第3回:ジャズ喫茶で踏み出した俳人としての第一歩

プロフィール
堀本裕樹
堀本裕樹

俳人。1974年和歌山県生まれ。「いるか句会」「たんぽぽ句会」主宰。國學院大学卒。第2回北斗賞、第36回俳人協会新人賞、第11回日本詩歌句随筆評論大賞、平成27年度・和歌山県文化奨励賞受賞。東京経済大学、二松學舍大学非常勤講師。著書に句集『熊野曼陀羅』(文學の森)、『いるか句会へようこそ! 恋の句を捧げる杏の物語』(駿河台出版社)、『富士百句で俳句入門』(ちくまプリマー新書)、漫画家・ねこまきとの共著『ねこのほそみち』(さくら舎)、又吉直樹への俳句入門講義をまとめた『芸人と俳人』(集英社)、『春夏秋冬 雑談の達人』(プレジデント社)、『俳句の図書室』(角川文庫)がある。

堀本裕樹オフィシャルサイト

国語の授業や受験とは関係なく、俳句に触れたことってありますか?
決して古いものだけではなく、今も新しい句が次々と生み出されています。17音という制限があるからこそ、作者の一言一言に対するこだわりが読者の想像をかき立てる俳句。コピーライターや編集者が発想の参考にすることもあるのだとか。この連載は、又吉直樹氏と共に『芸人と俳人』を著した堀本裕樹氏が、自らの手で俳人という仕事を切り拓いてきた道を辿ります!

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生活を変えるということは、自分の人生を変えるということ

初めての社会人経験は出版社で積みました。何かしら文芸に携われたら良かったのですが、なかなか中途採用で、経験もない人間が編集に携わる機会はありませんでした。しかし、営業職だと比較的、未経験でも採用してくれるところが多かったので、とりあえず出版社に入り「仕事する」という経験ができただけでも、当時の就職の厳しい時代ではありがたかったですね。

書店営業として様々な本屋さんを回りましたが、担当者は色んな人がいますから、すごく優しく接してくれる人もいれば、そっけない人、厳しい人にも出会います。その仕事を通して、世の中にはこんなに色んな人がいて、その中で仕事が毎日進んでいくんだなということを実感しました。

毎日重い営業カバンを持って、1日10件ほどの書店を回っていました。しばらくすると、そのルーティーンワークに疲れてきたというのもあり、「このままでいいのかな」という疑問が浮かぶようになりました。疲れていたせいかもしれませんが、当時の僕はそろそろ故郷の和歌山に帰りたいなと思うようになっていました。あてもなくまったくノープランでしたが、和歌山でなにか仕事をして、家で小説でも書けたらいいなあという考えがなんとなくありました。しかし、生活を変えるということは、自分の人生を変えていくことになります。今から考えると甘い考えでしたが、会社を辞めようと決意を固めました。

和歌山へ帰る途上の旅

和歌山へ帰る。その途上として、遠回りだけど東北を旅しようと思い立ちました。目的地は、寺山修司記念館、宮沢賢治記念館、そして恐山。三つとも強く印象に残りました。寺山修司記念館は山の上にあり、若葉青葉の美しい季節で、カッコウが鳴いていました。そんな中、記念館では寺山の映像や肉声がビデオから流れていたり、「天井桟敷」で使われた奇想天外なものが展示されていたりしました。宮沢賢治記念館は、実際に賢治が使っていたチェロなどが飾られていて惹きつけられました。賢治にゆかりのあるものにたくさん触れることで、その作品世界にも近づけた気がします。宮沢賢治がイギリス海岸と呼んでいた北上川の岸辺に行ってみたりもしました。「ここを賢治も訪れたんだな。今同じところに立っているんだなあ。」と感慨深かったですね。

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恐山は本当に独特の雰囲気でした。バスで恐山に登っていくのですが、車内で御詠歌など津軽の音楽が流れていて、到着する以前から、すでに死の世界へ通じるような空気がありました。なんだか地の果てまで来たようで旅の終着点として、「ここまで来たんだな」という気持ちにもなりましたね。辺りには石が積んであって、風ぐるまが回っていて、宇曽利湖というカルデラ湖があって。そこの色がまた、独特な色合いで本当に恐ろしい美しさでしたね。本州の果てまで来たなあという感慨がありました。

