美大浪人を経てデザイナーに。遅れへの焦りが急成長の素

プロフィール
杉山 聡志

1981年年生まれ、埼玉県出身。東京藝術大学卒業後、2009年にバタフライ・ストローク・株式會社に入社。以後、グラフィックデザイナーとして多岐にわたるプロジェクトに携わっている。

クリエイティブディレクター青木克憲氏が率いるバタフライ・ストローク・株式會社は、広告の企画制作だけでなく、クリエイターやキャラクターのマネジメント管理、ライセンスビジネス、グッズの企画・販売など、およそ一般のデザイン会社では想像できないほど幅広い業務を行っている。同社で “グラフィックデザイナー”という肩書きで仕事をしているのが杉山聡志さんだ。が、その仕事ぶりは会社と同じく、一般的なグラフィックデザイナーとは少し異なる。絵を描くことが好きだった少年が、ふとした気づきからデザイナーを目指すようになり、第一線で活躍するようになるまで、その軌跡を辿る。

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急な進路変更で、美大を目指した浪人生活。

―現在、グラフィックデザイナーとしてご活躍中ですが、いつ頃からデザインに興味を持ち始めたんですか?

杉山:小さい頃から美術は好きでしたね。授業で描いた絵が県のコンテストで金賞を受賞したりして。漫画も好きで、ドラゴンボールの孫悟空とかスラムダンクの桜木花道とか、よく描いていました。ある時、孫悟空のイラストを描いたら、隣にいた父親も描き始めて。それが自分以上に上手だったので、尊敬すると同時にとっても悔しかったのを覚えています。

―お父様はどんなお仕事を?

杉山:実は僕の父もグラフィック関係の仕事をしていて。カンヌでグランプリを受賞して話題になった、マンモスが出てくるカップヌードルのCMなんかにも関わっていたことがあったんです。大貫卓也さんや青葉益輝さんとの交流もあったりして。今思えば、まだ小さくて知識がないなりにも、第一線で活躍するデザイナーの仕事ぶりを目の当たりにする機会はたくさんあったんですよね。そのときの記憶がなかったらデザイナーになろうとは思わなかったかもしれません。中高は普通の学校だったし、その頃には趣味で絵を描くこともなくなっていましたから。

—では、どうしてグラフィックデザインの道に進もうと思ったんですか?

杉山:僕の通っていた高校は県内でも進学校の部類で、現役の時は普通に理系の大学に進もうと思っていたんです。でも受験勉強している時にふと疑問に思うようになったんです。「このまま理系の大学に進学して、将来、何を仕事にしたいんだろう?」って。

—浪人することで、むしろ自分の将来を考える時間ができたと。

杉山:そのときに思い出したのが、先ほど話した大貫卓也さんや青葉益輝さんで。グラフィックデザイナーとしてクリエイティブな仕事をしたいと思ったんでしょうね。それでいろいろと調べたところ、美大を卒業して活躍しているデザイナーの方が多くいたので、ならばということで美大受験に進路変更をしました。

—進路を変更する際、ご両親に相談しなかったんですか?

杉山:しませんでしたね。誰に相談することもなく、急に「美大行くわ」って(笑)。父親は特に何も言わなかったですけど、母親は困惑していましたよ。ただ、当時はもうデザイナーになるしか道はないと思っていたので、背水の陣でした。とはいえ、それまで絵の勉強なんてしたことがなかったので、はじめは大変でしたね。そもそも美術が好きだから美大に行く、という人も多いんです。でも僕はグラフィックデザイナーになりたいから美大に行くという思考だったので、受験のために絵を描くことはあまり好きではありませんでした。

—なるほど。

杉山:あと、基本的に美術系の大学に入りたいって思うような子って早い子だと高校1年生くらいから予備校に通いはじめるんですよ。だから、高校を卒業してから絵の勉強をはじめる僕とは実力に雲泥の差がありました。結局、志望をしていた東京藝術大学に合格したのは、23歳の時になります。

—ようやく念願の藝大入学が叶ったと。

杉山:そうなんです。でも、浪人時代で身につけたしっかりものを見て絵を描くスキルは、大きな財産になっていると思います。わかりやすくできてるかとか、明快になっているかとか、魅力が伝わってくるかとか。そういった視点は今でも役立っていると思います。

「本当に働きたい会社が求人を出すまで自宅待機していました」

―東京藝術大学ではどういったキャンパスライフを過ごされたんですか?

杉山:合格するまでにかなりの時間を費やしてしまった意識があったし、そもそもがひとつのことにしか集中できない性格なので、サークルにも入らず、ずっとデザインの勉強をしていました。僕の学年は平均年齢でいうと21歳くらいだったんですが、年齢が近い人は落ち着いていましたね(笑)。

―もうそういう年齢ではなかったと?(笑)

杉山:それもあるかもしれませんが、もともと僕が通っていた高校が大学生活みたいに自由な校風だったんですよ。いつでも購買でお菓子とかを買えたし、昼食を食べに学校の外へ出るのとかも平気。だから、大学での生活に新鮮さはあまりなかったです。バイトは美術の予備校で講師をしていました。普通のバイトよりも自分の専門分野を活かせましたし、制作費も必要だったので給料の面でも助かり、4年生になるまで続けました。あとは、学校の友だちからデザインの仕事を頼まれることがあったりすると、個人で請けたりして。

