15年ほど前、日本のコンテポラリーダンスシーンに突如現れ、その身体能力の高さと独創的な作品を武器に、強い印象を残した少女がいた。国内でいくつかの賞を得たその少女は、世界的な振付家フィリップ・ドゥクフレの代表作『IRIS』にも出演。その後、主な活動の場をヨーロッパに移したことで、日本で作品を観る機会は少なくなったが、時折聞こえてくるのは、アンジュラン・プレルジョカージュ、ジェイムズ・ティエレ、アラン・プラテル、シディ・ラルビ・シェルカウイ……といった、世界の名立たる振付家たちとのコラボレーションのニュースだった。
ダンサーとして充実したキャリアを重ね、成功を掴んだ彼女が、今秋開催される『Dance New Air』のプログラムとして『ASOBI』を上演するため日本に帰ってくる。長らく海外で活動を行なってきた彼女に、そのキャリアについて、また日本をテーマにした同作品について話を聞いた。そこで出てきたのは、日本と微妙な距離感を置きつつも、彼女なりの深い愛情を込めた想いだった。
赤ん坊の頃に母親が抱っこして膝の上で跳ねさせてみたら、足腰の力が強くて、すごく痛かったらしいんです。それでこの子はバレエ学校に入れてしまえと(笑)。
―15年くらい前、横浜のSTスポットという劇場で、10代の頃の伊藤さんをお見かけしたことがあるんです。『ラボ20』という新人振付家のショーケースで『榎本了壱賞』に選ばれていたときで、舞踊評論家の石井達朗先生とタメ口で話す、物怖じしない子がいるなあ……と驚いて見たら、伊藤さんでした。
伊藤:うわあ……(笑)。石井さんは母の友人で、私が母のお腹の中にいるころから知っているんですよ。
―どおりで石井先生がすごく嬉しそうでした(笑)。伊藤さんはその後も『横浜ダンスコレクション』で受賞するなど鮮烈なデビューを飾って、その後は海外を中心に活動されてきた印象ですが、そもそもダンスを始められたきっかけは何だったんですか?
伊藤:両親が彫刻家で、弟もアーティストという芸術一家なんです。私は赤ん坊の頃に母親が抱っこして膝の上で跳ねさせてみたら、足腰の力が強くて、すごく痛かったらしいんです。それでこの子はバレエ学校に入れてしまえと(笑)。
―なるほど(笑)。バレエはいくつから始めたんですか?
伊藤:4歳で高木俊徳という有名な先生のクラスに申し込んだんですが、すぐに先生がアメリカに行ってしまって。そうしたら父が、アメリカに行くような先生なら優秀に違いないから1年間待とうということになり、5歳から始めました。10歳くらいの生徒たちの中で私が一番小さくて、一人だけトーシューズも履かず、皆の後ろのほうでアヒルみたいにテケテケやっていましたね。
伊藤郁女『SoloS』 Photos © Kim-lin Bailly
―でも幼児クラスではなく、一般的な子どもクラスに5歳で入られたというのは珍しいですね。熱心にお稽古されていたんですか?
伊藤:先生がすごくいい方で、他の大きなバレエ団でも習うように勧めてくれて、週に4、5日レッスンしていました。中学生くらいの頃は、父に首の位置がもっと後ろだと言われて、首でサンドバックを持ち上げる筋トレを毎晩100回したり。父は彫刻家で解剖学を学んでいたから、身体の仕組みをよく理解しているんです。今でも首に残る2本のシワは、そのときにできたものなんですよ(笑)。
バレエをやめてからは、現代舞踊の公演を片っ端から観に行くようになって。田中泯さんがヨダレを垂らして踊っていたのが衝撃的で、楽屋まで押しかけて理由を尋ねました。
―スポ根マンガに出てきそうなスパルタ式トレーニングですね(笑)。では、その頃の夢は『ローザンヌ国際バレエコンクール』(世界的な若手バレリーナの登竜門)入賞、そして名門バレエ学校への留学だったわけですね。
伊藤:いろんな日本のコンクールで賞を取っていたし、いずれ『ローザンヌ』にも挑戦したいと思っていたんですけど、バレエって白いタイツをはいたり、金髪のカツラを被ったりするじゃないですか。高校生の頃、そのことに強い疑問を感じてしまって。
―白人のフリをするということに?
