2008年4月、思想誌『思想地図』がNHKブックスから創刊された。批評家の東浩紀と社会学者の北田暁大が編集を務める同誌は、3月刊行の5号をもって一度幕を閉じる。来年秋には東浩紀、宇野常寛、濱野智史ら5名の批評家陣による合同会社コンテクチュアズを版元に第2期の刊行を始める予定だ。彼らはゼロ年代をどう捉え、来たる10年代に備えているのか? ゼロ年代が終わりを告げようとしている2009年12月26日、11月に刊行された第4号「特集・想像力」をめぐり、東浩紀と宇野常寛によるトークショーが青山ブックセンター本店にて行われた。その模様をレポートする。
自分たちの好きなものに、普遍的なテーマを見出した(宇野)
東:突然だけど、どうだった? 『思想地図』4号を編集してみて。
宇野:大変だったけど、非常にいい本になってよかったです。東さんから「4号の編集を手伝ってくれない?」と言われたとき、まず「3号に負けたら俺の人生は終わるな」と思ったんですよ。4号が売れなかったら「宇野、終わったな」感、漂いますよね?
東:漂うよね〜。
左:宇野常寛、右:東浩紀
宇野:だから、「濱野智史号」とも呼ばれている3号の「アーキテクチャ」特集に、死んでも勝たなきゃいけないと思ったんですよ。でも、コンテンツ批評で明確なパラダイム・シフトを打ち出していくのは、非常に厄介だと思いました。東さんの言う誰もが利用可能なインフラの上に個々人の価値観が乗る「ポストモダンの二層構造」の、下層で起こっているアーキテクチャの生態系的な発達というのは明示しやすいんですね。しかし、上層で起こっている変化についての僕の考えは、一見バラバラの島宇宙のなかで、それぞれに実は同じ変化が起きている、というものです。だから一本のストーリーにするのではなく、いろんな場所、ジャンルの担い手のところに出かけていって、まさに断片を収集して、どの断片でも同じような変化が起こっていることを証明していくかのような誌面にするしかないと思ったんですね。
東:4号はもともと、文学特集にしようと考えていたんだよね。「東くんはなんで純文学に背を向けているのかなぁ?」というようなことを言う人がいるから、それがいかに馬鹿げた発言かを分かってもらうために、純文学に近い特集を組みたかった。でも、インタビューやシンポジウムの依頼をことごとく断られてしまい、なんだそもそもそっちが背を向けているんじゃん、と。それで宇野投入というね。
僕は宇野くんや濱野くんに、新しい時代の批評を盛り上げていってほしいわけですが、どうなの、そのへんの抱負は?
宇野:僕が書いた『ゼロ年代の想像力』は、この10年で話題になったサブカルチャーを分析してみたら、社会やコミュニケーション空間の変化が見えてきたという本なんです。で、濱野智史の『アーキテクチャの生態系』も、日本はグローバリゼーションを受け入れているように言われているけど、ネットの進化を見れば意外とそうでもないっすよ、という本です。上の世代からは「お前ら、好きなものを熱く語ってるだけだろう」とも思われているでしょう。確かにそういう側面は否定できないけど、僕らからしてみればそこに普遍的な課題を見出したからこそ話題にしているんですよ。今後は、僕らが考えたことが他のジャンルにも応用可能であると示していかなきゃいけない。4号をその嚆矢として位置づけられたらと思っていますね。
思想界は宮台信者でいっぱい?!
東:なるほど。改めて思うけどさ、このトークショーって、何か動きがないよね…。宇野くんがいま喋ったことも、すでに4号が出ているからみんな知っているし。やっぱり、対立を作らないと対談って面白くないじゃない? だから僕は、ここで飛び道具を出すよ。
宇野:来ると思ってたんだよな〜。何ですか?
東:僕から見ると、チャーリー(鈴木謙介)と荻上チキと濱野智史と宇野くんはすごく似てるの。どこが似てると思う?
