現在、渋谷で開催中の『アール・ブリュット2021特別展 アンフレームド 創造は無限を羽ばたいてゆく』は、既成概念にとらわれない表現活動と、そのつくり手を紹介する展覧会だ。出展作家には障害者を含む、正規の美術教育を受けていない表現者たちが並ぶ。彼らの多くは制度化された美術界からは無視され続けてきた、ほとんど無名の存在だ。
一般的に日本では、障害のある人々の表現活動を「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」と呼称するケースが多いが、実際には正規の美術教育を受けていない人など、多様なつくり手たちによる、多面的な表現がそれらの言葉には含まれている。まだまだ偏見や思い込みで見られることの多い表現と出会い、あらためて自分たちの世界のあり方を知るものとしても、同展はあるといえるだろう。
そんな展覧会を訪ねたのは、音声ガイドとして本展に関わっている歌手・アーティストのコムアイ(水曜日のカンパネラ、YAKUSHIMA TREASURE)。音楽だけでなくさまざまな表現の場に関わり続けている彼女にとっても、この展覧会での出会いは大きなものであったという。東京都渋谷公園通りギャラリーの大内郁学芸員とともに話を聞いた。
「アール・ブリュット」ってなんだ?
―コムアイさんは今展覧会に音声ガイドとして参加しましたが、展示やアール・ブリュットにどんな印象を持ちましたか?
コムアイ:ずっと展覧会の音声ガイドをやってみたかったんです。展覧会の趣旨も興味のあるものだったから、二つ返事でお受けして。
収録は緊張しましたね。テレビ番組のナレーションは放送の1回きりしか流れないことが多いけれど、音声ガイドは何回も再生できる。集中した状態で聴くものだから、演出したり、エモーショナルになりすぎて作品の邪魔になったりしてもいけないし。優しく存在してるんだけど、そっけなさもある感じを目指しました。でも、じつは「アール・ブリュット」っていう言葉を知ったのは今回が初めてなんですよ。
―そうなんですね。ちょっと意外でした。
コムアイ:近い概念でアウトサイダー・アートという呼び方(正規の美術教育を受けていない作家によるアート作品を指す。イギリスの美術評論家ロジャー・カーディナルが1970年代に提唱した)は知っていたし、展覧会を見る機会もあったんですけどね。
調べてみると、ブリュット(Brut)には「生の」とか「ありのままの」という意味があって、画家のジャン・デュビュッフェ(フランスの画家。美術教育を受けずに表現する人や子ども、精神疾患患者の作品を収集。自らも独学で絵画を学んだ)が提唱した概念で……。新しく知ることが多くありました。
コムアイ:アウトサイダー・アートっていう言葉は意味がわかりやすいですけど、アール・ブリュットに比べると一方的な感じのする言葉ですよね。誰かが自分たちに都合のいい尺度で境界線を作って、自分たちのいる側を内側(インサイド)と呼んで、それ以外を「外側」と指して呼んでいるような気がします。勝手に外に置かれた人たちはどんな気持ちなんだろうと。
もしも私が作家だったら、「アウトサイダー」と言われてあまりいい気分はしないんじゃないかな。「本当に垣根をなくす気があるのかよ、単にボーダーをつくってるだけじゃない?」って考えると思います。
それに、いまや大学で美術教育を受けてないアーティストって全然珍しくないじゃないですか。独学だったり、ストリートから表現を始めた人だっていっぱいいるし。
大内:一般的には美術館に収蔵される作品は、まだまだ専門的な美術教育を受けた作家によるものが主流ではあると思います。でもコムアイさんのおっしゃるとおり、社会や世代の変化は加速していて、かつてのようなボーダーは薄れつつあるのだと思います。
コムアイ:美術史や社会の変化というアカデミックな文脈で考察ができるのもアートの楽しみ方の一つだと思いますけど、アール・ブリュットではそういう見方は逆に混乱しそうですね。つくり手それぞれの中での文脈、ストーリーは濃密にあると思いますが。
大内:作家自身が美術史に自分をどう位置付けるかを意識するのがインサイド的な視点だと思いますが、アール・ブリュットの作家たちは、そこに強いこだわりはないんですよね。
コムアイ:アール・ブリュットの作品の前に立つと、閉塞的な美術史のなかでは通用していたルールがまったく機能しなくなるのが痛快です。
脳内の守護霊たちと時事問題が交錯。「脳ノート」を描き続ける与那覇俊
コムアイ:例えば、出展作家の与那覇俊さんも美術史や美術のルールのことはたぶん考えていない。ご本人はただ「描かないといけない」という意識に追われているそうですね。
