グループサウンズ(GS)やフォークが隆盛していた1960年代、日本のサイケデリックロックを牽引し、今なおカリスマ的な人気を誇るバンド、ジャックス。そのリードギタリストだった水橋春夫が昨年、実に48年ぶりにシーンに戻ってきた。共にジャックスに所属していたベーシスト、谷野ひとしを伴い「水橋春夫グループ」名義で精力的に活動を行なっている。そして、前作『考える人』からおよそ1年半ぶりに完成させたのが、今回のニューアルバム『笑える才能』だ。まるで時空を切り裂くような水橋の鋭いギタープレイは、半世紀を経た今も健在で、味わい深い歌声と共に聴き手を深く内省へと誘うだろう。
実は水橋は、ジャックスをわずか2年ほどで脱退したのち、レコード会社でアーティストの育成や制作を手掛けるディレクターに転身、横浜銀蝿やWink、山瀬まみなどを担当し、数多くのヒットを生み出している。そんな彼が、再び音楽を奏でようと思ったのはなぜか。和製ロックの黎明期を駆け抜け、1980年代にヒットを量産した生き証人が、貴重なエピソードと共に現在の心境を語ってくれた。
レコード会社のディレクターって、なんかかっこいいなと思ったんですよ(笑)。
―水橋さんはジャックスを脱退したあと、レコード会社(キングレコード、POLYSTAR RECORDS)のディレクター、として横浜銀蝿やWink、山瀬まみなどを担当していたそうですが、なぜ転身しようと思ったのですか?
水橋:本当に単純な理由。レコード会社のディレクターって、なんかかっこいいなと思ったんですよ(笑)。バンドをやっていた関係でコネもあったし、無試験で入れるっていうし。
―いきなり身も蓋もない話ですね(笑)。
水橋:朝早く起きるのも満員電車に乗るのもイヤだったから、普通の会社勤めはできないなと(笑)。当時はのんびりした時代だったから、僕みたいな素人が現場に入っても、育ててもらえたんですよね。色々やったよ、歌謡グループから、アニメ、ロック、アイドル、ヒップホップまで。ミュージシャンから転職して、裏方として、こんなに色んなジャンルを手掛ける人は、なかなかいないんじゃないかな。
―中でも横浜銀蝿は、ものすごくコンセプチュアルなバンドでした。ライダースジャケットに白いズボン、サングラスにリーゼントという「コスチューム」でロックンロールを鳴らすという。彼らをディレクションしようと思ったのはなぜですか?
水橋:大きい事務所に所属しているようなアーティストはやりたくなかったからかな(笑)。もし、偉い人が出てきて勝手に方向性を変えられたりしたら、好きなようにできないじゃないですか。ディレクターなしで新曲を決められてしまうとか、そういうのは嫌だったんだよね。
―手掛けるなら自由にやりたかったと。でも、いわゆるアングラなシーンでジャックスという先鋭的なサイケバンドをやっていた水橋さんが、横浜銀蝿のかなりノリの良いロックンロールを手掛けていたというのは意外です。
水橋:銀蝿は面白い連中でしたよ。当時はみんな大学生で、演奏も下手なんだけどかっこよかった。ボーカルの翔とリーダーの嵐くんは、言葉のセンスもあって、1981年に発表した“ツッパリHigh School Rock'n Roll”とか“羯徒毘ロ薫'狼琉(かっとびロックンロール)”とか、全部二人で考えていたんですよ。
―ある種、コピーライター的な発想も持っていた。
水橋:そうなんです。ちなみに、当時一番人気だったJohnnyくん(浅沼正人)は今、ベルウッドレコード(水橋やあがた森魚らが所属するレコードレーベル)の代表取締役社長だからね。そこから、こうして水橋春夫グループがCDをリリースすることになったんだから面白いよね。
売れるものっていうのは、どこか変なところがないと。
―Wink(1988年にデビューした鈴木早智子と相田翔子によるアイドルユニット)がデビューした時も衝撃的でした。清楚な雰囲気の女の子が、ダンサンブルな楽曲を風変わりな振り付けで踊りながら、無表情で歌うという。The Rubettes(1974年にデビューしたイギリスのバンド)の“Sugar Baby Love”のカバーをデビュー曲に持ってくるなど、かなり攻めたことをしていましたね。
水橋:もう、完全な趣味ですね(笑)。「洋楽志向でいこう」と。そもそも彼女たちは、雑誌『UP to boy』(現『UTB』)が開催した、ミスコンテストの上半期グランプリと下半期グランプリだったんですよ。それをユニットにして、二人の声を合わせてみたら、すごくいい感じで。
―スタッフも錚々たる方々でしたね。
水橋:作詞は及川眠子(“残酷な天使のテーゼ”などの作詞家)、振り付けは五十嵐薫子(現・香瑠鼓 / 新垣結衣出演のグリコ『ポッキー』CM、ソフトバンクのCM白戸家『ギガ物語』シリーズの乃木坂46の振付などを担当)。まだまだ駆け出しで無名だったけど、今思うと優秀なブレーンに囲まれていましたよね。
―そんなヒットの秘訣というのは何だったんでしょうか?