宇野:なんだろ? …宮台さんの影響下にあること?
東:そうそう! 君たち、ミヤダイなんだよね(笑)。宮台真司と東浩紀って、ぜんぜん違う書き手なんだよ。でも、ゼロ年代ってすごく不思議で、この二人が似ているように見えた時代なんだな。逆に僕からは、宇野くんと濱野くんはすごく似て見えるし、自分とは決定的に違うなと思うんだよね。僕はこれから君たちと『思想地図』2.0を始める、それは粛々とやるとしてだ、ここで両者の違いをクリアにしておくと、来たる10年代が見えてくるのかな、と思うわけ。
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2/5ページ:「ビフォア」の批評家、「アフター」の批評家
「ビフォア」の批評家、「アフター」の批評家
東:そもそも、何故君たちには僕と宮台さんが似ているように見えるんだろう?
宇野:「文化系トークラジオLife」の中で、鈴木謙介さんがよく使う「ビフォア/アフター」という表現があるじゃないですか。1995年を何かの終わりとして考えるのが「ビフォア」の世界の人たちで、何かの始まりと考えるのが「アフター」の人たちだという。宮台さんは、たぶん「アフター」の最初の人なんですよ。その次に出てきたのが東さんなんですね。でも世の中、特にカルチャー業界では、基本的には「ビフォア」のほうが強いんですよ。
東:いや、僕はけっこう「ビフォア」だよ。出自的にも、持っているボキャブラリー的にも。君は僕を「セカイ系」という言葉で捉えているみたいだし、まあそれはそれで間違いではないけれど、本当は僕がやってることは明らかに、サブカルチャーや美少女ゲームを題材とした「ポストモダン批評」だよね。
宇野:たぶん僕らがやろうとしているのは、東浩紀をどんどん「アフター」に読み替えていく作業ですね。それこそ二次創作的に。僕が『ゼロ想』で書いたのは、一言でいうと「データベース消費」という発想を突き詰めるんだったら、本当は「セカイ系」ではなくて「バトルロワイヤル系」のほうが徹底してるでしょ、っていうことですよ。それは東さんのアフターの部分を徹底化していく作業でもあったはずです。
東:まあねえ。宇野くんの言っているのはわかるけど、問題は、その肝心の僕が「セカイ系」だってことなんじゃない? 『ゼロ想』の「セカイ系」と「バトルロワイヤル系」の対立は、僕はそのまんま東浩紀と宮台真司の対立だと思って読んだ。つまりあれは、宮台真司のほうが東浩紀よりも新しいと言っている本だよね。ちなみに言えば佐々木敦が『ニッポンの思想』で「ゼロ年代は東浩紀の一人勝ち」と主張したのは、僕はこの点において間違いだと思う。じつはいまでも、僕の周りに集まってくる奴はみんな宮台信者なわけよ。
宇野:なるほど(笑)。
東:ところが、僕と宮台さんは思想的には対立しているらしいじゃん。少なくとも宇野くんによれば。僕が「「セカイ系」的な生き方のほうがいいんじゃない?」と、宮台さんは「「バトルロワイヤル」的なほうがいい」と主張するという対立があることになっている。だとすると、その下にいる君たちはどうなんだろう?
宇野:ised@glocom(東浩紀がディレクターを務める、情報社会の倫理と設計についての学際的研究を行うプロジェクト)もそうだし、『動物化するポストモダン』もそうですけど、東さんの中にも「セカイ系」に集約しない部分が明らかにあるわけですよ。正確には、東二層構造論を突き詰めていくと必然的に「バトルロワイヤル系」が出てくることになる。あれは要するに、「だれもが「セカイ系」になった社会はどうなるか」っていう想像力ですからね。
ただ、東さんが「バトルロワイヤル」的なものから正しく切断されることで獲得できる「セカイ系」的なロマンティシズムに賭けているのはよくわかります。そこは僕とは明らかに違う。後続の僕は当然、東浩紀という先行するテキストに対し、「この部分はいいけど、この部分はよくない」という作業を粛々とやっていくんじゃないでしょうかね。
○×式の作品読解は事業仕分け的(東)
東:なるほどねえ……。君の言い方を聞くと、僕がやっていることから「セカイ系」的な仕事を引き剥がせるかのように聞こえるけど、実際はそういうことはできないよね。すべては渾然一体となっているわけだから。
宇野:でも先行するテキストを「引き剥がす」とか、「読み替える」っていう作業こそが批評なんじゃないですか?