大内:もともと作家本人にとっては療法的な意味合いもあって、自分の考えをノートに記録する「脳ノート」っていうのを大学4年生のときから約10年書かれています。最初はノートに文字だけ書いていたのが、絵も描くようになり、それが発展して今回展示されている作品のようなカラフルな絵になっていったということなんです。
コムアイ:展示作品も作者の脳内を描いたものなんですね。与那覇さんの脳内に守護霊がいたり、大学時代に出会った「三島教授」という人も頻繁に登場したり。大学を出て10年も経っているのに脳内で続いている教授への葛藤が作品のなかに表れています。
コムアイ:絵によく描かれている「フォローポンポン」という存在は彼の守護霊で、近くには「チャップシュンくん」という帽子をかぶった男性も描かれているんだけど、「チャップシュン」というのは、フォローポンポンが与那覇さんを呼ぶときの名前なんですって。
そういった自分の脳内にだけ現れる存在と「北朝鮮」や「ミサイル」などといった時事問題が重なりあって描かれていて、まるで夢と現実を行ったり来たりするような、すごく不思議な気分になります。
大内:遠くから見るとステンドグラスのようでもあるカラフルでファンタジックな絵のような印象なんですけど、近くで見ると細かい字でけっこう現実的なことが描かれていたり。
コムアイ:これは与那覇さんに限らず、アール・ブリュットの作家の特徴だと思うのですが、誰一人、こんなふうに美術館で展示されることをまったく考えずに作品をつくってると思うんです。
自分の衝動や欲求を紙や立体の上に残すというプロセスが一番大事で、必ずしも作品として完成させることが目的ではなかったりする。作品や展示を通して観客とコミュニケーションを取る意識もたぶんないので、こちらが何かメッセージを受け取ろうと思っても、つっかえる感じがある。そういう作品と向き合うことって稀だから、本当に新鮮な鑑賞経験でした。
「影響力が強すぎてバッドトリップしそうになる瞬間もある」
―与那覇さん以外に気になった作家はいましたか?
コムアイ:みんな気になるけど、印象深いのは齋藤勝利さん。スケッチブックに1ページずつ街の景色を描いているんですけど、それらを横に並べると、絵巻物のようにすべてつながった大きな風景画になるんですよ。一枚の大きな紙に大きな風景画を描くならわかるんですけど、1ページずつバラバラで描いてしまうのがすごい。つまり想像だけで前のページの絵と次のページの絵をつなげて描いているんです。
コムアイ:展示では作品のコピーをつなげて、ひとつの絵巻物のように鑑賞できますが、この状態の絵は齋藤さんの脳内にしか本当は存在しない。衝撃です。
単純に一枚の絵としてもすごく好きです。空の色が黄緑やピンクで描かれてて、「え!」って思うんだけど、海や船は普通の色で塗られていて、そのコントラストに心打たれます。この世界のなかで、散歩したりドライブしたりしたくなるんだよなあ!
大内:私はアール・ブリュットの作品について、鑑賞者への伝播力が強い表現だと考えています。コムアイさんは、作品から発せられた力をきちんと受け取って、ご自身のなかで響かせて理解してらっしゃるんだなと。
コムアイ:たしかに私は、なるべく生、自然をそのまま受け止めたいと思っています。でも、この展覧会の作品は感染力が強すぎて、バッドトリップしそうになる瞬間もあるし、見続けていると精神が迷子になりそうなときもあります。
大内:混沌としている部分も多いので、見るだけでもすごくエネルギーを使うんですよね。
コムアイが気付かされた「これまでの作品づくりの方法論の狭さ」とは?
―コムアイさんは音声ガイドのために、出展作家についていろいろ勉強されたと伺いました。印象的なエピソードはありましたか?
コムアイ:例えば香川定之さんは、いつも左手に定規、右手にペンを携えて、直線だけで作品を描いているんです。そのうち定規が傷んでくるので、まわりの人が新しい定規を買って渡すそうですが、香川さんはそれを自分が使いやすさに長さに折っちゃうそうなんですよね。香川さんにとって、定規は道具ではなく左手の延長になっているほど、重要な存在なのかもしれない。
それから、フランスのフランソワ・ジョービオンさんも強烈です。彼はアール・ブリュットの作家でありつつ、他のアール・ブリュットの作家の大ファンでもあるそうで、好きな作家と作品をモチーフにした絵を描いています。
―先人へのリスペクトを込めて。
コムアイ:そうそう。でも、ジョービオンさんが描くと完全に彼の表現になっちゃうんです。でもこれも本人にとっては作品なのかどうかわかりません。ひょっとしたら好きな作家をリサーチした記録のようなものかもしれない。自分のものづくりにおける方法論の狭さを、ジョービオンさんに気付かされた気がします。
―方法論の狭さ、というと?
