今必要な笑いとは? いとうせいこうがジャック・タチ作品を語る

『ぼくの伯父さん』シリーズで一世を風靡した、フランスを代表する映画監督であり喜劇役者、ジャック・タチ。ヨレヨレの帽子につんつるてんのズボンを履き、ステッキを使って前のめりに歩く「ユロ伯父さん」をタチ自身がコミカルに演じる姿は、世界中から愛され、映画史に残るキャラクターとなっている。そんなタチが晩年、自らの集大成として巨額の制作費を投じた超大作『プレイタイム』を制作したことをご存知だろうか? ガラスの超高層ビルや空港、博覧会場、アパートなどの街をまるごと(!)巨大なセットで作り、文字通り全身全霊を捧げたこの作品のおかげで晩年破産に追い込まれることになったわけだが、今でも少なくないファンから語り継がれている傑作である。

そんな『プレイタイム』を偏愛的に支持する一人が、いとうせいこう。学生時代から芸人として台頭し、俳優、ラッパー、司会、小説家とマルチな才能を発揮しているが、そんないとうは、なぜタチ作品に惹かれるのか? 彼の口から語られる「タチ愛」から、タチが人生をかけて描き続けたテーマが浮き彫りになっていったのだが、そんなタチの映画は今の時代を生きる人にこそ観られるべきであろう。

テレビの画面が大きくなって、解像度が上がった今こそ、ジャック・タチが作品の中で何をやろうとしていたかわかるんじゃないかと思います。

―以前いとうさんは、ジャック・タチ作品について「『プレイタイム』は、マルクス兄弟、モンティ・パイソンより笑える、人類史上最高の喜劇映画」とおっしゃっていましたが、いとうさんがそこまでタチの作品に魅力を感じるのはなぜでしょう?

いとう:ジャック・タチは、日本で一時期ものすごくおしゃれなものとして受け入れられたし、実際どんな映画にも負けないおしゃれさがあるんですよ。

いとうせいこう
いとうせいこう

―『ぼくの伯父さん』シリーズが人気を集めた頃は、そういう側面が強かったですよね。

いとう:そう。ただ、逆に言うとそれ以外の部分はあんまり評価されてなかった。というのも、ジャック・タチの映画って、ギャグが何度もリフレインして重層的な構造になっていたり、なんだか子どもっぽい笑いを見せるんですよね。しかもタチは、「ここが笑いどころだ」という撮り方を絶対にしないんです。画面の奥の方で、勝手に変なギャグをやってニヤニヤしているような感じで、1シーンあたりの情報量が多い。これは特に後期の作品になればなるほど、そうだと思う。だから実はテレビの画面が大きくなって、解像度が上がった今こそ、タチが作品の中で何をやろうとしていたかわかるんじゃないかと思います。

―画面のあちこちで、同時多発的にいろんなギャグをやっているということですか?

いとう:そうですね。必ず画面の前景に主役がいて、そこに意識を集中しなきゃいけない映画って、疲れるじゃないですか。でもタチの場合は、画面のあちこちにできごとが起こっているから、好きなところを見て楽しめる。つまり、観る人の数だけジャック・タチの世界があるようなものなんですよ。例えば、あるシーンで、ある人は掃除をしているおじさんを見ていたとしても、別の人は尼さんの頭を見ていたりする。まあ、それがジャック・タチの怖さでもあるんですけどね。彼は1つのものに集中できないというか、世界全体を冷たく、等距離で見ている。そういう病的なものを感じます。

いとうせいこう

―それはタチが、世界全体を俯瞰的に、すべて滑稽なコメディーのようなものだと思って見ているということになるでしょうか?

いとう:そう。だけど、「世の中って見方を変えると、こんなに面白いよね」っていう、わかりやすさはないんですよ。そういう温かい気持ちで観る人がいてもいいんだけど、たぶん彼自身は、世界を実感のない夢のようなものとして捉えている。今回のジャック・タチ映画祭では『フォルツァ・バスティア'78 祝祭の島』という短編が国内では初公開されるけど、あれもコルシカ島にあるサッカーのチームが、FIFAのチャンピオンになるかならないかの試合をやるという内容のドキュメンタリーを撮っていて、そんな熱狂的な内容なのに異様な冷たさで撮ってるんだよね。熱狂の中で、タチだけはすごくフラットに状況を見ていて、その場面の中にある異様なものに集中している感じ。

