- プロフィール
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- ドリアン 後藤 ストーン
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1976年生まれ。米国ニューヨーク市出身。ワシントンD.Cジョージタウン大学英米文学部卒業。派遣、バーテンダー、漁師などを転々とした後、2001年から5年間、海外高級車のアフターマーケットパーツの輸入、購入に携わる。2006年に米国に戻り、独学で映像制作を開始。フリーランスのカメラマン、監督、プロデューサーとして、テレビ番組やミュージックビデオ制作など数多くの作品を手掛ける。2012年9月Googleに入社。YouTube Space Tokyoのマネージャー・プロデューサーであり、スタジオ運営からYouTubeチャンネルの配信プログラム企画など、多岐に渡る映像制作・配信業務を担う。
ニューヨーク出身のドリアン・後藤・ストーンさん。小さい頃から努力家だった彼は、クリントン大統領はじめ各国の政界人を輩出する名門私立大学にストレートで進学する。しかし、その後もエリート街道を進んだのかと思いきや、卒業後は、漁師、フリーター、バーテンダー、日本で外車の部品販売などを転々とする生活。当時のことをドリアンさんは、「将来のビジョンを見失っていた」と振り返る。そんな彼がターニングポイントを迎えたのは、29歳のとき。自ら「もう30歳になる大人が」と悩みながらも、映像制作の道をゼロから歩む決心をした。そして今、YouTube Space Tokyoという映像の新時代を担う場所で、若きクリエイターたちを牽引している。紆余曲折しながらも一貫して抱き続けた映像への熱意と仕事観に迫った。
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僕はアメリカ人なのか、日本人なのか?
―ドリアンさんはニューヨークのご出身だそうですが、日本語がすごくお上手ですね。
ドリアン:ありがとうございます。父がアメリカ人、母が日本人で、日本語は昔から厳しく教えられました。生まれも育ちもニューヨークですが、小学2年生まで毎週土曜日に、長時間バスに乗って日本語学校にも通ったり。通う度に車酔いしてしまうし(笑)、辛い想いもしましたね。当時はよく夏に日本に来ていたんですけど、日本に来ると「アメリカ人」と見られることがあまりに多く、それが好きじゃなかったんです。
—逆に、アメリカで「日本人」と見られる葛藤などはなかったのですか?
ドリアン:ニューヨークは色々な人種や文化を持つ人がたくさんいる環境だったので、「日本人」と特別扱いされるようなことは全くありませんでした。何より、僕は日本語を話せることにもプライドを持っていた。その頃はハーフであることが嫌で、純粋な日本人になりたかったんです。でも、回りから日本人だと見られることが少なかったので、常に「僕は日本人だ」と自己主張していました(笑)。
―ハーフならではの悩みですね……。それでも日本に渡ることはなく、アメリカで進学したんですよね?
ドリアン:はい。学生時代は「世界をよくしたい」という夢を抱いていたこともあり、ジョージタウン大学に進学したんです。
―クリントン大統領はじめ各国の政治家や外交官が卒業した名門校だと伺っています。
ドリアン:大学のあったワシントンは、中心部は観光地化していてキレイなんですけど、少しはずれると雰囲気ががらっと変わり、治安も悪いんです。勉強の傍ら、その貧しい地区で学習が遅れている子どもたちに読み書きを教えるボランティアをしていました。社会貢献への意識はとても高かったと思います。
―大学では何を専攻していたんですか?
ドリアン:最初は、国際関係を学ぶつもりでした。でも、学校のプログラムに参加して外交官や国際関係の偉い人たちと会ううちに、思い描いていた将来のイメージと違う気がしてきたんです。ここでは自分の考える社会貢献はできない、と。それで昔から文学は好きだったのと、小説家になりたくて自分で書いていた時期もあったので、文学部に転部しました。ただ、専攻を変えたのはよかったものの、以前のように将来のビジョンを強く持てなくなってしまい……。卒業する時には、頭の中が真っ白になって、正直、ものすごく焦りました。
漁師からバーテンダーまで 進路を模索し転々とする生活
―将来が見えないまま、卒業を迎えてしまった、と。
ドリアン:はい。さらにその頃、追い打ちをかけるように、父の余命が数年だと言われたんです。精神的に本当に辛い時期でした。しかし、社会人である以上、生活維持をしなければいけない。どんな仕事に就きたいかわからないまま、まず派遣社員としていろんな会社で事務のサポートをするなど、転々としていました。そんな中、大学卒業から1年が経ったくらいで父が亡くなったんです。その時、なんて人生は短いんだと深く自覚しました。悔いを残さず、いろいろチャレンジして生きていかなきゃな、と思いましたね。
―チャレンジ、と言いますと?
