2014年から開催されている『三陸国際芸術祭』は、三陸の民俗芸能とパフォーミングアーツを中心に据えた一風変わった芸術祭。なかでもダンサー、音楽家たちが、「念仏剣舞」「鹿踊」など、三陸の民俗芸能を泊まり込みで習得しに行く「習いに行くぜ!」は、民俗芸能といまのアーティストをつなぐプログラムとして注目を集めている。
では、実際に現地で民俗芸能に関わる人たち、また参加するアーティストたちを、このプログラムはどのように受け入れているのだろうか? また、そこにはどんな可能性が潜んでいるのか? ダンス批評家の武藤大祐と、全日本郷土芸能協会事務局次長として民俗芸能の普及につとめつつ、同芸術祭のコーディネーターを務める小岩秀太郎の対談からは、アジアを巻き込んだ壮大な「芸能」の可能性が見えてきた。
いろんなアーティストが口々に「民俗芸能」と言いはじめているのが興味深かった。(武藤)
―『三陸国際芸術祭』は、「民俗芸能」をテーマにした一風変わった芸術祭ですが、なかでも「習いに行くぜ!」は、より深く民俗芸能やその土地を理解することができるプログラムとして注目を集めていますね。
武藤:「民俗芸能をリサーチしたい」という声が、特にコンテンポラリーダンサーのほうから聞こえてきて、流行っているのを何年も前から感じていたのですが、震災後さらにその流れが強くなり、『三陸国際芸術祭』によって目に見えるかたちになった気がします。いろんなアーティストが口々に「民俗芸能」と言いはじめ、「なにが起きているんだろう?」というのが興味深く、背後にもっと大きなモチベーションがあるのではと考えていました。
―「大きなモチベーション」とは?
武藤:「型にはまりたい」ということを話すダンサーが多いんですよね。コンテンポラリーダンスは、公演を行う際にゼロから新しい作品を生み出し、よりよく伝わるように仕上げていく。その作業は自由に見えて、とても孤独で辛いものです。そういった孤独な作業だけでなく、地域住民と濃密なコミュニケーションを取りながら、はっきりとした「型」を身につけ、他者と関わりを持てるダンサーになりたいという欲求があるのかもしれない。
―つまり、いまのダンサーたちは寂しがっている?
武藤:短くまとめるとそういうことでしょうか(笑)。振り返ってみると、かつてないほど「踊り」を個人レベルで考えるようになったのが、日本のコンテンポラリーダンスの特徴だったと思うんです。たとえば、1960年代の暗黒舞踏は、いかに「国」や「伝統」から切断するか、共同体と距離を置くかが大きなテーマでしたが、否定的にとはいえ、共同体を意識していたんですね。しかし1980年代以降、ダンスは「個」の表現となり、「伝統」「共同体」に対して否定すらもしなくなっていく。そして、そのようなコンテンポラリーダンスが、2000年代後半に失速してしまったんです。そこで、あらためて「誰と関わりを持つのか」というテーマ、「伝統」や「共同体」との関係を探るという動きが出てきたんじゃないかと思っています。
―ダンサーたちが、ある種のコミュニティーを求めていて、その1つとして「民俗芸能」があったということですね。一方、全日本郷土芸能協会(以下、全郷芸)で活動する小岩さんは、コーディネーターというかたちで『三陸国際芸術祭』に参加されていますね。
小岩:『三陸国際芸術祭』プロデューサーの佐東範一さんと、以前から「習いに行くぜ!」の構想を話していたんです。コンテンポラリーダンサーが民俗芸能に関心を示しているのに、その入り口がない。民俗芸能という「踊り」とダンサーをつなげられないかというお話でした。
―小岩さんはそのような要望を聞いて、どう感じたのでしょうか?
