ceroの高城晶平によるソロプロジェクトShohei Takagi Parallela Botanicaのファーストアルバム『Triptych』のリリースに合わせて、ceroのサポートメンバーであり、『Triptych』にも参加している角銅真実との対談がセッティングされた。角銅真実は今年2月に1stアルバム『oar』をリリースしたシンガーソングライターでもある。
ビジョンを定め、それに従ってディテールまで精緻に書き込みコンセプチュアルな作品を作る高城と、その音楽に導かれるように自身でさえも結末のわからない物語を描き、そのプロセスをパックするような角銅。その全く異なる音楽性や音楽観、世界観を持つ2人に『Triptych』をお題に語り合ってもらうとなったとき、彼らには音楽家としてではなく、創作者としての美意識や哲学が見えてくるような話をしてもらいたいなと僕は思っていた。さらに言えば、作曲や演奏に関する技術や手法、プロセスや情報ではなく、2人の創造力の根っこにあるものが見えるような話になればいいなと思った。正直に言うと、この2人に具体的に何の話をしてもらうかのプランは何も浮かばなかった。出たとこ勝負でいくしかないなと思って現場に行った。
この対談の司会に名前はあるが、僕は2人の会話をうなずいたり、相槌を打ったり、笑ったり、言葉を理解するために考え込んだりしていただけだ。僕の目の前では、角銅の(不思議な語り口から出てくる)言葉をきっかけに、高城の創作者としての、もしくは人間としての核心に迫るような言葉がどんどん出てきて、勝手に進んで、どんどん深まっていった。それはまるで即興演奏のセッションを見ているようだった。
※この取材は東京都の外出自粛要請が発表される前に実施しました。
この作品はお酒みたいだなって思いました。初めて飲むお酒ですね。いろんな国で味が違うラム酒みたい。(角銅)
―『Triptych』のコンセプトを教えてください。
高城:『Triptych』は三連祭壇画って意味で、3つのフレームで作る絵画の形式があるんです。その美術形態を音楽のアルバムでやってみようというのがコンセプトです。マディソン・スマート・ベルという作家の『ゼロ・デシベル』という短編集があるのですが、そこでは短編の間に「トリプティック #1」、「トリプティック #2」と短編が挟まれていて、それが面白くて。彼は文学で三連祭壇画をやっていると。この感じを音楽に置き換えてやったら面白いんじゃないかなと思ったんです。
三連祭壇画を宗教的なものというよりは、ポップアート的な感じで捉えて、同じモチーフを同じ絵の具で、アングルだけが違う、そういう方向性で作りました。アルバムを通して、同じ色味の一辺倒な内容でよくて、フレームだけがある。そのフレームに神が宿るようになればいいなと。
角銅:レコーディング前に飲んだときに3部作の話をしてくれて、「うぉー!なんてかっこいいんだ」と思って聞いてました。
高城:そのときにお互いの進行中の音源を送り合ったりして、角ちゃんの『oar』を聴きながら帰ったりして。
―角銅さんは『Triptych』を最初に聴いたときはどう感じましたか?
