最近、教育が騒がしい。小中学校の指導要領が変わって、プログラミングやアクティブラーニングの必要が唱えられるいっぽうで、大人もアートやクリエイティビティを学ぶべし、と叫ばれている。技術革新や社会変動のなかで、どうすれば人はよりよく生きられるのか。この激動の時代を、私たちは生き残っていけるのか。こんな希望と危機感が、人に教育への欲求を植え付けるのかもしれない。
渋谷PARCOの9階でスタートする10代向けの学び舎「GAKU」内に開講する「東京芸術中学」は、計15名のゲスト講師による特別授業、菅付雅信とジョイス・ラムによる座学を全40回にわたってお送りする、一風変わったアートスクールだ。同企画を主導する菅付は「最もアタマが多感で吸収力の高い中学生」を対象に、アートを教えることの必要を訴える。では、その必要性とはいかなるものだろうか? 特別ゲストの一人である美術家の会田誠を招き、両者が考えるアートから得られる学びについて語ってもらった。
※この取材は東京都の外出自粛要請が発表される前に実施しました。
「平々凡々な中学生」だった菅付と、変わり者だった会田。ともに「悪気のない授業妨害」をするタイプの子どもだった
―ここにいる全員がかつて通ってきた道ですが、中学生ってどういう時期なんでしょうね。
菅付:正直、いまの中学生がどんな感じなのかは、さっぱりわからないですよね。
会田:菅付さんはどんな中学生でしたか?
菅付:僕は宮崎県宮崎市で暮らす、きわめて平々凡々な中学生でした。音楽が大好きでしたけど、アートとかクリエイティブの世界に行こうだなんて夢にも思っていませんでした。そもそも親父が県庁で働く堅い公務員で、自分が育ったのも県教職員組合住宅という、まわり全員が県庁の人と学校の先生しかいないところでしたから、自分も公務員になるものだと疑わずに思っていました。まあ洗脳されてましたよね(笑)。
会田:僕の場合は、かなりの変わり者だったと思います。言葉は選びますけど……いまでいったらADHDというか。小学生のときから校長室に母親がしょっちゅう呼び出しくらうような感じでしたし、早い段階で「自分はまともな人生は歩めないだろう」とわかっていました。絵はうまかったので美術の方向に行くのかなあ、くらいの感じ。ありがたいことに親も油絵の具のセットをせびったら快く買い与えてくれましたから。
菅付:いい親御さんですね。
会田:典型的なリベラルな親でした。父親は新潟大学の社会学の教授で、性格的にも思想的にも、人に押し付けるのはよくない、という考え方の持ち主でした。とはいっても、面倒くさい子どもの教育からは逃げてくような、よくある日本の父親タイプではありましたけど。
菅付:僕も小学校低学年のときは、問題児だったので親近感が沸きますね。授業になるとやたらと手をあげちゃうんですよ。先生が答えに至るまでのプロセスを喋っている途中で、答えを先に言っちゃうような生徒で(笑)。
会田:僕もそんなタイプでした。悪気のない授業妨害というか。ある意味、この世が楽しすぎちゃうんですよね。それで動きすぎちゃう。
会田誠の子育て。息子・寅次郎の成長を振り返り「親の期待や希望はなんのあてにもならない」
―実際の子育て・教育について伺いたいのですが、寅次郎くん(会田家の長男)は大学入学だそうですね。これまでの成長を振り返ってみてどんなことを思っていますか?
会田:そうですねえ。親が希望してたことの多くは裏切られましたね(笑)。
息子が幼稚園ぐらいのときに、僕の希望もあって東京の都心から、千葉の九十九里浜あたりの田んぼ地帯に引っ越したんですよ。田舎で暮らしたいという気持ちもあったし、寅次郎には田舎暮らしを経験させて、少し海とか山とか虫とかに親しむような人間にもなってほしかった。ところが逆効果でした。もともと幼稚園の頃からインドアすぎるやつだったんですが、田舎に行ったらますます引きこもるようになりまして。
土地柄もあるのでしょうが、幼稚園も小学校も保守的なわけですよ。教育も「ぴしっと整列しろ」みたいな。それが寅次郎には合わなかったようで、小学校の途中から特別支援学級に移されたんです。
菅付:それは先生が指定しちゃうんですか?
