批評家・佐々木敦をして「彼らのようなカンパニーは他にない」と言わしめた大橋可也&ダンサーズは、1999年の結成以来、日常的な動作をトレースした振付けで現在のスケッチを試み、先鋭的なサウンドとスクリーン・イメージを用いてダンスの可能性を追求してきた。すべては「ハードコアダンス」の追求だったという。彼らの最新作は『春の祭典』がタイトルだ。 言わずもがなこの作品は、おおよそ100年前、ストラヴィンスキーやニジンスキー、ディアギレフらの混淆したエクスタシーが、シャンゼリゼ劇場に孕ませたバレエ作品である。ある本はその産声を、オーディエンスを騒乱に狂わせたデモーニッシュな響きとして採譜し、翌日の新聞各紙はスペルの書き換え――「祭典(サクレ)」でなく「虐殺(マサクレ)」――で洗礼を浴びせた。 2010年5月。「テン年代」の幕開けに大橋可也&ダンサーズが踊る『春の祭典』とは? カンパニーに縁の深い、佐々木敦と西中賢治、そして大橋可也を迎え、鼎談を行った。
(司会・構成:黒川直樹 写真:小林宏彰)
第一幕 不思議な巡り合わせと「80's→10's」に春のきざし。
佐々木:いま気づいたのですが、今日が4月14日なので……5月14日の『春の祭典』公演まで、ちょうど一ヶ月ですね。
大橋:稽古も準備も佳境を迎えています。
─私たちが出会ったのは BRAINZ(※佐々木敦が主宰するインディペンデントなレクチャー・スクール)の「批評家養成ギブス」ですが、大橋さんはどのような気持ちで参加されたのですか?
大橋:以前から、ダンス批評の言葉に疑問や不満があったことが大きいですね。また、批評の実践が求められるというレクチャーに、若い才能やダンス批評の可能性が見つかれば、という期待もありました。
西中:佐々木さんは、開講前から「大橋可也」をご存知でしたか?
佐々木:そうですね、BRAINZを始める少し前に、ご挨拶しました。ただ、これは初めて打ち明けるのですが、大橋さんの存在は実はそれより前から存じ上げていて。2000 年ごろだと思うのですが、映画に出演されましたよね?
大橋:「浮世物語」ですね。
佐々木:知人が映画の製作を務めていたので、作品を拝見していまして。その時に、大橋さんの強烈な存在感に圧倒された記憶は、いまだ色濃くありまして(笑)。
大橋:そうでしたか(笑)。
西中:佐々木さんが10年も前から大橋さんをご存知だったとは! 通われていた時代は違えど、お二人にはイメージフォーラム(※映像・イメージに関する出版、上映、新人育成を行っている東京都渋谷区の文化施設)という共通点もありますよね。それから「批評家養成ギブス」が現実的な接点となって、ここに4人が集まっているということですね。
佐々木:不思議な巡り合わせを感じますよね。
第二幕 「行動様式」をスケッチしていくダンス。或いは、さらわれる乙女たち。
─5月に幕が開く大橋可也&ダンサーズの新作『春の祭典』の話を伺う前に、佐々木さんと西中くんが大橋可也&ダンサーズ作品を知ったきっかけを教えていただけますか?
佐々木:初めて大橋可也&ダンサーズを知ったのは、ダンス批評家の木村覚さんが「超詳解!20世紀ダンス入門」というレクチャーで上映された映像でした。『明晰の鎖』(2008)からは、ほとんどの作品をライブで見ています。
西中:僕が初めて大橋可也& ダンサーズを見たのは、DIRECT CONTACT2で上演された『Black Swan』(2008)でした。大橋さんの演出や振付けには、フランシス・ベーコン(※画家。人間存在の根本にある不安を描き出した)の絵画と通じるものを感じます。
大橋:そうですか? 僕はベーコンの絵画を見ていると癒されます(笑)。
西中:癒される、と(笑)。『帝国、エアリアル』(2008)に顕著でしたが、大橋可也&ダンサーズ作品は、見る人に刺激や落込みを感じさせることを躊躇わないですよね。大橋さんには、そういった印象を舞台に乗せる「気概」をお持ちではありませんか?
