東京は、人口、経済の動き、芸術文化の密度において、日本の中心といえる都市だ。しかし必ずしも、あらゆる情報が密集するこの街でなければ「一流を目指せない」「成し遂げられない」というわけではない。東京には、「一流のプロもいるけど、子供だましの連中も多い」――そう語るのは、名古屋在住のラッパー、呂布カルマ。中学生で名古屋に越して以来、名古屋を拠点に活動を続けている。いまや全国規模の知名度を持ちながら、彼はなぜ名古屋にこだわり続けるのか?
そんな呂布とともに今回訪れたのが、名古屋を代表する名所・名古屋城だ。名古屋の街の歴史は名古屋城の築城とともに始まる。関ケ原の合戦に勝利した徳川家康が、名古屋城の築城を開始したのが1610年(慶長15年)。築城に合わせて城下町が形づくられ、都市としての発展が始まった。
昨年、長きにわたる復元事業を終え、完成公開を迎えた「名古屋城本丸御殿」は、江戸期の武家社会の豪華絢爛さを象徴する存在で、「近世城郭御殿の最高傑作」と称され、名古屋文化の原点とも言える。「今」を切り取り描写することに長けたラッパーの視点からみて、当時の最高峰の文化や技術が注ぎ込まれた豪華絢爛な歴史的建造物は一体どのように映っただろうか?
江戸時代に武士が誇った権力の華やかさをヒシヒシと感じさせる「名古屋城本丸御殿」と、この時代を生きる生活者としての心象もラップに刻む呂布カルマ。「歴史の栄華」と「今の生活」のコントラストから改めて、名古屋という街の魅力、そして呂布カルマというラッパーの魅力が見えてきた。
呂布カルマと名古屋城 本丸御殿へ。約10年かけて復元された建築物
―呂布さんは、名古屋城はよく来られるんですか?
呂布:すごく久しぶりに来ました。多分、10年以上ぶりです。友達や親戚が名古屋に遊びに来た時に連れて行くくらいで、地元の人はそんなに頻繁に来たりしないと思いますよ。もっと年をとったら、日常的に散歩に来るのはいいかもしれないですね。
そう語るのは、この日、本丸御殿を探索する名古屋在住のラッパー・呂布カルマ。
はじめに、本丸御殿を簡単に説明しておこう。「金のしゃちほこ」でもおなじみの名古屋城。その中でも、「本丸御殿」は、尾張徳川家の政庁兼住居として建築され、1930年(昭和5年)には天守閣と共に国宝に指定された。しかし、この御殿は1945年(昭和20年)の空襲によって建物のすべてが焼失。それから64年後の2009年(平成21年)から始まった復元工事を経て、去年、再び私たちの前にその姿を披露することとなった。
この約10年間にわたった復元事業は、戦火を免れた障壁画や、江戸時代の図面や記録、戦前に作成されていた詳細な実測図や写真資料などをもとに、史実に忠実に、当時の技術なども使って現代の職人たちの手仕事によって行われたという。
完成した御殿は復元という言葉のイメージを超えており、本物の城を400年ぶりに築いた、というほうが近いかもしれない。
呂布:歴史にはそこまで興味はないんですけど、大きな建築物が好きなんです。城も好きですし、神社仏閣を見るのも好きですね。いちばん好きなのは東京都庁なんですけど、モノとしての存在感のデカさに圧倒されるし、やっぱり、ああいう巨大建築物って、究極の手作りじゃないですか。偶然そこにあるものじゃなくて、全部が計算されて、全部に意味があって作られている……そこにエネルギーを感じます。
この日、我々を案内してくれたのは、名古屋市観光文化交流局の吉田祐治さん。
呂布:この本丸御殿で武士が生活していたんですか?
吉田:そうですね。この本丸御殿で生活したり、政治をしたりしていました。ただ、この本丸御殿が特殊なのは、一度完成(1615年)したあと、いわば将軍用のVIPルームが増築(1634年)されたんです。そうした増築があったゆえに、この本丸御殿は、安土桃山時代の文化と江戸の洗練された文化が混ざり合い文化的にもとてもユニークな建物になっています。
また、名古屋城の築城と城下町の形成にあわせて、武士や町人、多数の職人などが移り住みました。現在の名古屋の文化も、盛んな「ものづくり」も、さかのぼっていくと名古屋城の築城につながっていきます。
この名古屋城本丸御殿は、日本を代表する書院造の建造物としても知られている。
たくさんの観光客が訪れていたこの日の名古屋城。呂布のお馴染みのオールバックは、朗らかな陽気の中で目立ちながらも、どこか豪華絢爛な書院造の建物にフィットしている……ような気がしてくる。
吉田:書院造は、武士が好んだ建築様式なんです。書院っていうのは対面儀礼のための建物のことで、それを中心に作られているのが、書院造です。書院造は、ディティールが面白いんですよね。
お城というと天守閣を思い浮かべる人も多いと思うんですけど、天守閣ってほとんど物見櫓(倉庫)のようなもので、非常に質素なんですよ。本来、お城の中心といえば御殿なんです。御殿は居住のための場所なので、インテリアがすごく重視されていて。部屋の細かいところにこだわりがあるし、そこに様々な技術や工芸や絵画が散りばめられていて、非常に文化度が高いんです。
呂布:なるほど……お城って、天守閣ではなく、あくまでも御殿がメインなんですね。でも、バカ殿って天守閣にいますよね。あれは本当にバカっていうことですか?