角銅:録音に参加したんですけど、でき上がってから初めて聴いたときに、ちょうどアルゼンチンから帰る飛行機の中だったんです。その環境もぴったりで、とにかくすごくよくて、それで高城さんに盛り上がったメールを送っちゃったんですけど、この作品はお酒みたいだなって思いました。初めて飲むお酒ですね。いろんな国で味が違うラム酒みたいだなって。
高城:お酒みたいっていうのは、裏テーマとして「陶酔感」みたいなのは欲しいなと思っていたから、それかもね。どっぷりいく感じっていうか、うっとり感みたいなものを出したいと思ってました。ceroでもPAやってくれてる得能(直也)さんに送ったら、「サイケだね。すごいサイケ!」って電話がかかってきて。角ちゃんと得ちゃんが言わんとしていることは同じことなのかも。
角銅:その中にいるんだけど、いないっていう感じがして。歌詞の言葉も、全部そのストーリーの中のことなんだけど、全部がアイテムっていうか。でも情報って感じじゃない。
高城:他のインタビューで、歌詞に「死」とか「実存」みたいないろんなものが見え隠れするんだけど、この歌の中に当事者としての高城晶平がいない感じがあるって言われて、たしかにそうだなと思ったし、俺が作る歌ってこれに限らず全部そうかもしれない。
Shohei Takagi Parallela Botanica『Triptych』を聴く(Apple Musicはこちら)俺が照れ屋だからなのかな。自分が入っている歌を、いつまでも歌うのって恥ずかしいから。(高城)
角銅:ceroを最初聴いたときに、すごく宗教的な音楽をやる人たちなんだって思ったことがあって。1st(『WORLD RECORD』2011年)の頃とか。
cero『WORLD RECORD』を聴く(Apple Musicはこちら)
高城:それ、たぶん俺だね。そうしようと思ってやってるわけじゃないんだけど、ceroのそういう部分は俺なんだよね。今回のジャケットもそうだけど、自分は鑑賞者で、座って見ている。自分でもうまく説明できないけど、そこに自分はいなくて、カメラだったり、フレームだったり、そういうところに自分が宿ってる、みたいなことなのかも。そういう意味では角ちゃんが言うように宗教っぽい考え方っていうか。
角銅:宗教だけど、祈りとは違う気がする。お寺とかに入ったときの「なんか大きなものが、おる」みたいな感覚に近いのかな。高城さんのソロの音楽を初めて聴いたのは『フジロック』のステージで、そのときも熱い感想を伝えたんですけど、「オバケのバンド」みたいだなと思ったんです。個性がある人たちなのにみんなそこにいない感じで、高城さんもスーツを着て細い体で歌ってて、「私は今、何を観ているんだろう」ってくらくらしました。高城さん、長生きしてくださいね。
高城:ありがとうございます(笑)。今、言ってもらったようなことを角ちゃんの音楽に僕も感じてて、アルバムに寄せたコメントにも似たようなことを書いたけど、建築のような音楽で、質実剛健でシンプルかつ屈強だなと思って、そこに風や光が行き来して、それで音が鳴るようなものだなと思いました。
角銅真実『oar』を聴く(Apple Musicはこちら)
高城:角ちゃんの音楽もプライベートな音楽ってわけでもなく、誰でも入れるような作りになってる。でも、聴く者がそこに留まるのは難しくて、過ぎ去るイメージにひと時触れられるだけ。そこにフレームだけがあるってところは、今言ってもらったことと似ている印象を自分は持ちましたね。俺がその中に入れないのは照れ屋だからなのかな。自分が入っている歌を、いつまでもいつまでも歌うのって恥ずかしいから。
角銅:(私も)恥ずかしい!
高城:そうだよね。ちょっとキツいような気がしちゃって、そうすると自分はどんどんその枠から外れて、見切れようとしていく。でも、その枠にまなざしだけは残ってて、それが基づきになるから、自分の音楽がこんな構成になるのかなとは思う。
―恥ずかしい感覚ってceroをやってるときもそうですか?
高城:全然ありますよ。
―3人だから照れは減るとか、そういうことですか?
高城:なくはないですね。ceroの場合は「ここは自分のポジションで自分の役割を全うするからいいんだ」みたいな気持ちにはなってるかもしれないですね。ハンドマイクで歌って、マスター・オブ・セレモニー的な存在で振る舞えば、それがこの3人における自分の役割で、そういう相互補完的な上で必要なことをやっているって言い訳が立つと言ったら変ですけど。そういう意味で、自由に自分の役割に集中できるというか。
でも、一人でそれをやれって言われたらちょっと怖いし、嫌だなって。自分のソロでハンドマイクを持ってceroと同じようなことをやったり、パフォーマー的にもっとラップっぽい方にいくとか、そういうのは絶対に嫌だなって思っちゃう。下手でも何かしらの楽器を持って、語り部のほうでありたい。
歌うことって現実になると思ってるんだけど、最近ますますそう思うようになってきて。(角銅)
―それって角銅さんのアルバム『oar』にも通じる話かもしれませんね。不自由なギターを持って歌ってるところも含めて。
角銅:そうかもしれない。そういえば、初めてceroのライブを観たときに、高城さんが出てきて、「あ、落語家みたいな人が出てきた」って思ったんです。
高城:去年、ceroで出た『FESTIVAL de FRUE』ってフェスで、トン・ゼーを一緒に見たときに、トン・ゼーが俺に似てるって話にもなったよね。
角銅:超似てた!
高城:俺もちょっと思ったの。トン・ゼーの動きとか俺に似てるなって。ダサい動きがね。
角銅:ダサくないよ!