東:いや、そんなことはなくてさ。たとえばジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』を書いているけど、同時に『告白』や『新エロイーズ』の著者でもあるわけだよ。これって、日本のルソー受容の中では交わっていないらしいんだよね。一方には中江兆民的なルソーがいて、他方には自然主義文学のルソーがいる。けれどもそういう捉え方はやっぱりだめなわけ。なぜかというと、あの『社会契約論』で描かれているのは、そもそもが、私小説につながってしまうほどロマンティックな「私」を確立した、そういう人間が考える理想社会だったわけだよね。そう理解しないと、ルソーは見えてこない。僕はルソーと比べればゴミみたいな人間だけど、同じことは言えると思うわけよ。
宇野:もちろんそうでしょう。でも「批判的な検証」ってそれとは別じゃないですか。
東:でも、君が取り出している僕の裏側には、君の嫌いな僕がいるじゃん。それはどう処理するの?
宇野:片方は褒めて、片方はけなすしかないでしょう。
東:それはあまりに都合がよいでしょう。まえに荻上くんにも言ったことだけどさ、きみたちは「東浩紀というテキスト」を前にしているのではなく、身体を持った一人の人間として僕を相手にしている。良かれ悪しかれ。そのかぎりにおいて、そんなことができるわけない。それに、たとえテキストとして見てもね、たとえば押井守について考えるとき、「彼は『ビューティフル・ドリーマー』みたいな傑作を生んだけど、実写映画は終わってね?」ということでカタがつくかというと、作家としての評価はそういう視点ではできない。本人の想像力の中では、全てがつながっているんだから。ダメな作品を撮るひとが同時にいい作品も撮る。
宇野:でも、奥でつながっている何かが対象によってプラスに作用した、マイナスに作用したという理解はできるじゃないですか。
東:それはいいと思うよ。作品同士の関連を考えているわけだから。ただ、作品を事業仕分け的に「これは○、これは×」と仕分けていくのは、作品読解のやり方として正しいだろうかと思うわけです。
宇野:僕はそこまで単純な批評をした覚えはないですよ。問題意識が古い/新しいという観点から、いつまでも「セカイ系」の話をしている論壇に異は唱えましたけど。テーマ批評ではなく、作品の完成度だけを問われれば当然別の尺度があります。あと、『ゼロ想』を読めばわかると思うのですが、「バトルロワイヤル系」だからその作品が素晴らしい、なんてことを言った覚えもありません。
美学の話じゃなく、何を批評の対象とするかという問題(東)
東:で、さっきの話に戻ると、「セカイ系」の僕と「バトルロワイヤル系」の僕は、どんなふうに関連しているのかな?
