2014年に日本語版が発刊されたフランスのバレエ漫画『ポリーナ』は、ロシア出身の少女が、ダンスを通して自分の生きる道を発見する物語だ。今年10月、数多の批評家から絶賛された同作の実写映画が、日本公開される。古典バレエと現代ダンスの世界を巡りながら、自分の居場所、自分の表現を探すポリーナの姿は、アーティストだけでなく、あらゆる若者の悩みや希望を映し出しているだろう。
今回、公開に先駆けて同作を監督したヴァレリー・ミュラーと、アンジュラン・プレルジョカージュ、そして舞踊評論家として活動する石井達朗のトークを行うこととなった。ヨーロッパ屈指の振付家でもあるアンジュラン自ら編集と振付を手がけたという意味で、『ポリーナ、私を踊る』はひとつのダンス作品と呼ぶこともできるだろう。異色のダンス映画を、三者はどのように捉えたのか?
新人ダンサーである彼女が経験することは、すべて現実にもありえることです。(ヴァレリー)
―なぜ、ヴァレリーさんとアンジュランさんは、バスティアン・ヴィヴェスのバンドデシネ(フランスにおける漫画)『ポリーナ』を映画化しようと思い立ったのですか?
ヴァレリー:いくつかの状況が、幸運にも重なったからです。私もアンジュランも、ヴィヴェスの才能にはかねてから敬意を感じていました。フランスでは、原作と作画を別の人が担当することがあるのですが、彼は絵もストーリーも自ら創造するクリエイティブなアーティストです。
そしてもう一つ。以前私はアンジュランをテーマにしたドキュメンタリーを撮っていて、ダンスを非常に興味深い題材だと感じ、「いつかダンスに関する長編映画を作りたいね」と話していたんです。そんなとき、本作のプロデューサーのディディエが『ポリーナ』の映画化権を買って、その脚色をアンジュランにオファーしました。そうして、彼と私の共同監督が実現したのです。
アンジュラン:輪がつながるように話は進みました。さらに言うと、じつは『ポリーナ』の原作のなかに、私が演出した『白雪姫』が引用されている箇所があるんです。映画でもその一部を登場させていますが、それを一つの起点として、ヴァレリーがシナリオを書き、私が編集と振付を担当しました。
ヴァレリー:私が原作に魅せられた理由をもう一つ。それは主人公ポリーナのキャラクターです。とてもモダンで現代的。紋切り型の古典バレエのダンサーとしてではなく、新しい女性として描写されている点がとても気に入りました。
―石井さんは映画をどうご覧になりましたか?
石井:ダンス映画としても素晴らしく、一人の女性が成長する物語として見ても説得力がありました。両方が一体になっている。
前半のロシアの場面で、ボリショイ・バレエの入団テストに合格するためにポリーナは一生懸命稽古していますよね。そこではポワント(爪先立ち)がクローズアップされます。しかし中盤、エクス=アン=プロヴァンスでの稽古の場面は、対照的にポリーナは床にはいつくばるように稽古をしている。そこでダンサー仲間の一人が、ニーパッドをポリーナに差し出します。激しくヒザを床に打ちつける振付なので、そのダメージを抑えるために。
―印象的な場面ですね。ここにはどんな意図が隠されているのでしょう?