小岩:民俗芸能側にも、自分たちのことを伝えたいという想いはずっとあったんですが、伝える方法が古くなっていたんです。ぼくらは文化芸術やコンテンポラリーダンスの世界とは無縁でしたが、自分たちのやっていることは、ある意味ダンスと捉えられなくもない。だから、じつはぼくらも以前から、ダンサーの人たちと関わりたいと考えていたんです。「なにもないところから生み出して発信していく」という姿勢を学びたいと思っていた。けれども、関わり方がわからなかったので、ラッキーだったと思います。
「ぼくらは、文化財だからすごいんだ」とか、変な知識や誇りを持ってしまったんですよ。(小岩)
―ただ、コンテンポラリーダンスという異物が入ってくることで、民俗芸能に何らかの変化がもたらされる可能性があります。長年受け継がれてきた芸能にとって、そんな影響は受け入れられるものなのでしょうか?
小岩:以前は違いましたが、ぼくは受け入れられると思うようになってきました。というのは、1950年に文化財保護法が成立し、1975年の法改正で、人々が日常生活の中から生み出し継承してきた民俗芸能が「重要無形民俗文化財」として指定され、民俗芸能はある意味「変えちゃいけないもの」となってしまったんです。でも、自分たちの生活の一部として民俗芸能をやってきた人たちにとって、国が決めた「無形民俗文化財」なんて関係ないはず。それなのに「このままだとなくなってしまうから」ということで、教育委員会や国が補助金を出し、その補助金を獲得するために「保存会」を作るという流れになる。「文化財」としてこれまで数百年続いてきたんだから、その宝物を変えちゃいけないでしょうと。ぼくもその言葉にどこか絡め取られてしまっていたんですね。
―民俗芸能を「保存」する動きは、戦後に生まれたものだったんですね。
小岩:そんな時流によって、どんどんと凝り固まった時代がこの数十年だったのではないかと思います。言い方は良くないですけど、生活のなかでやっていればよかったのに、「文化財」や「保存会」という名前がついたことで、逆に自分たちも変な誇りを持ってしまった。「ぼくらは文化財だから他のところよりもすごいんだ」とか「千年も前からやってるんだ」とか、変な知識を入れちゃったんですよ。ぼく自身、そのような価値観で育てられて「鹿踊(ししおどり)」をやってきました。でも、全郷芸の仕事で日本全国の民俗芸能に触れるうちに、芸能は地域住民みんなで作り上げてきたものであり、いまも生きているものである、と考えるようになったんです。
―民俗芸能が「いまも生きている」というのは新鮮な言葉ですね。
小岩:たとえば、三陸沿岸部で踊られている「虎舞」は、いわゆる民俗芸能と呼ばれているものですが、カッコいいから、地域のみんなが結束するためのツールになるという理由で10年前からはじめた集落もあるんです。彼らは初代なので、自由に虎を工夫し、現代風の眼玉をつけたり、黄色ではなく白い虎にアレンジすることもできる。そうやって、自分たちがやってみたいという欲求から芸能を生み出していくのもアリなんですよ。守るだけじゃ意味がない。そういうのを見ているうちに、芸能や祭りは、いま生きている人たちにとって必要なものなんだと感じたんです。
向川原虎舞(岩手県大槌町)の様子 撮影:公益社団法人 全日本郷土芸能協会
―芸能も人々も、「生きている」から、変質することも受け入れられる、と。
小岩:とはいえ「虎舞」の命は大漁祈願であり、お祭りに出ることは「こんなに元気なんだ」という姿を見せる場だということも彼らはわかっています。村の外で暮らしていても、祭りの日に虎舞を踊れば「元気で帰ってきた」という話ができるという役割も理解しているんです。
―本質を理解しつつ、変化させているわけですね。ところで、地元の人々は幼いころから祭りのたびに芸能を訓練していますが、「習いに行くぜ!」は、限られた時間内で、それを習いに行きます。長い時間をかけてようやく習得する民俗芸能をよそ者が踊るなんて……という批判も出てきたりしませんか?
