全自動お掃除ロボットが画家活動をしている
「あるお掃除ロボットが画家活動をしているので取材してほしい」。
CINRA.NET編集部から、そんな依頼を受けた。何を言っているのかよくわからなかったが、メールに記載されたURLをとりあえず開いてみると、その「画家」の名前は「ヘッド君」というらしい。リンク先は、彼の「執事」を名乗る「HYdeJII(ひでじい)」という3DCG風の老人がアイコンのTwitterアカウントで、そこでは機体の上に絵の具入りのペットボトルを備えた全自動お掃除ロボットの、絵画制作に励む姿が紹介されていた。
もちろん、ロボットが自ら作家活動をするわけがない。そこには当然、いわゆる「中の人」の存在があるはずだ。だが、そんなことにこだわるのも野暮だろう。ここはひとつネタに乗ってみようと、ヘッド君のウェブサイトにある連絡先から例のHYdeJIIへとアポを取り、絵画制作が行われる都内某所の「アトリエ」を訪れてみた。
人の手では表現できない、妙な「張りつめ感」
アトリエには、壁掛けされた2枚の絵画作品と、微動だにしないヘッド君の姿があった。1つ目の作品は『春のワームホール(Spring Worm Hole)』といい、いわば彼の処女作。もう1つは、その延長線上で描かれたと思しき最新作『銀河衝突の春(Spring Starburst)』だ。作風は強いて言えば、絵の具を画面中に撒き散らしたジャクソン・ポロックのような「抽象表現主義」風か。とりたてて目立ったところのない作品にも見えるが、もともとは「本業」の掃除のため、床をくまなくスキャニングすることを宿命づけられたヘッド君の作り出す画面には、どうしても偏りを孕んでしまう人の手には困難であろう、妙な「張りつめ感」を感じたことも事実である。
『銀河衝突の春(Spring Starburst)』(部分)
ところで、こうしたロボットによる絵画制作の作品化は、じつは近年のアートシーンによく見られるものでもある。たとえば、Chim↑Pomが『アジアン・アート・ビエンナーレ・バングラデシュ2014』に出品した『下町のパラドックス』は、同じように全自動お掃除ロボットに絵を描かせた作品だ。また、『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015』でも展示された蔡國強(ツァイ・グオチャン / さい こっきょう)による『農民ダ・ヴィンチ』も、中国僻地の農民が制作したロボットに絵を描かせる作品だし、『第15回文化庁メディア芸術祭アート部門』で新人賞を受賞した菅野創+やんツーの『SENSELESS DRAWING BOT』も、振子付きのドローイングマシンである。ヘッド君も含め、これらロボットを使った作品によって生まれた絵画が、みな示し合わせたように「抽象表現主義」風なのは、なんだか少し笑ってしまう現象だろう。
美術史上初の試み? ロボットによる公募展への出品は、残念ながら参加拒否の憂き目に
ただ、こうして似た点のある作例を並べてみると、その違いも見えてくる。前述の作品と、ヘッド君の活動との最大の相違点は、後者では作家の位置に「ヘッド君」そのものがいる点だ。前述の例では、(良い悪いではなく単なる違いとして)どれほど自由な創作活動をしているように見えたとしても、ロボットは人間たるアーティストの制作活動における「素材」の位置にいる。しかしヘッド君の場合、仮に誰の目にも明らかな「フィクション」とはいえ、ヘッド君自身が「アーティスト」であるとの体裁がある。
彼の活動の物語化が、この試みの要だろう。というより、どれだけ機械が自立化しても、その奥に究極的には(設計 / 開発した)人間の姿を見るのが普通なのだから、「フィクション=虚構」のあらゆる面からの追求、そして作品の受け手との間の共有がなければ、この活動は中途半端になってしまう。その意味で、ファンタジーの世界を追究したディズニーランドの運営のように、ヘッド君の仕事はもっと徹底化されるべきもののように思う。
『春のワームホール(Spring Worm Hole)』(部分)
また、これとも関係するが、ヘッド君は過去にアートコンペティション『タグボートアワード』へと応募をし、参加を断られた経験を持つという。参加拒否の理由は「アーティストと銀行口座の名義の不一致」。その反応を受け、執事であるHYdeJIIのTwitterには「ロボットでも口座が持てる時代が待たれる」とのコメントが投稿されている。真面目に書くのもバカらしいが、とはいえ機械によって自動的に作られた創作物を、人間による創作物とどう峻別するか / しないかという問題は、現代的なものだろう。
機械が「人間らしさ」を超える可能性は?
あるクリエイターから聞いた話によれば、近年のウェブデザインの現場では、人間が作ったウェブサイトより、もはや過去に収集したデータを基にコンピューターが自動制作したサイトのほうが、より優れたものになるのではないか、との議論が起こっているらしい。たとえば、どんなレイアウト、ボタンのデザイン、色などを採用すれば、人は積極的にページを進むのか。そこに、過去の膨大な統計データが見せる傾向を当て込めば、自動的に「理想的」なウェブデザインは制作可能ではないか、というのだ。
また視覚文化に限らず、たとえば小説家の中村航と中田永一が芝浦工業大学の学生らと共同制作した「ものがたりソフト」のような例もある。これは人間の物語作りを支援するシステムであり、純粋な自動創作物ではないが、それを利用して書かれた小説『僕は小説が書けない』(KADOKAWA / 角川書店)がすでに刊行されている。こうした試みがより進み、人間の情緒をデータ的に蓄積して創作物に自動反映するようなものが現れたとき、人がそれをどう評価するのか。その問いは、それほど遠くない未来の問題であるはずだ。
工業製品を美術作品として提示したマルセル・デュシャンや、「機械になりたい」という名言を残したアンディ・ウォーホルなど、昔ながらの「人間らしさ」や「美」に対する価値の逆転は、現代美術の十八番である。さらにはそこに「自然現象が作り出した造形をどうやって評価するのか」といった、また別のテーマを絡ませることもできるかもしれない。いずれにせよ、「ロボットが勝手に作った美術作品は、人間社会でどう扱われるか」という問題を扱うヘッド君の活動は、思い切って広く捉えれば、こうした美術の「外部」をめぐる流れの一端に位置づけられるだろう。そして、今はまださほど迫力を感じさせないその試みが真に迫るものとなったとき、それをどのように受け止めるべきなのか。それを考えるのは結局、われわれ人間の仕事である。
- リリース情報
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- 『Tails of Head』
- プロフィール
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- ヘッド君
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アーティスト。年齢15歳。iRobot社の製造するお掃除ロボットを改造し画家ロボットとして活動を始める。2014年10月より絵画活動を開始、ロボットならではの機械的、幾何学的なタッチを駆使しながら絵を描く。「ロボットのアイデンティティ・美意識とはなにか?」そんな答えを探し、画家活動をしている。主な作品として、『春のワームホール(Spring Worm Hole))『銀河衝突の春(Spring Starburst)』がある。
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