大橋:僕にとってのダンスは「現実を風景画として描く」ことに近いと思います。だから西中さんがおっしゃった、「見る人に強い刺激や落ち込みを与える」という要素は、あえて舞台上に持ち込んでいるものではなく、僕の現実感そのものだと思います。
─大橋可也&ダンサーズ作品は、一触即発の緊迫感や、即興性を感じさせるムーブも魅力ですが、すべて練り上げられた振付けなのでしょうか。
大橋:公演のアンケートに「かなりのパートが即興ですよね?」と質問されることがよくあります(笑)。今は作品の隅々まで稽古で作り上げています。
─稽古場では、ダンサー同士が活発で緊密なディスカッションを行っていますよね。また、大橋さんが動きを与えるだけではなくて、メンバー全員で振付けを模索する様子も頻繁にありました。
大橋可也
大橋:ときには、数人のダンサーに同じ振付けを踊ってもらい、普遍性の高いシルエットに動きのヒントを探すこともあります。
西中:なぜそのような振付けをされるのですか?
大橋:理由の一つは、この振付けが、「現代性」や「テーマ」に近づくには欠かせない、人間の「行動様式」を浮かび上がらせるからです。
もう一つ、僕の振付けに特徴的なこととして、一人一人にキャラクターを配っています。
─役者でもあるカンパニーメンバーの方が、「大橋さんと稽古を重ねていくと、自分とは別の人間としてのダンスが表現できるようになる」と話してくれました。
大橋:僕はダンスしか作っていないので演劇とは比べられませんが、作品では「日常」を過ごす「彼ら、彼女ら」から離れた気持ちで踊ってもらえたらと思っています。
第三幕 ストイック。でも「生々しい」スクリーンの映像に、部族の遊戯。
─佐々木さんは、大橋可也&ダンサーズ作品についてどう思いますか?
佐々木敦
佐々木:ここまでの大橋さんの話を聞いていて、あらためて感じたのですが、大橋可也&ダンサーズのダンスは、ダンサーの奥底に眠る潜在意識や本性が炙り出されてくるような、自伝的な時間の表現とは真逆のベクトルに進んでいますよね。
─それは、大橋可也&ダンサーズ作品の主要素である音楽と映像が作用しているのでしょうか。
佐々木:んー、どうでしょうか。音楽も映像も、どちらもストイックに使われていますよね。そもそも「音楽」は、ダンスにとって扱いが容易でないと思えます。大橋さんには、そのような感覚がありますか?
大橋:ありますね。音楽を入れると、説明的になってしまいがちです。
西中:カンパニーやダンサーによっては、音楽に主役を奪われているケースも見られます。
佐々木:大橋可也&ダンサーズ作品に使われている音楽は、キャラクターの内面や物語のトーンを表現しているとか、作品の情感を増幅させるために用いられているわけではない。『Black Swan』の音楽の使い方も、作品のあちこちに、雑踏のざわめきが小さく響いていたり、水が流れる音があったりと、すごく興味深かった。
─映像の使い方については、いかがでしょう。
佐々木:大橋可也&ダンサーズが作中に用いるスクリーンと、そこに映し出される映像は、いわゆるダンス作品にありがちなイメージの装飾やストーリーの重層化を図った使い方とは、一線を画しているように思います。
─ダンスやストーリーのイメージを補完するためだけではなく、特別な「効果」をあげている、と。
佐々木:補完してはいないんですよね。ただ、それを「効果」と呼ぶのも違うかもしれない。 好例は『深淵の明晰』ですが、大橋可也&ダンサーズの場合、目の前で踊るダンサーだけでなく、スクリーンに写る映像さえもがすごく生々しいんです。これには映像のカラーリングや使用されるタイミングだけでなく、スイッチングやカメラワークといった技術的な要素が作用しているのかもしれません。なんにせよ、僕がダンスを見るようになってから、劇中に用いられる映像に「生々しさ」を感じたのは大橋可也&ダンサーズ作品だけです。
─大橋さんご自身は、どのような意図があって音楽や映像を使われていますか?