旅を終えてからは、青森空港から伊丹空港に飛んで、まっすぐ自宅に帰りました。しかし、そのときの天候がとにかく荒れていたのです。今まで乗った飛行機で一番揺れましたね。雷が走ってるのが、その機内の窓からはっきりと見えましたから。とにかく揺れて揺れて、なかなか着陸できなくて、もうすぐ着陸できるところまで来ているのに同じ上空をぐるぐる回っている時間が続きました。ようやく伊丹空港へ着いた時には、みんなで拍手したほどです。今考えてみると、そこからしばらく続く苦しい状況を象徴していたようなフライトでしたね。

鮎の養殖やスーパーのお惣菜づくりで過ごした、和歌山でのバイト生活

地元・和歌山へ帰ると、「就職活動して公務員か警察官を目指してみたらどうか。一度試験だけでも受けてみては。」と親から言われましたが、僕は首を縦に振りませんでした。もっと自分に合う仕事があるような気がしていたのです。やっぱりどこかで言葉や文章に直接携わる仕事がしたかったんですね。でも、地元の書店や新聞社の就職試験など受けてみたけれど、ことごとく落ちてしまった。そこでもう、「和歌山で就職して、のんびり小説でもかけたら良いな」という夢はついえました。そんな簡単なことじゃなかったんだと、自分の考えの甘さを目の当たりにしましたね。そこですごく苦悶しました。いくつか就職試験を受けたけれどすべて落ちてしまったから、なんだか行き場を無くした感じでした。

ある日、ほんとうに行き場が無くって、原付バイクで田舎の道をあてもなく飛ばしていたんです。すると、ログハウスのような建物が目に入りました。どうやら何かのお店らしいとバイクを止めて、思い切って入ってみることにしました。ドアを開けると、ジャズらしきものが流れている。おそるおそる店のなかを見回しながら入って席につき、マスターと話しているうちに、そこがジャズ喫茶だということがわかりました。そのとき流れていたのがデヴィッド・マレイというジャズメンのCDでした。デヴィッド・マレイはフリージャズで、サックスを豪快に吹きまくる人です。すごく祝祭的なジャズで、そういう音楽を聴いたことがなかったから、すごく刺激的で驚きました。

それからマスターとも仲良くなり、そのジャズ喫茶に通うようになりました。いろんなジャズのことを教えてもらったり、店内でライブを聞かせてもらったりしました。デヴィッド・マレイも、実はそのジャズ喫茶に来たんですよ。和歌山は関西国際空港に近いこともあり、アメリカの本場からジャズミュージシャンが来やすいんです。だから僕はそこのジャズ喫茶でデヴィッド・マレイも聴いたし、タワレコなんかでジャズのコーナーに並んでいる、外国人の有名なジャズメンにも何人か会うことができましたし、演奏も聴くことができました。それもすごく貴重な体験でしたね。

ジャズ喫茶に入店したとき流れていたDAIVD MURRAY OCTETの『OCTET PLAYS TRANE』

ジャズ喫茶に入店したとき流れていたDAIVD MURRAY OCTETの『OCTET PLAYS TRANE』

そこのマスターがジャズ喫茶と兼業で、ぶどう農園もやっていました。ぶどうは秋の季語になっているけれど、実は7月の半ばぐらいからすでに出回っているんですね。マスターは僕がお金に困っているのを知っていましたから「アルバイト代出すから、ぶどうの路上販売やってみる?」と声をかけてくれたんです。巨峰とかピオーネとかを路上に作った葭簀小屋のなかで売りながら、ジャズ喫茶では色々な音楽を聴かせてもらったり、ときにはご飯を食べさせてもらったりしていました。

ジャズ喫茶で始まった初めての句会

しばらくすると、今度はマスターが、「ジャズ喫茶で句会でもやってみる?」という提案をしてくれました。これまで句を詠んではきたけれど、僕が指導者になるのは初めてでした。そして、ジャズ喫茶のお客さんを集めて句会をはじめたのですが、その中に公民館の館長さんが混ざっていて、「じゃあ公民館でも俳句を教えてよ」という話になっていったんです。それが26〜27歳ぐらいの頃ですね。和歌山に帰ってきて就職先がなく、アルバイトしながら暮らしている非常に苦しい時期でしたが、そこで新たに俳句の世界が広がっていったんですよね。今から考えると、未熟ながらも教えるということが、自分の経験値になった気がします。その頃、僕もまだまだ持っている知識は少ないですし、教え方も拙かったと思います。そんな周囲の応援のなか拙いながらの句会開催が、僕の俳句指導者としての一歩目になりました。