宇野:東さんの言う「ポストモダンの二層構造」、あれを字面どおり受け取ったら、政治の領域がどんどん脱コミュニケーション化してゆく一方で、実存のレイヤーはむしろコミュニケーション過剰になっていく。そんな世界において、どんな作品が美しいのかと問うとき、僕や宮台さんはコミュニケーション過剰な世界を受け入れたもののほうが美しいと思っているわけです。東さんは逆に、コミュニケーションを切断したもののほうが美しいと言っている。つまり、世界理解の美学が違ってるんですよね。
東:いや、そうじゃないと思うな。自作解説をしてもしょうがないけど、『クォンタム・ファミリーズ』は、ある側面では『ゲーム的リアリズムの誕生』の実践になっている。批評家って、簡単に言うとコミュニケーション業じゃないですか。そういうコミュニケーションの領域を前提として、コンテンツの範囲が区別できなくなるような作品を書いたつもりなんだよね、あれは。『クォンタム・ファミリーズ』は私小説ではないけど、そう勘違いしてしまうような作品でもある。すると批評家の僕が喋る言葉が、あの作品の中に入ってきてしまうわけです。それはそれで、コミュニケーション過剰な世界を受け入れているということになるんじゃないの。
宇野くんは宮台さんと同じで、コンテンツとコミュニケーションを明確に分けているよね。そして、コンテンツの「中」で、リアルな都市風景を反映したコミュニケーション過剰な世界を描いてるものが好きなのよ。一方、僕が好きで宇野くんは嫌いな「セカイ系」では、コンテンツの中身は現実の社会に対応していない。でも、コンテンツとその「外」との関係性が、新しいコミュニケーション空間に対応している。少なくとも僕はそう考えている。だとすると、これは美学の話じゃない、何を批評の対象とするかという問題なんだよね。僕から見ると、宇野くんの批評は作品の外縁がしっかりしている。だから「東さんの思想はいいけど、読者の受容は間違っている」などと、けっこう簡単に言えてしまう。
宇野:東さんがおっしゃるのは「セカイ系」というよりループもののノベルゲームなどのそれですよね。東さんがおっしゃるようなタイプの作品は、結局最初からわかりきっている結論を追認して再強化するだけで僕は無効だと思っているわけですよ。
東:何をもって「無効」と言うわけ? 「効果がある」と言うときの「効果」って何なの?
宇野:この話は、僕が何故ループものを東さんほど評価しないか、という話につながると思うんですよ。たとえば舞城王太郎の『九十九十九』に「だから僕は、この一瞬を永遠のものにしてみせる」ってフレーズがありますよね。しかし、95年以降は誰もがループの果ての一回性を愛するかのごとく、「この一瞬を永遠のものに」するべく物語回帰していったわけです。ゼロ年代に問われていたのはむしろ「誰もが九十九十九になった世界」「誰もが物語回帰を決断した世界」がどうなるか、じゃないでしょうか。その意味で僕にとって「セカイ系」は予めわかっている結論への没入を強化するための想像力に思えるわけです。
東:「結論が見えている」と言うとき、宇野くんは作品の「中」を読んで、それが社会をどう反映しているかっていうことだけを考えてるわけだよね。でも僕が言っているのは、人々は作品をいまや、その境界がボヤッと溶け出しているところで楽しんでいるんだから、作品だけを見て判断してもしょうがないんじゃないの、ということなんです。
なんか俺、すでに死んでいるみたいだよね(東)
東:まあ、ちょっと話を戻しましょうか。
宇野:それではやはり、東さんはised@glocomの東と『ゲーリア』の東は不可分であると認識しているわけですね。
東:どう考えても不可分だよ。僕の仕事の一部だけ取り上げられても困る。
宇野:でも個人の自意識と残したテキストはイコールじゃないですからね。僕らは東さんの残した仕事を使って、自分たちの理論を作り上げているんです。こういう仕事をする若手がいたほうが活性化していいじゃないですか。
東:なんか俺、すでに死んでいるみたいだよね(笑)。つまり君たちは、東浩紀の遺産を使って、宮台真司をさらにパワーアップさせていこう、という方針なんだ。
宇野:東理論を使うことによって、後期宮台的な発想をより洗練させていきたいという考えはありますね。