―藝大の学生だと、自分でデザインをして友人に頼むことはなさそうですが、そういうわけではないんですね。

杉山:そうですね、全員がグラフィックデザインを学んでいるわけではないので。僕がいた学年は合計で45人の学生がいたのですが、なかにはプログラミングや映像を学んでいる人もいて、そういう人たちからデザインの仕事をもらうことがありました。そういった個人で請け負った仕事は、ポートフォリオにまとめて就職活動時に利用しました。やっぱり大学の課題だけだと年に大体4〜5個くらいと、数が少ないので。在学中に実績づくりをしっかりやろうという意識は強かったです。

―それだけ意識していれば、就活もスムーズに進みそうですね。

杉山:大学在学中からデザイン事務所に就職しようと考えていたのですが、そういう会社ってなかなか求人が出ないんですね。一応3年生で普通に就活もしたんですが、3社しか受けなかったので全て落ちてしまい……。なので、卒業後しばらくは、本当に働きたい会社が求人を出すまで自宅待機していました。それで卒業した半年後の夏くらいに募集があって、受けたという感じです。

―数ある制作会社のなかでバタフライ・ストロークを選んだのはなぜだったのでしょう?

杉山:グラフィックデザイナーのなかには、自分で絵を描いて、デザインもして、と全てを一人で完結させてしまう人もいると思います。僕はそういうことだけではなく、案件ごとにどういった方向性でデザインをしていくのか、どのような定着をさせていくのか、ディレクションを学びたいと思っていて。代表の青木は外から見ていても、特にディレクション能力に秀でた人だと感じていたので、ぜひここで働きたいなと。あとはギャラリーをやったり、ライセンスビジネスを手掛けたりと、仕事内容が受注案件だけにとどまらないので、勉強になることが多いと思ったこともあります。

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人より遅れて社会に出た分、常に焦りはあった。

人より遅れて社会に出た分、常に焦りはあった。

—実際、ディレクションの方法はどのように学んでいるのでしょうか?

杉山:手取り足取り方法論を教わるということはありませんが、青木のチェックを受けながらデザインがブラッシュアップされていく過程を見ているだけで勉強になりますね。青木からのアドバイスをいろいろ分析していくと理屈がわかってくる。入社してすぐの頃は怒られることも多かったのですが、徐々にその回数も減ってきて、感覚としてわかってくるようになりましたね。できないから嫌だってなるか、できないけどできるようになろうと思うか、という発想の転換が大事だと思っていました。

—ターニングポイントになったと思う仕事はありますか?

杉山:入社して1年が過ぎた頃に携わった『Kami-Robo Exposición』という展覧会ですね。「カミロボ」という紙でできたロボットを展示するイベントをメキシコのチョッポ美術館で開催することになったのですが、印刷物をはじめクリエイティブに関わる全てを初めて一任されたんです。しかも海外でできたというのは、大きな経験になりました。

—いきなりメキシコですか! 入社1年目でその規模の仕事を任されるなんてすごいですね。

杉山:一般的な会社だったら入社1年目の人間にやらせる仕事ではなかったと思います(笑)。でも、プロデューサーが僕を抜擢してくれて。それまで展覧会の設営なんてやったことがなかったし、誰かが教えてくれるわけでもないので、一つひとつ手探りでしたね。展示物の順番を考えて、それをミニチュアの模型にしてシミュレーションしたり。現地に行くまでは遠隔でやり取りをするので大変なことばかりでした。でも、それくらい大きな規模の仕事を回せないようでは、これまでにロスした時間を埋められないと思っていたので、とにかく必死に取り組みましたね。人より遅れて社会に出た分、人より倍以上の仕事量をこなさないと追いつけないという焦りは常にありましたから。

グラフィックからARまで。クリエイティブへの飽くなき探求

—入社されてから7 年目になりましたが、そのなかで仕事のスタンスは変わりしましたか?

杉山:入社して3、4年目くらいで僕が事務所の最年長になったので、後輩たちの様子を見たりするようになりましたね。とても忙しい会社だし、社員一人ひとりに求められるクオリティも高いので、体調面だけでなく、精神面でもフォローすることが多くなりました。

—同年代の人たちに追いつかなきゃという想いが強かったということですが、そういった焦りはなくなりましたか?

杉山:あるとき、付き合いのある印刷会社の社員さんに「バタフライ・ストロークは他の会社の3倍くらいのスピードで仕事をしているよ」って言われたことがあって。僕は新卒でこの会社に入社したので、他の会社のスピード感が全然わからないんですけど、その計算だと、僕は入社7年目なので21年分は働いていることになるんです(笑)。だから、少しは差を埋められたかなという想いはあります。


—ものすごいスピードで成長していることになりますね。

杉山:はい(笑)。あと、青木自身が新しいことを積極的にやるスタンスなので、定期的に新しい発見があるのがプラスになっていますね。たとえばAR(拡張現実)が世の中に出始めた時には、社内でARのアプリ開発にも着手していました。入社した当時はまさかそんなことまでやるとは思ってもいなかったですが(笑)。でも、そういった最先端の技術に触れられる環境にいるのは恵まれていると思います。

—では最後に、今後の展望について聞かせてください。

杉山:今は印刷媒体の仕事が中心になっていますが、そういった枠にとらわれることなく、平面でも立体でも映像でも、どんな案件でもディレクションできる能力を養いたいですね。



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