俺たちはキャラクター化している 三木聡×宇野常寛『俺俺』対談

ある日、突然「俺」が増幅し殺し合いをはじめるという『大江健三郎賞』受賞作である星野智幸の文学世界を、オフビートで乾いたセンスで映画化した『俺俺』。「俺」役の亀梨和也をCGを使って大量に画面に配置し共演させた映像の奇妙さ、加瀬亮や内田有紀、ふせえりなど、「俺」たちに負けず劣らずユニークな俳優たちの演技、隅々まで遊び心満載の画面など、奇才・三木聡監督の独特の感性が発揮されている。

三木監督はこれまでも、映画『インスタント沼』『転々』やドラマ『時効警察』『熱海の捜査官』などシュールな作品を作り続けてきた。そんな三木の作品が今、転換点を迎えていると、『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』『原子爆弾とジョーカーなき世界』などの著書で世間を挑発する気鋭の評論家・宇野常寛が指摘する。三木と宇野に、『俺俺』に描かれたこれからの時代の新たな人間の有り様を堀り下げてもらった。

人間には出会わなくて、キャラクターにしか出会わないというような、今の世の中の空気みたいなものをどう面白がるか。(宇野)

宇野:どうですか、『俺俺』の反響は?

三木:夢オチだと言っている人がいるんですけれど、夢オチじゃないってことだけは言っておきたいですね(笑)。

宇野:あれが夢オチに見えちゃうんですね、なるほど。

三木:ああいう作品をどういうふうに捉えたらいいのか、その免疫力みたいなものが今の若者は弱いのかなと思います。1980年代の若者のほうがもう少し対応力があった気がしますね。

三木聡
三木聡

宇野:三木さんの作品の中でも、『俺俺』ほど現実に寄り添った作品はこれまでなかったと思いますけどね。現代の風景に意図的に肉薄しているというサインを、すごくわかりやすく出していると思うんです。

三木:そういう印象ってあります?

宇野:舞台となる郊外の風景もそうですし、家電量販店で派遣社員として働いている主人公の設定もそうですし、原作の言ってみれば現代社会批評的なモチーフを三木さんなりに、しかしわりと正面から扱ったな、とは思いましたね。

三木:もともと僕は、作品を作るとき、テーマありきではないんです。脚本があがってから、たまたまウィリアム・エグルストンのいわゆるアメリカの郊外とニューカラーの人々の写真集を手にして、じゃあ郊外を見てみようと思ってロケハンしていたら、あの印象的な給水塔に出くわしたんですよ。CGに見えるんですけど本物です(笑)。

©2012 JStorm Inc.
©2012 JStorm Inc.

宇野:三木さんは、1980年代から2000年までコントユニット・シティボーイズのライブの脚本と演出を担当していましたが、そのときからコンセプトは意識していなかったんですか?

三木:そうですね。公演はだいたい4月の終わりから5月にあったのですが、前年の12月くらいにタイトルを決めて、それに合わせていろいろ打ち合わせしながらコントを作っていって、最後のコントを書く4月の上旬頃になってようやく、ああ多分こういうことか……という、作品全体を貫く1つの線を帯びてくるみたいな、そういう作り方をずっとしているんです。


宇野:なるほど。ところで、三木さんの前作、テレビドラマ『熱海の捜査官』は、2010年ですよね? 『俺俺』までけっこう間が空いていますね。

三木:そうなんです。ちょうど震災があって、進んでいた企画が1回止まったことも1つの要因ですし、『熱海』の反動が大きかったこともあって。

宇野:『熱海』を見たとき、三木さん、こんなに自己批評的なものを作ってしまうと、この次作れるのかな? という心配と、作るとしたらいったい何を作るんだろう? という怖いもの見たさのような興味が湧いたんです。