吉田:いや、そういうことではなく(笑)。こうした近代城郭のはじまりは織田信長が作った安土城と言われているんですけど、安土城では、天守にも住んでいたんですよ。でもそこから、御殿に住居が移っていったんです。
御殿を見学し、殿様の生活に思いを馳せる。「正直、羨ましくはならないですね」
本丸御殿の中に入ると最初に目を引くのが、玄関一之間に描かれた障壁画、その名も『竹林豹虎図』。ゴージャスな金地の上に描かれた虎の姿は、勇猛かつ、まるで空想の生き物のような不思議な空気をまとっている。この本丸御殿の玄関は、この障壁画にちなんで、通称「虎の間」とも呼ばれているのだという。
呂布:あそこに描かれているのは虎ですか?
吉田:そうです。基本的には、日本は中国を手本に文化を作ってきたので、中国から伝わってきた書物や毛皮をもとに描かれています。中でも、当時のお寺やお城の玄関部分には虎を描くのが流行っていたんですよ。でも、当時の日本の人たちは実際の虎を見たことがなかったので、どこか猫っぽいんですよね(笑)。あと、当時の日本人は豹のことを虎のメスだと思い込んでいたらしいです。
ちなみに、虎の絵は派手なので目を引くんですけど、四足の動物って、当時、描かれる絵画のモチーフとしてはいちばん格式が低かったんです。ここから部屋の格式が上がるにしたがって、描かれているものの格式も上がっていきます。4本足の虎から2本足の鳥へ変わり、人へと変わり、最後は水墨画に辿り着きます。
呂布:じゃあ、この金箔の上に描かれている虎は、どちらかというと「若者向け」というか。この御殿にやってきた人に向けて「一発かましたるか!」って感じですね。なんだかヤンキー文化みたいですね。この間、日光東照宮に行ったんですけど、あそこもちょっと悪趣味なぐらい豪華で(笑)。「ヤンキー趣味の元祖みたいだ!」って思ったんですよ。
吉田:……いやぁ、呂布さんの視点、面白いですね(笑)。ちなみに、日光東照宮ができたのと、名古屋城本丸御殿が建築されたのは実は同時期なので(日光東照宮は、名古屋城本丸御殿が完成した2年後の1617年に創建され、1636年に大改築が行われている)、呂布さんの指摘は面白いです。
対面儀礼に使われていたという「表書院」、藩主が身内や家臣との私的な目的で使用していた「対面所」、そして三大将軍徳川家光の上洛に合わせて新築された「上洛殿」へと移動していく。呂布の言う通り、訪れた人に「一発かます」ような、見るからに豪華な襖絵の表書院。「風俗図」と呼ばれる、庶民の暮らしが淡く穏やかに描かれた対面所。奥へと移動するごとに、その豪華さの質が深まっていくようだ。
吉田:表書院は、お殿さまとの謁見に使われていた部屋なんですけど、三之間、二之間、一之間とあって、来た人の身分によって通される部屋が違うんです。
呂布:なるほど……。こうやって当時の武士の生活を垣間見ても、正直、羨ましくはならないですね。すごく不便そう。殿様、大変だっただろうなって思います。襖1枚隔てた相手に声かけるのも、頑張って声張っていたんだろうなって思うし(笑)。対面所の襖絵に描かれているような庶民たちの方がよっぽど楽しそうですね。
「語り継がれるのであれば『名古屋の呂布カルマ』として語られるようにはなりたいですね」
10年間にわたり行われた名古屋城本丸御殿の復元プロジェクトでは、障壁画における伝統画法や、木造建築技術、美術工芸の技術など、様々な伝統技術・技法が用いられた。その復元作業は、建物の復元のみならず、それを作り上げた技術・技法の継承という意味合いもあった。呂布も音楽作品を作る立場の人間だ。彼の活動において、果たして「後世に残す」という目的はあるのだろうか。
呂布:もしかしたら自分も「時代を象徴したラッパー」みたいな感じで、何百年か後に語り継がれていてもおかしくないわけですよね。そう考えると面白いですけど、でもぶっちゃけ、死んだ後のことはどうでもいいです。死んだ後のことまで考えるのって、品がないと思うんですよ。「死んだ後まで自分の名を残したい」っていうのは、下品な自己顕示欲だと思う。死んだらゼロでいいです。生きている間にしっかり評価してほしい。
絵画の世界とかでも、死んだ後で評価される、みたいな話があるじゃないですか。「そんな不幸な話ねぇな」って思う。自分の死後、転売ヤーみたいなやつらが自分の作品で金儲けしていると考えると、死んでも死にきれないっすよね。
―今の呂布さんは、評価されているといえるのでは?
