線香で少しずつ紙を焦がしながら、記憶の風景を描き出す作家、市川孝典
人間の「記憶」とは実に不思議なもので、思わず写真に撮って残したくなるような「風景」と、実際ふとした瞬間によみがえってくる「イメージ」は、必ずしも一致しない。というか、そこでよみがえってくる「イメージ」は、一体いつ、どのようにして、自分の「記憶」に入り込んできたのか。そして、それはいつの日か、跡形もなく失われてしまうのだろうか。
そんな薄れゆく「記憶」の中の「風景」をモチーフに作品を描き続けているアーティストがいる。温度や太さの異なる線香を使い分け、文字通り「記憶」を紙に焼き付けるように絵を刻むという、特異な作風で知られる市川孝典だ。
遠目から見るとモノクロームの「影絵」のようにも見える市川の作品。しかし、間近で見るそれは、紙を焦がす温度の違いによって生じる陰影や、紙に空けられた穴の凹凸が生み出す立体感など、恐ろしく細やかな作業の果てに生み出されたものであることがわかる。
untitled(wood land)/2016/detail©KosukeIchikawa. Photo:木奥恵三
紙に絵を描くのではなく、紙を壊しながらイメージを形作ること。ある意味、「破壊」による「創造」とも言うべき、その大胆な手法こそが、市川作品の何よりの特徴であり醍醐味である。
その彼が約3年ぶりに開いた個展『grace note』。現在渋谷のES galleryで開催されている本展の内容を、作家本人の解説も交えながら、以下レポートする。
市川:僕の作品は、自分が今までに経験してきた、さまざまな記憶がもとになっているのですが、今回ここに展示してあるものは全部、僕が10代の頃、ヨーロッパの古城をめぐっていたときに見た、さまざまな「森」の記憶を描いたものなんです。
会場風景 ©KosukeIchikawa. Photo:木奥恵三
かつて市川がヨーロッパを放浪していた時代に見た、月明りと小さな懐中電灯に照らされた「森」のイメージ。そこに何か特別な「思い出」があるわけではない。そう本人は言う。けれども、そこで見た「森」のイメージは後に市川の作品の中で繰り返し描かれることになるのだった。
市川:ふと思い起こされる風景は、感動したとか感情的な何かがあったとか、そういうものではなくて、日常の中にいつの間にかあったものだと思うんです。いわゆる「思い出」とは違う、心に染みついていないものなんだけど、ふとした瞬間によみがえってくるような風景。それを絵という形にして取り出したいんです。
untitled(wood land)/2016/burnt paper/H2046mmxW1326mm ©KosukeIchikawa. Photo:木奥恵三
市川は以前、記憶の中にある「森」のイメージを具現化した線香画を集めた個展『murmur』を開催した。木々の「ざわめき」をテーマに描いたという『murmur』の作品群。しかし、『grace note』と題された今回の個展の中心を占めているのは、線香で描かれた「森」の一枚絵を切り離し、コラージュ作品として再構築したものとなっている。この新たな試みについて、市川は次のように語る。
市川:僕は、感情や物事が始まるときや終わるときに訪れる、一瞬の静寂のようなものを作品で捉えようとしているんです。だから、実際に絵を描いているときは、本当に無感情なんですよね。そこに感情の入り込む余地はなかった。
でも10代の頃の記憶って、かなり昔のことだから、それを思い出したタイミングによって、その風景の印象が変わっていたりするんです。その風景の中に、今の自分の感情が入り込んでいくような。その状況をコラージュによって、今回表現しようと思ったんです。
untitled(wood land)/2016/burnt paper,collage/H1535mmxW1384mm ©KosukeIchikawa. Photo:木奥恵三
ファッションデザイナー宮下貴裕、ミュージシャン松本素生からもラブコールを受ける市川作品
今回新たに試みられたコラージュ作品は、どれも既に描き上げた一枚絵がもとになっている。それを大胆にカットしながら、市川はその空白部分に自らの感情を乗せていく。引き裂かれた一枚絵のあいだに下地として敷かれた紙は、市川の「情景」の中に存在する「暗闇」、もしくは「光」を意味しているのだという。
市川:日常のイメージは、そのときは無感情だと思っていたのに、今それを思い返すと、なぜか感情が揺らぐ。無感情だったものが、時間が経てば経つほど感情が増大していくことに気づかされる。だから今回の作品は、感覚的にこれまでの作品とは全然違うものとしてできあがっているんです。
そんな市川の思いは、『grace note』という本展のタイトルにも込められている。「グレース・ノート」とは音楽用語で、「装飾音として本来は鳴らされるはずのないリズムの隙間に使われる音」の意。自身の記憶の中にある森の「ざわめき」を表現しようとした前回の個展『murmur』に対し、静寂の中にある音や、「ざわめき」と「ざわめき」のあいだにある微かな移ろい……それを今回の『grace note』で、市川は表現しようとしているのだ。
untitled(wood land)/2015-2016/burnt paper,collage/H1550mmxW1050mm ©KosukeIchikawa. Photo:木奥恵三
1月13日に行われた個展初日のオープニングレセプションでは、市川の作品のファンだというファッションデザイナーの宮下貴裕(TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.)と、ミュージシャンの松本素生(GOING UNDER GROUND)と市川本人によるトークショーが行われた。二人は市川作品に対する思いを、それぞれの言葉でこんなふうに語っていた。
宮下:孝典くんの絵を見ていると、なんか涙が出そうになっちゃうんだよね。普通の人は自分の作品の中で、どこか自分を演じてしまうものだと思う。だけど、彼の場合は逆で、美しいものに対する彼の偽りのない本当の姿が作品の中にあるような気がして、そこに僕は感動してしまうのかもしれない。
宮下貴裕(TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.)