東:なるほどねえ。でも宮台さんってもともとニクラス・ルーマンの研究者だよね。宇野くんが好きな宮台真司は、もしかしたらいまやいないかもしれないよね。10年代でまた変わるかもしれないし。
宇野:もちろん、それはそうですよ。でも、そんなもんでしょう。
「セカイ系」と「バトルロワイヤル系」は地続き
東:そうすると、君がいまやろうとしていることは、さらに下の世代から見たときに、それこそノスタルジーみたいになってしまうんじゃないの? 「95年直後って熱かったよね」、「俺たちが青春を送ってた時代のあの人たち、輝いてたよね」と言っているのと変わらないんじゃないの。
宇野:それは何十年か経ったあと、僕らがどれだけ自分たちの文脈をつくれるか、にかかっているんでしょうね。しかしむしろ僕は『ゼロ想』で、宮台さんの仕事の一部を批判してさえいますよ。「宇野常寛の10年代の著作には、90年代後半の宮台真司と、ゼロ年代前半の東浩紀の影響が強い」。それで別にいいじゃないですか。そうした立場から、全く別の意見が導き出せていれば。
東:まあ、それはそれでいいのかもね。いずれにせよ『思想地図』2.0は、宇野くんや濱野くん、さらにもっと下の世代がやっていく雑誌だから、僕としては方針が確認できてよかった。僕は『思想地図』2.0の後ろのほうにページをもらって、そこに変なコラムとか書こうかな。「セカイ系の部屋」みたいな(笑)。しかし、なぜそんなに「セカイ系」が嫌いなの?
宇野:いや、嫌いというより、僕には問題意識として退屈に思えたっていうことですね。「セカイ系」って、要は「ウルトラマンが死んだ」という話に思えるわけです。「エヴァンゲリオン」がまさにそうだったわけですが、大きなもの、ビッグ・ブラザーが通用しなくなりましたっていう話。そりゃそうだよ、よく分かる。だけど、僕が90年代後半からゼロ年代にかけて考えていたのは、完全にリトル・ピープルしかいない世界がどうなってしまうのか、ということです。「仮面ライダー同士のバトルロワイヤル」ですね。そういう世界観に基づいた想像力のほうが、僕には刺激的で新しく見えたんですよ。もちろん、ビッグ・ブラザーが倒れたからリトル・ピープル同士の相互関係になったのは明らかで、「セカイ系」と「バトルロワイアル系」は地続きだよね、とは思っていましたし、『ゼロ想』でも書いていますよ。「決断主義は「セカイ系」的な前提を必要とし、「セカイ系」の出口は決断主義しかない」と。
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4/5ページ:ゼロ年代における「ロマンティシズム」とは?
僕が今回の『思想地図』で狙ったのは、ロマンティシズムの復権なんです(東)
東:ゼロ年代って、ロマンティシズムが退潮した時代なんだよね。
宇野:いや、僕はむしろ、ロマンティシズム過剰の時代だったと思いますよ。誰もが「この一瞬を永遠のものにしてみせる」みたいなモードに入って、ロマンティシズムが安売りされ、あちこちで小さなロマンへの回帰が起こっていた。僕からしてみると、みんながみんな「セカイ系」だったわけですよ。だったら例えば「バトルロワイヤル系」みたいに、「セカイ系」プレイヤーがあふれかえる世界で何が起こるのかを考えた方がいい、と。
東:やっぱり認識が違うなあ。僕が4号「想像力」で何を狙ったかというと、言ってみればロマンティシズムの復権なんだよね。思想がロマンティシズムを回避するという問題は、雑誌『批評空間』ごろからずっと続いている。柄谷行人はまさに想像力を批判した人だった。「ロマンティシズムに陥らない、それが思想的強度だ」とか言っていたんだけど、その結果、思想ではもうほとんど大きなことが考えられなくなって、今年の景気や来年の就職について細かいケアをするだけの状態になってしまった。ゼロ年代は僕には、『批評空間』的な「われわれはもう何も夢を見ない」という感性と、宮台真司的な「昭和も終わったし、何でもよくね?」という感性とがアマルガムになったヘンな時代だったように見える。そして結局、その二つに一貫してるのは、ロマンティシズムの回避なんだね。