石井:バレエにおけるポワントとは、ある意味でバレリーナの身体と精神を拘束する象徴で、それをバレエの美学としています。バレエから離れたコンテンポラリーの世界においても、彼女は自分の身体に対して新たな挑戦を突きつけている。しかし、その意味づけは大きく変容しつつあります。自分が踊りたいように身体を動かし、内側から溢れ出るものをダンスとしている。彼女は以前よりも自由になっているんです。ニーパッドは、体を痛めるけれどより自由になっていることの象徴です。そういった彼女の人間的な成長と、クラシックバレエからコンテンポラリーダンスに変わっていく過程が、密接に繋がっているのが強く印象に残りました。
映画『ポリーナ、私を踊る』場面写真 / レッスンを受けるポリーナ
ポリーナ役のアナスタシアを選ぶまでに、600人もカメラテストしました。(ヴァレリー)
ヴァレリー:シナリオを書く際に気をつけたのは、フィクションの人生の軌跡に、現実の世界をきちんと反映させることでした。身体の制限、ダンサーとしての学び……新人ダンサーである彼女が経験することは、すべて現実にもありえること、けっしてフィクションではないのだと特徴づけたかったのです。つまり、この映画は一人の女性ダンサーを描いてはいるけれど、どんな若者も体験する解放と自己実現の物語なのです。
石井:例えばロシアでのバレエの稽古の厳しさは、とてもリアルに描かれています。そしてベルギーのアントワープ。ポリーナがコンテンポラリーを本格的に始めることになるフランスとベルギーの街の描写もまた現実感があり、わたしは気に入っています。フランスで師となる女性振付家は、おそらくアンジュラン自身の振付、そして彼のバレエ団での経験を重ねているのではないでしょうか? この振付家を演じているのは女優のジュリエット・ビノシュですね。彼女のダンス教師としての演技もとても素晴らしかった。
アンジュラン:ビノシュはこの役を演じるために、1日2時間、10か月にわたる厳しいトレーニングを経て、映画に臨みました。その間、彼女は私のカンパニーを訪ねて、私とダンサーたちの仕事を注意深く観察していましたから、それが映画にも反映されているのでしょう。
石井:ビノシュは今まで何度かダンサーとして舞台に立ったこともありますから納得です。女優であるビノシュが振付家を演じるように、この映画ではダンサーが俳優を演じ、俳優がダンサーを演じるといった、ミックスが随所に見られます。
―グザヴィエ・ドラン作品に出演するニールス・シュナイダーは本作でダンス未経験にもかかわらず、4か月間トレーニングを積みプロ顔負けのダンスを披露しています。
ヴァレリー:今回のプロジェクトの大きな狙いがまさにそれです。異なる世界に属する人々がそれぞれのノウハウを持ち込み、お互いに刺激し合い、影響を与え合う環境を作りたかったのです。
石井:アントワープでポリーナと出会う舞踏家を演じるのは、ジェレミー・ベランガールです。彼は古典バレエの殿堂、パリ・オペラ座で最高位のエトワールを務めた人物です。彼にあえてコンテンポラリー側の役を配役しているのも、その意図によるのですね。
アンジュラン:ジェレミーはとても勘のいいダンサーです。古典を踊っても、彼自身の個性が出てくる。そして、ちょっと動物的な、しなやかな自然さも持っている。以前から彼は俳優の素質もある予感があって、それでカメラテストに参加してもらいました。
石井:じゃあ、カメラテストで落とすこともありえたんですね? ジェレミーのような実力者であっても!
ヴァレリー:もちろんです。だって、ポリーナ役のアナスタシア(シェフツォワ)を選ぶまでに、600人もカメラテストしたんですから! もちろん、ジェレミーは最初のカメラテストで「間違いない!」と確信しましたけれども(笑)。
古典バレエは窮屈で、コンテンポラリーは自由という先入観は本当ではない。(アンジュラン)
―映画と原作では、かなり内容の異なる部分もありますね。
ヴァレリー:例えば、原作でのビノシュの役は男性ですね。映画化にあたって女性にしたのは、ポリーナが自己投影できる、ロールモデル的な役割を与えたかったからです。実際、コンテンポラリーの世界には女性の振付家がたくさんいますからね。
石井:最後の舞台をアントワープに設定したのはなぜですか?