会田:はい。精神科の診察を受けなさい、そこでテストを受けなさいとか言われて診断を下されるんです。それで普通のクラスと支援学級の両方に在籍して、そこを往復する日々を過ごして。4年生くらいで普通のクラスに戻ったんですけど、まあ言ってみれば隔離させられたわけで、それは決してよい体験ではなかった。そのあとに引っ越した川崎ではわりと馴染めたので、千葉との相性がよくなかったのかなあ、と思ってます。
―環境の影響は大きいですからね。
会田:ともあれ、寅次郎はずっとインドア人間ですね。それが功を奏したというか、妻(美術家の岡田裕子)が仕事で使っていたパソコンを勝手にいじるようになって、あまりにも独占したがるのでわりと早い時期にマイパソコンを持たせたんです。それ以来ずっとパソコンが友達で、いつのまにか独学でプログラミングをするようになってました。
小さいときは「プログラミングできたんだー!」なんて言って見せにきて「ここをこうすると色が変わる。やったー!」とか言ってましたね。いまだにプログラミングがよくわかってない自分からすると「は、それが? そのために3日間もかけてたの?」って感じでしたけど(苦笑)。だから、親の期待や希望なんてなんのあてにもならなくて、子どもをコントロールできると思ったらダメなんだな、と。
「(息子に)『アートの方にだけは来るな』とだいぶ前から言ってました」(会田)
菅付:息子さんをアート方面に差し向ける、みたいなことはしなかったんですか?
会田:むしろ「アートの方にだけは来るな」とだいぶ前から言ってましたね。食えないのが一番の理由ですけど、僕の息子もアーティストっていうのは世襲みたいでよろしくないじゃないですか。中学のときに東京都現代美術館の『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』展(2015年)に「会田家」名義で参加することになっちゃいましたけど、そのときも「こういうので勘違いしちゃいけないぞ。これは一回限りの企画なんだぞ」と言っていました。だいたいあのChim↑Pomだってまだろくに食えてない業界なんだから……とにかくアートに近づけさせないようにしていましたね。
菅付:(笑)
会田:ただ、寅次郎にとって画廊や美術館のバックヤードとかは、むしろ落ち着ける場所だったみたいなんですよ。美術関係者の子どもさんの多くは小さいときから親にあちこち連れまわされて「もうアートのところに行きたくない!」なんて訴えることがざらにあるようですけど、それは子どもたちの楽しい世界を知っているからなんだと思います。ところがうちの息子は、幸か不幸か……不幸だと思いますけど、同年代の友達がいなかった。両親の因果な職業のせいで一般社会から阻害される人間になってしまったかもしれないので、うちの息子がうまく育っているとも限らないですよ。
物心ついたあたりから、周囲に結成前夜のChim↑Pomとかがたむろしてて、チン毛が生える前からの自分の黒歴史をよく知ってるわけだから、いまになってみたらそりゃあウザいだろうし。なので、最近はコミュニケーションがぎこちなくなってますね。それについては悪いなあ、と思ってます。
「人生の早い段階で変なものを経験しておくとよいかもしれないよ、くらいの気持ちです」(会田)
―菅付さんが「東京芸術中学」のゲスト講師に会田誠さんを呼ぼうと思ったのはなぜですか?