三木:ハハハハハハ。

宇野:『熱海』の最終回は、登場人物がもしかして既に死んでいるんじゃないか? と思わせたり、現実とは別の次元が存在しているのではないかと匂わせたりして物議を醸しました。あれって今まで三木さんがやってきたことや、三木さんがバックボーンにしてきたカルチャーに対する自己批評だったと思うんですよ。だからこそ、その後、新たなものを作るためには3年間必要だったのかなと。

宇野常寛
宇野常寛

三木:『俺俺』のプロデューサーは『熱海』を見ながら『俺俺』の原作を読んでいて、僕に映画化打診の電話をくれたんですよ。以前、宇野さんは『熱海』の中で僕が「人間」ではなく「キャラクター」を描いてきたのだという自己言及をしたと思う、とおっしゃった。つまり、「キャラクターというものは生きていないものだから、要は死んでいるってことではないか」と指摘したんですね。

宇野:もちろん俳優が演じているという意味では、生きている人間です。でも、これまでの映画に映る「役者」が近代的な自我を持った人間を象徴していたのに対して、「生きているものと死んでいるものの中間のようなキャラクターとしての人間とは、どういうものか?」について自己言及したのが『熱海』だと思うんですよ。そして、それをさらに押し進めた作品が『俺俺』。社会生活の中で人間には出会わなくて、キャラクターにしか出会わないというような、今の世の中の空気みたいなものをどう面白がるかということを三木さんは『俺俺』でやったという印象です。

三木:確かに、『俺俺』の主人公は、生きている世界と死んでいる世界の間にいる、まさに宇野さんがおっしゃったキャラクターのようなものですよね。

1つ世界ができるとそれを壊したい衝動にかられることは否めません。(三木)

宇野:三木さんが1980年から2000年まで関わってきたシティボーイズは、日本版モンティ・パイソンとしてのスネークマンショーなどと並んで、1970年代のカウンターカルチャーを仮想敵にして、政治性のない政治性を描いた笑いだったと思うんです。

三木:ええ。例えば、社会風刺や政治家のパロディーと言った政治的なコントがありますよね。その手のことをやると文化人が持ち上げてくれますが、そういうことに対する嫌悪感がすごくあるんです。『俺俺』も、脚本を書いている時期に震災がありましたが、作品の中でそれについて言及する気はまったくなくて。むしろ、震災や原発事故の記憶によって作品の舵を切り替えることは絶対にしないようにしようと思ったくらいです。例えば、立入禁止区域に入るなどして原発に向き合っている作品や、震災で亡くなった人たちのことをある種の表現に使った作品が、とりあえず「痛み」をわかっていると持ち上げられ、そんなものが粗製濫造されることへの腹立たしさはありますね。もちろん、力強い視点と新たな表現があればいいんですけど、そういうものばかりではない。

©2012 JStorm Inc.
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宇野:そういった政治性を取り除いたシティボーイズの手法みたいなものを、三木さんはテレビバラエティーやテレビドラマや映画といった他ジャンルに持ち込んで、そのときに発生する違和感や距離に根差して表現してきた作家さんに見えるんですよ。

三木:まさにそうです。シティボーイズ、スネークマンショーや宮沢章夫さんのラジカル・ガジベリビンバ・システムなど、影響を多く受けたものを自分なりに派生させたものが、ほかのメディアでどういうものになっていくか? というトライをこれまでずっとしてきました。でも、映画界の人からはそういうふうに認識されていません。おまえのやっていることはコントじゃないかって言われるのですが、むしろ、コントを厳密に構築していきたいと思いますね。

宇野:『時効警察』(2006年)には、もう終わった事件のことをわざわざ捜査するという、ものすごくシュールなコンセプトがあって。あれってまさに三木さんが今までやってきたことの自画像だと思うんですよ。何か状況を動かすことや、何かを訴えることはなく、静的なものを少しかき回すことで面白さを抽出していく手法は、日本におけるシットコム(シチュエーションコメディー)文化の批評ですよね。つまり、基本的に意味は何もないのだということですよね。