「どうしても物事を斜めから見ちゃう」というようなコンプレックスがある人が観ると、「あ、ジャック・タチよりは自分のほうが人間らしい、だから大丈夫だ」と思えるはず(笑)。

―タチは、初期の『ぼくの伯父さん』などのイメージが強いから、温かな作風だと思われがちですよね。

いとう:でも、タチ作品をよく観てみると、温かさでは片付けられない「透明な視点」っていうのがあるんだよね。それはフランス的なエスプリとも違うし、そんなに軽いものでもないと思う。観ているうちに怖くなるんだよ、この人の作品って。それは『ぼくの伯父さん』の頃から、ちょっとずつあった部分だと思いますよ。変な音の重なりとか、同じ画面の中でいろんな人に、同時にいろんなことをやらせる演出とか。それを、莫大な予算をもらって作った『プレイタイム』では、徹底的にやれたということなんだと思います。

『ぼくの伯父さん』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.
『ぼくの伯父さん』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.

『プレイタイム』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.
『プレイタイム』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.

―なるほど。だから『プレイタイム』は、予算を投じて街を丸ごと1つ作り、街の中でいろんな人が常に動いているというような大がかりな作品になっているわけですね。

いとう:あの作品はもう完璧ですね。僕は、『プレイタイム』が偏愛的に好きなんですよ。特に前半なんか、何が面白いのかいまだに全くわからないんだけど(笑)、なんか観てしまう。さっき言ったように、手の届かない夢のような世界が、そこにずーっとある感じなんですよ。そして後半になると、どんどん狂騒的に笑えてくるんです。あの「フリ」の長さはすごいよね。

いとうせいこう

―笑えない前半部分というのは、後半へのフリになっている?

いとう:こっちとしては、フリと考えるしかないんじゃないかな。だってそう捉えないと、あの前半を理解することはできないから。『プレイタイム』という作品は、「世界が手の届かない夢のように感じる」「世界に対して実感を持てない」という人ならわかってもらえる作品だと思うよ。

―ということは、人を選ぶ作品ということになるでしょうか。

いとう:そうだとは思います。「一生懸命に頑張った人が報われました。めでたしめでたし」とか「ある人が不治の病にかかって死んじゃった」とか、そういう一本調子な物語に感動する人には、タチの世界は全くわからないと思う。でも、「なぜかどんなことにものめり込めない」とか、「夢中になれない」とか、「どうしても物事を斜めから見ちゃう」とか、ちょっとでもそういうコンプレックスがある人は、観ると理解できると思う。そして、「あ、この人よりは自分のほうが人間らしい、だから大丈夫だ」と思えるはず(笑)。

ジャック・タチ
ジャック・タチ

―タチはそこまで極端に客観的な視点の持ち主なんですね(笑)。

いとう:ただ、そういう作品が、奇跡的に前衛映画になってない理由は、さっきも言ったような叙情的な、温かい気持ちになるような要素もあるからなんですよ。だから僕も大学で若い子に教えてたときには、『ぼくの伯父さん』と『プレイタイム』のオープニングを見せてたんです。あの冒頭は計算し尽くされているように思えるし、温かい気持ちもある。どこまで意識して作っているのかが全くわからないんですよ。温かい気持ちになる部分が本心なのか、冷たすぎる部分が本心なのか。そんな人が撮影チームのトップに立って映画を作っていること自体、奇跡みたいに思えるし(笑)。たぶんみんな、監督がどういう意図で何を撮りたいのか、わからないと思うんだよ。

『ぼくの伯父さん』(1958年)の冒頭
『ぼくの伯父さん』(1958年)の冒頭

―あの圧倒的な構図の素晴らしさは、観るとハッとさせられますよね。

いとう:うん。だからこそ僕はスクリーンで観るべきだと思う。テレビサイズで観るのも、画面的にヌメッとした感じを味わえていいんだけれども、スクリーンで観ることで、視界がすべてタチの世界で覆われていく体験をしたほうがいいと思います。そういう意味で、この人こそが映画をやっているし、これは映画としか言いようがない。もちろん僕も、普段はDVDで観てますけど、だからこそ今回の『ジャック・タチ映画祭』には駆けつけます。せめて『プレイタイム』だけでも観なきゃなって思う。

『ジャック・タチ映画祭』ポスタービジュアル
『ジャック・タチ映画祭』ポスタービジュアル

タチは今だったら、MVの監督になれていたはずなんです。

―いとうさんは、タチ特有の映像美について、どういう特徴のあるものだと思いますか?

