田原総一朗というテレビ界のアウトローが、現代の「炎上」を怒る

第二次世界大戦におけるナチスの戦争犯罪、及びヒトラーの人物像に迫った映画は過去に数多く作られ、また今後も作られていくことになるだろうが、『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』のアプローチは極めてユニークだ。本作が焦点を当てているのはアドルフ・アイヒマン。ナチスの親衛隊の将校であり、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)の責任者である。

本作で描かれるのは、1961年にイスラエルの法廷で裁かれることになったアイヒマンの裁判を、テレビで中継するために奔走した当時のテレビマンたちの姿だ。今となっては多くの人が知ることになった、第二次世界大戦中にナチスがおこなったホロコーストのあまりにも凄惨で非人間的な行為の数々。驚かされるのは、この裁判において元収容者が証言台に立って告白し、その姿が世界中にテレビ中継された1961年まで、その実態がほとんど知られていなかったということだ。本作の登場人物たちは、まさにタイトル通り、そんな歴史的な瞬間を世界の視聴者の目に焼き付けたのだ。

60年代からテレビの世界でディレクターとして活躍し、70年代には映画監督としても活動、80年代後半以降は『朝まで生テレビ!』の司会者としてテレビ界の数々のタブーを打ち破ってきた田原総一朗。本作について語ってもらう上で、この人ほどの適任者はいないだろう。「生涯テレビディレクター」としての立場から、そして「戦争を知っている世代」としての立場から、本作から受けた衝撃と自身の信念を熱く語ってもらった。

『朝まで生テレビ!』を見ている人は、僕を司会者だと思っているだろうけど、自分ではまったく司会者だと思ってない。

―まずは、『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』を見た感想から訊かせてください。

田原:すさまじい作品でした。終戦から16年経った1960年に、捕虜収容所から脱出して逃亡していたアイヒマンがアルゼンチンで捕まって、その翌年にイスラエルの法廷で裁かれた。そういう裁判があったという事実は知っていましたよ。でも、その裁判がテレビで中継されていたってことは、この映画を見るまで知りませんでした。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

―日本における初の衛星中継は、実験放送でケネディ暗殺を伝えた1963年。初めて一般の人が衛星中継に触れたのは1969年のアポロ11号の月面着陸。1961年当時、この裁判の模様は日本では衛星中継はもちろんのこと、放送自体がされていなかったようです。当時、田原さんは大学を卒業されたばかりだったんですよね?

田原:岩波映画製作所に入ったのが1960年。入社面接で「撮影をやるか?」と訊かれて、演出家志望だったので「もちろんやります!」と言ったら、撮影部でカメラの助手をやらされることになった。僕はまったく不器用な人間なので、撮影助手としては使いものにならなくて。毎日のようにミスをして、2か月で別の部署に飛ばされたんですよ。

―別の部署では何をされていたんですか?

田原:暇な部署だったから、当時、岸信介内閣が進めていた日米安保に反対するデモによく行ってましたね。

田原総一朗
田原総一朗

―その後、田原さんは、1964年の開局と同時に東京12チャンネル(現・テレビ東京)に転職して、そこではディレクターとして活躍されていました。『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』の中では、裁判をどのような視点で中継するかについて、プロデューサーとディレクターが対立する様子が描かれていますよね。

田原:ディレクターの立場としては、裁判の中でアイヒマンがどのような反応をするかが知りたい。アイヒマンという男にフォーカスして、そこから何か真実のようなものを発見したい。ところが、プロデューサーの方は、その裁判で証言する一般人、ナチスのユダヤ人収容所を経験した人たちがどのような様子で証言するかをきちんと撮れと言う。中には証言をしながら失神してしまう人もいる。テレビをやってきた人間として、そういうドラマチックな画の方が視聴者の関心を引きつけるというのは、よくわかります。

―田原さんは、ディレクターとプロデューサー、どちらの立場により共感しながらこの作品を見ましたか?

田原:僕は一貫して自分のことをディレクターだと思っているんです。それは、1977年にフリーになってからも、1987年から現在も続いている『朝まで生テレビ!』でもそう。『朝まで生テレビ!』を見ている人は、僕のことを司会者だと思っているだろうけど、自分ではまったく司会者だと思ってない。画面に出ているディレクターという認識なんです。

―というと?