三木:まあそうでしたよね。『時効』は、あのバカバカしさがまずスタート地点にあったことは間違いなくて。あんなに不条理なことが、よくテレビでやれたなといまさらながら思いますよね(笑)。

三木聡

宇野:『時効』はあの時代の深夜帯ドラマのスマッシュヒット作の1つとして挙げられますが、かつて『時効』のように本質的には何も起こらない世界を内輪話や小ネタで「あえて」ひっかき回して遊ぶという態度は「政治性のない、という政治性」という文脈で、カウンターカルチャーとして機能していた。ところが、2000年代半ばには、それはカウンターカルチャーではなく、我々の日常空間で支配的な文化になっていった。テレビバラエティーを通じて広くお茶の間に共有され、学校で、職場で、ソーシャルメディアで、僕たちは当たり前のように「キャラ」という和製英語を用い、そんな「くすくす笑い」の世界を実演するようになっていった。だからこそ、テレビドラマで受け入れられたのだと思います。

三木:なるほどね。テレビドラマって時代の気分を取り込むものですからね。『時効』のプロデューサーが『ドラゴン桜』のプロデューサーもやっていたんです。『ドラゴン桜』を放送していたとき(2005年)は、ホリエモンさんがイケイケで、東大を出て自分で起業してのし上がっていくみたいなことへの夢があった時代でした。そのプロデューサーは、『ドラゴン桜』の2をやってくれと言われたとき、今やってもダメだと判断したそうです。既にライブドアの勢いが落ちてきていた頃で、視聴率はそこそことるだろうけれど、たぶん今やっても既に時代の気分と合ってないと。それと同じで、いまだに『時効』の3や映画はやらないんですか? と聞かれますが(パート2として『帰ってきた時効警察』が2007年に放送されている)、今やるなら他の意味を見出さないといけないと思うんですよね。

宇野:そうですね。ああいうドラマの快楽って、ちょっとベタな話だけど、例えばWikipediaを延々眺めているようなことだと思うんですよ。

三木:それで思い出したのは、うちの親父が出版社で百科事典を作っていたことです。僕も百科事典上でWikipediaの検索みたいなことをやって楽しんでいたので、宇野さんが今おっしゃった快楽を、小学校のときから日常的に味わっていたんですよね。その集積が僕の作るドラマにはあるのかもしれません。

宇野常寛

宇野:なるほど(笑)。三木さんは『時効警察3』を作る代わりに『熱海』を作ったわけじゃないですか。『時効』は、かつて「政治性のない、という政治性」を担当していたスネークマンショーやシティボーイズという文化の流れにありますが、それって、静的な世界の中でクスクス笑い続けていることは死んでいるのと同じであり、そこに存在するのはもはや人間ではなくてキャラクターだってことですよね。『時効』まではさりげなく描いていたそういうことを、明確に描いてしまったドラマが『熱海』なんですよね。

三木:ええ。

宇野:そういう意味で、『熱海』は、これまでのやり方を壊しにかかっているような作品だった気がするんですよ。

三木:確かに『熱海』に対して違和感をもった人は非常に多かったです。ああいう破壊衝動みたいなものの原動力は、僕自身の性格なのか何によるものかわからないですけれど、1つ世界ができるとそれを壊したい衝動にかられることは否めません。宇野さんの言い方で言うと自己否定ですね。

『俺俺』はある意味、ゾンビ映画のようなものですよね。(三木)

宇野:結局、日本の消費社会化がどんどん進む中で、僕たちが大衆の欲望というか本音として選んできたことは、三木さんの作品のようにキャラクターとして生きることだと思うんですよ。『俺俺』って、『熱海』から3年のブランクがあったからこそ、その気分をすごくストレートに取り込んだという気がしました。