いとう:もちろん構図と色。それから音楽だと思います。タチのすごさというのは、やっぱり音楽的なセンスにあるから。例えば『ぼくの伯父さん』のオープニングも、音楽に合わせて犬がダンスしてるみたいに見えるんだもん。犬なんて、思い通りに動かせるわけないんだけど、ちゃんと絵と音楽が合っているように見える。そういう演出がいちいち圧倒的にうまい。そのシーンを生むためにスタッフがどれだけ苦労したかということも含めて、映画ってすごいよね。だから僕がどんなものを「モダンだ」とか「おしゃれだ」と感じるかは、あれを見てもらえればわかる。だから学生にも見せて、「おしゃれな映像っていうのは、こういうものだよ」って教えていたんです。

『ぼくの伯父さん』(1958年)の冒頭
『ぼくの伯父さん』(1958年)の冒頭

―映像が視覚的に美しく、しかも音楽と同期して感じられるわけですね。

いとう:タチの時代に、MVがあれば、タチはあんな晩年を送らなかったと思うんですよ。あれほどすごい切り返しや構図が作れて、音楽と映像を合わせられるアイデアがある。意味がよくわからないけど、なぜか見てしまう映像が作れる。だから彼は今だったら、MVの監督になれていたはずなんです。でも、当時はそんな職業はないから、タチは『プレイタイム』後は借金まみれのまま、報われない終わり方をしていった。それはものすごく悲しいね。

―そういう偏執的な構成力が、「笑い」というものに結びついてるのも面白いですよね。

いとう:何が笑いにつながるかは人によって違うけど、タチの場合は、わけのわからないシチュエーションをあまりにしつこく続けるから、観ているほうの判断が狂って笑っちゃうみたいなところがあるよね。ボケがあってそれにツッコんでみせるような笑いじゃないんだよ。たとえば『ぼくの伯父さん』で、鞄の中の魚の頭と犬が対面するシーンがあるわけだけど、そのシーンがすごく長いんだよ(笑)。普通、ギャグですませるんだったら、あの5分の1で切ってるよね。でも、ずーっと見せ続ける。そうするとだんだん、「なんだこれ?」って気持ちでおかしくなってくる。笑いの基準が狂っちゃうんだよね。場合によっては「長い!」って怒っちゃう人もいるとは思うけどね。

―冒頭でも触れたように、いとうさんは以前、タチの映画はマルクス兄弟やモンティ・パイソンよりも笑えるとおっしゃっていましたが、タチの映画をほのぼのしたものだと思っている人は、そういうスラップスティック(体を張って観客を笑わせる喜劇スタイル。サイレント映画時代初期に流行した)な笑いと対極にあると考えると思うんですけど、実は狂騒的に笑えるものだということになりますか?

いとう:もちろん、モンティ・パイソンだってマルクス兄弟だって面白いに決まってますよ。マルクス兄弟の『我輩はカモである』なんか今観ても抜群に面白い。ただタチはどこがおかしいのかをわからないようにしてしまうんだよね。そこに独特のものがあると思う。

いとうせいこう

コメディーに音楽の要素は不可欠なんですよ。だって究極的には、ギャグって「どこで止めるか」だから。

―いとうさんはご自身の仕事では言葉を重視した活動をしていますが、一方でタチのように映像や音楽的な部分を重視した表現を好まれるのは意外ですね。

いとう:言葉で落とすパターンって決まってるんですよね。つまり、言葉のギャグって、意外なことをオチで言うとか、言い間違えるとか、いくつかのパターンが決まってきちゃうんですよ。でも画のギャグは、言ってみれば無限にあって「ああ、こんなアイデアもあったのか」と思える。それに言葉のギャグでも、それを言うタイミングや声の調子が重要で、つまり音楽的な部分が関わってくるんですよね。そういう意味で、タチの作品は音楽的だからこそ面白いと思います。僕はつまり、音楽としてギャグを見ているってことかもしれないですね。

『プレイタイム』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.
『プレイタイム』©Les Films de Mon Oncle - Specta FilmsC.E.P.E.C.

―タチの映画が音楽と同期しているだけでなく、それ自体が音楽的だと思うということですか?