アンジュラン:ダンスの世界の歴史や現実を反映したかったからです。ベルギーはコンテンポラリーダンスにおいて重要な国です。ヤン・ファーブル、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ヴィム・ヴァンデケイビュスら、重要な振付家を多数輩出しています。
石井:アントワープでの描写は、まさに若いダンサーたちの現実を反映しています。ポリーナはバーでウェイトレスのバイトをしていて、帰ってくるなりベッドに倒れ込んでしまうような日常を送っている。しかし、それでもダンスは続けていきたいと思っている。世界中のどこであれ、ダンサーを志す若者たちは多かれ少なかれああいった生活をしているはずです。
ヴァレリー:ポリーナは、名門ボリショイ・バレエに入団して、安定して給料を得られるダンサー人生を送ることもできたはずなのに、不安定な道をあえて選んだ。
石井:バレエに憧れる多くのロシアの女の子たちにとって、本当に夢のような「ボリショイ」という未来を彼女は掴んでいたんですからね。
ヴァレリー:面白いのは、そういったすべての経験が、彼女のクリエイティビティーの源になっているということです。
アンジュラン:その兆候は少女時代にすでに表れています。バレエ学校では規律通りにレッスンをこなしているけれど、帰りの雪道では、自分のクリエーションしたダンスを踊っている。古典バレエには向かっていかないという予兆が、最初から示されています。そういう風に育ったポリーナなので、大人になっても、ずっと自分の創造を行うことのできる場を探しているわけですよね。他の世界を見ることで「こういう道もあるんだ」と知り、最初の世界を飛び出して、自分のやりたい方に進んでいく。
石井:ロシアを離れるシーンで、怒り狂う母親に向かって彼女はたった一言「私を信じて」と言います。その瞬間から、彼女は自分で人生を切り拓くことを選択する。
―もう一つ原作との大きな違いとして、ロシアでクラシックバレエを教わるボジンスキー先生との師弟関係が映画では薄まっています。それが古典から逃れて、コンテンポラリーで自由を得ようとする移行の過程と結びついているように感じました。
アンジュラン:私自身は、その移行を強調する意図はあまりありませんでした。よく言われる、古典は窮屈で、コンテンポラリーは自由という先入観は本当ではないと思うからです。
古典の規律や窮屈さは、むしろ自由をもたらすのです。古典のテクニックを極めたダンサーは、やがてテクニックを超えて自由になれる可能性を持っている。逆に、コンテンポラリーの自由さを表現するためには、厳格さ、テクニックが必要なんです。
この映画で示したかったのは、いくつかの状態、流派を経験することによって、最終的にポリーナが自分の振付に必要なテクスチャーを手に入れる過程なのです。ですから、最後に彼女が完成させる作品を振り付けることは、私にとって非常に興味深い体験でした。厳密に言えば、あれは私の100%の振付ではない。私がポリーナの頭のなかを想像して、彼女のエモーションを表現しようと思った作品だからです。
ヴァレリー:もちろんポリーナは古典の世界から離れていくのですが、ボジンスキー先生の最初の教えは、彼女のクリエーションのなかに生き続けている。
石井:他者から振付けられて踊ることから、徐々に自分の作品を作ることに目覚めていきますよね。このポリーナの軌跡は、20世紀初頭から現在までのダンスの歴史をなぞるものでもあると思います。
19世紀までは、男性から鑑賞される対象として、女性のバレエダンサーの生き方がありました。しかし20世紀に入ると、マーサ・グラハムやイサドラ・ダンカン(ともにモダンダンスの開拓者として知られるダンサー、振付家)のように自立して作品を作る女性が多く現れてきたわけです。つまり20世紀のダンスの歴史は、女性が自分で自分を表現する歴史でもあった。
ヴァレリー:それこそが最も強く意識して脚色した部分です。原作でのポリーナは、女性ダンサーとして現代演劇の男性アーティストと出会い、革新的な作品を作って名声を得ます。それをラディカルに変更して、自分自身が振付家・クリエーターになる予兆を示した。ですからポリーナのキャラクターは実際に活躍する女性振付家たちを反映させたものになっています。
―日本はいまだに、芸術分野に限らず社会全体が男性的な価値観で動いているように感じます。ヨーロッパの状況はいかがでしょうか?
ヴァレリー:フランスの映画界についていえば、近年、女性監督はとても増えています。それぞれに強い個性を持ち、素晴らしい活躍をしています。一方ダンスの世界はというと、以前アメリカの女性振付家がこんなことを言っていました。「アメリカのダンス界では、やはり男性にチャンスがいっぱいある」。
アンジュラン:先進国であっても、女性がふさわしい地位を得る状態にはまだ至っていないと思っています。だからこそ、進歩を推し進めるためのフェミニストの戦いというのは、これからも継続していく必要があります。ちょっと油断するとすぐに状況が後退してしまいますからね。
―例えば批評界に目を向けると、日本の批評家は圧倒的に男性が多いです。ある意味で、社会の「言葉」を司るのは男性になっている。そこでちょっと飛躍的に考えを広げますが、もしも「振付」を「言葉」と言い換えるならば、ポリーナは自分の言葉を獲得し、創造する人でもある。これはとてもクリティカルな視点だと思います。
アンジュラン:ありがとうございます(笑)。
一つの決定的なロールモデルではなく、どんなものでもありえる。生き方は一つではないんです。(ヴァレリー)
石井:映画の結末に関わることですが、ポリーナは最後に幻想的な情景に出会います。あれはポリーナ自身の幻想でもあり、同時にポリーナがロシアに置いてきてしまったものへのノスタルジーであり、少女時代のアイデンティティーのようなものであるのかもしれません。
ヴァレリー:あそこで示されているのは、ポリーナのイマジネーションの能力であり、子どもの想像力なんです。想像力というのは、しばしば学びの期間においては失われてしまいますが、彼女は自らの模索のなかでイマジネーションを再発見する。
―原作のラストはボジンスキー先生との再会ですが、映画ではイマジネーションと再会している?