大橋:スクリーンを使い始めた頃は、「映像や音楽によって作品に奥行きを作る」という意図もありました。でも、いまはだいぶ変わってきましたね。
稽古を通じてダンサーとコミュニケートしながら、作中の世界や人物をスケッチしてゆくにつれ、ヴィジュアルやイメージが見えてくるので、それを映像としてスクリーンに映し出しています。
また、現代は映像のイメージありきで成り立っていると思います。
─その「イメージ」とは、妄想や想像のことでしょうか。
大橋:観念的なことの前に、たとえばある人物のイメージは、その人の肖像写真が印象をもたらしていたりしますよね。また、日々生じる社会的な出来事に対する心象は、テレビニュースやインターネットの映像を通じて涵養され、それを記憶していくメカニズムがいつのまにか僕たちにインストールされている気がするんです。
西中:なるほど。大橋さんはイメージフォーラムに通い始めたころから、そのような問題意識があったのでしょうか。
大橋:あの頃は問題意識だけでなく、自己表現についても、模索が続いていました。ダンスを続けてきたことで色々と明確になりました。
第四幕 「こころ」を視るダンスの可能性? 痩せた口づけに大地が踊る。
─さて、大橋さんは『春の祭典』に出演されますが、ご自身の作品で踊るのは、およそ3年ぶりと伺っています。どのような心境の変化があったのでしょうか。
大橋:しばらく踊らずにいたのは、自分がダンスすることに押し付けがましさを感じていたからです。黙って座っているだけでも、体の存在感は大きいのに、と。
佐々木:いま大橋さんがおっしゃったお話は、かつて僕が演劇を苦手としていた理由、そのままです。
大橋:僕はダンサーに振付けをしているうちに、「踊るのも踊らないのもどちらでもいいな」という気持ちになりました。『春の祭典』に出演することにしたのも、こういった気持ちの変化が大きいです。
西中:大橋さんは、どのような気持ちでダンスの振付けや演出をされるのですか?
大橋:これは僕の人生観でもありますが、ダンサーに正しさを求めることはありません。動きのなかにエラーがあってもいいし、ダンサーが見せてくれる偶発的な動きが面白ければ、それを活かせる形や流れに振付けを換えてしまいますしね。
西中賢治
西中:大橋さんは「帝国ペーパー」(※『帝国、エアリアル』のリリースメディアとして、大橋可也が批評家、政治批評家、写真家など、多分野で活躍する有識者との対話にダンスシーンの可能性を模索したフリーペーパー)で、秋葉原無差別殺傷事件の犯人である加藤智大について「事件を起こす前、彼に稽古場に来て欲しかった」と書かれていました。
のちに明かされた殺人の動機を聞けばわかるように、あれは彼にとってまさに身体を用いたパフォーマンスでした。この行為と、大橋さんの作る、心の辛さが増殖するようなダンス作品とでは、どのように異なるんでしょうか。
大橋:秋葉原の通り魔事件は本当に衝撃的でした。彼のやり方は、たしかに身体を用いたパフォーマンスだったとも言えますが、非常に稚拙でしたし、決して許されるものではありません。ただ、彼の疎外感や虚無感には、シンパシーを感じています。これらは自分も苛まれてきた感情でもありますから。
西中:公演のフライヤーにも書かれている「生きづらさ」の感覚にも通じそうですね。お話を聞いていて、大橋可也&ダンサーズ作品に頻出する「人が人を拒絶するように見えるダンス」を思い出しました。
大橋:僕は生きることが楽になってはいないけれど、ダンスに携わることでかろうじて「生きづらさ」に向き合うことができているし、社会に関われているんです。いま、迷ったり悩んだりしている人には、そういった「何か」を見つけてもらえたらと思いますし、僕たちの公演を、そのきっかけにしてもらえたら何よりですね。また、ダンスの「身体を通して精神を客観的に捉える」という可能性は、これからも積極的に肯定していきたいと思います。
─佐々木さんは、大橋可也&ダンサーズ作品に何を見ていますか?