高城:あ、トン・ゼーに失礼か(笑)。俺に似てるなって思って観てたら、角ちゃんが「高城さんに似てるね」って言ってて「俺も自分で思ってたんだよ」って。シアトリカルなところだったかもしれないし、落語家さんっぽいっていうか、トン・ゼーも語り部的だからね。
彼は偉大なミュージシャンで、プレイヤーとしてもすごい人だと思うけど、それ以上に詩人であって、そういうのを自分の身体を通して伝えるところにシンパシーを感じていたかもしれない。自分も胸を張ってプレイヤーって言うよりはそっちに近い人間なのかなって思うし、そうありたいとも思うから。
角銅:私もそんな風に思っている気がする。
高城:角ちゃんは俺なんかよりプレイヤビリティーが高い人だと思う。勉強熱心だし、アルゼンチンに留学したりもしてる。でも、それがプレイヤーになるための鍛錬というよりは、語るべきことをちゃんと語るための鍛錬っていう感じはするんだよね。
―角銅さんって、ceroや網守さんのバンドでやってるときと、自分のプロジェクトで歌ってるときは全然違いますね。
角銅:みんなそう言います。そんなに違いますかね?
―高城さんが言うように、シンガーというよりは語り部と言った方がしっくりくる気がします。
角銅:歌手も語り部だと思うんですよね。以前、ある人からモンゴルの歌手が日本に来たときの話を聞いたことがあって。その歌手は歌ったことが本当に起きると信じている人で、モンゴルではお祭りとかで歌う人らしいんです。
彼女は日本に来たときも日本のために歌ってくれたそうです。例えば、震災のこととかね。その話を聞いて、私も歌うことって現実になると思ってるから、「本当になるよ!」って言ったんだけど、最近ますますそう思うようになってきていて。これ大丈夫かな? 変な人って思われないかな?
高城:いやいや、それはめっちゃある。どう捉えるかはあなた次第ですが、ceroなんて“大停電の夜に”を出した後に実際に大停電な世の中が来ちゃったりとか、そういうことだらけで、逆に驚かなくなったというか。
高城:他のインタビューで、「今回の作品には個人主義的な引き籠りの時代がパックされてて、孤独感や個室感が入ってますよね」みたいなことを言われて「ああ、そうか」って思ったりもして。後付けでしかないけど、そういうことはあると思う。
角銅:そうかー。
自分の属性の色がわかったので、一人でやるんだったらその色だけで1枚アルバムを作りたいと思った。(高城)
―では、そろそろ『Triptych』の話に戻して。僕の印象ですけど、このアルバムって1曲の中にいろんなアイデアが詰め込んであるっていうより、1曲に1アイデアで、それを拡張したり、引き伸ばしてあるように感じました。概念的な話ですけど、ヒップホップにおけるワンループのビートのシンプルな魅力みたいなものを感じたんですよね。そこにはパーソナルなものというよりはもっと即物的っていうか、突き放した感じがあって、そこが面白いのかなって。
高城:最初に言ったように、限られた絵の具で3枚の絵を描くっていうところで、そういうワンループっぽさがあるのかもしれないですね。ceroをやってきて、今まで自分の属性に近いなと思う曲がいくつかあって、それは“outdoors”や“薄闇の花”“ロープウェー”なんですけど、それがだいたい同じ色味をしていると思ったんです。
この色が自分の属性で、何も考えずに書いたらだいたいこの色になるってことがわかったので、せっかく一人でやるんだったらその色だけで1枚アルバムを作りたいと思ったんです。
―それってどんな色ですか?
高城:夕暮れの色ですね。2つの光が合わさるトワイライト。それはモチーフが夜明けになる場合もあるし、夕暮れになるときもあるし、時によっては夜更けになる場合もあります。そのいくつかがトリプティックに入っているんだけど、夜明けでも夕暮れでも使っている絵の具は変わらない。実はこっちは夜明けで、こっちは夕暮れですとか、そういうアングルは違うんだけど、描かれてる絵の具と事象は同じです。
―たしかに“ロープウェー”の世界観の延長って感じはありますね。
高城:“ロープウェー”がきっかけになりましたからね。これで、ソロやりたいなって。『Triptych』の共同プロデューサーのSauce81と知り合うきっかけになったのは“ロープウェー”だったしね。
―高城さんが書く曲の「色」みたいなものは、角銅さんはceroのサポートをやってて感じていましたか?
