民謡が歌い継がれる本当の理由 大工哲弘インタビュー

2012年は、沖縄が日本に復帰してから40周年という区切りの年となった。しかし、今も沖縄をめぐってはさまざまな問題が山積し、各所で抗議集会などが行われている。そして、そんな中で頻繁に歌われているのが、大工哲弘の“沖縄を返せ”だ。昨年デビュー45周年を迎えた八重山民謡の第一人者である大工は、長い間那覇市職員として働きながら音楽活動を続け、伝統を重んじながらも新たな沖縄音楽を提唱、その活動は海外にまで広がっている。“沖縄を返せ”は、もともと1956年に作られた曲だが、大工が1994年に発表した『ウチナージンタ』で取り上げたことによって、今も歌い継がれることとなった1曲。そう、心から湧き出る想いを込めた歌というのは、いつだって再生して、蘇生させることができるのだ。

久保田麻琴をプロデューサーに迎えた新作『BLUE YAIMA』にも、八重山民謡はもちろん、高田渡のカバーや、他地域の民謡など、時代を超えて今を生きる現在進行形の音楽が詰まっている。ラストに収録されたザ・フォーク・クルセダーズの“悲しくてやりきれない”が、2013年の今、改めて胸に迫る。

民謡の原点は共同体なんですね。お互い貧しいから、歌で支えあって、励まして、明日に夢を持って生きる。それが生きる知恵だったんだと思いますね。

―僕が大工さんのお名前をちゃんと認識したのは、くるり主催の『京都音楽博覧会』に出演されたときだったんです。現地には行けなかったのですが、豪雨で大変だったそうですね。

大工:そうそう、それまで座ってたお客さんが、雨のせいで僕のときだけスタンディングになって、不思議な雰囲気でしたね(笑)。次の年に出たときには(高田)蓮くんも出てくれて、「お父さん(高田渡)の曲歌うよ」って言ったら、すごく喜んでくれて。

―くるりだったり、沖縄に関してはTHE BOOMだったり、僕は彼らの活動からいろんな地域に固有の音楽があり、文化や特色と結びついていることを知ったんです。それをさらにさかのぼっていくと、大工さんであり、久保田さんがずっと以前からそういう活動をやっていらっしゃったんだと思うんですね。

大工:まさに、そういうことだと思いますね。ちょっとでもこのおじさんが、久保田さんとかの力を借りて、音でそういう導きができたら嬉しい。今回の作品は、そういうコンセプトがあったのかなっていう気がしますね。

大工哲弘
大工哲弘

―昨年デビュー45周年を迎えられて、今は本当に世代も国境も越えた活動をしていらっしゃいますが、そういった広い視点を最初から持っていらっしゃったのですか? それとも、活動を通じて徐々に身についたものなのでしょうか?

大工:これは積み重ねですね。沖縄の音楽が本格的に東京に上陸したのは、1974年に日比谷野音でやった『琉球フェスティバル』がきっかけだったんですけど、そのころはまだ一般的には沖縄の音楽っていうのがわかってもらえてなかった。三線とかも「これ、どこの楽器? 沖縄の人だけの楽しみでしょ?」みたいな、振り向いてくれないどころか、卑下されてる時代もあってね。そういう時代を経て、今みたいな時代になったっていうのがすごく嬉しいですね。まあ、我々のさらに先達が積み重ねたものもあるんで、僕はそのしっかりした土台のもとに、耐震構造の建物を作り上げてきたというかね。「大工さん」だから(笑)。

―本当ですね(笑)。20歳前後の若者が三線片手に民謡を歌ってデビューっていうのは、当時としてもかなり珍しかったわけですよね?

大工:他には全くいなかったですよ。僕は18歳のときに高校で初めて「三線部」を作ったんですけど、そのときはホントに怒られたんです。「学校は勉強するところなのに、なんで三線なんか!」ってね。ましてやみんな農家の生まれですから、学校が終わったら田畑で手伝いをしていた時代で、「三線弾く時間があったら、田んぼで鋤を引け」って、冷たい目で見られましたね。世の中の風潮としても、芸事をする人は怠け者だっていうレッテルを貼られて、ましてや高校生となれば、「お前はアシバ―(遊び人)になるのか?」って言われたりね。

―それでも、大工さんが民謡にこだわったのはなぜだったのでしょうか?