水橋:売れるものっていうのは、どこか変なところがないと。だいたい半年くらい早く出さないとダメですね。それくらいが珍しがってもらえる。あまり早すぎても誰もついて来られなくなるし、ディレクションしてくれる人もいなくなってしまう。ジャックスがそうだったように(笑)。
―でも、ヒットを生み出してきたということはある程度分析されていたんですよね?
水橋:いえ、感性のみで、いわゆるマーケティングなんて一切していませんでした。でも、とにかく洋楽っぽくしたくて作った“One Night In Heaven ~真夜中のエンジェル~”(1989年リリース)が、当時「アイドルはかけない」と言っていたラジオ局でガンガンオンエアされた時は、嬉しかったですね。僕の勘は間違っていなかった。
―ジャックスの“時計を止めて”をWinkにカバーさせたのもそういった勘ですか?
水橋:いや、お小遣い稼いじゃおうかな、と。
―あははは(笑)。
水橋:決まってるじゃん! だってものすごい枚数売れるんだよ? まあ、ちょっと悪ふざけし過ぎだったかもね(笑)。
―数々のヒット曲がありますが、その中でも印象に残っている曲はありますか?
水橋:ある時に先輩に連れられて千葉の船橋にあるストリップ小屋に入ったんですよ。そこで踊り子さんがBGMに使っていたのが、僕が手がけたおさだたいじの“妻あるあなたに”っていう不倫をテーマにした演歌だったんです。その時に、ものすごく衝撃を受けたのを今でも覚えてる。こうやって町の片隅で流れてこそ「流行歌」たりえるのだと。それを自分が作っているのだと思ったら、なんともいえない興奮を覚えてストリップどころじゃなくなった(笑)。あの踊り子さんには今でも感謝していますね。まだご健在かなあ。
―そんな、数々のヒット曲、流行歌を手がけてきた水橋さんですが、若手のアーティストのイベントにも出演されていますよね。
水橋:そうだね。呼ばれたイベントで知ったバンドのボーカルの子に、作品に参加してもらうことになったりもして。今の若い子でもジャックスとか、いいと思って呼んでくれる人たちがいると、やっぱり嬉しいね。
ジャックスは、甘いGSが多かったシーンの中で、内省的なものを求めていた人の「無い物ねだり」に応えられたんだと思う。
―ジャックスは日本にロックが根付く前の1960年代後半に結成されたわけですが、そもそも1948年生まれの水橋さんが、音楽にめざめたきっかけはなんだったのでしょう?
水橋:一番大きいのは、8つ上の兄の影響ですね。もう亡くなってしまったんですけど。彼はジャズに傾倒していて、かまやつひろしの親父さん(ジャズシンガーのティーブ・釜萢)に師事していたんですよ。それもあって、普通の家よりは色んな音楽が流れていたと思います。
―具体的にはどんなアーティストの音楽を聴いていましたか?
水橋:エルヴィス・プレスリーがかっこよくてね。そこからロカビリーに入っていき、日本の歌謡曲がものすごく退屈に感じるようになりました。自分で最初に買ったレコードが、The Everly Brothersの『夢を見るだけ(All I Have To Do Is Dream)』だった。
―今作『笑える才能』に収録されている“エヴァリーを追いかけて”は、The Everly Brothersのことを歌った曲ですよね。
水橋:そうです。今回のアルバムは、GSとかマージービート(1960年代前半、英国リヴァプールを中心に勃興したムーブメント)とか、僕が1967年から1970年くらいに日本で感じていた音楽というのがテーマだけど、この曲だけは違う。まさに、“夢を見るだけ(All I Have To Do Is Dream)”を意識して作った曲です。
―The Everly Brotherもそうですが、水橋さんの世代だとThe Beatlesもリアルタイムですよね。
水橋:そうだね。The Beatlesを聴いたのは中学3年生の時だったかな。日本では『抱きしめたい/こいつ(I Want To Hold Your Hand / This Boy)』(1964年)が彼らのデビューシングルだったと思うけど、親からちょろまかしたお金を持って、豪徳寺のレコード屋まで買いに走ったのを覚えています。
―そういった音楽を聴きつつ、どういう経緯でジャックスに加入したのでしょう?