伊藤:語学研修に行ったロンドンで、白人の先生が黒人生徒を露骨に差別するのを目のあたりにしたり、一人で行ったニューヨークのダンスフェスティバルで、いろんな国籍の高校生に混じる体験があったり。そうすると、白タイツを履いてヨーロッパ人みたいに肌の色を白くしたり、メイクすることが、どうしても自分の物語とつながらないというか。それでずっと教えていただいていた先生に、バレエをやめることを伝えました。
―先生は相当驚かれたんじゃないですか?
伊藤:はい。でも、やはり自分ごとのようには思えなかった。もちろんダンスは続けるつもりだったので、バレエをやめてからは、雑誌『ぴあ』の小さな現代舞踊コーナーに掲載されている公演を片っ端から観に行くようになって。パントマイムの公演とか、渋谷ジァン・ジァンとかPlan Bみたいなアングラなスペースにも行って。Plan Bでは、田中泯さんがヨダレを垂らして踊っていたのが衝撃でしたね(笑)。さすがに全然意味がわからなくて、楽屋まで押しかけて、泯さんに「どうしてヨダレを垂らさないといけないんですか?」と尋ねたり。
―そこで初めてコンテンポラリーダンスシーンと出会うわけですね。
伊藤:そのときに、能美健志さんとか、伊藤キムさんとか、井手茂太さんのワークショップにも参加させていただいて。すごく仲良くしてもらったんですけど、結局自分のダンスは自分で作らなきゃと思い、それで『ラボ20』に応募したら、『榎本了壱賞』をいただけたんですね。『横浜ダンスコレクション』でも賞をいただき、コンペはいいなと思いました(笑)。
『IRIS』は世界中で上演されたので、いまだに観てくれた方から仕事のオファーがあります。私も世界中を廻りながら、ヨーロッパツアーのときは、毎日のように現地のオーディションを受けに行ってました。
―大学時代にも留学するなど、早い段階から海外を意識して活動してこられたように見えますが、日本での活動は考えなかったのですか?
伊藤:そうですね。やっぱり芸術家の家で育ったからというのもあるのか、日本がしっくりこなかったんでしょうね……。今思えばですが、小学校でも給食の牛乳とか、自分だけ色の違う牛乳瓶を毎日回されたり(苦笑)。些細なことですが、子どもなりに日本の社会に違和感を覚えていたんだと思います。
―その頃にはもう、ダンサーとして生きていくつもりだったわけですよね。
伊藤:立教大学の比較文芸思想コースを19歳で休学して、ダンスを学ぶためにニューヨーク州立大学パーチェス校に1年間留学しました。ニューヨークでは、自分の振り付けた作品をビデオテープに録画して、それを売り込むために関係者を1人ずつ廻ったりもしましたね(笑)。そのときに知り合ったジョナス・メカス(アメリカ実験映画の巨匠)とは今でも友人で、今一緒に「3.11」に関係する映像作品を撮れないかと、シナリオを書いているところなんですよ。
―ものすごく地道で草の根的な海外進出ですね。
伊藤:そうなんです(笑)。大学卒業後は文化庁の新進芸術家海外研修制度で、アルビンエイリースクール(ニューヨークのダンススクール)に通ったんですが、最後の1か月は前田允さんの『ヌーヴェルダンス横断』という本を片手に、ヨーロッパ中のダンスカンパニーを実際に自分の足で訪ねて廻りました。作品写真を見て気になった振付家の名前にアンダーラインを引いて1人ずつ。
―草の根的な方法を徹底してやってきたと(笑)。その後、一旦帰国されて、横浜で開催されたフィリップ・ドゥクフレ(フランスのダンサー、振付家)のワークショップに参加し、彼の代表作『IRIS』に出演することになったわけですね。ワークショップの発表は私も見ましたけど、特に伊藤さんが観覧車で撮ったダンス映像作品が非常に面白くて。これまでに観たダンス映像作品の中でも特に印象に残っています。
伊藤:本当ですか? ありがとうございます! 観覧車が一周する間に、個室の中でダンサーに踊ってもらった作品ですね。私、映像のほうが才能あるかもしれないんですよ(笑)。今も新しい映像作品が作りたいと思っていて、構想中のものもあるんです。
―『IRIS』には、どういった経緯で出演が決まったのですか?