三木:宇野さんのおっしゃるように『熱海』によって、それまでにやってきたことがキャラクターで、死んでいるのと一緒だと暴露したとすると、『俺俺』は死体を使って構成してアニメーション的なことをやっていく作業であったと言えますね。『俺俺』は基本的に、亀梨和也君演じる3人の「俺」の物語ですが、撮影のときには、当然、「俺」が3人同時に存在できないわけです。『俺俺』を作るに当たって、キャラクターを同じ画面上に焼き付けていく作業という物理的なファクターが必要になった。それってはからずもゾンビ映画のようなものですよね(笑)。

宇野:僕もゾンビ映画っぽいと思いました(笑)。

左から:宇野常寛、三木聡

三木:なぜそこに僕自身がたどりついたのかわからないですけどねえ……。ただ、今、話していて思い出したのは、『俺俺』を撮る前に、ロベール・ブレッソン(出演者にプロの俳優を一切使わず、素人ばかりを採用した)の映画を見たことです。たまたま見たのですが、ブレッソンの役者の扱い方が死体に対している感じがしたんですよ。何もできない女子大生に、こうしろああしろって細かく指示するような演出方法で。自分のやっていることがブレッソンに近いとは思わないけれど、『俺俺』の創作にあたって必要だった要素の1つに、ブレッソンの映画もあるのではないかという気がしますね。今回は、映画の中で役者の表現力をどう排除していくかを意識して、「表現してない感」を大事にしたんです。

©2012 JStorm Inc.
©2012 JStorm Inc.

宇野:俳優の扱い方に関してですが、日本のシットコムは全部、キャラクターものに回収される問題がありますよね。

三木:ああ、はい。

宇野:三谷幸喜さんにせよ、西田征史さんにせよ、本当はシットコムがやりたい人だと思うんです。しかし、どちらも結局『古畑任三郎』『新選組!』と、『妖怪人間ベム』『TIGER & BUNNY』が評価されている。要するに、シットコム自体は日本の文化空間に根付かないけれど、その手法だけがキャラクターものの中で、キャラと戯れるテクニックとして生き残っている、という現実がある。三木さんはその一方で、キャラクター、つまり死体と戯れることしかできなくなった世界とは何か? ということを描くほうに舵を切ったように見える。

三木:そう言われると、イギリス人で日本のオタク文化や映画に詳しい知人が、『時効』の頃までは僕の作品をすごく好きでいてくれたのに、『熱海』以降の僕の作品に関してはまったく響かないことが腑に落ちます。やっぱり破壊されていくことが嫌いなんでしょうね。でも、そのことは覚悟の上だし、そのことがやりたいことの1つでもあるわけです。

©2012 JStorm Inc.
©2012 JStorm Inc.

宇野:もともと、輸入が始まった時点で政治性が剥奪されてしまったジャパニーズシットコムは、放っておくとサブジャンルのサブジャンルにしかならないと思うんです。そこに批評性を最大限に見出していくためには、どんどんキャラクター化していく我々の身体やコミュニケーションの形というものを、批評的に扱うための道具として使うしかない。そのことを三木さんの作品遍歴が表している気がするんですよね。

三木:僕自身はよくわからないですけれど、キャラクター性というのは、例えば、宇野さんが詳しいAKB48に例えることはできますか?

宇野:僕が思うに、AKB48は女優的な身体と対極にあると思うんですよ。だからこそ、あの中でたぶん女優的な身体能力の高い大島優子はいくら能力が高くても選抜総選挙でなかなか1位になれない。やはり、不器用で周りからいじられてその反応が面白い前田敦子や指原莉乃のほうが強いわけです。

三木:なるほどね。AKB48をプロデュースした秋元康さんとは、1980年代に『夕やけニャンニャン』というバラエティー番組でご一緒しているんです。向こうのほうが年齢的に上ですし、同じ土俵に立っているとは思わないけれど、スタートは同じようなところにいたのに、今、向こうはAKB48で、僕は『熱海の捜査官』や『俺俺』という、なぜこんなにも変わってしまったのだろうかと(笑)。あるいは、自分では変わっていると思っているだけで、実は近い部分があるのか……。

今、テレビやカメラに何ができるかってことですよね。(宇野)