菅付:僕が企画の中身を考えるときは、タイトルが先に閃くことが多いんです。それでまず「東京芸術中学」というタイトルが閃いたんですけど、その数秒後に思い浮かんだのが会田さんでした。会田さんは、日本を代表するアーティストで、子どもがいて、そして人に教えた経験のある方ですからね。
会田:いやあ(苦笑)。僕は神保町の美学校で4年間教えてましたし、美大の非常勤講師も合計で4年間くらいやりましたけど、教師としては全然ダメですよ。まあ今回みたいに、2回限定の一期一会の出会いならできることがあるかもしれないし、なんなら得意かもしれないとも思ったので、ご依頼いただいて迷わず「やります」と答えてしまったんですけど。
―教師に向いてない理由というと。
会田:美大みたいな場所の教職は一年通して学生のケアをしっかりやらなきゃいけないですからね。僕には責任重大すぎて。そもそも学生だった時代から僕は特殊すぎて、アーティストになったのも我流ですから。僕の方法論を100人規模の人全員にはおすすめできないです。
ただ、今回ははじめて現代美術に触れるような中学生が対象でしょう? その子たちにちょっと刺激的な経験を提供できるならば、やる意味もあるかなと。人生の早い段階で変なものを経験しておくとよいかもしれないよ、くらいの気持ちです。
菅付:まさに「刺激」は僕らが目指していることなんです。年間40回の授業があるとはいえ、実際の学校や塾と比べたら圧倒的に時間は短いですから、やれることの限界はある。だからこそ、ちょうどよいかたちで脳ができあがりつつある中学生に、刺激や気づきを与えることがミッションだと思うんです。
「美大で教えてわかったのは『大学一年生から美術教育をしても遅すぎる』ということでした」(菅付)
―一風変わった中学ですから、いろんな選択肢があったと思うのですが、なぜアートに特化しようと思ったのでしょうか?
菅付:最初に会場サイドから企画を持ちかけられたときのお題は「10代」で、幅が広いなあって思ったんですよ。10代って小学生から大学生まで入るじゃないですか。そのときに思い出したのが、多摩美術大学で教えていた4年間のことでした。統合デザイン学科で1年生を対象に「コミュニケーションデザイン論」という授業をやっていたんですが、入学後すぐの学生たちのレベルは本当にバラバラで、アートやデザインが大好きな子もいれば、普通の大学がなんとなく嫌で来た子も半分くらいいる。そういった学生に教えようと思うと、まずは教養力の基礎を付けてもらわないと始まらないかと。
それで考えたカリキュラムが、課題とは別に1年間で読むべき「言葉とデザインとイメージ」に関する本を100冊リストアップして、100冊分の書評を書いてもらうというもので。当然、みんなどんどん脱落していくんですけど、やってみてわかったのは「大学一年生から美術教育をしても遅すぎる」ということでした。
―それで中学生のためのアートの学校をしようと?
菅付:はい。それと、きっかけがもう一つあります。僕が写真集を手掛けたエレナ・エムチュックというウクライナ出身でニューヨークに住む写真家がいるのですが、彼女の子どもがアートスクールである中学校に進学したんですね。中学入学前から課題がたくさん出されるそうなんですけど、そのうちの一つが、20世紀初頭のドイツにあった学校「バウハウス」について調べて、自分なりのバウハウスのダンスを作れというものなんです。衣装も作って、振付も考えて、自分で踊るというのが最初の課題。もうその時点で「美大に入って初めてバウハウスを知るようじゃダメだ! 世界と闘えない」って大ショックを受けたんです。
―バウハウスは美術や建築だけでなく、ダンスといった身体芸術まで幅広く連結させた先進的な学校ですし、教師や出身者にも高名なアーティストが多くいますから、調べ甲斐がありそうです。それを中学に入る前に経験させるのだから、いまどき「エリートサラリーマンにはアート思考が必要」などと言ってる日本とは、圧倒的な差がありますね。
菅付:高校生を対象にした授業も考えたのですが、あえて中学生にしました。アートの早期教育が必要だと思ったんです。
「頭のよい人もいれば、とんでもないバカもいて玉石混交。そういう環境に作品を投げ込むことを、一貫して美術でやりたかった」(会田)
―これはとくに東日本大震災以降の傾向だと思いますが、教育や文化の豊かさを後の世代に伝えたいという意識を、多くの文化人や起業家が共有するようになった印象があります。
菅付:僕も自分が人に何かを教えるだなんて僭越な行為だと思って、なるべく避けようと思っていたんですよ。ですが、2009年から10年にかけて連続して人に教える機会があって、意識が変わりました。人に教えるには、まず自分自身がクリエイションや編集についてしっかり理解していなければならないことを強く実感したんです。そして、教えるというプロセスは、じつは自分が教わるプロセスでもある。すごくエゴイスティックな考え方ではあるんですけど、一方的に教えたり、教わったりする関係から一歩踏み出して、互いが新しい経験を得る喜びとともに学び合う循環的な環境の素晴らしさに気づいたんです。