小岩:伝承しているぼくらだって、もう現代人の身体になっています。集落でも、みんなが田んぼや狩人をやっているわけじゃないし、よそ者だから絶対にできないとは言い切れませんよね。ぼくらが昔からの身体ではないということに気づいている以上、そこにこだわりすぎてはいけないんです。逆に、ダンサーさんたちの身体の動きや、教え方、習い方のノウハウを民俗芸能の人たちが学べる機会にもなっているんじゃないかと思います。
―習いに来てもらっているけれど、逆にダンサーたちが持っているノウハウを教えてもらえる双方向な場にもなっているんですね。
小岩:小さい子どもたちも、ダンサーの動きを見て「すごい! あんな動きは絶対できない」って目を輝かせています。特に子どもは、身体のリズムやバランス、沈み方など、身体の使い方の「引き出し」をもらえるんですね。
武藤:『三陸国際芸術祭2015』のメインプログラムで、「習いに行くぜ!」の参加者と岩手県大槌町の人による臼澤鹿子踊を見たのですが、素人目には誰がダンサーなのか、地元の人なのかわからなかった。完全に同化していたんです(笑)。「習いに行くぜ!」がおもしろいのは、ダンサーが身体をまるごと貸しちゃうこと。一方的に教える、教わるという関係ではなく、身体ごと巻き込まれてしまうことで、関係がどう展開していくのか予見できない可能性を秘めていると思います。
みんな寂しいから、来てもらいたいのは来てもらいたいんですよ。どんなかたちであっても、とにかく付き合っていきたいという想いは……。(小岩)
—震災以降、三陸はさまざまな民俗芸能が息づいた場所であることが再注目されています。なぜ三陸には、このように豊かな芸能が残されているのでしょうか?小岩:三陸はリアス式海岸のため、海と山のちょうど境目になっている場所で、海からも山からも人がやってきてぶつかり合うところ。いまでこそ中心的な交通ルートからは閉ざされていますが、過去に海の道、山の道といった異なる交流の文化があったからこそ、これだけの民俗芸能が花開いたんです。だから「習いにいくぜ!」でも、参加者と地元の方は問題なく関わり合えるのでは、と考えたんですよ。
―一見、閉ざされている土地のようにも見えますが、歴史的に見れば、いろんな文化を受け入れるポテンシャルがあると。実際コーディネートされてみていかがでしたか?
小岩:正直やりづらかったです(笑)。それはやっぱり閉ざされてしまっていたんですよ。交通が内陸部で発達して以降、沿岸部は閉ざされ、岩手出身のぼくでも「見えない」世界になっていました。自分自身、岩手県一関市の「行山流舞川鹿子躍」の伝承者であり、どうやって地元の人と付き合ったらいいかはわかっているはずなんですが、特に民俗芸能に関わっていない人々にどうやってアプローチをしたらいいかは未知数だったんです。
―以前、プロデューサーの佐東さんから「習いに行くぜ!」を受け入れてもらえるまで、1年かかったという話を聞きました。
小岩:だって、ただでさえ震災でいろんな人たちが入ってきたのに、京都の方(プロデューサーの佐東は京都在住)がいきなり三陸にやって来て、「コンテンポラリーダンスだ、習わせてくれ」って言ったって、現地の人からすれば意味がわからないですよね(笑)。それは僕らみたいなコーディネーターがちゃんと話をしていかなければならないんですよ。
『大槌まつり』での臼澤鹿子踊 2012年 撮影:公益社団法人 全日本郷土芸能協会
―すごく繊細に気を遣いながら、芸能に関わっていない人へのアプローチも含めて、少しずつ味方を作っていかなければいけなかったんですね。
小岩:そうなんです。じゃないと、お金をかけてイベントしました、ってだけの話になってしまいますから。せっかく話をして、ご飯を食べて、踊りを習ったのに、1回きりの関係で終わってしまうのはお互いにとって不幸ですよね。芸能に関わる人だけでなく、地域のネットワークを用意することで、「また来やがった」と言われるほどの関係性を残していくべきだと感じていました。
―じっくり時間をかけて関係を築いていって、どこかのタイミングで「じゃあ、やってもいいぞ」ってなると思うんですが、そのポイントはどういうところにあるんでしょうか?