大工:沖縄本島の若い歌手の人たちは華があったんですよ。いろんなユニットがいて、石垣にも公演をしにたくさん来たんで、「なんで沖縄の歌はこんなに若い人が歌ってるのに、八重山の若い人は歌わないんだ?」っていう、そういう抵抗はありましたね。

―「八重山の民謡らしさ」っていうのは、どういった部分なのですか?

大工:朗々と歌うところですね。沖縄本島の歌と違って、屋外の歌なんです。田や畑で仕事をしながら歌ってる、そういうバックグラウンドがあるわけですから、みんなすごい声を出して歌うんですよ。沖縄本島の人はちょっと裏声で、言うならば「四畳半歌」だったんですけど、八重山はそうじゃなくて屋外で歌う。農作業をしながら延々歌ってるわけだから、八重山風だっていうのは声量ですぐわかりますね。

―いわゆる労働歌である「ゆんた」とよばれる形式は、八重山ならではのものなんですね。

大工:コール&レスポンスというか、かけ歌ですね。波が打っては返すように、歌も来たらまた返す。風と波のリズムが、八重山の歌だと僕は解釈してるんです。そもそも、民謡の原点は共同体なんですね。だから、みんなかけ合わないと不安だったんです。お互い貧しいから、歌で支えあって、励まして、明日に夢を持って生きる。畑仕事も、歌いながらすると本当に疲れが半減するんです。それが生きる知恵だったんだと思いますね。

―コール&レスポンスって今ではコンサートのひとつの様式ですけど、そこにはちゃんと意味があると。

大工:横文字にするとよそのもののような気がしますけど、違うんですよ。ちゃんと沖縄に、日本に、古来からあったんです。例えば、年末の『紅白歌合戦』で“ヨイトマケ(の唄)”が歌われたじゃないですか? あれあの日で一番光ってたと思うんですけど、あれはゆんた形式なんですよ。作業をしながら、「母ちゃんのためなら エンヤコラ」って、共同体で支えあってきた。その古い形が、八重山には残ってるんですよね。

大工哲弘

ジンバブエの畑を歩いてると、歌が聴こえてくるんです。まさに「ゆんた」なんですよ。なんかタイムスリップしたみたいで、「これだよ、うちのじいちゃんたちもやってた」って思って。

―大工さんは長い間那覇市役所に勤めながら、並行して音楽活動を続けられていたんですよね?

大工:故郷の祖父や祖母、親父やおふくろが働きながら歌を歌っていて、これが本来の姿だと思っていたので、働きながら音楽をやるっていうのが当たり前だったんです。働くことに視線を置いて音楽をやっていると、他のミュージシャンとは違ったところが見えてきて、それが1994年に歌った“沖縄を返せ”とかに結びついていくんです。集会や行進に参加したり、議事堂の中でスクラムを組んだりっていうのを実際に経験しているので、若い人たちにも沖縄の現状や歌の持つ力をちょっとでもわかってもらいたいなって、それであの曲を録音させてもらったんですけど。

―もちろん、両立させることの大変さもあったわけですよね?

大工:ありますね。メディアに注目されるようになると、全国の自治体から「なぜ大工さんだけこんなことができるんですか?」って聞かれましたけど、那覇市は文化事業にすごく力を入れてて、文化を推進する人がいればその人を後押しして、那覇市の広告になってもらえばいいんじゃないかっていう考えがあるんです。そういうバックアップがあるから、僕も堂々と活動できたんです。

―なるほど。確かに、そういう関係性がなければ難しいですよね。

大工:ただ、同じ職員の立場から見ると、「また大工さんだけ出張か」とか思う人もいて、それを黙らせるには市民からの応援も必要だったので、ボランティア活動を率先してやりました。テレビのギャラはそのまま社会福祉協会に振り込ませるとか、そうすると地域の人たちが応援してくれるようになって、職員も「そうか」ってなる。あんまりこういうことをポジティブに発言するのは好きじゃないけど、音楽をやるためにはギブ&テイクというか、そういうこともさせてもらいましたね。

―現在は市役所を辞められて、ますます幅広く活躍をされていますが、新作は久保田麻琴さんがプロデュースで関わられていますね。以前からお知り合いだったのですか?