伊藤:ワークショップが2回ありまして、2回目のときにプロデューサーから参加依頼があったんですけど、私は生意気にも「給料が出るなら」と言ったんですよ(笑)。そしたら「出るわよ」と言われまして。気付いてなかったんですけど、2回目のワークショップはオーディションも兼ねていたんですね(苦笑)。それで『IRIS』に出演させていただけることになり、作品内では10分くらいのソロもいただけて。
―反応はいかがでしたか?
伊藤:『IRIS』は本当に世界中で上演されたので、いまだにあれを観てくれた方から仕事のオファーがあるくらいです。私も『IRIS』で世界中を廻りながらこのチャンスは無駄にしたくないと思い、ヨーロッパツアーのときは、毎日のように現地のオーディションを受けに行ってました。
―天才的な貪欲さとしか言いようがないです(笑)。
伊藤:でもそのおかげで、アラン・プラテル(ベルギーの演出家)との仕事にも繋がりました。パリ・シャイヨ宮での上演には、アンジュラン・プレルジョカージュ(フランスの振付家)が観に来てくれて、終演後に「一緒に仕事がしたいです!」と訴えたら、「あ、来たら」とあっけなく。それで500人の中からオーディションに受かって1年半仕事させてもらったり。さらに、その作品を観たジェイムズ・ティエレ(チャーリー・チャップリンの孫)に「あなたと仕事がしたい。パリで会ってください」と言われて会いに行ったところ、いきなりオーディションで。まったく用意をしていなかったので、借りたTシャツとパンツ1枚で踊ったら受かりました(笑)。
―とはいえ、ダンスの世界ってものすごく競争が激しくて、欧米のシーンに日本人が食い込んでいくのも大変だと思うんです。その人生を切り開いていくためのモチベーションは何だったのでしょう?
伊藤:負けず嫌いな性格というのはありますね。でも、モチベーションの源になっていたのは、大学生のときにアンダーラインを引いた『ヌーヴェルダンス横断』でした。あのときに、アンダーラインを引いた振付家全員と仕事をすると決めて、そのモチベーションでずっとやってきました。今では、ほとんど実現することができたんですよ。
日本の「裏」な部分が好きなんです。メトロのドアの前で譲り合うようなフォーマルな日本文化だけでなく、駅のホームでサラリーマンが酔い潰れているのも日本の姿ですよね。
―なるほど。では、今回『Dance New Air』で上演される日本初演作品『ASOBI』についてもお伺いできればと思います。まず気になったのはタイトルが日本語になっていますよね。
伊藤:そうなんです。エキゾチズムとか表面的な日本ということではなくて、今自分の中で表現したいものを考えたときに、一番しっくりくるのが日本語だったんです。海外中心の生活になって約13年になるんですが、ノスタルジーとは別の意味で日本が見えてきました。ヨーロッパで暮らし始めた頃は、向こうに馴染もうと言葉のアクセントを気にしたり、食事を合わせたりしていましたが、それが一周して戻ってきたというか。最近は自分のアクセントで話すようになったり、日常の些細なことで自分は日本人なんだなあ……と感じることが多いんです。たとえばメトロとかで、フランス人はドアのど真ん中で待つんですよ。それが私は恥ずかしくて少し横に避ける。その感じが日本人だなあ、と思います。
―13年前は気付かなかった、日本のいろんな面が見えてきたのでしょうか。
伊藤:私、日本の「裏」な部分が好きなんです。メトロのドアの前で譲り合うようなフォーマルな日本文化だけでなく、駅のホームでサラリーマンが酔い潰れているのも日本の姿ですよね。今回の『ASOBI』は視線のゲームというか、「覗き」がテーマにあるので、制作中にアムステルダムの売春街にリサーチに行ったり、日本含めていろんな国のポルノ映画を観たり。そこでもやっぱり私は日本人だなあ……と思うんですよ。