角銅:うん、感じてます。なんかね、「死」ですね。「死んだ人」なのか「死そのもの」なのかわからないけど、砂利みたいに味がない感じ。「死」って味がなさそうじゃないですか。そういう味がない感じ。でも、そこに誰か座ってたあとの温かさみたいなものは残ってて、また戻ってくるのかわからんけど、確かにそこに誰かがいた感じですね。でも、寂しい気持ちにはならない。
高城:ceroでテレビの収録があったとき、雪が降りそうな寒い曇りの日でさ。(古川)麦ちゃんとか、小田(朋美)ちゃんとか、角ちゃんがいて、終わった後になぜか全員で喫茶店に歩いて行ったことがあるんだけど。
角銅:わかった。それめっちゃ覚えてる。
高城:霧がかってるような今にも雪が降りそうな日で、その日、俺がすごい元気で。めちゃくちゃ寒かったんだけど「今日は俺の属性の日だわ」みたいなことを言ってて。
角銅:キラキラしてたね。覚えてる。
高城:あの日の感じなんだよね。
角銅:あのときは、高城さんがそう言っているのを見て、今大事なことを言ってくれてるからそっとしておこうと思って、ちらっと見ながら何も言わなかった。
高城:角ちゃんに話してると思ったら、俺が独り言を言ってる感じだったんだ(笑)。
さっき「長生きしてくださいね」って言われたけど、昔からすっごい言われるんですよ。(高城)
―雪ってのはわかりますね。以前、上原ひろみさんが色をテーマにしたアルバムを作ったときの取材で、上原さんが白とモノトーンをテーマにした曲について語ってて、雪が降り積もったときに雪で音が吸音されて、街がものすごく静かになるときの話をされてて。雪の日の景色がモノトーンになる感じだったり、雪の日にしか生まれない静けさだったり、それってさっき角銅さんが言ってた「死」みたいなもののイメージと重なる高城さんの属性の一つかもしれないですね。
高城:さっき角ちゃんに「長生きしてくださいね」って言われたけど、昔からすっごい言われるんですよ。短命と思われるのか、よく言われるんです。
角銅:言われるでしょ。でも、大丈夫、長生きするから。
高城:ありがとう(笑)。両親が早くに亡くなっているのもあるだろうし、自分も心のどこかにそれがあるから、俺も気を付けないととは思うけど、そういうのがまだなかった小学校のころから妙に言わたんですよ。早死にしそうとか。それは不思議だったんですよ。なんだろうね。
角銅:そういうことを考える機会が多い人だからかな。別に暗い話をしてるわけでもないよね。ceroのときも、いつもみっちゃん(光永渉)とSASUKEの話をしたり。
高城:SASUKE好きだからね(笑)。
―SASUKEは死の対極にある感じがしますね(笑)。
角銅:まったく病気の話もしないし、明るい話ばっかりしてるのに。
高城:故人の話をする感じになってるじゃん、やめて(笑)。
―回想してるみたいになってきた。
高城:あんなに元気だったのにみたいな(笑)。
―高城さんが書く曲にも、儚さとか喪失感とかそういうものが具体的にあるってわけでもないですよね。
角銅:そう。わかる。
高城:僕はすごくエネルギッシュにこの『Triptych』を作りましたよ。今までで一番元気があった。ceroが元気がないってわけじゃないですけど、すごく生き生きと全く迷いなく作れた感じがあります。でも、それがこれなのかって考えるとたしかに自分でも不思議(笑)。
―たしかにエネルギーありますよね。
高城:禍々しいっていうかね。
角銅:セクシーやん。
ceroをやってて一番面白いのは、セットリストを作るとき。(高城)
―ハードボイルドな感じもあって色気はありますよね。ところで、『Triptych』ってアメリカっぽいですよね。しかも、NYとかLAみたいな海岸沿いじゃなくて、アメリカ中部の荒涼とした感じがしますね。その荒涼感も高城さんっぽいというか。