宇野:秋元さんって多分、おニャン子にしてもAKBにしても、現実と一体化しているコンテンツにこだわっていると思うんですよね。

三木:僕の勝手な持論ですが、おニャン子クラブって14インチのテレビのブラウン管のサイズでは良かったんですよ。だけど、その頃、ちょうどテレビが大型化していって、28とか32インチになると、おニャン子ってスカスカなんですよね(笑)。それってイタリアのモンド映画みたいなことで、あるサイズとかある解像度を超えたとき、フェイクさみたいなことがバレちゃう。おニャン子はそのために時代と離れていった気がしています。

宇野:そうなんですよね。おニャン子ってテレビ依存のユニットだったと思うんですよね。テレビが半分楽屋を見せることでリアリティーを確保する。一方でAKB48の初期はリアリティーの派生装置自体はテレビに頼らず、劇場活動で作って、そこで得た動員力みたいなものでテレビを制覇していった。そういう意味では秋元さんって、みんなが死体やキャラクターになってしまった今の現代社会や我々のコミュニケーション空間をそのままエンターテインメントにしている。作り込まれたフィクションをあまり介入させようと思ってないのではないでしょうか。

左から:三木聡、宇野常寛

三木:ああ、なるほどね。そのリアリティーは、たぶん1980年代にスネークマンショーやシティボーイズがやっていたこととまったく別のことですね。フェイクドキュメンタリーかドキュメンタリーかわからないけれど、その場に起こったことを、いわゆるスイッチング(複数のカメラが撮影した映像の中から、ディレクターの演出意図に沿ったものに切り替えて放送する)によってどう切り取るかがテレビの一番根源的な力の要素だったわけです。『夕やけニャンニャン』もそういう番組の1つでした。とんねるずが画期的だったのは、スタジオの中におけるカメラの臨場感をどう使うかという、ある種の立体性だったんです。

宇野:今の秋元さんはたぶんカメラや演出の力を信じてないと思うんです。例えば、10代、20代の女の子にGoogle+を無検閲でやらせたら事件が起こるから、その事件を使って盛り上げればいいという方向に行ってしまっている。ここまで割り切れた放送作家は今までいなかったと思うんですよね。

三木:ああ、なるほどね。

宇野:秋元さんはどこかで、明らかに作り込んだ虚構の力を捨てたと思うんですよね。作品の外側というか、起こっている現実そのものが面白いということは、表現の力を放棄していることですけどね。秋元さんがいつそういう意識になったかはわからないけれど。

左から:三木聡、宇野常寛

三木:きっかけは湾岸戦争だったかもしれないですよ。湾岸戦争が始まった頃、『電波少年』シリーズ(1992〜2003年)が誕生しました。それ以前は、虚構性の高いコント、例えばドリフのコントみたいなものが主流でしたが、『電波少年』がきっかけになってフェイクドキュメンタリーのようなものを含む次の世代のテレビが出てくるようになったんです。

宇野:今、テレビやカメラに何ができるかってことですよね。例えば、手ブレカメラを使った映像でフェイクドキュメンタリー的な視点を与える手法の批判力って、相当落ちちゃったと思うんですよ。そんな小賢しさなんかに頼らなくても、実際に素人が撮って手ブレしている映像はYouTubeにさんざん転がっていますからね。それも、つくりものじゃなくて実際に起こった出来事を撮ったものがあって、それを再生回数順にソートできる。つくりものだけが表現できるものがあるんだって反論には僕も共感できなくもないけれど、そんな作り手の自意識なんて見ている方にはウザいだけで、実際に今、つくりものが簡単に検索できるようになった面白い現実に負けているのは間違いない。

三木:そうですよね。そういうメディアやカメラの変化は、かつてはヌーヴェルヴァーグにおいてもありました。もともとあの手ブレカメラは、パリに三脚を立てる許可があまり得られないという別なファクターから誕生したわけで。それがゆくゆくは、アメリカのお金をかけたスタジオシステムによる、巨大なモンスターのようなレールに乗せたカメラでの撮影への批判につながっていくみたいなことがあるわけじゃないですか。