コムアイ:たとえばジョービオンさんみたいに、リサーチや記録を作品にしたっていいわけですし、自分が抱いているオリジナリティーや完成形の概念が狭いなって思いました。暮らしと制作の関係についてもそう。
私自身、お茶を飲んでたと思ったら歌う、歌ってたと思ったら絵を描きながら詩をつくる、みたいな人に憧れがあるんですよ!(笑)
私はスタジオやステージがないと、ぐうたらしているだけです。気の合うミュージシャンの家に遊びに行って、ご飯をつくったり、寝たり、起きたりして、その合間に音楽する。そういうシームレスな表現をする機会があって、あらためてそういう時間は豊かだと思いましたね。
「文化って、アンダーグラウンドからむくむくと湧いてくるもの」
―関連イベントでは、ジャーナリストで映像作家の伊藤詩織さんらとのトークの様子がYouTubeで配信されていますよね。そのなかで、コムアイさんにとっての「アンフレームド(枠を外す)」な場所はクラブである、という発言が印象的でした。
コムアイ:他人とフランクな態度でストレートに関わり合えるクラブという場が、私にとってはアンフレームドだったけど、コロナ禍になって行けなくなってしまった、って話ですね。
―初対面の人とも自然に仲良くなれて、垣根が曖昧になるという。
コムアイ:昼にどんな仕事をしてるとか、子供がいるとか、そういうフレームから無理なく自由になれる場所なんじゃないかな。クラブって人間の面白い部分が出ると思うし、人の行動見て楽しいなあって思う。働いているときは頭を使って理性的に努めているけれど、暗がりのなかで集中して踊っていると、アホになっていく。音と踊りの獣になる。それって、じつはいちばん人間らしい状態でもあるなって思うんです。
大内:それこそ自然、野生に近づいていく?
コムアイ:まさに野生だなって思いますね。でも、最近の政治を見ていると、クラブのような空間や、野生に近づけるような機会を無意味としているように感じるので、すごく不満!
―どういうことでしょうか?
コムアイ:文化ってクラブみたいにアンダーグラウンドな場所からむくむくと湧いてくるものだし、汚いものやノイズを排除しすぎると街は面白くなくなると思うんです。
たとえばこのギャラリーがある渋谷では、小綺麗な建物がどんどん建てられているけど、みんなが遊べるパブリックな場所は十分あるでしょうか? 勝手に使える空き地のような場所が、大都市にもあったらいいと思います。グラフィティのようなストリートアートはもちろん、ファッションも音楽も、常にアンダーグラウンドから湧いてきたものを栄養としている気がします。
私が考えるパブリックな場所とは、遠慮せず表現して交流できる場所、しかも無料で。公園でバドミントンもできないし花火もできない、禁止項目が多すぎて何も試せない公園は公と言いながらパブリックな場所ではないですよね。「みんなが遠慮することで、みんなが居心地のいい場所になる」っていう窮屈で消極的な考え方を感じますね。
―いまの話とつなげると、アール・ブリュットの作品って「場」みたいだなと思いますね。つくり手それぞれの、思い思いに心地よい空間、自治区みたいなものが無数に広がっていて、そこに触れる経験は型にはめられた自分を解きほぐしていくように感じます。
「アール・ブリュットの作家たちは、私たちが普段無視してしまうものを丁寧に見つめている」
―展覧会を見て、アール・ブリュット、つまり「生の芸術」ってどんなものだと思いましたか?
コムアイ:難しい質問ですね。生活や自分の頭のなかにゴチャゴチャとしたものやきらめきがあって、それを色だったり言葉だったりに変換して、一回身体の外に出して固定すること? そんな行為が「生の芸術」なのかもしれない。アール・ブリュットの作家たちは、そういう行為によって自分のバランスを取っているのかも。そして人が作品をつくりたい、アートをつくりたいと思う動機は、観る人のためよりも、本人とアートとの間のコミュニケーションにあるんだということを確認させてくれるのがアール・ブリュットだと思います。
―アール・ブリュットの作品から、同じ創作者としてどんなことを考えましたか?
コムアイ:そうですね。私は本当に描かなきゃいけないものを無視してるのかもって思いました。それは絵だけじゃなくて、音楽や映像、文章みたいな表現方法にも言えることで。アール・ブリュットの作家たちは、私が普段無視してしまうものを丁寧に見つめているんだと思います。夢を忘れてしまうか覚えていられるか、みたいなことかな。
全ての人の生活には、創作のきっかけになるような、流れ星みたいな綺麗なものが頭のなかに流れていく瞬間がたくさんあると思うんです。その光やきらめきはシュンシュンと流れて、すぐに消えていってしまうんだけど、私は「流れたなー」って思うだけで終わっちゃっているのかも。本当はそれをキャッチして、創作を通してかたちにすることだってできるかもしれないのに。
―なるほど。
コムアイ:すぐに創作には結びつけられなくても、少なくとも私もその流れ星のようなものが「綺麗だな」ってことを感じられているはずなんですよね。だからもっと感度を上げてシャープに、丁寧に見つめていれば、もっといろんなものを見ることができるし記録できるはず。アール・ブリュットはそれができてるってことなんでしょうね。すごいな!