高城:それも作るうえで大事にしていたことの一つです。映画でいうと、残酷なシーンやスプラッターなシーンでハチロク(6/8拍子のリズム)のオーセンティックなバラードが流れるみたいな異化効果を音楽の中でやったら面白いだろうなと。血の匂いのするバラードというか、オーセンティックな音楽にそういう匂いがするっていうのが好きだし、面白いと思うし、それがそこはかとなくなったらいいなと思っていました。
“ミッドナイト・ランデヴー”はまさにハチロクのバラードなんだけど、映画でいうオンでかかっている音楽。他の曲は背景なので、“ミッドナイト・ランデヴー”だけは唯一そういう感じで違う次元で、舞台の中でかかってる音楽って感じですね。
―背景なんですね。ということは、自分の音楽なのに前にあるんじゃなくて、かなり引いたところにあると。
高城:舞台装置っぽいですね。自分はもともと漫画家になりたくて、その後、日芸の演劇学科に行って、最終的に音楽家になったから。いろんな観点から音楽をやりたいんでしょうね。まだ(漫画や演劇にも)未練があるというか。
―今、フロントマンとして自分で歌っているけど、演劇をやりたかったとは言っても役者になりたかった人ってわけではないんですよね、きっと。もっと裏方っぽいというか。
高城:詩って連作・連詩になったら物語にできるんです。アルバム単位だと、ceroはわりと時系列的な物語になっていて、1曲目にこういう歌があって、最後の曲でこういう結末があるみたいな作りをこれまでしてきました。ライブだとそれがシャッフルされて、セットリストが変わると違う物語が立ち上がるのが、僕にとっては面白いんです。ceroをやってて一番面白いのはセットリストを作るときなので。
角銅:あ、いつも高城さんが作ってる!
高城:そう、いつも作ってる。その時々で違う物語の部品だったはずのものが違う部品と絡まって、違う物語になる感じがあって、これは演劇にもできないし、漫画にもできないなって。改変可能な物語のセットアップができる。これは詩と音楽にしかできないすごく面白い分野だなと思う。それで言うと『Triptych』は時系列のある物語ではないわけです。もっと美術的で、視覚的。自分の脳の使い方が違った感じがあります。ストーリーテラーから絵を描く感じの人になったような感覚。
―そもそも、いくつかの曲を集めて並べた「アルバム」っていう概念そのものを遊んでいる感じなんですね、高城さんって。
高城:自分はそこにワクワクしますね。『Triptych』では謎解きの要素を作るとかじゃないので、深読みできることはあまりないんですけど、そういう風にセットアップしてものを考えることが自分には合っているかな。
角ちゃんって、そういうのない? その場その場でポンポン作っていって、その集積がアルバムになる感じなの? それともアルバムの大枠があって、それに合わせてやっていく感じなの?
角銅:大枠はないかな。
高城:じゃ、1曲入魂でできていくって感じ。
角銅:気付いたら曲ができてる。アルバム作ろうってなったら「じゃ、このアルバムでどんなことをしようかな」ってなって、曲の意味が変わっていく感じ。
高城:じゃ、まずは曲があるんだ。
角銅:アルバムを作ろうって曲を作ったことはないかも。
高城:そこは俺と違うところだね。俺にとって曲は部品っぽい。曲として成り立てばいいし、成り立つようにしなきゃいけないとも思うけど、その集積で何かを描こうとしがちだな。
言葉や話を使えるようになるには、分をわきまえないとできない気がしてて。高城さんのそういうところに憧れがあるよ。(角銅)
角銅:今回、こっそり一人で作って、出してない曲ってあるんですか?
高城:それはないな。全部出してる。俺は自分の曲をボツにしたことがないんだよ。
角銅:え、すごい!
高城:iPhoneに入れただけのアイデアとかはあるけど、そこからMTRに行ったら最後までいくよ。
―それってアルバムのコンセプトが固まってたから、そこに向けて一気にいけちゃったってことですか?
