある企業からの依頼で、世界中のATMを回って音の調査をしたことがあるんです。ATMのようなインターフェイスの場合、視覚と触覚と聴覚の三位一体じゃないと、いいデザインにならないのですが、先ほども話にあったように「音の機能」についてはあまり考えられていませんでした。でも、調査をしてわかったのは、日本は音の演出を過剰にやってしまう「おもてなしの国」だったということ。信号機や電車の発車合図にメロディーを流すのって、日本だけなんです。「面白いな」と思う一方、この状況が最善かどうかは疑問です。

松尾謙二郎

清川:カフェのBGMもそうですよね。日本のカフェではほぼ必ず音楽が流れていますが、海外だと日本ほど当然ではなくて、流れていない店もけっこうあります。

小野寺:自分たちが環境音にこだわる背景には、音を空間におけるデザイン要素の1つとして意識してきた日本人の文化の影響もあると思っているんです。たとえば、かつての日本には「蟲聴きの会」というのがあって、秋になると鈴虫などの声が聴こえる場所にみんなで集まって、会を開いていたんです。花火を見るように。

清川:虫の声に趣や風情を感じるのって、日本やポリネシアの人々など、限られた地域の人だけだと言われていますよね。ちょっと眉唾な話でもあるのですが、蝉の声を夏の記号として使うような表現は、邦画のほうが圧倒的に多いはずです。

小野寺:欧米だと、虫の声は「ノイズ」になってしまうんですよね。

友人のドイツ人が「日本はいい国だけど、うるさい」と言い残して帰って行きました(笑)。(松尾)

―でも、その日本人が、なぜ「音の過剰」といえる状況を生み出すのでしょうか?

松尾:サービスと風情の境目がつかなくなってしまったのかな? 友人のドイツ人が「日本はいい国だけど、うるさい」と言い残して帰って行きました(笑)。

清川:ラーメンにたとえると、「全部のせ」にしちゃう。

小野寺:「薄味の塩ラーメンで唸らせてくれよ」と思うことはありますね(笑)。でも本当の問題は、「見えるデザイン」と比較して、多くの人がまだ「音のデザイン=見えないデザイン」の存在を意識していないことかもしれない。いま徐々に、そのことへ目を向けさせる試みが生まれてきている段階だと思います。

左から:松尾謙二郎、清川進也、小野寺唯

―会話や音楽鑑賞など、積極的に耳を傾ける意味の「listen」は重視されるけど、自然と耳に入る「hear」に関わる音は、おざなりにされているのかもしれませんね。

小野寺:それも、やり方によって意識を変えることができると思います。以前に『札幌国際芸術祭2014』のプログラムの一環でワークショップをやったんですね。参加者にレコーディング機材を渡し、札幌の音を録ってきてもらってサウンドデザインをするのですが、「毎日通っている道なのに、こんな音が鳴っていたんだ!」などの反応が多くありました。フィールドレコーディングという行為そのものに、環境と自分の関係を再考させるという価値はあると思います。

松尾:人は環境音を、無意識に整理して聴いていますよね。試しにいま目をつぶったらわかると思いますが、視覚的に一度見た光景だと、目をつぶっても、環境の情報を把握できる。逆に音のない「無響室」では、ふだん何気なく耳で触れていた情報が閉ざされて、とても不安になります。冷蔵庫の「ジーン」という持続音がふと消えて、いきなり「シーン」となって驚くことがあるのと同じです。

小野寺:今回の『semi lattice』にもコメントを寄せてくれた、ステファン・ヴィティエロというアメリカのサウンドアーティストがいるのですが、彼はドナルド・ジャッド(20世紀を代表するアメリカのミニマルアーティストの一人)の作品の振動音を使って音楽を作ったりしています。そうした、日常生活において意識的に聴かれることのない、秩序への指向を持たない微小音は生活のなかにたくさん見つけることができますし、自分にとっては非常にプリミティブな音楽体験であり、また立派な楽器音の1つだと思うんです。

清川:大分のお寺で座禅を経験したのですが、座禅を組んでいると環境音が浮上してきて意識が変わるんです。もしかしたら座禅は、ふだん気づかない音をあらためて聴かせて、感覚の配置を変える仕組みでもあるのかな、と。あと僕の持論ですけど、日本の庭にある「ししおどし」も一種の音楽だと思います。あのBPM(ビート・パー・ミニット、テンポを示す単位)はおそらく2くらいですよね(笑)。それが持続的に聴こえることで、人に安心を与える効果があると思う。

『森の木琴』も、見せ方、聴き方によっては、現代音楽と捉えられかねないけれど、CMというまったく別の文脈に乗せることで独自の作品になった。(小野寺)