会田:自分の場合はわけもわからず作品を作っているので、菅付さんのように言語化したり方法論化したりして他の人に伝えるということは「できない」というか「しない」です。でも「責任感」のようなものはある頃から芽生え始めたかな、と思うところはあって。若い頃のチンピラ、鉄砲玉みたいな作品の勢いは減退してきて、だんだんと都市計画とか政治を題材にした作品が増えてきたのは明らかな変化だなと思います。というか、加齢のせいでしょうか……子どもができて、父親として振る舞うようになったことの、アーティストとしての必然的な変化というか。
―でも、Twitterでの炎上を起こすような言動も含めて作品化しているというか、作品と社会が入れ子状になって展開しているのが近年の会田さんの興味深い点という気もします。
会田:それこそTwitterを始めたのは震災以降で、僕のコントロールが巧みなのかヘタなのかよくわからないところですが、始めたときからTwitterの手触りというのものが、自分が美術活動でやりたかったことと連動してるな、とは感じました。それは僕の持ってる下品さや卑しさと関係するんですけども。
不特定多数の人間がいたら、その中には頭のよい人もいれば、とんでもないバカもいて玉石混交。それが社会というもの。そういう環境に作品を投げ込むことを、僕は一貫して美術でやりたかったわけです。アーティストの中には、自分の作品のレベルをバカに合わせることを嫌がり、わかる人にだけわかればよいという、小乗仏教みたいなスタンスの人も結構いますが、僕は最初から大乗仏教的、親鸞的……よくわからずに言ってますけど(苦笑)。悪人でもバカでもウェルカムっていうのが僕の態度であって、そのありようとTwitterは非常に近いと思っています。
「会田さんは日本社会のなかで現代美術をやることの居心地の悪さをもっとも体現しているアーティスト」(菅付)
―菅付さんは会田さんの作品や作家としての活動をどのように見ていますか?
菅付:僕なりの会田さん評をお伝えするなら、会田さんは日本社会のなかで現代美術をやることの居心地の悪さをもっとも体現しているアーティストだと思っています。そこには、日本人であればある程度共有できるものがあると同時に、海外から見た日本として説得力のあるユニバーサルな様相もあると感じます。さらに、視覚的な説得力をもたせる卓越した画力が加わるところに会田さんの特長がある。
会田:確かに僕はその居心地の悪さを、手を変え品を変えしつこく表現してきたのだと思います。これはちょっと宣伝ですけど、『文學界』(文藝春秋)で短期集中連載していた小説『げいさい』は、それを言葉をたくさん重ねて伝えようとしたもので、いずれ単行本化する予定なのでぜひ読んでほしいです。
ここで書いてることはデビューしたばかりの頃から考えてたことなんですけど、どうしても書けずに長らく封印・忘却していたことなんですよ。その微妙な違和感をキャリアの初めに言葉にしたかったんですが、それができず、代わりに美術作品で表してきたというか。だから今となっては、順序はこれでよかったとも思うのですが。
「ここで刺激を得て、ひょっとしたらモンスターみたいな誰かが生まれて、のちのち総理大臣になったりすると嬉しい」(会田)
―でも面白いですよね。日本では居心地の悪さのある現代美術というものを、こうして学校で扱おうとしているというのは。
菅付:僕にとって魅力的に思えるアーティストというのは、みんな自分たちのいるところに居心地の悪さを感じている人だと思うんです。そのことに無自覚な人の表現は、少なくとも自分にはあまり面白くない。
例えば戦後の20世紀美術において重要な役割を果たしたのは西ドイツですよね。敗戦によってヨーロッパ社会のなかで圧倒的な居心地の悪さを覚えてきたドイツがアートや美というものに向き合うなかで現れたのが、ヨーゼフ・ボイスやアンゼルム・キーファーといった、凄まじいアーティストたちでした。いっぽう、戦後にそれなりに繁栄したフランスからはそれほどよいアーティストは生まれなかったことが象徴的で、居心地の悪さを追求することのなかに、ある種の創造力の普遍性があるんです。
―「居心地の悪さ」は、教育のテーマ、問題でもありますね。
菅付:そう思います。べつに子供たちに「きみたちは居心地が悪いんだよ!」なんて言うつもりはないんですけど、一人ひとりが違う生きものであること、一人ひとりが違っていいんだよってことを教えたい。
