時代の空気を一身に引き受けて、センセーションを巻き起こすアーティストと、そうした大きな流れとは距離を取りながら、自身の表現を淡々と追い続けるアーティスト。作り手にとって幸せなのは、いったい、どちらの立場なのだろう。現在、世田谷美術館で大規模回顧展が開催されているメキシコの写真家、マヌエル・アルバレス・ブラボの作品を見ると、そんなアーティストと人生の関係に思いを馳せたくなる。モダン写真の代表者として世界的に評価されつつも、2002年に100歳で没するまで「アマチュアリズム」を貫いた控えめな性格の彼は、その長い人生をどのように生きたのだろうか。
今回、この回顧展『アルバレス・ブラボ写真展―メキシコ、静かなる光と時』を、劇団「岡崎藝術座」を主宰する演出家の神里雄大、そして同展を担当した学芸員の塚田美紀と一緒に回った。神里にとってメキシコは、自身のルーツがあるペルーと同じラテンアメリカの国であり、近作『+51 アビアシオン, サンボルハ』や『イスラ!イスラ!イスラ!』でも取り上げた、特別な土地だ。成果主義が強くなる日本とは異なった、ラテンアメリカ社会の豊かさ、そしてアルバレス・ブラボの人生に見る、長く表現を続けるうえでの大切な姿勢とは何なのか? 鑑賞後の会場で、二人に語ってもらった。
いまだに「演劇なんてしていていいのか」と悩む時があるんですが、アルバレス・ブラボにはそうした焦りを感じなかった。(神里)
―神里さんと展示を回ってきたわけですが、あらためてアルバレス・ブラボとはどういう写真家だったんでしょうか?
塚田:アルバレス・ブラボは、1920年代に頭角を現し、亡くなる100歳近くまでずっと写真を撮り続けた、メキシコを代表する写真家です。面白いのは、彼は金儲けや時代を代表することには興味がなく、実際に作品にも、特定の被写体やテーマへの強いこだわりが見られないことですね。
―それだけ写真を撮り続けていて、こだわりがないというのもすごいですね。
塚田:ぼんやりとした、グレーの微妙なトーンを好んだという表現上の特徴や、謎めいた詩性に定評はあるのですが、一言では魅力が語りにくい。今回の展示では、彼の作品を年代順に並べ、その魅力をじんわりと浮かび上がらせたいと思ったんです。
―展示は20代の作品から始まりますが、彼が青年期を送った20世紀前半のメキシコは、革命後の激動の時代ですよね?
塚田:そうですね。1910年に始まったメキシコ革命の影響で、国全体が盛り上がっていた時代でした。ただ、アルバレス・ブラボは政治的な動向とは距離を追いていた。そして、10代で出会った写真に対する「世界が写ることがすごい!」という純粋な喜びを失わないよう、創作を続けたんです。何かをひたすらに「愛する」という、本来の意味での「アマチュアリズム」を貫いた人だったと言えますね。
―神里さんは、展示の全体的な印象はいかがでしたか?
神里:自分が今30代ということもあると思うんですけど、『見えるもの / 見えないもの』と題されていたアルバレス・ブラボが30代の頃のエリアが、一番面白いと感じました。
塚田:その時代の部屋に入った途端、「一気に面白くなった」とおっしゃっていましたね(笑)。
『見えるもの / 見えないもの』のセクションに展示されている『舞踏家たちの娘』(1933年 マヌエル・アルバレス・ブラボ・アーカイヴ蔵 ©Colette Urbajtel / Archivo Manuel Álvarez Bravo, S.C.)
神里:最初に展示されていた20代の頃の写真は、頭が固い感じがしました(笑)。誰に言われたわけでもないのに、自分で決めたルールに縛られている印象があったんです。それが30代に差し掛かると、コンセプトと演出のバランスが良くなったと感じました。
1927年の作品『マットレス』(上)と『マットレス(ネガ)』
塚田:たしかに、20代の頃の彼は模索を始めたばかりでしたから、当時のヨーロッパやアメリカ合衆国の最先端、つまりモダニズムの写真表現を真面目に追っています。そんな中でも、彼らしい温かみはすでに現れているんですけれど。その後、あるコンクールで賞をとって、初めて小さな個展を開いたあたりから自分の色を自覚し始めたようです。ネガとボジを反転させたり、裏焼きにすることで日常の裏の不可思議さをそっと感じさせる写真なんかも残していて、「シュルレアリスムの法王」と呼ばれた文学者のアンドレ・ブルトンにも評価されるなど、一定の地位を築いていきました。
神里:僕も20代までは、人を意識した焦りが強かったんです。というか、30代の今ですら「演劇なんてしていていいのか」と悩んでしまう時があるんですが、アルバレス・ブラボにはそうした焦りをほとんど感じなかった。
塚田:ひとつの対象を突き詰めるタイプじゃないんですよね。「撮りに行くぞ!」ではなく、カメラを持って街をぶらつき、ピンとくるものに出会った時だけ撮る。受け身な人、何かの訪れを待つ人だったのだと思います。でも、だからこそ生まれる謎めいた「余白」が、彼の作品の特徴になっている。長生きして表現をするには、それくらいゆるくないともたないのかもしれません(笑)。
神里:たしかに、「この1点!」と呼べるような代表作がないですよね。それが表現の延命装置になっていたのかもしれない。「この作品」というイメージがある作家だと、それ以前と以後が図らずも意識されてしまう。多くの作家はそうやって過去の仕事に苦しめられがちですが、彼はそれをうまく回避し、興味を持続した。だから、死の直前までやれたんだと思います。
「新しいスタイルを生んで、評価されないと」と考えていたけど、「良いと思うスタイルをやればいい」と思えてきた。(神里)
―「神里さんは脚本を書くのが速い」と聞いたのですが、何か月もかけて書く作家もいるなか、アルバレス・ブラボのように、わりと力を抜いて創作する方なんですか?