―日本のアダルトビデオの想像力のたくましさや変態性は、世界的にも有名らしいですね(笑)。
伊藤:「何を恥ずかしいと思うか」に日本人の特徴が現れるんですよね。ストリップって、いっぺんに脱ぐのではなく、少しずつというのがエロティシズムをかき立てますが、特に日本の文化では「隠す」というのが情緒を強調していると思うんです。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の中で私が一番好きなくだりが、「光源氏が毎晩薄暗い月影の下で末摘花(すえつむはな)に会っていたのが、ある日明るいところで彼女の顔を見たら鼻が赤くて興ざめしてしまった」という『源氏物語』のエピソード。つまり、日本人は影に美しさを想像するのだというところです。今回の作品でも、隠されて直接は見えないのに、古びて曇った鏡にだけぼんやりと裸が映っているというシーンがあったりします。
―今後も『ASOBI』だけでなく、日本で伊藤さんの作品を観る機会が増えればと思いますが、これからはどのようなご予定ですか?
伊藤:いくつか進んでいるプロジェクトがあって、自閉症の方々と作品を作るというものもあります。彼らの感覚というのは特別で、ユーモアがあってとても面白いんです。あとは来年、彫刻家の父と作品を作ることになっています。舞台上に彫刻を作るだけでなく、踊ってもらおうと伝えていますが、父は張り切ってジムに通い始めたようです(笑)。パフォーマンス中に流れる時間とか、彫刻が変化していく時間とか、歳をとるということも含めて、時間をテーマにした作品になると思います。
―お父さんだけですか? お母さんや弟さんとのコラボの予定は?
伊藤:じつは母や弟ともできたらいいなと思っているんです。全部完成したら、シリーズで1日3公演とかでもいいですよね(笑)。
―伊藤さんがダンサーとして世界中で活躍されているのは知っていましたが、初めて観たときの印象では、ダンサーとしての能力の高さもさることながら、自分のダンスカンパニーを立ち上げて、世界で公演をするようになるんじゃないかと思っていたんですよ。自分の作品を作ることに執着する人なんじゃないかなと。
伊藤:それは今でも思うところです。最初から振付家として始めていたら、私の作品が認められるのはもっと早かったんじゃないかと。苛烈な競争の狭い門を叩いて、ダンサーとして名が知られるようになりましたが、逆にダンサーのレッテルを一度貼られてしまうと、振付家として作品を作ったときに必要以上にクリティカルに見られるものです。映画でもそうですよね、俳優が監督になると作品の評価が辛い。それが回り道だったのかなと考えてしまうこともあって、1年前くらいまでは本当に大変でした。やっと最近はそんな悩みも無くなってきましたが、ただ私はこれからもダンサーとして踊り続けたいので、それが振付家としてどういう影響があるのかなとは思っています。
- イベント情報
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- 『Dance New Air - ダンスの明日』
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2014年9月12日(金)~10月5日(日)
会場:東京都 青山 青山円形劇場、スパイラルホール、シアター・イメージフォーラム、青山ブックセンター本店ほか『ASOBI』
2014年9月13日(土)~9月15日(月)
会場:東京都 表参道 スパイラルホール
演出・振付:伊藤郁女
出演:
チャバ・ベルガ
ジャン・ギャロワ
伊藤郁女
ピーター・ユハス『赤い靴』
2014年9月12日(金)~9月15日(月)
会場:東京都 青山円形劇場
演出:小野寺修二
美術:ニコラ・ビュフ
出演:
片桐はいり
ソフィー・ブレック
藤田桃子
小野寺修二『Project Pinwheel』
2014年9月18日(木)~9月19日(金)