宇野:それは僕が考えていることと違いますね。僕にとって衝撃だったのは「新しい歴史教科書をつくる会」なんですよ。奴らに「資料の読み方が間違ってる」とマジメに突っ込んだって、意味がないじゃないですか。だって「嘘は必要だ」って自分たちで言っているんだから。あれと上野俊哉的なカルスタって表裏一体だと思うわけですよ。どっちも小さなロマン主義回帰。しかし本人たちは「こんな時代だからこそロマンが」と大きなものに賭けているつもりでいる。そういったメンタリティは、ループの果てに生の一回性に着地する、という「セカイ系」と全く一緒なんです、実は。物語批判が物語回帰を生んで、小さなロマン主義、小さな物語が世界中にあふれていったんです。
東:大きな物語が壊れているからこそ、小さな物語が過剰にあふれるようになったんだよね。それはまったくそうなんだけど、僕がそこで考えたいのは、超大きな物語というか…。
宇野:未来を構想する力、ですか。
東:っていうと『少女革命ウテナ』みたいだけど(笑)。引きこもっている私的な生から、バッと超大きな問題まで接続する回路がないと、思想って本当に小さなパッチを当てていくだけになる気がする。その回路を接続しようとすることって結局、「セカイ系」の発想とすごく近い。だから「セカイ系」が必要だと思うんだよ。
誰もが「セカイ系」的な発想の飛躍から逃れられない(宇野)
宇野:「セカイ系」は、僕から見れば世界の存在論的な興亡を、個人のどうでもいいマチズモに矮小化しているだけですよ。僕にはその矮小化が必要だとは思えない。たとえば、西尾幹二って僕は好きじゃないですけど、あの人はもともとニーチェ研究者だから「伝統なんてフェイクだ」って当然分かってるわけですよ。でも、「それでも賭ける」というところでは、彼の中でも「セカイ系」的な転回があったはずなんです。僕はそういった意味では、誰もが「セカイ系」的な発想の飛躍から逃れられないと思っている。 でも「私の持っている「セカイ系」的なもの」と「あなたの持っている「セカイ系」的なもの」は当然違う。こうした状況に、もし超越性や新しいものを見出そうとするならば、複数の「セカイ系」的な物語回帰同士の相互関係の中にしかないだろうと。だって1人の人間の中で何百回ループして「セカイ系」的な発想の飛躍をしたとしても、それはしょせん小さな物語なんですよ。だったら、小さな物語たちが無数に渦巻く新しい世界そのものを考える想像力が必要だ。僕はそう考えたんですね。超大きなロマンだって、そんな混沌から出てくるんだと思います。
東:そういう話じゃなくてさ、たとえば『九十九十九』の「この一瞬を永遠のものにしてみせる」、そんなのは嘘と言えば嘘なわけよ。でも、それはそれで大事なんじゃないの。たとえば宇野くんは結婚している。でも、愛について語るときは、それを「たまたま出会って職場とか近かったから結婚したんじゃないの? 別に他の女とでも結婚できたよね」とばかり言っててもしょうがないでしょう。そういうことなんだよ。
宇野:もちろんそれはそうですよ。でも「この一瞬を永遠にしてみせる」って姿勢はスタートかもしれないけど、ゴールではないですよね。誰もが「セカイ系」的に、自分の生の一回性を特権化することでしか自尊を保てなくなった事実は否定しても仕方がない。でも、そういう世の中をどう捉えるかという想像力の必要性は別の問題です。
現代はアルタミラピクチャーズにせよ、『けいおん!』みたいな空気系にせよ、まあこの二つは基本的に同じものですが、「社会は人生の意味を与えてくれないし、大きな目標とか信じられないけど、楽しいからいいんじゃないスか?」みたいな想像力が圧倒的になっている。もちろん僕はそれらをストレートに肯定はしないけど、こういうものが支持されるようになったとき、『九十九十九』や『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」的なループ感は前提として織り込み済みになってしまっていて、大きく後退せざるをえない。日常がループに見えてしまうような疎外感自体が、既に機能しなくなっているわけです。そういう意味で、僕には「セカイ系」的な表現が退屈に思えたわけなんですよ。
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5/5ページ:今こそロマンティシズムの復権を!