神里:いや、書く速さは締切の問題です(笑)。執筆前に取材をするんですけど、あまり「この話を聞こう」という気持ちでは出掛けません。テープレコーダーやカメラで記録も取らない。興味で動き、その経験をろ過して残ったものを書いているというか。とくに最近は、気になる場所に行くことがメインで、演劇はその派生物という意識です。
塚田:そこはアルバレス・ブラボと似ているかもしれませんね。実は彼は、1940年代当時、黄金時代だった映画の方面にいこうとしたんです。でも、組合に入れず、夢を諦めているんですね。そこで、映画のスチルを撮る仕事や、政府による遺跡などの調査の記録写真を撮る仕事をしていた。彼個人の表現としての作品には、その「ついで」に撮ったものも多いんです。それは彼にとって、幸せなことだったかもしれないなって。
『トゥルムのマヤ人の少年』(1943年)は遺跡などの調査の記録写真を撮っていた際に撮影されたという作品のひとつ(マヌエル・アルバレス・ブラボ・アーカイヴ蔵 ©Colette Urbajtel / Archivo Manuel Álvarez Bravo, S.C.)
神里:今の話で思い出しました。僕は高校まで野球をやっていて、野球選手になりたかったんです。当時の仲間の何人かは、今も仕事をしながら草野球をしていて、彼らは純粋に野球がすごく好きなんだな、と思う。一方、僕の動機はもっと不純で、プロ野球選手の華やかなイメージに憧れていただけだったから、プロになれないと分かった途端に興味を失ったんです。
―仲間の方々はまさにアマチュアリズムを体現しているけど、ご自身にはそうした部分がなかったと。
神里:演劇についても同じで、「新しいスタイルを生んで、評価されないと」と考えていたんですけど、最近は「良いと思うスタイルをやればいい」と思えてきたんですよね。実際、演劇に興味を持った大学時代は、客がいなくても気にならず楽しかったんですよ。
塚田:わかる気がします。職業かどうかは別として、ある時ふと表現が生まれることはあるわけですよね。その自然さを大事にする人と、やるならプロとしてガチッとやりたい人がいて、神里さんはアルバレス・ブラボと同じ前者のタイプじゃないかなと思うんです。
神里:そうかもしれません。取材でいろんな場所に行くと、自分が普段気にしている計画的なことが、靴の裏くらいどうでもいいことになるのをよく感じます。
ラテンアメリカに滞在すると、「何もしないこと」が豊かに思える。(塚田)
―アルバレス・ブラボが頭角を現した時代、メキシコでは壁画運動が起こっていたのも面白いと思います。その担い手たちは、壁画を通して社会を変える、いわば「社会に奉仕するアート」をやっていましたよね。
塚田:そうですね。その運動の前提になったメキシコ革命は、「貧しい民衆こそが主役にならないといけないんだ」と標榜された社会革命でもあったんです。そういう、いわば当時の最先端の理想社会を目指して、富裕層が支えるヨーロッパの純粋芸術的なアートとは異なる「社会に奉仕するアート」を政府が後押ししたんです。
メキシコの社会主義リアリズムの画家であり、壁画運動の三大巨匠の一人ダビド・アルファロ・シケイロスの肖像
『ディエゴ・リベラ、レフ・トロツキー、アンドレ・ブルトンら』(1938年)。メキシコに住み、深く当時の文化状況に関わった人々のほか、メキシコを訪れた政治家、文化人の肖像も撮影した(マヌエル・アルバレス・ブラボ・アーカイヴ蔵 ©Colette Urbajtel / Archivo Manuel Álvarez Bravo, S.C.)
―アルバレス・ブラボは、そういったアーティストたちの肖像を撮りつつも、彼らとは距離を取っていたわけですが、それはなぜなんでしょう?