会場:東京都 青山円形劇場
ディレクター:佐幸加奈子
振付・出演:
エスター・バルフェ
チョン・ヨンドゥ
北村成美『そこに書いてある』
2014年9月22日(月)~9月23日(火)
会場:東京都 表参道 スパイラルホール
構成・演出・振付:山下残
出演:
山下残
ハン・サンリュル
ホ・ヒョソン
ユン・ボエ
ほか『談ス』
2014年9月22日(月)~9月23日(火)
会場:東京都 青山円形劇場
振付・出演:
大植真太郎
森山未來
平原慎太郎『Les Oiseaux』『La Traversée』
2014年9月27日(土)~9月28日(日)
会場:東京都 青山円形劇場
振付:ナセラ・ベラザ
出演:
ナセラ・ベラザ、ダリラ・ベラザ(『Les Oiseaux』)
ダリラ・ベラザ、オーレリー・ベルラン、モハメド・エシュ=シャルカウイ(『La Traversée』)『To Belong / Suwung』
2014年10月3日(金)~10月5日(日)
会場:東京都 青山円形劇場
振付・演出:北村明子
ドラマトゥルク・演出:ユディ・アフマッド・タジュディン
出演:
ユディ・アフマッド・タジュディン
エンダ・ララス
リアント
ルルク・アリ
大手可奈
西山友貴
川合ロン
北村明子『altered natives' Say Yes To Another Excess -TWERK ダンス・イン・クラブナイト』
2014年10月4日(土)~10月5日(日)
会場:東京都 表参道 スパイラルホール
構想:
フランソワ・シェニョー
セシリア・ベンゴレア
出演:
エリザ・イヴラン
アナ・ピ
アレックス・マグラー
フランソワ・シェニョー
セシリア・ベンゴレア
DJ:イライジャ&スキリヤム『ドミノ・プロジェクト』
2014年9月12日(金)
会場:東京都 CAY(スパイラルB1F)
参加アーティスト:
アレン・シンカウズ(音楽)
ネナド・シンカウズ(音楽)
イヴァン・マルシュッチ-クリフ(マルチメディア・インスタレーション)
川村美紀子(振付家)
ズヴォニミール・ドブロヴィッチ(キュレーター)『イースタン・コネクション』
2014年9月16日(火)、9月17日(水)
会場:東京都 森下 森下スタジオ
参加アーティスト:
コスミン・マノレスク(振付家)
山下残(振付家)
ミハエラ・ドンチ(ダンサー)
乗越たかお(評論家)『15 X AT NIGHT』(屋外パフォーマンス)
2014年9月20日(土)~10月4日(土)
会場:東京都 こどもの城ピロティ
コンセプト:ポール=アンドレ・フォルティエ、 ディアンヌ・ブッシェ
振付:ポール=アンドレ・フォルティエ
出演:マニュエル・ロック
- プロフィール
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- 伊藤郁女(いとう かおり)
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5歳よりクラシックバレエを始め、ニューヨーク州立大学パーチェスカレッジへ留学後、立教大学で社会学と教育学を専攻。2003〜05年文化庁新進芸術家海外研修制度研修員。これまでにフィリップ・ドゥクフレ、アンジュラン・プレルジョカージュ、ジェイムズ・ティエレ、シディ・ラルビ・シェルカウイ等の作品に参加し、自作『ノクティルック』『SOLOS』『Island of no memories』『Plexus』を発表。『ダンストリエンナーレトーキョー2012』で上演されたアラン・プラテル『Out of Context-for Pina』にはダンサーとして参加。カンパニーles ballets C de la Bでも創作活動を行っている。
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