アンジュラン:両方でしょう。映画におけるボジンスキーとの再会は、過去へのフラッシュバックではなく、未来へのフラッシュフォワードなんですよ。壁に飾ってある写真をよく見てほしい。どのような人々の写真とともに、ポリーナの写真が飾られているのか。
―全体を振り返ってみて、振付家と映像作家の共同作業はどのようなものでしたか?
アンジュラン:ヴァレリーが圧倒的に強いです(笑)。
ヴァレリー:(笑)
アンジュラン:私が担当した編集というのは独特な作業です。撮ったもの、入れたいものを全部入れてしまうと、3時間近くの映画になってしまう。リズム、ダイナミズムを映画にもたらすためには、編集の段階でドラマツルギー(戯曲作法・作劇法)を新たに再構成するくらいの覚悟をもって臨まなければなりません。どんなに美しい風景、どんなに俳優の素晴らしい表情が撮れても、いい映画にするためには葬らねばならない。それを避ける唯一の手段は、映画をシリーズ化すること。『ポリーナ2』『ポリーナ3』……とね(笑)。
ヴァレリー:アンジュランの素晴らしい資質は、舞台人としての視点を持っていることです。ひとつのショットを考える場合でも、すごくグラフィックな視点を持っている。それから、これはしばしば私を動揺させることでもあったのですが(苦笑)、ギリギリで物事を変えるという可能性を持っている。映画の撮影は事前に準備をして、決められた通りに撮るのが普通ですが、あえてまったく他のことをしてみようと提案できる自由さは、素晴らしい。
映画には3つのエクリチュール(文体)があります。シナリオの文体、映像・監督の文体、そして最終的な編集の文体。それらが合わさって、ある人物の進化、ドラマの進化が表されるのです。
石井:私がアンジュランの振付作品でいちばん好きな、初期の『ロミオとジュリエット』や近作の『N』は、両方ともとても実験的でグラフィックな作品です。それでいて、今の世界とどのように向き合って生きているかというリアリティーが非常に強く出ている。
―ダンスにおけるグラフィックとは、どういうものでしょうか?
石井:劇画的な要素とでも言いましょうか。リアリズムとはまた違い、アウトラインの強いビジュアルを前景化するということです。例えば『N』には、日本のアニメーション『攻殻機動隊』のような映像が引用されています。
アンジュラン:『N』のテーマは、人間の起源から今日まで、まったく終わることのない世界のバイオレンスがテーマです。手法的にはモーションキャプチャーを使ってダンサーの動きを撮影し、そのデータに基づいた無機的なモデルが映像のなかで踊っています。ライブのダンスと、仮想のダンスが同時に存在するのです。
石井:今の話を聞くと、ポリーナの続編が必要ですね(笑)。つまり、(ダンスの世界も)「終わりなき戦い」ですから。ポリーナ自身もきっと、グラフィックな要素を取り入れた作品を作るかもしれない。
アンジュラン:それいいですね(笑)。
―この映画は、世界の若者にどのようなメッセージを送るものでしょうか?