社会はゲームとしてもう一回出てくる(宇野)
東:それを言うなら「バトルロワイヤル系」の表現なんて、僕には非常に退屈だけど? だって、もともと世の中がそうなっているのを反映して寓話化してどうする、と――いや、これはロールプレイ的に言っているんだけど、こんなふうに、宇野くんが「セカイ系」について言っているのと同じことが宇野くんが薦める作品についても言えるんじゃないかなあ。そもそも、「バトルロワイヤル系」のほうが現実認識において「進んでいる」と主張するのって、意味があるのかしら。
宇野:「バトルロワイヤル系」は「セカイ系」と違って、まだどこに結論が行くかわからない想像力だと思うからですね。さっきも言ったように、「セカイ系」ってビッグ・ブラザーは死んだと確認するための想像力ですよね。その結論はわかりきっている。「バトルロワイヤル系」は、リトル・ピープル同士の相互関係をどうするかという想像力です。前者がなければ後者はないし、後者に関してはまだ明確な答えが出ていない。
限界小説研究会が出した本のタイトルになっている、「社会は存在しない」というキャッチフレーズがありますね。昔ながらのツリー型の統治社会は確かにないのかもしれない。それをもって「社会は存在しない」とは確かに言える。ただ僕が『ゼロ想』で書いたことはすごくシンプルで、「新しい社会は、既に対等のプレイヤー、つまりリトル・ピープルたちの相互関係のゲームの中でもう一回出てきてますよ」ということなんです。そして僕らは「新しい社会」について考える必要がある。
東:限界小説研究会の議論は、僕はすべては支持していません。なぜかというと、彼らのなかには「セカイ系」を時代の反映と捉えようとしているひとも多いからです。今の世の中をうまく反映していて、ちゃんと読者に対して何らかの問題提起を投げかけている小説だと。確かにそれは一つの基準としてはいいんだけど、しかしそれだと宇野くんと同じ視点になってしまうし、「セカイ系」はそもそもそういうものではない気がする。オタク的な想像力は最初から社会の反映を拒絶するところがあるわけですよ。だって『AIR』とか、何も反映しているわけがないじゃない。それを「反映していない」って責めることに、なんの意味があるのかな。
今こそロマンティシズムの復権を!
宇野:『AIR』のキャラ造形やストーリーって、僕は結構反映していたと思うんですよね。ファンタジーだって、表現上のアイテムが違うだけで、いくらでも反映してますよ。ガンダム、ナウシカ、エヴァンゲリオン、どれも思いっきり反映しているじゃないですか。そんなことを言えば、どんな作品だって時代を反映しているし、どんな作品だって時代には流されない普遍的な構造を持っています。そして僕の「セカイ系」批判は近過去ノスタルジィというか、むしろ時代に流されすぎていたことへの批判だと思うんですね。僕には「セカイ系」的な物語が東さんが言うほど特別なロマンティシズムには見えない。ありふれた小さなロマンティシズムの一つにしか見えないわけです。
東:あのね、僕は、佐々木敦さんが『ニッポンの思想』で言いたかったことが何となく分かるわけ。それはおそらく、「思想や文学を読むときのワクワク感がなくなっている」ということなんですよ。ゼロ年代がそう思われた時代だったのは確かですから。宇野くんがさっき言ったのは、それに対して「いや、これこそがゼロ年代のリアルなんだ」ということだよね。僕はそれもすごくよく分かるんだけど、でも、それじゃうまくいかないだろうとも思うわけ。何故かというと、思想や文学に社会的に与えられている役割は、そもそもがある種のロマンティシズムの提供だからなんですよ。それを自ら封じ込め、禁じ手だらけでやってきたのがゼロ年代なんだよね。それはやっぱり解除していかなきゃいけない。そもそも、ロマンティシズムの回避そのものも、一種のナルシシズムのような気がするしね。「こんなに不自由なおれって、かっこうよくね?」っていう。
宇野:なるほど、よく分かりますよ。だから僕は東さんとの活動に積極的に参画しているんですが、どういう回路をもってロマンを回復するかというと、僕と東さんでは考え方が違っている。僕はやっぱりリトル・ピープル、つまり断片が網状に関係している相互関係の中から、おそらく得体の知れないものが出てくるんじゃないかと思っているわけですね。そういう部分に奇跡やロマンを見出したいわけですよ。