水橋:早川(義夫)くんは最初、ナイチンゲイルという3人組のユニットを組んでいたんです。僕が加入した時には、すでに谷野(ひとし)くんもメンバーだった。僕が早川くんのところへ初めて会いに行ったのが1967年6月7日で、その3日後には『バイタリス・フォークビレッジ』っていう、当時アマチュアフォークの登竜門だったニッポン放送のオーディション番組に出演してるんです。
―それはまたスピーディーですね(笑)。
水橋:しかも、生放送(笑)。それが僕のデビューライブです。ギターもまだ持っていなくて、谷野くんから12弦のアコギを借りて“からっぽの世界”や“マリアンヌ”を演奏した。いい加減だったんですよね、当時は。その後、当時の彼女から借りたエレキギターを持つようになって……。僕は自分でギター買ったことないんだ(笑)。
―ギターを買ったことがないとは(笑)。ジャックスは「日本のヴェルヴェットアンダーグラウンド」「和製サイケデリックロックの先駆け」などと言われてきましたが、ご自身で振り返るとどんなバンドだったと思いますか?
水橋:ジャックスは、いい加減なバンドでしたよ。早くレコーディングを終わらせて遊びに行きたいとしか考えてなかった(笑)。世間からは、「どうせあいつら新宿風月堂(谷川俊太郎や唐十郎、寺山修司などが出入りしていた名曲喫茶)に入り浸ってるフーテンだろ」なんて思われていたけど、実際その通りだったからね(笑)。そういう匂いや空気が好きな人たちは喜んでくれるけど、大半の人たちは「なんなんだアレは?」って感じですよね。
―そういう空気感や、いわゆる欧米のサイケデリックとは一味違うオリジナリティーは、当時かなり活発だったアングラ演劇界隈との交流から生まれ、確立されていったものなのでは? と思っているのですが。
水橋:早川くんは演劇をやっていて(早川は和光高校の演劇の講師、平松仙吉が主宰する実験劇団『パルチ座』の団員だった)、ジャックスがその伴奏をしたこともあったけど、正直、僕はアングラ演劇はよくわからなくて(笑)。ジャックスは、甘いGSが多かった音楽シーンの中で、それとは違う内省的なものを求めていた人の「無い物ねだり」に応えられたんだと思います。まだロックというものが日本に根付いていなかったからね。
―当時隆盛していたシーンとは違ったところにいたんですね。水橋さんはどういう方と交流があったんでしょうか?
水橋:当時、仲が良かったのはザ・フォーク・クルセダーズの加藤(和彦)くんくらいだったかな。加藤くんも、洋楽の音を研究しまくっていました。「どうやって鳴らしたら、こんな音が出るんだろう」って。座布団叩いて音を加工してみたり(笑)。だからザ・フォーク・クルセダーズも、その後に彼が始めたサディスティック・ミカ・バンドも立派に成長した。GSも盛り上がっていたけど、その中では、山口富士夫がやっていたダイナマイツやザ・スパイダースが良かったね。
―かまやつひろしさん(ザ・スパイダースのリーダー)の曲は、洋楽っぽい匂いがしましたよね。
水橋:The Beach Boysの前座をやった時は、ブライアン・ウィルソン(The Beach Boysの元リーダー。ボーカル、ベース担当)もいなかったしスパイダースの方が良かったかも(笑)。
―水橋さんは1967年にジャックスに加入し、翌年にファーストアルバム『ジャックスの世界』をリリースしたあと、1969年には脱退しています。その後の活動を見ると、もっと洋楽指向だったり、ポップな路線にいきたかったのでしょうか?