いとう:あれはもう完全に音楽ですよ。リズミカルなものと、反復性を持っている感じとか。

―なるほど。反復性というのは、最初におっしゃった「ギャグをしつこいぐらいに反復する」という話にもつながりますね。

いとう:そうなんだよ。それをお笑い用語だと「天丼」と言うけれど僕は「リフレイン」と呼びたい。どこでリフレインするのかも大事で、予想したよりもちょっと早く反復させればドッキリさせられるし、わざと遅らせてじらす方法もあるじゃないですか。タチは編集のときに、そうやって音楽的にというか、リズミカルに、反復を意識しながらシーンを作ってると思うんだよね。それがやっぱり絶妙すぎて、恐ろしくなってくる(笑)。

―いとうさんが、その繰り返しを「天丼」ではなく、リフレインと呼びたいのは、タチが人を笑わせるために反復させているのではなく、もっと音楽的なものだという意識が強いからですか?

いとう:そうですね。「天丼」って言ってしまうと、「ああ、そういうものか」って納得したつもりになって思考停止してしまうとも思うし。それにリフレインとして考えることで、タイミングやフェードインとか、いろんなやり方が考えられるしね。だから細野晴臣さんや小西康陽さんのようなミュージシャンがみんなタチを好きなのは、タチの作品というのは、完全に目で観る音楽だとわかってるからだと思うよ。

いとうせいこう

―なるほど。

いとう:それに、いいミュージシャンはたいてい面白いですしね。面白いコメディアンも、たいてい音楽のセンスがある。つまりコメディーに音楽の要素は不可欠なんですよ。だって究極的には、ギャグって「どこで止めるか」だしね。面白いことを言って、どれだけの「間」を作って、何回繰り返して、どこで止めて余韻を残すのか。そういうコメディアンのやっていることって、音楽と同じだもんね。寅さんの映画だって、「言うぞ言うぞ」って思ってたところから、ちょっとタメがあってから、おじちゃんが「……バカだねえ」って言うから面白い(笑)。その「間」が完璧なんだよ。

―いとうさんも芸人と音楽家の両方の顔をお持ちですが、ご自身としては、音楽をベースに笑いを考えてるのか、それとも笑いを中心に据えて、音楽も同じものとして捉えているのか、どちらだと思いますか?

いとう:僕はもともと、音楽じゃなくて笑いが出発点だからね。笑いをやってるうちに、音楽も同じセンスだっていうことに気付いて越境しちゃってる。自分にとっては渾然一体なところがあるわけ。でも「コミックバンド」って言っちゃうとさ、コミックを音楽でやるっていうことだからちょっと違うんだよね。そうじゃなくて、音楽の中にあらかじめギャグが潜んでるから。

いとうせいこう

―そういう意味で、いとうさんのルーツにあるのは笑いなのかもしれないですね。

いとう:結局は「流れを止める」っていうことですよ。よく例に出すんだけど、中沢新一さんが昔『チベットのモーツァルト』っていう本で、「ある坊さんが雲の切れ間を見て笑った」って書いていたんですよ。それって、難しい禅問答みたいなものじゃないと思うんですよね。たしかに、連続したものが切れる瞬間って、面白いものなんですよ。同じように、散り散りになった雲がある瞬間でシュッと一緒になったら、たぶん笑うと思う。みんな忘れてるだけで、そういう連続と非連続の間をどうするかっていう問題は、コメディアンにとっても、ミュージシャンにとっても、ものすごく大事なことだよね。それがリズムというものだと思うし。

今は、笑いにピントが合いすぎてるんじゃないのかな。もっとピントをずらせば、解放された気持ちになれると思う。

―15年ぶりに執筆された『想像ラジオ』を皮切りに、いとうさんは近年また小説を書かれてますけれども、そこでも音楽的なものや、あるいは笑いの要素を重視したいと考えていますか?

いとう:ユーモアは前より使うようにしているけど、音楽的な部分は、むしろやってないと思う。音楽性に振っていくと詩になっていくから、自分はそれをやるタイプの作家ではないだろうなって思って。響きというよりは、意味の方に寄せていって書いてます。でもそうするのはたぶん、僕が別のところで音楽もやれちゃってるからなんだと思う。

―別のフィールドで違う頭を使っている感覚ですかね。

いとう:そう。別なんですよね。そうやって両極端があるから、自分はタチみたいに思い詰めた表現にならないですんでいるのかもしれないよね。もう一方がなければ、苦しいと思うよ。もし、タチみたいに被写界深度がものすごく深くて、でもどこにもフォーカスしてないカメラで世界を見ていて、雑音だけがリズムのように聞こえてくるとしたら? 目に見えているもののすべての意味が壊れて、抽象に見えちゃうと思う。それで「もうどうでもいいや」っていう気になって笑っちゃう感じが、タチにはあるよね。

いとうせいこう

―タチの中でもその感じが最も出ているのが、『プレイタイム』ということになるでしょうかね。

いとう:そうだね。絵も、動きも、いちいち完璧なんだよね。画面の奥まで全部が統率されて動いている。でもまあそういうものは、ヒットしないよ(笑)。

―なぜそれだけ完璧なものがヒットしなかったのでしょうか?