田原:原発の問題にしても、憲法改正の問題にしても、そんなもの、3時間で話のケリがつくわけがないと思ってる。司会者だったら、本当はそこでうまく話をまとめなくちゃいけないんだけど、僕はうまくまとめようという気なんてまったくない。僕がやりたいことはただ一つ、出演者に本音を言わせたいっていうこと。よくね、「あいつは出演者が喋ってる途中に話を遮る」って言われるんだけど、あれは出演者が本音で喋ってないからですよ。特に政治家っていうのは、本音を言わない。言いたがらない。あるいは文化人で、あの場に来てあがっちゃって、何を喋っていいのかわからないまま口だけ動かしているときがある。そういうときに遮っちゃうんですよ。それは、本当は司会者ではなく、ディレクターの仕事なんですよ。

ジャーナリズムにおいてテレビと活字の決定的な違いは、そこに映像があること。

―田原さんの仕事で印象的なのは、出演者が何を喋っているかだけではなく、そこでどんな表情をしているかというのをしっかり映像でとらえていることで。それは、『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』で、アイヒマンの細かな表情の変化をとらえ続けようとしたディレクターの姿勢に通ずるところがありますよね。

田原:そう。ジャーナリズムにおいてテレビと活字の決定的な違いは、そこに映像があること。映像の力というのは、本当にすごいものなんです。1998年、当時の内閣総理大臣橋本龍太郎は、『サンデープロジェクト』(1989年4月から2010年3月まで毎週日曜の朝に生放送された報道・政治討論番組)で、僕が税制改革の矛盾点を突いたら絶句した。本番中、僕はカメラマンに「この橋本龍太郎の表情のアップをずっと撮ってろ」と指示し続けたんです。その映像で、橋本龍太郎の目線は上にいったり下にいったり落ち着かず、汗がたらたら流れて、終始狼狽していた。結局、それがきっかけとなって自民党は次の選挙で負けた。それは、活字のジャーナリズムではできないことなんですよ。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

―『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』で印象的だったのも、多くの人が極悪非道の大物だと思っていたアイヒマンが、法廷の証言台の上で小物感をただよわせていたところでした。

田原:アイヒマンはただの官僚なんですよ。ヒトラーの命令にひたすら忠実だった、そういう意味では、見事なまでに優秀な官僚だったということ。

―実際、こういうタイプの人間はこれまでよく見てきましたか?

田原:見てきましたね。日本というのはずっと官僚の国ですから。それが最も露わになったのが太平洋戦争。総理大臣をはじめ、日本の政府の幹部であの戦争に勝てると思ってた人間は誰もいなかった。ところが、参謀長に海軍のトップが「今なら戦えます」と言ったことで始まってしまった。軍隊っていうのはそういうところなんですよ。問題は勝つか負けるかじゃなくて、戦えるか戦えないかなんです。そこから1年半もしたら石油の供給が断たれて戦えなくなるけれど、今なら戦える。そういう判断で戦争に入ってしまったんですね。

―つまり、軍部の官僚の意見が通ってしまったということですね。

田原:そう。「勝つ可能性がないならやめたほうがいい」ということを言える人間がいなかった。ドイツにはヒトラーという独裁者がいたけれど、日本には独裁者はいなかった。大事なことは全部官僚が決めていて、それは現在もまったく変わっていない。原発の問題だって、今、再稼動をやっている一方で、1万7千トンもの使用済みの核燃料を今後どうすればいいのか、政府の誰も答えることができない。一番の問題は、原発政策において、総合戦略を考えている人間が日本政府のどこにもいないこと。司令塔がいないまま、官僚たちが対処しているだけなんです。これは太平洋戦争のときとまったく同じ構図ですよ。

マスコミは常に権力を見張っていなければいけない。そういう意味では、最近の日本のマスコミは萎縮しているね。

―ホロコーストの責任者の裁判をイスラエルでおこない、その様子をイスラエルの許可のもと世界中で流す。『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』で描かれている史実の背景には、政治的な判断がいくつもあったと思います。それについては、どう思われましたか?

田原:ユダヤ人大虐殺の張本人が、法廷の場で何を話し、どう裁かれるのか。それを世界中になんとかして示したいと思った当時のプロデューサーの気持ちはよくわかるし、僕がその立場でもやると思う。最初、イスラエルの裁判官たちは法廷にカメラを持ち込むのを許可しなかったわけですよ。そこでスタッフたちは、法廷の壁をくりぬいてカメラを設置して、法廷にいる人間には見えないようにして、許可をとりつけた。あの一連のシーンはとてもスリルに富んでいましたね。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

―国とマスメディアの関係というのは、現在の日本で大きな問題となっています。そして、田原さんはまさにその当事者として今も矢面に立っています。

田原:政治権力というのは、常にマスコミを利用しようとするものですよ。一方で、マスコミは常に権力を見張っていなければいけない。僕は、マスコミの役割はそこにあると思っています。そういう意味では、最近の日本のマスコミは萎縮しているね。

田原総一朗

―そこに、なにか打開策のようなものはあるのでしょうか?

田原:それについては、各番組の担当者やスタッフがそれぞれ戦っていくしかない。僕がやってる『朝まで生テレビ!』は今もまったく萎縮してませんよ。あの番組を自分はテレビの解放区だと思ってやっています。

経営者や上の人間に向かって、現場の人間はもっと意見を言うべき。

―マスコミ、特にテレビにいる人材の資質が昔と比べて変わってきたというのも、その萎縮の原因としてありませんか? 『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』で描かれているテレビスタッフたちにもアウトロー的な匂いがあって、こういうのは日本に限らず、現在のテレビ界にはあまりないのかなって思ったんですけど。

田原:確かに、昔の日本のテレビ界にはアウトロー的な人間がたくさんいましたね。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』 ©Feelgood Films 2014 Ltd.

