既存の演劇にツッコミを入れる「ポストドラマ演劇」とは?
『東京国際演劇祭’88池袋』を起点とし、『東京国際芸術祭』から改称して2009年に始まった国際舞台芸術祭『フェスティバル/トーキョー』(以下『F/T』)。その特徴を手短かに言い表すとするならば「ポストドラマ演劇」の紹介にあると言えよう。
演劇学者ハンス=ティース・レーマンの演劇書『Postdramatisches Theater』が契機と言われるこの動向は、演劇において特権的に扱われる戯曲(テキスト)と、それを起点とした演技、美術、照明などの諸要素の統合にではなく、多様な要素が演劇的空間において自立した状態に価値を見出す。
その意味において、ポストドラマ演劇は、舞台上において「お約束」として見過ごされる物語や登場人物に対して「劇場内はフランス革命期のフランスではないし、役者はオスカル本人たちでもない!」とメタ的なツッコミを入れる(あくまで例えです)。それは、役者と観客の共犯関係によって物語を駆動させる既存の演劇をメタ的視点から介入・解体する批評的行為であり、しばしば作品は劇場を飛び出し、街中や一般の人々を取り込みながら、「演劇」という表現の持つポテンシャルを拡張させていく。
観客 / 参加者がそれぞれ実際の都市の中を移動し、各人固有の体験を得るツアー形式作品で知られる高山明主宰の「Port B」や、『F/T11』公募プログラムで、障害者介護のプロセスを舞台上に再現し話題となった村川拓也の『ツァイトゲーバー』は、『F/T』があらためて発見した、日本型ポストドラマ演劇の優れた成果と言えるだろう。
東京23区の人口統計に基づいた老若男女100人が舞台に上がり、1人が人口の1%を代表する演劇!?
以上、やや堅めにポストドラマ演劇を語ってしまったが、あえてとてつもなく乱暴に言い換えるとすれば「素人参加型のリアリティーショー」と言えなくもない。だとすると、『F/T13』 の上演作品であるリミニ・プロトコル『100%トーキョー』は、究極のポストドラマ演劇と言えるのかもしれない。
リミニ・プロトコル『100%トーキョー』の上演風景 ©Shun Ishizuka
東京を含めた世界13都市で上演された『100%』シリーズは、定期的に行政が行う人口統計(日本で言えば国勢調査)に基づき、あらかじめ定められた100人という出演者数の枠組みに、一般から選ばれた素人を役者として当てはめていく。その100人に、舞台上でさまざまなアンケートへの回答やゲームへの参加を課し、都市の表情を浮き彫りにするという独創的な作品である。
統計に基づくとは、つまりこういうことである。東京都23区全体の男女比は51:49なので、男性は51人、女性は49人を起用する。国籍であれば、97人は日本人でOKだが、残りの3人は中国、韓国、その他の国籍の人を含めなければならない。さらに年齢による制限もあって、0〜4歳は4人、65歳以上は21人を集めなければならない。このような統計学的な枠組みによって、100人の東京都内23区に住む一般人が集められる。
だが、これらのルールには構造的な欠陥がある。国籍において「その他」に分類されるのは1名だが、東京にはアメリカ人もネパール人もセネガル人も住んでいる。ある種の意図で選ばれたその他の外国人が、1%に含まれた多様性を代表できるのか。同じ問題は居住地域による分類にも当てはまる。千代田区に住む人々は東京の全人口のわずか0.55%、舞台上では1名に相当する。本公演では、かつて登山用品店の経営者だった62歳の男性が起用されたが、果たして彼1人に千代田区のすべてを背負わせることができるだろうか。
リミニ・プロトコル『100%トーキョー』の上演風景 ©Shun Ishizuka
リミニ・プロトコル『100%トーキョー』の上演風景 ©Shun Ishizuka
Twitterなどで散見された同作への批判も、おおまかに言えばこの問題に集中していた印象がある。100人という枠組みによって東京を縮減したとして、その限定的な多様性からこぼれ落ちた多様性(例えば非正規滞在者と呼ばれる外国人)をどのように代弁するのか。また、厳密に統計に基づくと言いながら、結局のところ本作のようなユニークな試みに参加する意志を持った100人が集まった状況が、東京という都市をニュートラルに表象しうるのか。重箱の隅をつつけば、いくらでも綻びが生じる。
ドラマを捨てたわけではない「ポストドラマ演劇」
しかし、こうした問題点に製作者であるリミニ・プロトコルは決して無自覚ではなかった。「ポストドラマ演劇」の代表格である彼らが本作に召還したのは、強固な「物語性」だったのである。
今回のレビューを書くにあたって、私はリハーサル現場に立ち会う機会を得た。そこで特に重視されていたのは、出演者の反応、つまり東京のダイナミズムを舞台上に再現するためのリズム感である。作品中盤に、出演者同士が「はい / いいえ」で回答できる質問を自由に投げかけ合うオープンマイクというコーナーがある。即興に対応する柔軟さと舞台根性が要求されるこのシーンは、素人ばかりの100人にとって相当のプレッシャーを与えるものだ。なかには質問内容をうまくまとめることができず支離滅裂になってしまう人もいたが、そのようなたどたどしさをリミニ・プロトコルは丹念に取り払い、緻密に段取りをつけることに心を砕いていた。
私は全3公演の内、最終日に本作を観たが、出演者たちはリハーサルよりもはるかに上手に質問を発せられるように、すなわち「演技」できるようになっていた。おそらく私は、もっとも「演技の巧い」100人と出会ったはずだ。
『100%トーキョー』は、社会に対して開かれた議論 / 主張の場を擬装するが、反復的な訓練による出演者の技術的向上に多くを依存した線的な物語と見るのが正しいだろう。実際、客席後方に据えられたスクリーンには100人が発するべき「セリフ」や「段取り」が常に表示され、出演者たちはその台本に従って、物語を紡いでいく。公演を重ねるごとに高まる演出の精度といい、本作はきわめて「演劇」的なのである。冒頭に挙げた演劇学者レーマンも「ポストドラマはドラマを捨てることではない」と言う。したがって、本作もまたポストドラマ演劇の範疇に収まるものではあるのだろう。
リミニ・プロトコル『100%トーキョー』の上演風景 ©Shun Ishizuka
現在の政治状況とはまた違った統計的結果から見るべきものは?