塚田:彼は、民衆が生み出したアート自体には深い愛着がありました。でも「みんなのため」という政治的姿勢を自分の作品世界に持ち込むことはイヤだった。実は「最先端」という価値にもおそらくそんなに興味がなくて、むしろ19世紀の写真を収集したり、レトロ趣味だったんです。目の前で起こっていることはきちんと目撃しつつも、その裏側にはいつも過去を背負っているというか。基本的に、社会の表面の出来事よりも個人の世界を大事にするタイプの人だったんですね。
神里:たしかに彼の作品から、当時の社会の状況は見えにくいですよね。僕は今まで、そうした表現はあまりよくないと思っていたんです。時代の特殊さをまといつつも、それを取り払うと普遍的なものが見えるような、社会的に何らかの意味がある表現をしないといけないと考えていました。でも、最近はそうでもなくなってきましたね。時代性が見えないアルバレス・ブラボの写真には、むしろ「ぼんやりした新鮮さ」を感じました。
塚田:「ぼんやりした新鮮さ」って良い表現ですね。彼が残った理由はそこにあると思っていて。当時はもっとずっと「モダン」な写真を撮る若手カメラマンがメキシコにも居ましたから、それと比べたら、ぼんやりした写真だったかもしれない。けれど、彼の作品は100年近く経っても、今の写真とあまり変わらずに見えますよね。キレキレではないからこそ残ったのかなと。
神里:だけど、ありがちな普遍性が表現されているわけでもないんですよね。
塚田:そうですね。「ずっと変わらない価値」とか「人類愛」とか、そういった抽象的な普遍性ではなく、しいて言えば、いつの時代にもある「人間の匂い」を撮っていたんだと思います。
神里:なるほど。メキシコやラテンアメリカに行くと、何をしているのかよくわからないけど路上で集まっているだけの人々や、トイレでチップをもらったりするだけの仕事をしている人によく出会いますよね。
―「この人たちは何のためにこれをしているんだ?」っていう?
神里:そう、そう。でも、何だか楽しそうというか、日常に「イベントを必としていない感じ」がするんですよね。成果主義や目的に従っている日本では、そういう謎めいた光景ってあまり見かけないと思うんです。
1950年代に撮影された『息子と』。1940~60年代半ばまでアルバレス・ブラボは、発表の機会は少なかったものの、街角の写真を中心に撮影を続けていた
塚田:すごくわかります! ラテンアメリカに滞在するたびに「何かをするってなんだっけ」という不思議な感覚になるんです。何もしないことが豊かに思える。若い頃はそれが理解できなかったんですけど、40代も半ばを過ぎるとだんだんわかってきて(笑)。休日に何の予定もなくても、朝ごはんがおいしいだけで嬉しかったりするんですよ。
―そういうのが「人間の匂い」ということなんですかね。
神里:アルバレス・ブラボの写真は、その感覚に近い気がします。最近、「老後とは何だろう」って考えるんですけど(笑)、「老後」も、ある達成のあとに訪れる時間ですよね。成果主義とは無縁の「あとの時間」をどう生きるかが気になっているんです。
他人の体験を引き受けられるのが俳優の面白さだし、それが観客のものにもなることが、言葉が社会化されるということ。(神里)
―レトロ趣味の話もありましたが、アルバレス・ブラボは「時間」というものをどう捉えていたんでしょうか?
塚田:彼は直線的な時間感覚をあえて無視していましたね。撮った写真の制作年をきちんと記録していないんです。撮りっぱなし、放りっぱなしで、展覧会の時は、現在の視点から「これらを組み合わせたら面白い」と感じるものを出品していた。そういう意味で、彼にとって時間は、固定的に積み重なっていくものというより、いつもチャラになって、新しく始まるものだったのかもしれません。
神里:それで言うと、鑑賞中にタイトルが気になったんです。スペイン語を勉強中なので勉強になったんですけど(笑)、作品への所有欲がないタイトルの付け方だな、と。
塚田:ずっと文学を愛し続けた人だったので、タイトルにはこだわっていますね。でも、作品の意味を聞かれるのが嫌いだったそうで、多様な捉え方が可能な言葉を付けていたんだと思います。
神里:やっぱり、そうですよね。「これは俺の写真だ」「こういう意味だ」というのがないタイトルのつけ方だと思う。どこか他人事な感じも受けました。
―神里さんの演劇は膨大な量の台詞が特徴的ですが、以前、俳優の身体を通して、政治的なことを語らせたいとおっしゃっていましたよね。それは、今の話と通じますか?