高城:そうですね。これは子供が生まれてからさらに強化されたと思う。子供がいると腰を据えて作るぞって感じになれなくて。子供がすぐ家に帰ってくるから、そうしたらもう作業は終わり。作業ができる時間が超限られているので、作曲の作業がブツ切れなんですよ。
そうすると頭の中で再生する時間がめちゃくちゃ増えるから、何回も何回も頭の中で想像しているうちに頭の中でだいぶ完成形ができてきて、後はそれを吹き込むだけの状態になる。そうなると青写真通りになっていくんですよ。
角銅:青写真があるんや。
高城:あるある。
角銅:高城さんの音楽には、その感じがすごくある。
―角銅さんは青写真ない気がしますが。
角銅:ないですよね、全てにおいて。
―お二人のアルバムを聴くと、曲の作り方が全く違うのはよくわかって面白いですよね。
高城:そうですね。
角銅:憧れるんです、高城さんの視点の取り方。私は、作品にするときになるべく余白を作って、その余白の中に誰かの何かが入って完成するみたいな感じです。(作品にする際に)ストーリーを使うのではなくて、言葉を使わないことや余白を作ることをやってるんです。
高城:角ちゃんの音楽は余白だよね。俺はそういう意味で建築って言ったんだけど、聴き手がアクチュアルになれる余白がある。
角銅:高城さんがフレームで考えるのは、バーをやっているからですかね?
高城:それはあるかも。俺って突き詰めると自分の我っていうものが少しもない気がして困るんだけど。
角銅:我って何ですか?
高城:悪く言うと「事なかれ主義」みたいになっちゃうんだけど。会話していると、全員のグルーヴが重要になってきちゃったりね。
角銅:ライブ中にそういう高城さんを感じたことがあって、優しい人だなと思ったことがあるよ。言葉や話を使えるようになるには、分をわきまえないとできない気がしてて。フレームの中に絶対に全部入っていかないとか、自分は入っていけないってわきまえているとか、諦めじゃなくてね。高城さんのそういうところに憧れがあるよ。
―たしかに高城さんって、その自分が入っていかない慎ましさみたいなものはありますよね。
高城:それはありますね。
―以前、ceroのインタビューをやったときも「ceroって群像っぽい」みたいなことを高城さんが言ってて、それってなんなら他人事っぽい。その中に入り切ってない感じありますね。
高城:それはずっとなんですよね。
―でも、高城さんってプレイヤーですよね。演劇だったら演者というよりは脚本家みたいな意識なんですかね?
高城:そうなりたいって願望はありますね。
角銅:高城さんが読んでる本を私も読んでみたりするんだけど、そういう視点の本が多い気がする。それこそミランダ・ジュライとかもあんな変な話だけど、作者も他人事でさ、誰もどう取り扱っていいかわからないみたいな。
高城:あー、なるほど。外国文学的な距離感っていうのはたぶん自分の中にあって、翻訳されてる距離感はルーツとしてあるかもしれないですね。ひと段階距離を置いているというか。日本語で直に書かれているものだとなかなか読めないんですよ。自分が不勉強で、見つけられてないだけだと思うけど、たぶん熱すぎるんですよね。
―海外文学に関しても海外への憧れだったり、本のテーマよりも、翻訳された文の温度や質感みたいなことに惹かれているのは面白いですね。
高城:必ずしも海外文学で描かれているモチーフを描きたいわけじゃなくて、その手法でここにあるものを描いたらどうなるんだろうってことを音楽でやりたくて。つげ義春の貧乏旅行ものとか日本的な伝記みたいなものでも好きなんですけど、彼はそういう人だと思うんですよね。
角銅:高城さん、つげ義春みたいだもん。これ言っていいかわからなくて言わなかったんだけど。
高城:こらえてたんだ(笑)。
角銅:ライブを初めて見たときのオバケみたいな感じとかもつげ義春みたいって。
高城:つげ義春みたいになりたいっていうのはずっとあるよ。憧れあるし。あれ、これ何の話してるんだっけ?(笑)
それをやりたいっていうのは、高城さんも我が強いんだよ。(角銅)
―『Triptych』の話に戻したいんですが、僕はギターの音がすごく印象的だと思いました。ギターがすごくいい演奏で、いい音で録れてて、いい音で鳴ってる。でも、生々しさとかリアリティーは希薄なんです。今、話を聞いていて、それは高城さんが好きな温度感や、つげ義春的な表現と通じる気がしました。
高城:それもSauce81ですよね。僕が作れるデモの段階を聴くと、自分だけでできる段階では限界があって、オーセンティックなものを作ろうと思ったら、オーセンティックな形を持った音楽止まりで、その先に行けないんです。それをここから更に陶酔感のある素面(しらふ)でないものにしてもらうには、Sauce81のフィルターが必要で、彼が普通じゃない異常な空間をデザインしてくれたんです。
―ここでの「普通じゃなさ」って、何かが歪んでたり、ドラッギーな感じとかでは全然なくて、一見普通の世界なんだけど、どこか違和感がある、でもどこに違和感の正体があるかわからない、でも絶対なんかおかしい、みたいな感じなんですよ。
高城:それこそつげ義春って、背景がぼやけることが一切ないじゃないですか。ものすごくフォーカスされた超ガリガリに描かれた風景が常にあって、ソフトフォーカスになることがないじゃないですか。そういう感じが好きなのかもしれない。めっちゃ変な光景だけど、1個もフォーカスがぶれているところがない感じ。