アンジュラン:私が若い人たちに伝えたいのは、人生によって自分の夢が壊されないように、ということです。
ヴァレリー:そして、自己を構築するためには、自分の強さのみならず、弱さも見極めて、その両方によって自己構築してほしい。ひとつの決定的なロールモデルがあるのではなく、どんなものでもありえる。生き方は一つではないんです。
石井:日本ではいまだに、男性と女性のあいだに大きな差があります。それをいかに変えていけるかは難しいところです。日本は昔から伝統芸能が盛んで、そこには男女のヒエラルキーが強くあった。しかし、1990年代に国内で盛り上がり始めたコンテンポラリーダンスは、それを変える意思を持っていたと思うんですね。つまり師弟関係、男女差、世代差、家元などのヒエラルキーに左右されないということ。現在、日本のダンス人口はバレエがもっとも多く、次にフラメンコ、そしてコンテンポラリーと続きます。もっとコンテンポラリーを通した交流が盛り上がってほしいです。
―それが個人の自己実現にもつながっていく。
石井:日本にも、ポリーナのようにクラシックからスタートして、コンテンポラリーに行く人はたくさんいます。クラシックバレエでの自己実現とは言っても、一生コール・ド・バレエ(群舞)を踊って終わる人もいれば、バレエ教師として終わる人もいるわけです。でも、ダンサーとしての自己実現のかたちは多様であって、クラシック、モダン、コンテンポラリー、それに舞踏、フラメンコ……と選択はいくつもある。それを確認する過程が『ポリーナ、私を踊る』には描かれているのだと思います。
- 作品情報
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- 『ポリーナ、私を踊る』
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2017年10月28日(土)からヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー
監督:ヴァレリー・ミュラー&アンジュラン・プレルジョカージュ
脚本:ヴァレリー・ミュラー
原作:バスティアン・ヴィヴェス『ポリーナ』(原正人訳、小学館集英社プロダクション)
出演:
アナスタシア・シェフツォワ
ニールス・シュナイダー
ジェレミー・べランガール
ジュリエット・ビノシュ
アレクセイ・グシュコフ
配給:ポニーキャニオン
- プロフィール
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- ヴァレリー・ミュラー
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1965年10月5日生まれ。芸術と映画の歴史を勉強しながら、助監督及びプロダクションアシスタントとして働き始める。その後ドキュメンタリーだけでなく、マリオン・コティヤール主演『La Surface de Réparation(原題)』(98)などのショートフィルムも制作。また、自身の制作会社であるリチウムフィルムとの共同プロデュースも多く、主な作品は、エヴァ・フッソン監督の『Tiny Dansers』(07)やアンジュラン・プレルジョカージュ監督の『La Dernière Pearle』(15)、オリヴィエ・アサイヤス監督のドキュメンタリー『Eldorado』(07)などがある。『ポリーナ、私を踊る』は彼女がアンジュランと初めて共同監督した長編映画。
- アンジュラン・プレルジョカージュ
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1957年1月19日、フランス・シュシー=アン=ブリ生まれ。古典舞踊を専攻したあと、カリン・ヴィーヌールの元でコンテンポラリーダンスに転向。1980年にはニューヨークに移住し、ゼナ・ロメットとマース・カニングハムに師事する。その後、ドミニク・バゲのダンスカンパニーに入団し、自身のダンスカンパニーを1985年に設立。以降、ソロから大規模なアンサンブルまで、振り付けは49作品にも及ぶ。それらは、世界中のレパートリーともなっており、ニューヨーク・シティ・バレエ団やミラノスカラ座、そしてパリ・オペラ座バレエ団など、有名ダンスカンパニーからも委託されている。CMや映画作品でも振り付けを担当しており、これまでに数々の賞に輝く実績を持つ。さらに、フランス文化大臣はレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエと共に彼をナイト爵、そして芸術文化勲章オフィシエと国家功労勲章オフィシエの名誉職位を授与された。本作は自身初のフィクション映画である。
- 石井達朗 (いしい たつろう)
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舞踊評論家。ニューヨーク大学(NYU)演劇科ブライト研究員・同パフォーマンス研究科ACLS研究員などを経て慶応大学名誉教授、愛知県立芸術大学客員教授。関心領域として、サーカス、アジアの身体文化、ポスト・モダンダンス、ジェンダー / セクシュアリティから見るパフォーマンス論。著書に『身体の臨界点』『男装論』『ポリセクシュアル・ラヴ』『アクロバットとダンス』『サーカスのフィルモロジー』『異装のセクシュアリティ』ほか。
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