松本:アート作品を見るとき、僕はいつも自分の中にあるものと照らし合わせて見るんですけど、市川さんの今回の作品を見たとき、小さい頃、両親が出掛けて、ひとりで留守番しているときのことを思い出したんですよね。不安と孤独……あと自由と懐かしさが入り混じった感覚というか。そうやって、いろんな感情をフラッシュバックさせる力が、市川さんの絵にはあるんですよね。
二人の発言は、市川作品の魅力をいみじくも言い表している。市川の「記憶」から取り出された「イメージ」は、市川自身の感情を揺り動かすと同時に、それを見ている我々の感情も、静かに揺り動かすのだ。
凝視すればするほど、見る者の「記憶」の奥底に眠る「イメージ」を豊かに喚起させる市川の作品。線香で紙を焦がしながら描くという気の遠くなるような作業の果てに生み出された、三次元の立体物にも近い質感を持った彼の作品は、遠目ではなく間近に見てこそ、その真価を発揮する。この機会に是非、その目で確かめてほしい。
- イベント情報
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- 市川孝典個展
『grace note』 -
2017年1月13日(金)~2月3日(金)
会場:東京都 渋谷 ES gallery
時間:12:00~20:00
料金:無料オープニングレセプション
2017年1月13日(金)
会場:東京都 渋谷 ES gallery
出演:
市川孝典
宮下貴裕(TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.)
松本素生(GOING UNDER GROUND)
- 市川孝典個展
- プロフィール
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- 市川孝典 (いちかわ こうすけ)
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日本生まれ。美術家。13歳の時に、鳶職で貯めたお金をもって、単独でニューヨークへ渡る。アメリカやヨーロッパ各地を遍歴する間に、絵画に出会い、さまざまな表現方法を用いて、独学で作品制作に取り組む。帰国後、その類いまれなる体験をした少年期のうすれゆく記憶をもとに、温度や太さの異なる60種類以上の線香を使い分けながら、微かな火で紙に焦げ目をつけて絵を仕立てる新しいスタイルで作品を発表。後に、「現代絵画をまったく異なる方向に大きく旋回させた<線香画>」と称され、国内外から注目を浴びている。
- 宮下貴裕 (みやした たかひろ)
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「NUMBER(N)INE」脱退後一年の沈黙を破り、2010年「Soloist,Inc.」を設立し「TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.」として再び洋服創りを始動させる。「TheSoloist.」とは、洋服に携わる各個人が、「独奏家」として孤高の精神を持ち合わせて欲しいという宮下の願いであり、また再び洋服の世界へ戻ってきたという自分への不退転の決意の表れである。
- 松本素生 (まつもと そう)
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1978年生。埼玉県桶川市出身の4人組ロックバンド、GOING UNDER GROUNDのボーカル・ギター。バンド内の多くの楽曲の作詞・作曲を手がける。THE COLLECTORS・KinKi Kids(作詞のみ)・中村雅俊・松たか子・MEG・藤井フミヤなどに楽曲を提供。ROCK IN JAPAN FESTIVAL等のイベントでDJとしても活躍し、ROCK MIX CD「ROCK THE MIX 2」を09年にリリース。
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