神里:通じると思います。僕が台詞に関して「政治」や「社会」と言うのは、演じる内容が俳優自身のものでなくてもいいということなんです。たとえば、今、戦争体験者が高齢になっていますが、当事者以外の言葉には価値がないとしたら、今後、僕らは戦争について価値あるものを書けなくなりますよね。
―そうですね。
神里:でも、他人の体験を引き受けられるのが、俳優という存在の面白さだし、さらにそれが観客のものにもなることが、言葉が社会化されるということだと思うんです。アルバレス・ブラボの写真やタイトルも、思い通りに受け取られなくてもいいと、ある意味で突き放しているのが面白いです。
塚田:表現が流れていく過程はコントロールできないし、無菌状態はありえないと。
神里:「駅の貸し傘」のようなものですよね(笑)。誰でも持っていけるけど、どう使われるかはこっちで決められないし、貸した以上、少しは汚れたり変化するのが当たり前です。
「何かを達成しないと」とか「効果を生まないと」という考え方が癖になってしまっているんです。(神里)
―「流れていく」というと、今回の展示には神里さんが『+51 アビアシオン, サンボルハ』で取り上げた、戦前のプロレタリア劇作家である佐野碩の当時のパートナーで、ダンサーのウォルディーンの肖像を写したスライドショーの展示もありました。佐野も時代に翻弄されて、日本からソ連を経由し、メキシコへと亡命した人物ですが、塚田さんは『+51 アビアシオン, サンボルハ』をご覧になったそうですね。
塚田:はい。『+51 アビアシオン, サンボルハ』を見ていて、登場する三人の俳優の身体に、誰の語りなのかわからない、まるでラジオの音を俳優が受信しているような言葉が織り込まれる感じがたまらなかった。さらに、壁には英語の字幕が流されていたんですが、英語表現のほうがしっくりくる台詞があったりもして、パッチワークのようで興味深かったです。
神里:ありがとうございます。
塚田:お話を聞きながら「なるほど」と思ったのですが、亡命者が大勢メキシコに来ていた時代の中、流れ着いた土地でたくましく生き抜いた佐野をテーマにしたことも含め、神里さんは「所属をしない」人や表現に関心を持たれているんですね。
神里:そうですね。「その場所に住みたくて住んでいる人」には興味が持てないんです。そうではなくて、なぜそこに住んでいるのかわからない、でも、その場所にあるものでなんとか生きている人々に惹かれます。佐野も東京で一生懸命活動していたのに、最終的に流れ着いたメキシコで劇場を作って「メキシコ演劇の父」と呼ばれるまでになったというのが面白いですよね。妥協や挫折を肯定的に捉えられる力って大切だと思うんです。
塚田:今回の出品作で、『身をかがめた男たち』、原題『Los agachados(ロス・アガチャードス)』という作品があります。お金持ちではない、庶民のおじさんが食堂に集まっている写真ですけど、このスペイン語のタイトルには、メキシコでは「ちょっとやそっとじゃ屈しない人たち」という意味もあるんです。
アルバレス・ブラボ自身も、映画への夢を諦めた苦さを抱えながら、静かに自分の世界を構築していった。基本的に、西欧流のアートは文脈を前進させるためのコンセプトを重視しますが、彼はそれとは異なる表現への姿勢を感じさせてくれる写真家だと思います。
神里:展示を見て、それをすごく感じました。日本にいると、いつの間にか目的やコンセプトを重視してしまう。「何かを達成しないと」とか「効果を生まないと」とか、そういう考え方が癖になってしまっているんです。
僕は、ある時期までそれに囚われていたんですけど、「別に望んだ売れ方をしなくてもいいや」と思ったら、逆に演劇がもう一度、好きになってきたんですよ。アルバレス・ブラボは、そうした自由の中で写真を撮り続けたんだと感じたし、それは日本の作家にとって大いに刺激になると思います。
- イベント情報
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- 『アルバレス・ブラボ写真展―メキシコ、静かなる光と時』
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2016年7月2日(土)~8月28日(日)
会場:東京都 世田谷美術館 1階展示室
時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日:月曜(祝休日の時はその翌平日)
料金:一般1,000円、65歳以上800円、大高生800円、中小生500円
※障がい者の方は500円。ただし小・中・高・大学生の障がい者は無料、介助者(当該障害者1名につき1名)は無料
- プロフィール
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- 神里雄大 (かみさと ゆうだい)
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作家・演出家。1982年、ペルー共和国リマ市生まれ。神奈川県川崎市で育つ。2003年に岡崎藝術座を結成。日常と劇的な世界を自由自在に行き来し、俳優の存在を強調するような身体性を探求するアプローチが演劇シーンにおいて高く評価される。2006年『しっぽをつかまれた欲望』で『利賀演出家コンクール最優秀演出家賞』を最年少受賞。『ヘアカットさん』(2009年)、『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』(2013年)が『岸田國士戯曲賞』候補にノミネート。また『亡命球児』(『新潮』2013年6月号)で、小説家としてもデビュー。
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