いとう:そりゃ無理だよ。普通の人は、カメラの一番前にいる人物の物語を見るのがせいぜいなんだから。画面の奥でいろいろ動いているのなんて追えないし。でも今の時代っていうのは、カメラの一番前にいる人の物語ばかり見ることにそろそろ疲れてきてるんじゃないかなと思うんですよね。「なんでこんな世界に縛られてなきゃいけないんだ」とか、「なんで僕が僕じゃなきゃいけないんだ」と思って、日々から解放されたい人って多いんじゃないかな。そういう人が観ると、「ただバラバラのものがそこにあるだけ」というタチの世界を受け入れることができると思う。

いとうせいこう

―つまり、タチのような作品が、今求められていると思いますか?

いとう:ああいう映画は今はもうないけど、僕にとっては『プレイタイム』があってよかった。あんなにかっこいいセットはいまだに見たことがないし、まだまだタチのおしゃれさに時代が追いついてない部分はいっぱいあるんじゃないかな。もちろん、さっき言ったように、ほんわかした作品として楽しんでもいいと思うんだけどね。

―ほんわかした部分も、そうでないものも、全部入っているのがいいのかもしれないですね。

いとう:そうですね。奇妙な中に優しさもうまく共存しているから、観終わった後でわずかな温かみがギリギリ残るんだよね。それは、タチにとっても見てるほうにとっても、救いだよね。だから心に残るんじゃないかなあ。『プレイタイム』の最後のシーンなんて、ほんとにおしゃれな終わり方だから、いやになっちゃうよ。

―そういう温かみとか、笑いみたいなものが、自然な形で出ているのが魅力なのでしょうね。

いとう:今は、わかりやすくて決まり切った笑わせ方の作品が多いけど、言ってみればそういうのは、笑いにピントが合いすぎてるってことじゃないのかな。もっとピントをずらして、「全く無関係に映っているだけのものまで面白いような気がする」というくらいになれば、解放された気持ちになれると思う。そういう意味で、タチの映画は赤ちゃんになったつもりで観ればいいと思うよ。そうすれば、視点なんかどこにも合わないから(笑)。自分の気になるものだけを見て、ただ笑っちゃうみたいなことができるでしょ。タチの映画は、みんなと合わせる必要は何もないんです。だからスクリーンで、目を皿のようにしながら、しかもボンヤリと観てください(笑)。

イベント情報
『ジャック・タチ映画祭』

2014年4月12日(土)~5月9日(金)
会場:東京都 渋谷 シアター・イメージフォーラム
上映作品:
『プレイタイム』(監督:ジャック・タチ)
『ぼくの伯父さん』(監督:ジャック・タチ)
『トラフィック』(監督:ジャック・タチ)
『パラード』(監督:ジャック・タチ)
『のんき大将 脱線の巻【完全版】』(監督:ジャック・タチ)
『郵便配達の学校』(監督:ジャック・タチ)
『ぼくの伯父さんの休暇』(監督:ジャック・タチ)
『ぼくの伯父さんの授業』(監督:ジャック・タチ)
『フォルツァ・バスティア'78/祝祭の島』(監督:ソフィー・タチシェフ、ジャック・タチ)
『家族の味見』(監督:ソフィー・タチシェフ)
『陽気な日曜日』(監督:ジャック・ベール)
『乱暴者を求む』(監督:シャルル・バロワ)
『左側に気をつけろ』(監督:ルネ・クレマン)
※公開プログラムはオフィシャルサイト、劇場を参照

プロフィール
いとうせいこう

俳優、小説家、ラッパー、タレントとさまざまな顔を持つクリエーター。雑誌『ホットドッグ・プレス』の編集者を経て、1980年代にはラッパーとして藤原ヒロシらとともに最初期の日本語ヒップホップのシーンを牽引する。その後は小説『ノーライフキング』で小説家としてデビュー。独特の文体で注目され、ルポタージュやエッセイなど多くの著書を発表。執筆活動の一方で宮沢章夫やシティボーイズらと数多くの舞台・ライブをこなすなど、マルチな活躍を見せている。近年では音楽活動も再開しており、口口口やレキシ、Just A Robberなどにも参加している。



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