呂布:まぁ、ちょこちょこ評価されてきているとは思いますけど……まだまだ足りていないとも思います。それに、せっかく評価されて語り継がれるのであれば、ちゃんと名古屋という街とセットで、「名古屋の呂布カルマ」として語られるようにはなりたいですね。
「東京には一流のプロももちろんいるけど、素人が素人向けに商売しているような、子供だましの連中も多い」
名古屋城本丸御殿の見学を終えたあとは、呂布行きつけのバー「日本酒処 またたび」へと移動。
呂布:「またたび」は家からちょっと離れているんですけど、地方から名古屋に来たミュージシャンを連れてきたりもしますね。ここに来れば友達もいるし、知らない人と話すこともできるし、安いし、なにより、やかましくないのがいいです。
この日も、店主おすすめの日本酒をしっぽりと呑みながら取材にこたえてくれた呂布。ラッパーとして全国的な知名度を誇る彼が、名古屋を拠点に活動し続ける理由とは、一体どこにあるのだろうか。
呂布:よく「東京に出ないの?」とは言われるんです。東京には一流のプロももちろんいるけど、素人が素人向けに商売しているような、子供だましの連中も多い。でも、地方都市で名前を馳せてきた人たちは、プロフェッショナルな人が多いんです。生き残るのが大変な中でやってきた人たちなので。そういう中で育ってきた本当のプロなら、どこにいても大丈夫なんですよね。
「私生活で、いまいちばん興味があるのが子育てです」
現在、1児の父でもある呂布。彼にとって名古屋は、自分が育った街であり、子育てをする街としての意味合いも大きいようだ。
呂布:子育てをするようになって、住む街についてもすごく考えますね。「子供が、この街で進学していくんだなぁ」とか。そもそも「仕事に合わせて住む場所を変える」っていう考え方が僕は嫌いなんです。生活があってこその仕事だと思うので。海外移住も僕には考えられない。「親になにかあったときに駆けつけられないじゃん!」って思う。
基本的には、自分が育った街で生活したいんですね。自分の親や祖父母の世代の人たちが、この街で家を持ち、仕事をして、子供を育てようって決めた街には、それ相応の魅力があると思うんです。僕の親が、名古屋で僕を育てることを決めたのならば、名古屋も、きっといい街なんだろうと思う。
―呂布さんは、ご両親に対する敬意が深いんですね。
呂布:昔は全然なかったんですけど、自分が子育てをやるようになってから、少しずつ出てきましたね。僕は、親が若い頃に生まれた子供だったんですけど、自分がその親の年齢の頃には、到底、子育てなんてできるような状況じゃなかったから。
―子育ては楽しいですか?
呂布:楽しいですね。私生活で、いまいちばん興味があるのが子育てです。子育てって、貧乏人から金持ちまで、昔からみんながハマってやってきたことだけあって、めちゃくちゃ楽しいですよ。
自分に子供ができるまでは、みんな「生まれちゃったから育てている」みたいな感じなのかなって思っていたんですけど、いざ子供ができると、子育て自体が立派な趣味になるんですよね。どれだけでも手がかけられるし、同世代の子育てしている者同士の共通の会話にもなるし。楽しいですよ、「みんなやってるゲーム」みたいな感じです(笑)。
「名古屋は、東京や大阪になびかずに、自分たちの文化を作ろうとしている街だと思います」
呂布だけでなくCampanellaやCOVANなど、名古屋からは現在、多くのラッパーが優れた作品を発表しており、歴史を振り返っても、コアな者からメインストリームでの成功を収めた者まで、名古屋からは数多くの有名なヒップホップアーティストが輩出されてきた歴史がある。そんな名古屋のヒップホップシーンを、呂布はどのように見ているのだろうか。
呂布:ヒップホップは地域性が出るのが面白いところだと思います。その地域特有の表現があるし、リリックの中には具体的な地名も出てくる。その街で生きているやつが作っている音には、その街の雰囲気が出ていると思います。
呂布カルマ『SUPERSALT』を聴く(Apple Musicはこちら)
―呂布さんから見て、名古屋のヒップホップシーンの特色は、どのような部分にあると思いますか?