角銅:それをやりたいっていうのは、高城さんも我が強いんだよ。
高城:そっか、たしかにそこには「描きたさ」みたいなものがあるのか。まなざしっていう存在感みたいなものが実は強いし、そういう意味で自分がいるってことか。
―最初にがっつりフレームを選んでいるって時点で、自分は強いってことかもしれないですね。角銅さんはもっと決めごとが少なくて、自分もこの先どこにいくかわからない感じで導かれるままにってのは逆の意味で自分が強いけど、その違いも面白いですね。
角銅:『oar』で決めていたことは一つだけあって。最後はうがいの音で終わろうって。アルバムの最後はうがいの音で終わってるんですよ。
高城:うがいの音で、このパンデミックの時代を予見していたみたいだ!
※「高城晶平」の「高」は「髙」(はしごだか)が正式表記となります。
- リリース情報
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- Shohei Takagi Parallela Botanica
『Triptych』初回限定盤(CD+DVD) -
2020年4月8日(水)発売
価格:3,850円(税込)
AICL-3880~1[CD]
1. トワイライト・シーン
2. リデンプション・ソング
3. トリプティック #1
4. キリエ
5. オー・ウェル
6. トリプティック #2
7. ミッドナイト・ランデヴー
8. モーニング・プレイヤー
9. トリプティック #3[DVD]
『Triptych interview and gig』
- Shohei Takagi Parallela Botanica
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- Shohei Takagi Parallela Botanica
『Triptych』通常盤(CD) -
2020年4月8日(水)発売
価格:2,750円(税込)
AICL-38821. トワイライト・シーン
2. リデンプション・ソング
3. トリプティック #1
4. キリエ
5. オー・ウェル
6. トリプティック #2
7. ミッドナイト・ランデヴー
8. モーニング・プレイヤー
9. トリプティック #3
- Shohei Takagi Parallela Botanica
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- Shohei Takagi Parallela Botanica
『ミッドナイト・ランデヴー / PLEOCENE』(LP) -
2020年4月22日(水)発売
価格:1,100円(税込)
KAKU-114[SIDE A]
1. ミッドナイト・ランデヴー(7inch ver.)
[SIDE B]
1. PLEOCENE
- Shohei Takagi Parallela Botanica
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- 角銅真実
『oar』(CD) -
2020年1月22日発売
価格:3,300円(税込)
UCCJ-21761. December 13
2. Lullaby
3. Lark
4. November 21
5. 寄り道
6. わたしの金曜日
7. Slice of Time
8. October 25
9. 6月の窓
10. January 4
11. いかれたBaby
12. Lantana
13. いつも通り過ぎていく
- 角銅真実
- プロフィール
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- 高城晶平 (たかぎ しょうへい)
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ceroのボーカル / ギター / フルート担当。2019年よりソロプロジェクト「Shohei Takagi Parallela Botanica」を始動。その他ソロ活動ではDJ、文筆など多岐に渡って活動している。4月8日に1st Album『Triptych』をリリースした。
- 角銅真実 (かくどう まなみ)
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長崎県生まれ。東京藝術大学 音楽学部 器楽科 打楽器専攻 卒業。マリンバをはじめとする多彩な打楽器、自身の声、言葉、オルゴールやカセットテープ・プレーヤー等を用いて、自由な表現活動を国内外で展開中。自身のソロ以外に、ceroのサポートや石若駿SONGBOOK PROJECTのメンバーとしての活動、CM・映画・舞台音楽、ダンス作品や美術館のインスタレーションへの楽曲提供・音楽制作を行っている。2019年2月、都内カフェにて初めて「うた」にフォーカスしたワンマンライヴを開催。その5か月後には『FUJI ROCK FESTIVAL』に自身の名義で初出演を果たした。
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