大工:彼が宮古の歌を収録中に「大工さんに会いたい」って言ってくれてからだから、ここ3、4年くらいかな? 相手は「世界の久保田」だから、僕なんかまだまだ彼と話し合う人材じゃないって、最初はちょっと引いてたんだけど、「ぜひ」って言ってくれて。嬉しかったのは、喜納昌吉とかメジャーな音楽を手掛けていた久保田さんが、消滅寸前の宮古の音楽を取り出して、再生させた。根っこに帰ってきたというか、そこに久保田さんの魂を見て、「この人なら一緒にやれるな」って確信しましたね。

―久保田さんといえば、沖縄の音楽はもちろん、世界中の音楽に造詣の深い方ですよね。大工さんご自身もワールドワイドな活動をされていますが、海外に行くようになって発見したのはどんなことでしたか?

大工:96年にアフリカに巡業公演で行ったときに、そのときは佐山雅弘(ジャズピアニスト)とかと行ったんですけど、向こうはジャズが盛んですよね? だから、僕はオープニングアクトぐらいの気持ちだったんです。ただ、せっかく行くからコール&レスポンスができるグループを作ろうっていうことで、ツンダラーズを作って、これをアフリカに持っていったんです。それでジンバブエに着いて、まずは試しに路上ライブをやって……路上って言っても畑なんですけど、どんな反応をするだろうと思ったら、畑からゾロゾロ人が集まってきて、すごく盛り上がったんですよ。

―それは嬉しいですね。

大工:その畑を歩いてると、歌が聴こえてくるんです。まさに「ゆんた」なんですよ。なんかタイムスリップしたみたいで、「これだよ、うちのじいちゃんたちもやってた」って思って。だから、ゆんたって八重山だけじゃなくて、世界中にあるんだってわかって、「これは絶対世界に通じる」って思ったんです。実際に公演の幕が開いたら、もう大変でね。総立ちになって、我々と一緒にみんな歌ってるんですよ。結局1か月間の公演中、ずっと我々がイニシアティブをとることになって。

―オープニングアクトではなく(笑)。

大工:そう、あれから自分の島、沖縄に対するコンプレックスがなくなりました。それまではどうしてもコンプレックスの塊だったんですけど、アフリカでの経験から、僕の人生は変わりましたね。

大工哲弘

一番大事なのは、沖縄をきっかけにして、あなたたちの島の、県の歌をちゃんと歌えよってことなんです。

大工:三浦久さんっていう、ご自身でも音楽をやりながら、ボブ・ディランとか外国のミュージシャンの本を出してる方がいて、あるとき教えてくれたロイ・オービソンの言葉っていうのが、「音楽はもともと金を取るもんじゃない」だったんです。音楽業界っていうものができたのがいいのか悪いのかはわからないですけど、もともと自分たちの元気を出させるためにあった音楽が、どんどんビジネスになっていって、ホントに心で奏でて、心で歌ってっていうのがどんどん薄れていってる。例えば、野原で生まれた小さなサボテンが、鉢に入れられて、室内に置かれて、飾られたものになる。最近音楽がそういうものに見えてしょうがないんですよ。

―ホントは商売道具ではなく、生活に密着してるものだったはずなのに。

大工:ホントはそうなんですよね。ただ、僕もそう言いながら今全国に三線教室があって、各地に出かけて教えてて、ホントにそれでいいのかなとも思うんです。昔は教室なんてなくて、みんなおじいおばあの歌を聴いて歌ってた。僕はそういう原点を知ってるから、今の人たちも三線が弾けるようになったら、勝手に帰って歌を子供たちに教えてほしい。ビジネスのためにやってるんじゃなくて、そうなるためにやってるんです。