呂布:他の街とは、格好の付け方が違うなって思います。名古屋はシリアスな人が多いんですよね。見栄っ張りが多いからかもしれないですけど、大阪だと、「カッコいい≒面白い」みたいな感じだと思うんですけど、名古屋では「面白さ」があまり求められない。良し悪しですけど、その点は名古屋が他の街と違う点ですね。突っ張って笑顔を見せない人とか、冗談通じない人が多いんです。
―なぜ、そうなるのでしょうね。
呂布:なんでなんですかね(笑)。まぁ、名古屋はコンプレックスが強い土地柄でもあるんですよ。東京や大阪に対するコンプレックスは、深層心理にあると思う。こう言うと悪く聞こえるかもしれないですけど、言い方を変えれば、東京や大阪になびかずに、自分たちで自分たちの文化を作ろうとしている街だと思います。
僕も、東京に行ったときにセミプロみたいなやつらがヘラヘラしているのを見ると、自分の中の名古屋のスイッチが入るんですよね。「こいつら誰ひとりとも仲良くなる必要はねぇな」って(笑)。
東京と大阪の間に挟まれて、独自の文化を築いてきた名古屋の歩みは、今に始まったことではない。名古屋城築城の昔から、それは筋金入りの伝統芸だ。
「今名古屋のラッパーでいちばん知名度があるのは、僕なんですよね。だとしたら、盛り上がっていないのは自分のせいなのかなって」
―現状、名古屋のヒップホップシーンは盛り上がっているといえますか?
呂布:いや、全然盛り上がっていないですよ。今の名古屋には20代のスターがいない。僕みたいな、じっとりとしたアンダーグラウンド出身というよりは、「酒! 女! 喧嘩!」みたいな、まったく違う角度のネアカなパーティー野郎が出てきてくれると、自然と人も集まってくるんですけどね。
―名古屋のヒップホップシーンが盛り上がっていないというのは、意外でした。
呂布:東京ではヒップホップが流行っていますもんね。名古屋にはいいプレイヤーはいるし、音源ベースで見ると盛り上がっている感じはするかもしれないけど、実際に人が集まっているパーティーがあるかというと、そうでもない。
―呂布さんが旗を持って名古屋のヒップホップを盛り上げていこう、という気持ちはないですか?
呂布:最近、ちょっとずつその気持ちが芽生えてきました。前まではそんな気持ちなかったし、「名古屋、盛り上がってねえなぁ」って、ずっと街のせいにしていたんですけど、他の地方都市を実際に見て改めて思うのは、名古屋ってすごく都会なんですよ。人口も多いし、街自体の景気だっていい。それなのにヒップホップが盛り上がっていないのはもったいない。
それによく考えると、今名古屋のラッパーでいちばん知名度があるのって、僕なんですよね。だとしたら、盛り上がっていないのは結局、自分のせいなのかなって。僕も今、やっとお金や人を動かせるポジションになってきたので、そういう性分ではないですけど、名古屋のヒップホップ全体のことも考えていかないといけないかなって思います。人のせいにしてらんないですね。
徳川家康が築いた城下町のうえに、400年の歴史を積み重ね、東西の狭間にありながら独自の文化を育んできた街・名古屋。ここで生きる現代のアーティストにも、名古屋の文化の命脈は受け継がれている。
時を越えてよみがえった街の原点と、現代を生きる人々の生き様。歴史と今を見比べることで、この街ならではの面白さをさらに感じることができるかもしれない。
- 施設情報
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- 名古屋城
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開園時間:9:00~16:30
ただし、本丸御殿、西南隅櫓へのご入場は16:00まで。
※2019年8月31日まで開園時間を午後5時30分まで延長しています。(建物内へのご入場は17:00まで)観覧料:大人500円、名古屋市内高齢者(65歳以上)100円、中学生以下無料
※団体割引あり
- リリース情報
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- 呂布カルマ
『SUPERSALT』 -
1. さようなら
2. white heaven
3. W.L.J.C
4. ずっと変 feat.BASE
5. サン=ジェルマン
6. メヲミテミナ feat.日系兄弟
7. Mirror House feat.ZAO
8. 悪い夢
9. ズルムケ
10. Lost License Boys feat.Campanella
11. ヤングたかじん
12. Voice of TUNK feat.MAKER
13. YABO
14. CALM DOWN(album version)
- 呂布カルマ
- プロフィール
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- 呂布カルマ (りょふ かるま)
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日本のヒップホップMC。愛知県名古屋市を拠点に活動している。JET CITY PEOPLE代表。大阪芸術大学建築学科出身の父親のもとに生まれ、小学校時代を大阪府で過ごす。中学校に入ってから愛知県名古屋市に引っ越し、中部大学の附属高校を卒業後、名古屋芸術大学美術学部に入学。大学を卒業後も、フリーターを続けながら小学生からの夢であったプロの漫画家を目指すも挫折し、本格的にラップを始める。2018年5月9日に、5枚目となる最新アルバム『SUPERSALT』をリリースした。
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