一方で、素人100人の口と身振りを借りて発せられる言葉の真実味、重さも省察されるべきだろう。作中で出演者に投げかけられる質問の中には、東日本大震災に端を発する生存への不安や、2020年に開催予定の『東京オリンピック』に対する是非、あるいは男女(同性)間の性差やセックスについてのトピックもあった。そこから現れた100人の回答は、日本国民の投票によって成立した、保守政党が過半数を占める現在の政治状況とはかなり異なるものであった。
目に見える形で舞台上に現れた結果に「東京もまだまだ捨てたものではない」と安堵することは容易い。だが、単純に楽観視できるわけではないことは、これまで見てきたような『100%トーキョー』に内包される政治的力学を思い起こせば明らかだ。物語を円滑に駆動するには、あらかじめ定められた方向性への歩み寄りが求められる。そのために素人たちは時に道化を演じ、時に司会役に扮して、自由意志によって発せられた客席からの声を編集することすら厭わない。
私はそこに人間存在の底知れなさを感じ、たじろいでしまう。3.11以降、政治や生存にまつわるさまざまな憶測が飛び交う社会状況は依然として変化していない。その中には誹謗中傷に類する、根も葉もない流言飛語の類いも多く含まれるだろうが、真偽はともかく巨大で曖昧な不安が日本を覆っているのは疑いのないことだ。だが、私たちはそれでも生きねばならない。そしてこの社会の中で生き続けるためには、さまざまな「物語」(題名は「絆」「復興」「経済成長」「東京オリンピック」であったりするだろう)に、「1人の盲目の役者」として身を任せることが求められるのだ。本作は、そのことにどれほど自覚的だろうか。あるいは無自覚だろうか。
最後に、『100%トーキョー』のなかで、ひときわ印象に残った質問を1つ挙げたい。「Q:政治的な問題には答えたくない、ただ楽しみたいという人?」。100人に向けられたこの質問に対する回答は、その直後の愉快な群舞シーンによって曖昧に宙づりにされる。この演出は、きわめて意図的なものである。
- イベント情報
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- 『フェスティバル/トーキョー13(F/T13)』主催プログラム
リミニ・プロトコル『100%トーキョー』 -
2013年11月29日(金)〜12月1日(日)全3公演
会場:東京都 池袋 東京芸術劇場プレイハウス
作・構成:リミニ・プロトコル(ヘルガルド・ハウグ、シュテファン・ケーギ、ダニエル・ヴェッツェル)
演出:ダニエル・ヴェッツェル
音楽:焚火(Takuji[Vo,Gt,Key,大正琴,アコーディオン]、木津茂理[Vo,和太鼓,三味線]、大島保克[Vo,三線]、アン・サリー[Vo]、世武裕子[Pf]、小林眞樹[Ba]、千住宗臣[Dr]、塩谷博之[S.Sax,Cl])
料金:
一般前売4,500円
一般当日5,000円
学生3,000円
U18(18歳以下)1,000円
- 『フェスティバル/トーキョー13(F/T13)』主催プログラム
- プロフィール
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- リミニ・プロトコル
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シュテファン・ケーギ(Stefan Kaegi)、ヘルガルド・ハウグ(Helgard Haug)、ダニエル・ヴェッツェル(Daniel Wetzel)の3人によるアートプロジェクト / ユニット。2000年、フランクフルトで結成。公共空間におけるパフォーマンスやドキュメンタリー演劇の手法を用いた型破りなプロジェクトの数々で世界の注目を集めている。出演者には、プロの俳優ではなく作品テーマに則した特別な経験や知識を持つ一般の人々を起用し、「ある現実をそのまま舞台上にあげる」という手法を用い、高く評価されている。2004年以降はベルリンのヘッベル劇場に拠点を置き、それぞれが個人のプロジェクトを発表する一方で、メンバー2人、もしくは3人のプロジェクトも多く発表している。日本では、これまでに『ムネモパーク』(『東京国際芸術祭 2008』)、『カール・マルクス:資本論、第一巻』(『F/T09 春』、『Cargo Tokyo-Yokohama』(『F/T09 秋』)などを上演し、好評を博した。2011年『第41回ベネチアビエンナーレ国際演劇祭』にて、銀獅子賞を受賞するなど、受賞歴も多数。
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