水橋:今聴いてみても、『ジャックスの世界』はすごくポップなアルバムなんですよ。それは、僕と木田高介くんの趣味ですね(木田は、ジャックス解散後に編曲家となり、かぐや姫“神田川”、ダ・カーポ“結婚するって本当ですか”など数々のヒット曲を手がける)。でも、それ以降は曲がつまらなくなって辞めたんです。
人生の判断基準も「好きか、嫌いか」だけ。そうすると、色んなことに諦めがつく。
―ジャックスのギタリスト、レコード会社のディレクターという全く違う立場でシーンを見て来た水橋さんですが、昨年、ジャックス脱退から48年ぶりに音楽活動を再開され、前作『考える人』に続くセカンドアルバムは『笑える才能』。タイトルが素晴らしいですよね。
水橋:今作、作詞を手がけた及川眠子が考えたフレーズです。今日、こうやって話しみて分かってもらえたと思うけど、僕って常にヘラヘラしてるでしょう?(笑) 物事を突きつめて考えないんですよ。 やってきた音楽もそうだし、人生の判断基準も「好きか、嫌いか」だけ。そうすると、色んなことに諦めがつく。何かあっても「しゃあないなあ」で終わるんです。それを及川は「すごく変わってる」っていうわけ。何事も笑い飛ばし、図々しくて、反省しない、落ち込まない。それを、ある種の才能と思ったんじゃない?
―昨今SNS上で炎上騒ぎを起こしているのは、「笑いの才能」をなくした人たちだと思います。そんな窮屈で狭量な世の中に対しての皮肉もこめているのかな、と個人的に思ったのですが。
水橋:ああ、それもあるね。最近の、なんでも揚げ足を取るような風潮はすごくいやだ。最悪。「お前、なんぼのもんだ?」って思いますよ。
―最近はみんなでフェスへ行って一緒に歌う、たくさんの人と「共有」する音楽が主流となっていますが、そんな中『笑える才能』は、ひたすら内省を迫られるような、一人でじっくり聴きたくなるようなサウンドで、それがかえって新鮮に感じられるのかもしれません。
水橋:そういう音楽が僕はずっと好きだったし、昔はみんな、そういう聴き方をしていたからね。The Beatlesのレコードが発売されると、ワクワクしながらレコード屋へ買いに行って。自分の部屋に戻り、そのレコードに針を落とす瞬間っていうのは、どこまでも「個人的な行為」でしたから。それに、当時はレコード針の音も、スピーカーがゆらす空気も、全部込みで聴いていました。
―レコードを聴く時のそういう「ひと手間」が、音楽と向き合う前の「儀式」みたいなところはありますよね。今、アナログが流行りつつあるのも、そういう音楽の聴き方がまた求められているのかもしれません。
水橋:音楽を安く扱う時代が続いたから、それがまた見直されているのはいいことですね。僕らの音楽はまだまだ少数派だし、この記事を読んだ読者は「面倒臭いオヤジ」って思うかもしれないけど、若い人たちが珍しがって聴いてくれて、それで気に入ってもらえたら嬉しいね。直に感想をもらえたりしたら、ランチでもご馳走したくなっちゃうかも(笑)。
- リリース情報
-
- 水橋春夫グループ
『笑える才能』(CD) -
2016年7月27日(水)発売
価格:3,000円(税込)
BZCS-11431. GS I Love You
2. 深夜特急
3. Under My Skin
4. 考える人再び
5. 愛しきJean
6. バトルフィールド
7. エヴァリーを追いかけて
8. 愛のガラクタ
9. ・・・・られない
10. イヤな奴
11. 笑える才能
- 水橋春夫グループ
- イベント情報
-
- 『笑える才能』リリースパーティー
-
2016年9月29日(木)
会場:東京都 渋谷 duo MUSIC EXCHANGE
出演:
水橋春夫グループ
キノコホテル
and more
料金:前売 指定席5,800円 立ち見3,500円(共にドリンク別)
- プロフィール
-
- 水橋春夫 (みずはし はるお)
-
日本のサイケデリックバンドの先駆者「ジャックス」の元リードギタリスト。1stアルバム『ジャックスの世界』リリース直前にバンドを脱退し、レコード会社のディレクターに転身。横浜銀蝿、Wink、山瀬まみなどを手掛ける。ジャックス脱退から48年を経て、共にジャックスに所属していた谷野ひとしを伴い、「水橋春夫グループ」名義でアルバム『考える人』をリリース。『FUJI ROCK FESTIVAL '15』への出演を果たす。前作から1年半、2016年7月27日にアルバム『笑える才能』をリリースする。
- フィードバック 1
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-