東:うーん。まあわかるけど、それは批評家的なロマンじゃないのかな。世の中があって、向こう側で事件が起きているのを横目で見て、「お、けっこうおもしろいものが出てきたね」っていうタイプの楽しさ。そりゃそういうものはこれからも残るでしょう。しかし、いま必要なのは、そういうものではないと思うんだよね。たとえば、宇野くんが誰かに「愛って何ですか?」と訊かれたとしたら、「う〜ん、イタい奴が来たな」って感じでいきなりスルーしちゃうでしょう(笑)。
宇野:そんなことないですよ! 東さんは僕の印象操作をしようとしている(笑)。僕は愛について超語る男ですよ。人の内面ではなくて人と人の間にも、「愛」とかロマンはあるんじゃないですか?
東::あらそう! 新しいじゃん。宇野2.0!
宇野:というか、僕はもとから2.0ですよ(笑)。
東:もとから2.0ってなんだよ(笑)。話を元に戻すと、愛とは何か、家族とは何か、人が生きるとは何か、こういうのはもともと思想や文学が答える問題なんだよね。それが今の批評の語彙ではとことんできなくなっている。その不自由さを、ここ5年くらいずっと感じていたんです。だから、小説を書こうと思ったわけ。
同時に、思想でもそれを回復するべきだと思うんです。たとえばこの『思想地図』4号に、ほとんど事故のようなかたちで入ってしまった「父として考える」。僕と宮台さんのあの対談が好評なのは、意外といいことだと思うわけです。あの対談では、別に思想用語や外国人の名前を何も出していないけど、思想って本当はそういうものでしょう。そういう素朴なロマンティシズムを復権しないと、10年代、思想は回復しないんです。でも、宇野くんたちが「父として考える」を読むと、「東と宮台、衰えてね?」と思うわけだよね。あれが衰えてると思われてしまうところに、僕は罠があると睨んでるんだよ。
宇野:僕、あの本の編集者ですよ(笑)。衰えているなんて思いませんって。
東:思想や批評は、一人ひとりの個別の人間に働きかける力を持たないといけないわけですね。でも宇野くんは、人間を群衆として捉えているから、ちょっとそこで話がズレてるのかなと思った。
宇野:まあ、東さんはやっぱり人間の内面を考えるタイプで、僕は人と人の間に注目するタイプなんですよね。それはどっちの回路をたどってもいいと思うわけですよ、結果的にたどり着ければね。それぞれの持ち味を生かして『思想地図』2.0を作っていこうという話ですよ、僕が言いたいのは。
東:「持ち味を生かす」って…なんか急に普通の話になったね(笑)。それ、新しいよ。
宇野:僕は「常に新しい男」ですよ(笑)。
東:分かった分かった。もとから2.0だもんね(笑)。
- 書籍情報
- プロフィール
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- 東浩紀
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1971年生まれ。批評家。東京工業大学世界文明センター特任教授。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『情報環境論集』(講談社BOX)、『東京から考える』(北田暁大との共著、NHKブックス)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)などがある。
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- 宇野常寛
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1978年生まれ。批評家。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰。批評誌『PLANETS』編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『批評のジェノサイズ』(共著・サイゾー)などがある。
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