小岩:うーん……なんでしょう。でも、みんな寂しいから、来てもらいたいのは来てもらいたいんですよ。どんなかたちであっても、とにかく付き合っていきたいという想いは……。特に今回の被災地は外との付き合いのないまま70、80年生きてきた人たちも多いので、なにかしら新しい人たちが来てくれれば、ちょっと付き合ってみたいという気持ちは、被災地だけじゃなく東北全体でもあったように感じています。
―そうだったんですね……。
小岩:だから、アプローチをした人たちが「また来るよ」という言葉だけじゃなくて、ちゃんと次も来る約束をするのが大事。なんでもいいんですけど、今回は冬に教えたから、次は夏祭りに絶対来いよ、って約束して、夏に行ったら踊れなくてもいいから法被を着せられたりとか、ご飯の手伝いをさせられたりとか。役割を用意しておいてあげなければ、というふうに地域の人たちは思っているでしょうから、お互いにちゃんと考えてやっていけば、継続してつながれると思います。
芸能みたいなものを、新しい「概念」として生み出すことができれば、「アート」とは違う、ダイナミックな世界が広がるのではないか。(武藤)
―『三陸国際芸術祭2015』では、インドネシアやカンボジアからも芸能の担い手たちが来日し、「習いに行くぜ!」も「東北へ、アジアへ!!」と地域を拡張しました。三陸の芸能は、コンテンポラリーダンスだけでなく、アジアの芸能とも交わり、触発されているのでしょうか?
小岩:正直まだ、海外の芸能から触発される段階にはきていないと思います。ただ、海外の芸能が背負ってきた歴史や風土、食べ物、文化を理解すれば、ゆくゆくは変化が起こってくるのかもしれません。たとえば「獅子舞」は、古代ペルシャからシルクロードを通ってもたらされ、日本だけでなく朝鮮半島・中国・東南アジアにも同じルーツの文化があります。そんな歴史が読み解ける場を作ったら、いい変化の兆しが出てくるでしょうね。
インドネシアから招へいした「Komunitas Al-Hayah」
武藤:深い理解に至るための場作りが必要ですよね。壮大なスケールでアジアを俯瞰すると、獅子舞の話のようにルーツが見えてくるけれど、その伝播のプロセスには数百年や千年以上の時間がかかっていて、たとえば三陸で獅子舞をやっている人に、これはペルシャですって言っても、なかなかピンとは来ない(笑)。だから啓蒙ばかりじゃなく、もっと身近なところにある境界領域……たとえば奈良で、日本と朝鮮の接点を探していくとか、いまは分かれているように見える文化と文化の間に、じつは明確なボーダーなんてどこにもないことを明らかにしていくのは、おもしろいかなと。
―国家の枠を越えて、アジアが民俗芸能を介して勝手につながってしまう。まさに現代だからこそできるグローバルな展開です。
武藤:アジアのコンテンポラリーダンスを見ていて、フラストレーションを感じるのは、「生活とつながっていないアート」をやる人たちのネットワークがグローバルに作られているだけで、その枠組のなかで民俗芸能を扱ったとしても、単なるモチーフというか「記号」にしかならないことなんです。生活とつながり、土地と密接な関係を持つ民俗芸能によって、本質的な交流へと進化する……とても困難だと思いますが、豊かな可能性が広がっていると思います。
―コンテンポラリーダンスの世界だと、アジアのアーティストと交流するにも、じつは欧米のシーン経由でつながっていることも多いですね。
武藤:「コンテンポラリーダンス」とか「アート」の概念自体が西洋発ですからね。その一方で、「芸能」って英語にうまく翻訳できないんですよ。「エンターテイメント」でもないし、「パフォーミングアーツ」と訳されることもありますが、とくにヨーロッパにおいては「アート=開かれた公共空間で行われるもの」なので、その逆は「閉じたコミュニティーでやっているもの=祝祭」という図式になりがちです。アートでも祝祭でもない中間領域として「芸能」があるはずなのに、概念化しづらいんですね。
小岩:「エンターテイメント」も「パフォーミングアーツ」もしっくりこないですよね(笑)。
武藤:でも「芸能」みたいなものって、日本や東アジアだけじゃなく、それこそ世界中どこにだってあるわけで、それぞれの土地に濃厚な文化がありますよね。そういったものをもっと共有して、新しい「概念」を生み出すことができれば、「アート」とはまた違う、ダイナミックな世界が広がっていくのではないでしょうか。『三陸国際芸術祭』はそのモデルの1つになり得ると思います。
―アートでもエンターテイメントでもない、新しい「概念」をグローバルに作るというのは、かんたんにできる話ではないですが、大変興味深いです。ちなみに武藤さんがイメージする「ダイナミックな世界」とはどのようなものでしょうか?