そして「違う」ってことは、ある種の違和感をお互いに抱え続けながら、世の中とコネクトすることでもある。そのなかで違和感をうまく昇華したり、あるいは昇華できなかったとしてもこの差異を前提にして他人と関わっていったり、その違和感を社会のなかでどうマネタイズしていくかってことは、表現者に限らず、これからの時代を生きていく若者にとって重要です。この先、AIや機械技術の発達で「普通」であることの価値が減衰していく時代が間違いなくやってくる。その変化のなかで、他の人ができないこと、考えつかないようなことを表現することが社会のなかでより必要とされていくはずだと思います。
会田:PARCOみたいな場所でやる学校ですから、ここに子どもを通わせたいという親もそもそも普通じゃないと思うんですね。それでいいと思うんですよ。平等とか妥当性とかから離れて。
中二病って言葉があるじゃないですか。中学校の3年間、とくにその真ん中の14歳っていうのは僕もそうでしたけど、よい意味でも悪い意味でも不安定な時期です。そこに何らかの変わった種を植え付けることは、僕は面白いことだと思ってます。僕がやるのは普通の意味のアーティスト養成講座ではないですから、その種が発芽してもしなくてもいいと思っています。でも、それが刺激になって、ひょっとしたらモンスターみたいな誰かが生まれて、のちのち例えば総理大臣になったりすると嬉しい。うん、アーティストになるよりもそっちのほうがいいですね。
- プログラム情報
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- 東京芸術中学
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中学生のアタマをクリエイティヴにするアートスクール
毎週土曜16:00~18:30
年間40週開催、夏休み(3週)と正月休み(2週)あり
- 施設情報
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- GAKU
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10代の若者たちが、クリエイティブの原点に出会うことができる「学び」の集積地。アート、映像、音楽、建築、料理など、幅広い領域で、社会の第一線で活躍するアーティストやデザイナー、先進的な教育機関が、10代の若者に対して、本質的なクリエイティブ教育を実施する。10代の若者が、本物のクリエイターと実際に出会い、時間を過ごし、ともに考え、試行錯誤をしながらクリエイションに向き合うことで、まだ見ぬ新しい自分や世界、すなわち、原点のカオスに出会うことを目指す。ディレクターには、writtenafterwards(リトゥンアフターワーズ)のデザイナー山縣良和を迎え、世界的評価を受けるファッション・スクール「ここのがっこう」、カルチャーWEBメディアCINRAによるオンラインラーニングコミュニティ「Inspire High(インスパイア・ハイ)」などが集まり、感性、本質的な知識、自己と他者の原点を理解する精神を育むプログラムを構成する。
- プロフィール
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- 会田誠 (あいだ まこと)
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アーティスト 1965年新潟県生まれ。1991年東京藝術大学大学院美術研究科修了(油画技法・材料研究室)。絵画のみならず、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画、都市計画を手掛けるなど表現領域は国内外多岐にわたる。
- 菅付雅信 (すがつけ まさのぶ)
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編集者 / 株式会社グーテンベルクオーケストラ代表取締役。1964年生。法政大学経済学部中退。角川書店『月刊カドカワ』、ロッキングオン『CUT』、UPU『エスクァイア日本版』を経て独立。『コンポジット』『インビテーション』『エココロ』の編集長を務め、出版物の編集から、クライアントのプランニングやコンサルティングを手掛ける。著書に『はじめての編集』『物欲なき世界』、最新刊に『動物と機械から離れて』がある。またアートブック出版社ユナイテッドヴァガボンズの代表も務める。下北沢B&Bで「編集スパルタ塾」を主宰。NYADC銀賞受賞。編集・発行した片山真理の作品集『GIFT』が今年の木村伊兵衛写真賞を受賞。
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