―きっかけを作るっていうことですよね。教室で覚えた人たちが、今度は自然な形で、生活の中で伝えていってくれれば。

大工:ホントにそれを望んでます。教室に来る人って、なぜ沖縄の民謡を習いに来るかっていうと、「自分の故郷が見えなくなった」っていう人がいるんですね。故郷を喪失した人たちが、沖縄の言葉や音楽に、自分たちの故郷を見てるのかなって。ただ、一番大事なのは、沖縄をきっかけにして、あなたたちの島の、県の歌をちゃんと歌えよってことなんです。僕も北海道に行ったら北海道の歌を勉強したりして、今では全都道府県の歌が歌えますよ。その土地その土地の歴史を紐解く一番のきっかけが民謡なんです。

―言ってみれば、生活そのものなわけですもんね。

大工:教室に来る人に「自分たちの歌を歌え」って言ってたら、だんだんと大工イズムが浸透してきて、うちのメンバーが集まると、全国の歌を歌うんですよ。「僕のやりたいことはこれだったんだ」って思いますね。

―それは本当に素晴らしいですね。

大工:ついでに宣伝しちゃいますけど(笑)、1か月前から「いしがきサンサンラジオ」っていう番組をやってるんですね。開局当時から「番組を持ってください」って言われてたんですけど、ずっと断ってたんです。それを今年の番組改編で引き受けたんですけど、その代わり、「日本民謡の時間にするよ」って言ったんです。沖縄にはたくさんのラジオ局があって、沖縄の民謡は大切にしてるけど、他県の民謡を扱わないことにずっと疑問を持ってて、「誰もやらないなら俺がやる」と。沖縄の人が日本民謡を理解することで、本島の人も沖縄民謡を理解する、そういう交流が生まれるんです。なんでも沖縄だけがいいって、「そんな甘ったれるな」って、僕は思うんですよ。

大工哲弘


共有の財産なんですよ。あるひとつの島、ひとつの県の民謡じゃないんです。

―アルバムの『BLUE YAIMA』というタイトルは、ブルースのブルーと、海の青がかかっていて、そのブルースという部分に関しては、震災や原発事故、そして今の沖縄が抱える諸問題への言及も含まれていると思うんですね。

大工:そうですね。震災直後に日本で一番言われた言葉が、「ひとつになろう」とか「絆」だったのに、だんだんそれが風化していって、「何だったの?」って思う。きっと東京中心であることによって見えなくなってる部分もあると思うから、脇から固めていって、中央に向かって音楽でメッセージを送れたらっていう思いもありました。

―今こそ呼びかけあう音楽の重要性が見直されるべき時代とも言えるかもしれませんね。

大工:94年に『ウチナージンタ』っていうアルバムを出したときに、“沖縄を返せ”っていう曲を歌ったんです。沖縄が27年間アメリカの統治下にあったことを知らない若者がどんどん増えてるし、ましてや「4.28」(サンフランシスコ講和条約の締結日。連合国が日本の主権を承認した日であり、沖縄にとっては、沖縄が日本から切り捨てられた「屈辱の日」でもある)なんて知らない人の方が多いかもしれない。そこで「こんなことがあったんだよ」って説明するよりも、歌にして、それがラジオから流れる方が、いい材料になるんじゃないかと思ったんです。でも、94年に婦女暴行事件があって、あの歌が全国で歌われるようになって。

―当時はまだ市役所の職員時代ですよね?

大工:はい、僕は市の職員でありながら、那覇市から全国に派遣されて、年間70か所ぐらい行きましたね。この前の「4.28」に沖縄で抗議する大会があったときも、僕の歌をずっと流していて、あのとき録っておいてよかったなって思いました。歌うことによって、再生されていく、蘇生されていく、それを実感しました。僕は島唄を歌っても、ちっとも古いと思ったことはないですしね。さっきお話ししたアフリカに行ったときも、「我々の音楽をどう思う?」って聞いたら、「新しい音楽か?」って、びっくりされましたから。

―『BLUE YAIMA』には、高田渡さんの“生活の柄”も再録されていますね。

大工:アフリカから帰ってきた96年に一度録ってるんですけど、97年から新宿の浮浪者問題が出てきて、全国であの問題が尾を引いていたときにも、あの歌が歌われたんですね。高田渡が歌ってるのだったら、フォークをやってる人にしか歌えないけど、三線バージョンに変えたら、みんなそれを歌うようになって。今回もまた再生できたらいいなって、あれもゆんただと思って、コール&レスポンスにしたんです。