宇野:この場合の「手ブレ」って映画の自意識の発露だと思うんですよね。虚構と現実の境界線をコントロールする表現としての映画とその作者、あるいは映画の語り手の自意識が「手ブレ」には凝縮されている。しかし、インターネット以降そこに意味はまったくなくなった。「手ブレ」が象徴している映画の自意識みたいなものが表現の根拠にならなくなっていると思うんです。だからそのとき映画で何ができるかということを考えたほうがいい。たとえばそれはそれでも作り込まれたもの、演じたものだけが獲得できる高みがあるのだと頑固に開き直って、俳優的な身体にこだわり、ひたすらキャラクターではなく人間を撮っていくことですよね。もう1つは映画の時代は終わったと諦めて、現実そのものと結託していく方向です。後者が秋元さんのやり方に近いですよね。

でも僕は、そうじゃなくて中間というか第三の道みたいなものを考えてもいいのではないかと思うんですよね。その中間をどうするかを『俺俺』では模索されていたのではないかという気もします。それは言ってみれば亀梨和也というジャニーズ的な身体を使って、否応なくキャラクターとして機能してしまう身体を描くことだったようにも思う。それは言ってしまえば、我々の身体がキャラクターになってしまうこと、我々が死体になってしまったりすることから、誰も逃れられないという現実への態度表明でもある。たとえば原作者の星野智幸さんは「増幅する俺」というキャラクター同士が殺し合うことを否定的に書いているけれど、三木さんはその不穏さすら面白がっていると思うんですよね。この微妙な態度の差に、この映画の本質があるように思えます。

三木:安定した状況の中、何かが崩壊するんじゃないかっていう不穏さを僕は残したいと思いますね。故人ですが、僕が最初にコントを教えてもらった恩師が言っていたことに「その先にあるのは自己崩壊しかない」というものがあります。その方は一時期の志村けんのトップブレーンだった方です。志村けんのバカ殿様の白塗りってペルソナじゃないですか。つまり、ある意味、「死体」ですよね。宇野さんの話を聞いていたら、秋元さんなどがドキュメンタリー的な手法を行う中で、志村さんは作り物の世界の中で死体として生きているのかなと思えてきました。いやあ、宇野さんの見方は、とても面白いですね。

左から:映画『俺俺』三木聡監督が語る作品に込めた想いとは?! 映画.comにて三木聡監督ロングインタビュー掲載中!

イベント情報
宇野常寛 10°CAFE×PLANETSイベント
連続講義『プレ・母性のディストピア』

「テーマ:高橋留美子」
2013年7月11日(木)20:30〜22:00
「テーマ:宮崎駿」
2013年8月1日(木)20:30〜22:00
「テーマ:富野由悠季」
2013年9月5日(木)20:30〜22:00
会場:東京都 10°CAFE
料金:3,000円(1回券・1ドリンク付)

作品情報
書籍情報
『原子爆弾とジョーカーなき世界』

2013年6月21日発売
著者:宇野常寛
価格:1,260円(税込)
発行:メディアファクトリー

プロフィール
三木聡(みき さとし)

1961年神奈川県生まれ。80年代から『タモリ倶楽部』『ダウンタウンのごっつええ感じ』『トリビアの泉』などのテレビ番組に放送作家として関わり、2000年までシティボーイズのライブの作・演出を手がける。05年『イン・ザ・プール』で長編映画デビューを果たす。監督策に『亀は意外と速く泳ぐ』『図鑑に載ってない虫』『インスタント沼』、テレビドラマ作品に『時効警察』『熱海の捜査官』など。

宇野常寛(うの つねひろ)

{評論家。1978年生。批評誌『PLANETS』編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)。『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)。共著に濱野智史との対談『希望論』(NHK出版)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。



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