ドリアン:これまでずっと興味のあった小説よりも、映像表現の方が最先端で面白いのでは、と思い始め、映像制作に関心が向いてきたんです。学生時代に国際関係の道を進むことを目指していて、その後違和感を覚えたものの、「社会に貢献したい」という想いはずっと変わらず僕の中にあって。ストーリーを通して影響を与えるという意味では、小説も映画も同じだと思います。でも、人や社会により大きな影響を与えられるのは、映像や音楽で演出をできる、映画なんじゃないかと。
―ようやく進むべき道が見えてきたんですね。
ドリアン:はい。それからしばらく、夜はバーテンダーの仕事をしながら、昼間は映像制作や役者の勉強、という生活をしていました。最初は脚本を書こうとしたんです。でも、いざ書こうとすると全く書けずに絶望してしまい……。どうして僕はこんなに書けないのかと考えたとき、まだ人生経験が未熟だから何も生み出せるものがない、という結論に至ったんです。ようやく見つけた映像表現の道でしたが、もっと色々な経験を積んで、自分のベースとなるものを培わなければならないと気づきました。
―なるほど。経歴にある「漁師」というのがとても気になるのですが、これはどういう経緯で?
ドリアン:何事も経験が大事だと思い、夏に1ヶ月間シャケ漁のバイトでアラスカに行ったんです。もともと、ハーマン・メルヴィルやジャック・ロンドンなど海の冒険の話を書いた小説家に憧れがあり、人生のどこかで必ず一度は漁船に乗ってアラスカに行こうと決めていて。実際に行ってみると、24時間体制でいつ起こされるかわからない毎日。最初の一週間は船酔いに苦しみながらも頑張りました。辛かったけれど、とても貴重な経験になりましたよ(笑)。
―またしても乗り物酔いに苦しんだわけですね(笑)。その後はどんな経験を?
ドリアン:次のステップをどうしようかと悩んでいた時に、声をかけてくれたのが日本にいる友人でした。車の部品輸入・販売の仕事を手伝いに来ないかと誘われたのですが、映像とは全く関係ない業種だし、行くかどうかすごく悩んだのを覚えています。でも、その頃自分にとって大切な存在である日本との関係が薄れていたのも引っかかっていて。さらに自分の強みだった日本語も、気づけばカタコトになっていた。そんな背景もあり、人生経験を積むいい機会だと思って、日本で働く決意を固めました。映像業界へはまた戻ってくればいい、と自分に言い聞かせて。それで入社してみると、かなり体育会系な会社で、上下関係が厳しく、朝礼はすごい気合いを入れる。さらに朝から夜遅くまで働く上に、週末の出勤も当たり前という生活……。最初はなかなか受け入れられませんでしたが、自分にとっての修行だと思いながらどうにか耐えました。そして特に勉強になったのが、日本特有の人間関係です。
―と言いますと?
ドリアン:仕事上でのコミュニケーションで、本音と建て前を使い分けるということに気づいたときは衝撃でした。プロジェクトが思うように進まないことがあって、なんでうまくいかないのか、原因を考えたんです。そこに日本ならではの人間関係が大きく影響していると気づいてきました。本音と建て前というのを頭では理解しながらも、ニューヨークで育った僕にとっては、実践してみるのが本当に難しかった。加減がわからなくて、リレーションシップを大切にするのはよい反面、行きすぎると、しがらみになってしまうんですよね。そういう働き方になじんでいったら、あっという間に5年も経っていました
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- ゼロから歩み始めた、映像クリエイターへの道
ゼロから歩み始めた、映像クリエイターへの道
—色々な人生経験を積むつもりが、思いがけないところで足止めを……。
ドリアン:そうなんです。当初、日本には 1年だけ滞在するつもりでした。なのに、ふと気づけばもう29歳。いよいよ映画の道に本格的に進まないと、チャンスを逃してしまう。その焦りから、帰国して映像の勉強を始めることにしたんです。正直に言えば、今から映像の道に入ったところで本当に出来るのか、根拠が全くなくて不安でした。冷静に考えると、もうすぐ30歳にもなる大人が、キャリアを全部捨ててゼロから何かを始めるのはありえないし、周りから見てもとても恥ずかしいことなのではないかと。
—そんな中、ドリアンさんの背中を押したのはなんだったのでしょうか?
ドリアン:それは何回悩んでも答えは同じで、「映像を通じて伝えたい事がある」という想いが消えなかったからです。僕は自分の作った映像で、少しでも世の中に「思いやり」を増やしたいと思っていて。それくらい、映像には人を動かす力がある。でも、5年も日本で頑張って働いたので、その間支えてくれた同僚や上司への感謝もあり、正直に言えば退職にも迷いがありました。それで辞めることを社長に伝えたら笑われてしまい……。それでも、人生は一度きり。今やらなければ悔いが残ると思い、覚悟を決めて決断したんです。
—それほど本気だったんですね。その後、映像制作のノウハウはどうやって身につけたんですか?