―やっぱり歌は生きてるんですね。「何年に、何があった」って記すだけだとそこで止まってしまうけど、歌にすれば、繰り返し再生させることができる。

大工:阪神・淡路のときも、ソウル・フラワー・ユニオンはロックが通じないってわかったから、『ウチナージンタ』をコピーしたんです。あれがバカ受けして、それからSOUL FLOWER MONONOKE SUMMITが結成されて、活動してるって状況を考えると、今の東日本でも、古い歌が生かされてる、再生されてると思いますね。

―まさに「温故知新」ですね。八重山民謡そのものもどんどん若い人に伝わっているんですか?

大工:かなり浸透してますね。今一番上手くて、大会で賞を総なめして、「後を継ぎたい」って言ってくれてるのは東京出身の若者なんですけど、そういう受け継がれ方もあると思うんです。3年前ぐらいには僕の弟子のチュニジア人が地方の大会で優勝したりもしてる。周りはびっくりしてましたけど、沖縄の音楽がグローバルになった証拠だから、喜ぶべきだと思ったし、この間も津軽三味線の大会のチャンピオンが千葉県出身の女性だったりして、つまりはもう共有の財産なんですよ。あるひとつの島、ひとつの県の民謡じゃないんです。もちろん、コアな部分を残したいって気持ちはわかりますけど、いつまでも「自分たちは自分たちで守る」だと、本当にローカルの音楽になってしまう。

大工哲弘

―よくわかります。

大工:僕がこういうことを言えるのも、最初にも言ったようにかつては沖縄の音楽が認知されてなくて、「沖縄の人だけが楽しむもの」って突き放された経験者だからで、今の状況はすごく嬉しいんです。例えば、日本人がシャンソンを歌っても何も言われないのに、沖縄の人が日本民謡に対して「珍しい」っていうのはまだまだだっていうことだから、もっと大いに共有していきたいですね。

―そのためには、これからも大工さんには幅広く活躍していただかないといけませんね(笑)。

大工:『BLUE YAIMA』は団塊の世代のおじさん2人が、いろいろ積み重ねてきたもので、ようやくコラボレートした作品なので、その元気も感じてもらえたらなって(笑)。「また古希のときに何か一緒にやろう」って言ってますけど(笑)、元気なうちに、みんなが共有し合える音楽環境を作っていきたいですね。

リリース情報
大工哲弘
『BLUE YAIMA』(CD)

2013年5月8日発売
価格:2,800円(税込)
Tuff Beats / UBCA-1032

1. 黒島口節
2. 弥勒節
3. 望郷哀歌
4. 星影のワルツ
5. 猫ゆんた
6. おやどのために
7. 月出ぬはなむぬ
8. 鮪に鰯
9. 安里屋ゆんた
10. 八重山乙女の数え歌
11. 生活の柄
12. 六調節
13. 悲しくてやりきれない

プロフィール
大工哲弘

沖縄県八重山郡石垣市字新川出身。八重山地方に伝承される多彩な島唄をこなし、八重山民謡の第一人者として地位を築いている。その島唄に愛情を込めて歌う姿勢には共感者が多い。1999年には沖縄県無形文化財(八重山古典民謡)保持者に指定される。2011年・琉球民謡音楽協会会長に就任。県内外及び海外コンサートにも多く出演、中・東・北欧、米国、中米などで公演行い、96年には南西アフリカ5カ国巡回コンサート。98年・東南アジア諸国。99年・環太平洋4カ国、2011年は南米4カ国巡回コンサートを実現し世界せましと活動を続けている。さらに世界の民族音楽家、ジャズやロックのミュージシャンなどとの共演活動も意欲的に行っている。また八重山民謡教室の支部を全国に持ち、沖縄・八重山民謡の普及・育成にも力をそそぐ。現在、沖縄でもっとも幅広い活動をしているミュージシャンである。



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