アール・ブリュットのジレンマと面白さ。「するっと通り過ぎさせてくれない」
―大内さんにお伺いしたいのですが、東京都渋谷公園通りギャラリーは、恒常的にアール・ブリュットの作品を展示しています。このギャラリーのミッションはなんでしょうか?
大内:これまで美術館やメディアで多くの人の目に触れていたアート作品というのは、圧倒的に美術界にとっての「インサイド」の表現だったと思うのですが、いまになってようやくアウトサイドの作品も見えはじめてきた。つまり社会に多様な創造性を受け止める余白ができてきたということなのですが、そういった意識や状況をより広げていくのが、ギャラリーとしてのミッションです。
しかし同時に、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートという言葉自体にも、ある種の先行するイメージがあって、その枠を外していくこともやっていければと思っています。
例えばアール・ブリュットは必ずしも障害のある人の作品には限りませんし、障害のある人の作品である場合もある。世界を見ればもっと多様に作り手や作品のあり方、かたちがあります。それに気づくきっかけとなることがとても大切だと考えています。
そういった狙いがあるなかで、コムアイさんに音声ガイド出演で関わっていただいたり、伊藤詩織さん、料理研究家の土井善晴さんにも「カワル角度案内人」として展示の一部に参加していただいたりすることで、新鮮な視点を提供していただいています。多くの人に関心を持ってもらえると嬉しいですね。
コムアイ:アール・ブリュットについて知れば知るほどジレンマが生じますよね。自分たちの生活の時間のなかで表現を続けてきた人が突然注目を集めるようになって、例えば大きなお金が動くようになったときに、どんなことが起きるのか、とか。アートマーケットと資本主義の親密な関係のなかで、人生を狂わされてしまう人も現れると思う。
大内:そうですね。そういったジレンマは私たちも感じていますし、アール・ブリュットの作家に会うと、その感覚は強くなるかもしれませんね。
彼らがつくるものの多くは、もともとは発表するための「作品」ではないかもしれない。それを第三者が作品として展示し、アートという一般的にはキラキラとした枠で見せようとすることの違和感はどこかにあります。しかし、やはり彼らがつくったものにしかない「作品」としての魅力や説得力があるんですよね。だから「(作品における)多面性」ということをいつも意識するようにしています。
コムアイ:たしかに。私は作品を鑑賞する際に、作品は「必ず何かを訴えかけている」ということを前提とする癖がついてるけれど、必ずしもそうではない。むしろ距離感をぐちゃぐちゃにしてしまうような作品だってあるんだから。
アール・ブリュットの作品を見ていると、自分が大前提だと思っていたものが崩れて、作品の前で立ち止まって考えてしまう。「待てよ~?」って。浮かんでくるのは、アートって何だっけ、なぜ人間は作品を作るのだろう、という根源的な問いで、するっと通り過ぎさせてくれない展覧会なんですよね(笑)。
- イベント情報
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- 『アール・ブリュット2021特別展 アンフレームド 創造は無限を羽ばたいてゆく』第4会場
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2021年7月17日(土)~9月26日(日)
会場:東京都 渋谷 東京都渋谷公園通りギャラリー 展示室1、2
時間:11:00~19:00
閉館日:8月23日、9月6日、13日、21日
出展作家:
阿山隆之
香川定之
門山幸順
マッジ・ギル
齋藤勝利
佐藤朱美
フランソワ・ジョービオン
清野ミナ
レオンハルト・フィンク
藤田雄
与那覇俊
カワル角度案内人:
伊藤詩織
土井善晴
音声ガイド:コムアイ
料金:無料
- プロフィール
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- コムアイ (こむあい)
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歌手・アーティスト。1992年生まれ、神奈川育ち。ホームパーティで勧誘を受け歌い始める。「水曜日のカンパネラ」のボーカルとして、国内だけでなく世界中のフェスに出演、ツアーを廻る。その土地や人々と呼応してライブパフォーマンスを創り上げる。好きな音楽は世界の古典音楽とテクノとドローン。好きな食べ物は南インド料理とグミとガム。趣味は世界各地に受け継がれる祭祀や儀礼を見に行くこと。音楽活動の他にも、モデルや役者など様々なジャンルで活動している。
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