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ジャズは今でも好きで、よく聴いています。2016年度のEテレ『NHK俳句』で選者をやらせていただいたのですが、ジャズピアニストの山中千尋さんにゲストとして来ていただいた回がありました。僕は夕立の俳句をつくったのですが、番組のなかでその句を即興でイメージして山中さんがピアノを演奏してくれたのです。ジャズ喫茶でジャズをいろいろ聞いて、句会をはじめたあの頃を思うと、これまでにやってきたことが全部繋がるものなんだなあと感動しましたね。

俳人としての第一歩

和歌山で句会を開いていた頃、教えるだけではなく自分での創作活動も進めていました。『角川俳句賞』という新人賞があるのですが、そこに初めて応募してみたりしました。そして結果、予選を通過。作品は掲載されなかったのですが、名前が載りました。これはちょっとした励みになりましたね。「雑誌や新聞への投句」と「俳句賞への応募」というのは似ているようで大きく異なります。雑誌や新聞への投稿は一句単位で評価がされますが、俳句賞というのはだいたい30〜50句をまとめて応募するものなんです。一句だけだと、その俳人の実力は見えづらいんですよね。でも30句〜50句まとめて俳句を見ると、その作者の力量が見えてくるんです。50句応募するからといって50句だけを作るのではありません。その倍以上の句を作って、そこから厳選し、全体のタイトルを付けて提出するわけです。そのたいへんな作業自体が、自分の俳句を磨く礎になりました。

そのあと初めて、角川の俳句総合誌『俳句』から原稿依頼が来ました。今度は名前だけが載るのではなく作品も掲載されるわけですから、すごく嬉しかったんですが、掲載された2か月後にはその自分の俳句がプロの俳人によって批評されるのです。当時、僕はまだまだ新人とも呼べない無名の位置にいました。俳句もまだまだ拙かった。ですから、その批評の欄でもうケチョンケチョンに批評されまして、結構ショックを受けましたね。初めて原稿依頼をもらい、初めて厳しい批評を受ける。でもそれが、俳人としての公なスタートといえばスタートだったのかもしれません。

再び、東京へ

和歌山では、ぶどう売りや句会だけでなく、様々なアルバイトもしていました。どんなアルバイトも「いつか小説のネタになれば」という視点で選んでいましたが、鮎の養殖場で働いていた時期もありました。一番「普通」だったアルバイトは、スーパーでした。寿司をかたちばかり握って詰めたり、唐揚げをつくったり、ビールやジュースの品出しをしたりしていました。

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そのとき僕は28歳くらいだったんですが、やっぱりバイトというと周りは高校生や大学生など、若い人ばかりなんですよね。だから28歳と言うと、「あ、そんな年上なんですね」って驚かれたりしました。僕もその年でバイトしていてちょっと恥ずかしいというか、後ろめたいところもありました。彼らに「これからどうするんですか?」「何か目指していることとかあるんですか?」と聞かれると「いや、東京から和歌山に戻って来たんだけど、もう一回上京しようと思って、バイトでお金貯めてるんや」みたいな話をして、もう一回東京で頑張ろうと自分に言い聞かすところがありましたね。

このままアルバイトを続けていてもしょうがない、すでに20代も後半だし、何の当てもなくまったく無謀ではあるけれど、東京に行くとしたら、これが最後だろうなと思いました。そしてどうにか上京資金を貯めて、ふたたび東京へ向かいました。

出郷や葡萄の種を噛み潰す  裕樹

季語は「葡萄」で秋。故郷に対する愛憎、複雑な気持ちを「葡萄の種を噛み潰す」という行為で表わしてみました。甘くて柔らかい果肉のなかに混じる硬い種の持つ違和感そのものが、故郷を出るときの思いです。

(撮影:萬崎友子)



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