―その代表的な存在が田原さんなんじゃないかと(笑)。

田原:だとしても、今のテレビ界がこのままでいいとはまったく思わない。権力に対して萎縮するのは大きな間違いだし、経営者や、上の人間に向かって、現場の人間はもっと意見を言うべきだと思います。そういうことをすると社内で偉くなれないんじゃないかと思って、みんなが言わない。でも、それはテレビ局だけの話じゃないですよ。東芝の粉飾決算の問題だって、全部同じ。みんなわかっていても、空気を読んで、上に意見を言わない。でも、そんなことばかり続けていると、社内で偉くなれるとかなれないとかじゃなく、会社全体が沈んでいきますよ。

田原総一朗

―面と向かってこういうことを訊くのは失礼かもしれませんが、田原さんは『朝まで生テレビ!』をいつまで続けようと思っているんですか?

田原:一時はね、あの役割を誰かに代わってもらおうと思っていたんですよ。実際に、何度か試してみたこともあるんだけど、今はもう、僕が倒れるまであの番組は続けようと思ってます。

―ということは、田原さんが倒れられたら、『朝まで生テレビ!』は終了してしまうんですか?

田原:そうかもしれません。誰かに代わってもらおうとしても、みんなに断られるんですよ。一度やってもらった人間にも、「もう二度とやりません」と言われる。だから自分がやるしかないんです。

「何言ってるんだ、炎上なんて別にしたっていいじゃないか」って思いますよ。

―田原さんは映画監督として、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年)や『原子力戦争』(1978年)といった、非常に挑戦的な作品を70年代に撮っていました。昔の話で恐縮ですが、映画監督をやろうと思った理由と、やめた理由についてこの機会に訊かせてください。

田原:映画監督をやめたという思いは自分にはないんですよ。ただ、作れなくなっただけ。『あらかじめ失われた恋人たちよ』を作ったときに借金がいっぱい残って、その借金を返すためにジャーナリストとして原稿を書くようになって、そのままテレビにも出るようになった。ただそれだけなんです。だから、もし『あらかじめ失われた恋人たちよ』がヒットしていたら、ずっと映画を撮り続けていたと思います。

―なるほど。でも、80年代以降の田原さんはジャーナリストとしてテレビで大きな影響力を持つようになって、資金的な面では、その後にもチャンスはあったように思うんですけど。

田原:何度か作ろうとしたことはあるんですよ。つい最近まで思ってました。

―そうなんですか!

田原:でも、企画が通らなかったり、お金が集まらなかったり。あと、昭和天皇についての映画を撮りたかったんですが、あちこちから反対されて。

―作りたい作品が、明確にあったわけですね。

田原:自分が生きてきた戦後の日本を作ったのは、昭和天皇とマッカーサーですからね。そこは自分にとって避けて通れないところなんです。先ほどの、テレビ人が変わったって話の答えにもなるかもしれませんが、結局のところ、このところの日本が変わってしまったのは、戦争を知っている世代がだんだんいなくなってしまったからなんですよ。それで、みんな大人しくなってしまった。やっぱり、大島渚とか、野坂昭如とか、ああいう連中は戦争を知ってる世代だったから、何かを喋るときには常に体を張っていたんですよ。どこかで「死んでもいい」というような気持ちで自分の言葉を発していた。そういう人間が、もういなくなったんです。

―最近はネットの炎上なども増え、それを未然に防ごうとする雰囲気もありますよね。

田原:「何言ってるんだ、炎上なんて別にしたっていいじゃないか」って思いますよ。むしろ、炎上のどこが怖いんですか? 無難に生きようと思うから怖いんですよ。無難に生きてても面白くないし、ちゃんと議論すべきときはしたほうがいい。戦争を知っている世代には、右とか左とか関係なく、絶対に戦争には反対だって思いがあるんです。どんなことがあっても戦争だけは反対だってことを、僕らは言い切ることができた。最近、そこが変わりつつあるように思えて、それはとても危惧しているところです。

田原総一朗

―その言葉、ズッシリと響きます。

田原:ただ、どんなことがあっても「絶対に戦争には反対だ」と言わなくてはいけないのは、僕らの世代にとって弱みでもある。そういう自覚もあります。それでも、それは戦争を知っている僕らの世代の使命なんですよ。

作品情報
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』

2016年4月23日(土)からヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国で公開
監督:ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
脚本:サイモン・ブロック
出演:
マーティン・フリーマン
アンソニー・ラパリア
レベッカ・フロント
配給:ポニーキャニオン

プロフィール
田原総一朗 (たはら そういちろう)

1934年、滋賀県生まれ。60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。現在、早稲田大学特命教授として大学院で講義をするほか、「大隈塾」塾頭も務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。また、『日本の戦争』(小学館)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』講談社)、『日本人と天皇』(中央公論新社)、『日本を揺るがせた怪物たち』(KADOKAWA)など、多数の著書がある。



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