―面白いですね。お話を聞いていると、見えてなかった音の風景がせり上がってきます。一般にもそうした音の捉え方が広まれば、音楽の姿はずいぶん変わるでしょうね。

松尾:僕は自分の仕事を、「音楽家の生き方を探求する壮大な実験」と言っています。iPhoneやライブで盛り上がって聴く音楽だけが音楽じゃないし、もっといろんな表現があっていい。そのためなら木琴を作るのも音楽だ、と。もちろんスタイルを確立して、ずっと同じ表現ができる人へのリスペクトもありますが、向き不向きもあります。伝統芸能的に何十年も同じ動作をするのは、一般人には到底できません。音楽家にもピュアな面だけでなく、雑多性が必要かと。

清川:僕もそこは似ていて、音楽のあり方はつねに変化していいと思います。あらゆることに言えますが、テクノロジーの進化によって音楽も変化しているわけで、それに対応できる多様性や柔軟性が求められている。固定的なスタイルで音楽をやっていない以上、時代の流れに敏感になって、それに寄り添いながら変わっていきたいですね。

小野寺:マルチプル化ということでいえば、役者が役を選ぶのと同じで、毎回似たような役しかやらない役者もいるけど、幅と技量を高めるためにいろんな役にチャレンジする役者もいる。単純な好奇心とは別に、自分自身も変化していきたいと思っています。少なくとも、同じところに停滞することへの居心地の悪さは感じるので。音楽家は、楽器を練習し、音楽理論を学ぶだけではなくて、プロモーションができないならできる人を連れてくるとか、1つ上の視点から座組みを作れるような、文字通りのプロデュースができる人が面白いものを作っていくだろうと思います。

―たしかにベートヴェンなど、過去の音楽家は、作曲から演奏、営業活動まで、すべて自分一人でこなしていたわけですよね。その音楽家のあり方が戻ってくるかもしれない、と。しかし一方で、企業との仕事では妥協しないといけない場面も多いのではないですか?

小野寺:映画制作も同じだと思いますが、クライアントワークでは多くの人が関わることで、むしろ多様な意見や要望があぶり出されて、独特のフレームが生まれ、結果的に個人では到達できない面白いものが生まれます。『森の木琴』のアプローチも、見せ方、聴き方によっては現代音楽的と捉えられかねないけれど、CMというまったく別の文脈に乗せたことで、独自の作品になったんだと思います。常に別ラインで新しい作品を作るエネルギー、パワフルさは必要で、アウトプットを多層化していくというのは自然なことだと思います。

清川:クリエイターとアーティストの間に線引きがあるとすれば、締切のような一種の制限ではないでしょうか。クリエイターは締切ありきだと思っていて、どんなに「時間があれば、もっとよくなる」と思っていても、「終わりをつける」ことが重要なんですね。

小野寺:仕事の上では、そのピリオドのつけ方が上手くなるのが、プロということですよね。そういえばブライアン・イーノもあるインタビューで、「2千曲のストックがあるけど、締切がないのでいつまで経っても完成しない」と言っていました。オリジナルワークの場合、放っておくと延々と、いつまでも作り続けてしまいますからね(笑)。

リリース情報
Yui Onodera
『semi lattice』(CD)

2015年9月25日(木)発売
価格:2,974円(税込)
Baskaru / karu-37

1. semi lattice #1
2. semi lattice #2
3. semi lattice #3
4. semi lattice #4
5. semi lattice #5
6. semi lattice #6
7. semi lattice #

プロフィール
小野寺唯
小野寺唯 (おのでら ゆい)

音楽家。音楽と建築を学び建築音響設計に従事の後、国内外の広告メディア、プロダクト / インターフェイス、建築空間のための楽曲提供・サウンドデザインを手掛ける。ダンサー、彫刻家、建築家など他分野のアーティストとのコラボレーションや、海外のサウンドスケープ研究プロジェクトなど、従来の音楽家の枠にとらわれない建築 / 空間 / 環境と音(楽)の関係性を追求している。2015年、フランスのサウンドアート・レーベル「Baskaru」よりソロアルバム『semi lattice』をリリース。

invisible designs lab. (いんびじぶる でざいん らぼ)

音を中心とした制作会社。福岡と東京に拠点を構える。「音」という見えないメッセージと「アイデア」という見えないデザインを「見える」様にしていく事を目標に活動する作家集団。音を軸とした物作りでアナログ、デジタルを越えて活動中。常にフレッシュなクリエイティブを発信すべく、日々精進し、新しい出会いから新しい何かを生み出していきたい、そんなことをいつも考えています。



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