佐々木:大橋さんは、メディアに対して社会性の高いメッセージを発信することもあるアーティストですが、だからといって、作品が直接的で政治的に偏っているかというと、むしろその逆で、そこに魅力があると思います。
大橋さんが作品に、社会への問題提起や現代人への啓蒙を込めていることは分かりますが、観客の目に見えるのは、ダンスを踊る身体の、かなり抽象性の高い動きだったりするんです。
─それは、ダンスで思想的な問題を扱う際につきまとう困難でもありますね。
佐々木:作品の特徴については、先ほど西中くんから「フランシス・ベーコン」という示唆があったように、大橋可也&ダンサーズ作品は、もしかするとある種の露悪的な表現と受け取られるかもしれない。でも、現代をスケッチしようとするとき、大橋可也のキャンパスに、そういった事象が浮かび上がってしまっているのではないか。つまり、そこには必然性があり、リアリズムがある。僕は個人的には、そうしたプロセスこそが、ダンサーや風景を「写実的=即物的=非人称的」の等式で結ぶことができ、かつ、信頼感の置ける現実のスケッチを得られるための方法だと思っているんです。
─大橋さんは自衛隊に勤めてらした時代もありますし、スポーツサイクリングなどダンス以外の運動のご経験も豊かですが、そういった運動にはないダンスならではの魅力とはなんでしょう。
大橋:まず「楽しさ」ですね。ダンスのように体を動かすのは楽しいですよ。トレーニングやスポーツにない要素としては、自分でルールが作れることでしょうか。
─ルールとは?
大橋:どのように動くか、どのようにアイデアを浮かべるか、どのように移動してどのように動きを続けるか。すべて自分で決めることができます。とはいえ、子どもの頃は体を動かすのが大嫌いでした(笑)。
第五幕 みんな「イ/ケ/ニ/エ」? 選ばれし乙女の神秘的なピルエット。
─最新作『春の祭典』では、これまで縁の深かった「映像」を用いないとお聞きしました。
西中:大人数が踊る大橋可也&ダンサーズ作品としては、すごく珍しいですよね?
大橋:それに替わって、いくつか新しい試みをします。10名のダンサーのみならず、エキストラにも30名ほど出演してもらいますし、ダンサーの一人一人にアイテムを持たせたり。シーンの作り方も、音楽の使い方もこれまでとは変えています。
─公演前なので、お話いただける範囲でその「変化」について伺いたいのですが。
大橋:クラシックの『春の祭典』には、年代も指揮者もたくさん見つかりますし、録音されている記録媒体もレコードからMP3ファイルまで様々ですよね。今回は、この「多様な記憶」を、一回性の強いダンスのステージで再生します。言い換えれば「ダンスで過去と向き合う」という試みですね。
佐々木:すごく面白いですね。 1913年に上演された『春の祭典』は、いってみれば音楽の聴取スタイルが個人化を遂げていく転換期に生まれた、エポックメイキングな作品です。なので、これまで話してきたような特徴をもった大橋可也&ダンサーズが『春の祭典』を取り上げることには、すごく必然性があると思うし、鮮やかに浮かび上がる「過去/現在」や、「再生/一回性」のコントラストが現れそうですね。
タイトルが音楽的な『春の祭典』であるばかりか、GAUZE(※日本を代表するハードコア・パンクバンド)のドラマーであるHIKOさんが、今回ダンサーとして参加されるというのも楽しみです。
─そもそも大橋さんが『春の祭典』をタイトルに選ばれた理由とは?
大橋:これといった理由はないのですが、センセーショナルかつスキャンダラスな逸話がたくさん残るバレエ版『春の祭典』に、昔から共感はあったので、自分たちの作品がそうなるようにという期待は込めています。また、シャンゼリゼ劇場での初演から今年で97年経ちますが、100年ともなれば誰かしらこの作品を取り上げるだろうから、先取りしておこうかと(笑)。付け加えて言うと、『春の祭典』の世界観が、「いま生きてる人たち誰しもが生贄ではないか」という、僕の現実感に重なりましたしね。
西中:大橋可也&ダンサーズ作品のキーワードにもなりそうな至言ですね……。
大橋:僕はこの公演に、佐々木さんが提唱された「テン年代」というキーワードを使わせてもらいました。それは、佐々木さんがこの言葉に、時流の転換や、新たな才能の出現を求めているように感じたからですが、どのような思いが込められているのか聞かせていただけますか。
佐々木:僕は音楽や文学などの表現、あるいは思想などが、いわゆるゼロ年代の終りに極まったと思っています。ただ、一度できあがった表現や方法論はしぶといので、なかなか新陳代謝が進まないことがある。そこで、これまでとは違った表現の可能性を呼び込もうと、2010年代をあえて「テン年代」と呼び始めたんです。
─では最後になりますが、お二人から『春の祭典』に関して一言いただければ、と思います。
西中:前売りのチケットですが、10 代は1,000円、20代は2,000円、30代は3,000円と若者に良心的に設定されていますね。このような値段設定がされているダンス公演を初めて見ました! 作品を、どのような人に見てもらいたいか、大橋さんがしっかりと考えられていることが分かりますね。
─佐々木さん、いかがですか?