武藤:『三陸国際芸術祭2014』のフィナーレでその片鱗を感じたんです。鹿踊、ガムラン、農楽が同時に上演されていて、ぐちゃぐちゃのあり得ない世界が生まれていた。かつおだしにパクチーとコチュジャンを混ぜちゃった感じというか、リズムもメロディーもなんにも合わないんですよ。ただ一緒にばーっとやるだけ(笑)。でも、異様に盛り上がりました。三陸の民俗芸能にコンテンポラリーダンスが介入することで、いい感じの混沌が起こってしまったんですね。
―そんな混沌から、国境を超えた新たな「芸能」の概念が生まれるかもしれない。
小岩:『三陸国際芸術祭』は、アジアの生きている民俗芸能とつながれる。暮らしのなかで生まれ、暮らしと密着した「芸能」を見ることができる場です。そういった意味でも価値がありますよね。あと、これだけのことをやっていながら、「郷土芸能祭」や「民俗芸能祭」とは名乗っていない。あえて「芸術祭」という、誰でもわかるネーミングを名乗っているのも、じつはポイントなんです。
―はじめて知ったとき、「なんとかトリエンナーレ」と同じような、現代アートイベントかと思いました(笑)。
小岩:『瀬戸内国際芸術祭』とか『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』とか、そういう地方芸術祭ファンみたいな人たちも一度観にきてくれないかな、って思っています(笑)。アートでもエンターテイメントでもない、新しい「ダイナミックな世界」をお見せできたらいいですね。
- イベント情報
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- 『三陸国際芸術祭』
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2015年8月4日(火)~10月18日(日)
会場:岩手県 大槌町、住田町、大船渡市、陸前高田市 宮城県 気仙沼市など
出演(メインプログラム):
臼澤鹿子踊
気仙町けんか七夕太鼓
小鯖神止り七福神舞
碁石七福神
Amrita Performing Arts
Komunitas Al-Hayah
金津流獅子躍大群舞
サンド・パイパース・オーケストラ
小林あや
後藤みき
山田珠実
村本すみれ
ほか
- プロフィール
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- 武藤大祐 (むとう だいすけ)
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1975年、東京都生まれ。ダンス批評家。群馬県立女子大学文学部准教授(美学・舞踊学)。現在の研究課題は近現代アジア舞踊史、およびそれをふまえた新しい振付の理論。共著『RELAY: Theories in Motion』(Palgrave、2016近刊)、『バレエとダンスの歴史――欧米劇場舞踊史』(平凡社、2012)。
- 小岩秀太郎 (こいわ しゅうたろう)
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1977年岩手県一関市生まれ。小学校時代、郷土芸能「行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅう まいかわ ししおどり)」をはじめる。上京し、郷土芸能のネットワーク組織(公社)全日本郷土芸能協会に入職。風土や人、暮らしや食が絡み合う郷土芸能の奥深さ、大切さを伝えるための企画・提案や、東日本大震災後は被災芸能情報収集や支援に携わる。また、故郷の出身者とともに「東京鹿踊」を組織し、鹿踊を通じて郷土芸能や風土に触れるレクチャー、体験の場づくり等を行い、郷土芸能の意義・未来・可能性を探るプロジェクトを進めている。
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