ドリアン:一番最初は飛び込みでプロダクションに入り、給与は出なくても、勉強のためになんでも手伝いました。夜はまたバーテンダーの仕事をしながらお金を貯めて、プロ仕様のビデオカメラを中古で買い、休日には友人や知人からお願いされた映像を無償で撮影する。専門的な技術が必要だと感じた時は、学校に入ると学費が高いので、単発のワークショップを探しては、ピンポイントで学びながら腕を磨いていきました。その後は長編映画のプロデュースと監督をすることを目標にしつつ、フリーランスとして独立したんです。
—テレビ局やプロダクションに就職した方が安定を望めると思いますが、フリーランスを選んだんですね。
ドリアン:確かに、安定を考えると組織に属した方がいいかもしれません。でも、フリーランスの方が、取り組みたい仕事を選べるし、自由に時間も作れる。何よりカメラマンだけでなく、監督やプロデューサーの仕事もできます。会社の中で割り当てられた1つの作業を繰り返すよりも、幅広い経験のできるフリーランスという形が自分には合っていると思いました。途中で金銭的に辛い時もありましたが、決断した映像の道からそれる気持ちなどありませんでした。
Googleで見つけた、夢のような仕事。
—フリーを貫いていた中で、Google社に入社したのはどういう経緯があったのでしょうか?
ドリアン:当時のクライアントから、「GoogleがYouTube Space Tokyoを開設しようとしていて、そのマネージャー職を募集している」という話をいただいたんです。声をかけられた時は、正直どんな仕事なのか想像もつきませんでした。でも、何回かGoogleの説明を聞くうちに、「なんて革新的なプロジェクトなんだ!」と思ったんです。そもそも、YouTubeというプラットフォームで映像を無料で見れて、なおかつ誰でも配信もできるというのはとても民主主義的だと思い、そのビジョンに強く共感していました。さらに映像クリエイターがより質の高い動画を作れるように支援したい、という想いも重なり、ここで働きたいと思ったんです。
—Googleは世界トップクラスの企業として知られています。フリーランスから入社するのはハードルが高いのでは?
ドリアン:やっぱり正式にオファーをいただいた時は、さすがに「これは本当に現実なのか?」と思いました。さらに東京オフィスに来てみて、実際にYouTube Spaceを見た時はもっと驚きましたね。六本木という東京の一等地の、東京タワーまで見渡せる高層階に、これほどリッチなスタジオを作るなんて、Googleは一体何を考えてるのかって(笑)。そんな中、入社してからわかったのは、Googleの社員はとても優秀ですが決してエリートばかりではなくて、ユニークなバックグラウンドを持っている人が多いということ。
—ユニークなバックグラウンドという点では、ドリアンさんが入社したのも納得です。今は、実際にはどんなお仕事を?
ドリアン:映像クリエイターに技術を教えるワークショップやプログラムを考えたり、戦略を組んだり、YouTube Space Tokyo全体のオペレーションをしています。番組のコンテンツやイベントの企画もしますね。企画という部分では、映像の道に進むまで紆余曲折を経てきたからこそ、発想力が培われたように思います。今はどんな場面でも、アイデアがいくらでも出てきます。
—「映像クリエイターを支援する」というYouTube Spaceのビジョンは、「社会貢献」というドリアンさんの学生の頃からのビジョンと、「映像表現」という進むべき道がミックスされたような仕事ですよね?
ドリアン:そうなんです。今この仕事をしていることが、まるで夢のようです。僕自身、映像を作るのにバーテンで働きながらどうにかお金を貯めてやっていたので、 無償で最新鋭の機材や撮影スタジオを提供したり、技術指導もするなんて信じられません(笑)。
—ドリアンさん自身が、YouTube Spaceの意義を誰よりも理解しているんでしょうね。
ドリアン:そうですね。映像制作のノウハウについても、独学で身につけてきた経験があるから専門的になり過ぎず、ポイントを絞ってクリエイターたちに教えることができるのではないかと思います。かつての自分と同じように映像制作を志すクリエイターたちが、YouTube Spaceで学び成長する姿を見ると、とてもやりがいを感じます。
—作る側からサポートする側になった今、映像や仕事に対してどう考えていますか?
ドリアン:やっぱり、サポートする側だとしても映像を仕事にしていたいという想いは変わりません。でも、映像と視聴者との接点は時代と共に変わっていて、これからはYouTubeのようなオンラインビデオが盛り上がってくると思っています。映像の技術ではなく純粋なコミュニケーションという要素が強いですし、作り込んだ映像というよりもリアル感を出すことが魅力になってきている。そうした映像クリエイターを支援して、より多くの人に影響を与えることは、学生時代に抱いていた「世界をよくしたい」という夢と変わりはないんです。だから、この場を通じて日本の社会に良い影響を与えていきたいと思っています。
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