佐々木:僕も授業で学生に勧めてみるので、フライヤーをたくさん下さい(笑)。 今になって、ようやく『深淵の明晰』のラストを思い出したのですが、混沌が終結したあとの静けさのなか、去っていくダンサーが立ち止まり、そっとこちらを振り返りましたね。あのシーンには、大橋可也の「希望」が託されていたように感じましたし、僕がテン年代に思うところと深くシンクロしました。なによりも、大橋可也&ダンサーズが今後のダンスシーンを牽引していく予感を得た瞬間でした。
まだまだ話したいことはあるのですが、5月16日のポストパフォーマンストークに呼んで頂いているので、見終えた興奮も醒めやらぬままに『春の祭典』を語り合えること、とても楽しみにしています。
大橋:ありがとうございます。ぜひ、期待していてください。
- イベント情報
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- 大橋可也&ダンサーズ新作公演
『春の祭典』 -
2010年5月14日(金)19:30
2010年5月15日(土)15:00 / 19:30
2010年5月16日(日)15:00
※開場は開演の30分前
会場:シアタートラム(東京・三軒茶屋)出演:
大橋可也
垣内友香里
皆木正純
前田尚子
多田汐里
山田歩
唐鎌将仁
平川恵里彩
エフテル・プリュン
HIKO(from GAUZE)料金:
10代(9歳以下含む)1,000円 20代2,000円 30代3,000円 40代4,000円 50代以上5,000円
※当日料金はそれぞれ500円増ポストパフォーマンストーク
2010年5月16日(日)17:30〜
会場:シアタートラムロビー
出演:
佐々木敦(批評家)
森山直人(演劇批評)
大橋可也
※ご観覧される方は、「春の祭典」チケットの半券をお持ちください
- 大橋可也&ダンサーズ新作公演
- プロフィール
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- 大橋可也(おおはしかくや)
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1967年、ユニクロの発祥地として知られる山口県宇部市生まれ。大橋可也&ダンサーズ主宰・芸術監督。横浜国立大学卒業。イメージフォーラム付属映像研究所卒業。陸上自衛隊第302保安中隊(特別儀仗隊)出身。システム開発の業務に携わりながら創作活動を続ける。カンパニー外での振付け作品には、東野祥子(BABY-Q)に振付けた『9(nine)』(2007年、多摩美術大学八王子図書館ほか)、東京シティ・バレエ団ダンサーに振付けた『愛と誠』(2009年、ティアラこうとう)がある。
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- 佐々木敦(ささきあつし)
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1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。雑誌エクス・ポ/ヒアホン編集発行人。BRAINZ塾長。早稲田大学および武蔵野美術大学非常勤講師。『ニッポンの思想』『批評とは何か?』『絶対安全文芸批評』『テクノイズ・マテリアリズム』など著書多数。
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- 西中賢治(にしなかけんじ)
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1978年生まれ。大阪府出身。批評誌「アラザル」同人で、主に現代美術に関する論考を発表。また、学生時代より現在まで商業誌の編集ライターとして活動。専門はアイドル、アニメ、同人文化、秋葉原。
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- 大橋可也&ダンサーズ(おおはしかくやあんどだんさーず)
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土方巽直系の舞踏の振付け方法をベースに、現代における身体の在りかたを問う作品を提示し続けるダンスカンパニー。 1999年、結成。2000年、「バニョレ国際振付け賞ヨコハマプラットフォーム」に出場するも、出演者が全裸であるという理由で非公開の審査となる。その後、活動を休止。2006年より「明晰」三部作の発表を開始。2008年に上演した『帝国、エアリアル』では、秋葉原連続殺傷事件を題材に鈴木邦男、椹木野衣ら、各界の著名人を巻き込んだフリーペーパーを制作、配布するなど、ダンスの枠組みを大きく超えた活動をおこなっている。
主な作品に、『あなたがここにいてほしい』(2004年、STスポットほか)、『明晰さは目の前の一点に過ぎない。』(2006年、吉祥寺シアター)、『明晰の鎖』(2008年、吉祥寺シアター)、『帝国、エアリアル』(2008年、新国立劇場小劇場)、『深淵の明晰』(2009年、吉祥寺シアターほか)などがある。
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