「舞踏」もしくは「暗黒舞踏」という踊りをあなたは知っているだろうか? 1950年代に土方巽という振付家が創出した舞踏は、バレエやモダンダンスのような飛んだり跳ねたりする身体ではなく、地面に倒れ伏してしまうような身体のあり方に、踊りの新しい可能性を発見し、世界中のダンサーたちに大きな影響を与えた。
土方の遺志を受け継ぎ、現在も多くの表現者が新たな舞踏を発表しており、麿赤兒(まろ あかじ)が主宰する「大駱駝艦」は、その代表的なカンパニーの一つである。男女が全身を白塗りして踊る世界観は、一種異界的なものにも映る。だが、そこには人間の身体・社会に対する鋭い洞察と、人間讃歌とも言うべきメッセージが込められている。
今年の夏、そんな大駱駝艦がユニークな作品を発表する。中心メンバーの田村一行が振付・演出を務め、自らも出演する『はだかの王様』は、なんと家族で楽しめる舞踏作品になるという。前衛というイメージが強い大駱駝艦が、子どもたちに届ける舞台とは、いったいいかなるものだろうか? 稽古後の田村に聞いた。
『はだかの王様』には元になった説話集があってその内容は僕らが知っているものとだいぶ違うんです。中世ヨーロッパの社会制度を揺るがすような仕掛けが込められていた。
―大駱駝艦というと、全身白塗りにした男女が登場するアングラな舞踏……というざっくりとした印象があります。それが今回、子ども向けの作品、しかも『はだかの王様』を作るということにまずびっくりしました。「大駱駝艦って、そもそも裸じゃないか!」と。
田村:約1年前にあうるすぽっとからの依頼で制作を始めたのですが、たしかに「最初から裸だよ!」というのはちょっと思いました(笑)。そこであらためて「裸とは?」と考えてみたら、裸って奥深いものなんですよ。
―裸は奥深い。それは例えばどういうことでしょう?
田村:僕は田村一行という40歳の日本人の男ですが、例えば「自己紹介してください。あなたは何者ですか?」と問われたら、名前とか、国籍とか、父親の仕事とか、いろんな視点で自分のことを説明しようとしますよね。要するに、自分の周りにある物事でしか、自分っていう存在は表現・説明できないんです。じゃあ、もしも「本当の自分」を露わにするために、自分を説明する外的な要素をどんどんはぎ取っていくとしたら、最後には何が残るのか? それは僕にとっての関心でもあるんです。
―それは、どういった部分に関心を抱かれているんでしょうか?
田村:自分のほとんどが外側のものから作られているとしたら、自分という存在は空っぽの空洞である。周囲のものにかたち作られて、動かされ、立っている、という考えが大駱駝艦のやっている舞踏の根本にあるんです。その点で、大駱駝艦と『はだかの王様』がぱっとつながった感じがします。この作品を僕が演出して踊るとすれば、身振りとか、それまでの経験を全部失った王様がどんな動きを生み出すことができるのかについて考えたい……それがスタート地点でした。
―なるほど。
田村:そうやって考えていくと、裸になることは、逆に「裸を着る」こととも言えると思います。身体に白塗りするという行為は、何かを足していることでもあり、個人というものを削いでいく行為でもあると思うんです。そういう意味で、大駱駝艦=白塗り&裸という既成概念を考え直す機会が、『はだかの王様』なのかもしれないです。
―今回の『はだかの王様』は、原作であるアンデルセンの『皇帝の新しい服』の物語に忠実な内容になるのでしょうか?
田村:基本的には忠実です。アンデルセンの『皇帝の新しい服』には元となった説話集があって、その内容は僕らが知っているものとだいぶ違うんですよ。「バカには見えない服」はもともと説話集では「自分の父親と血がつながっていないと見えない服」という設定で、世襲制で王位が継承されていった中世ヨーロッパの社会制度を揺るがすような仕掛けが込められていた。それに、最後に「王様は裸だ!」って叫ぶのも、子どもではなくて、自分は失うものを持たない身分だと言っている馬丁で、それに対して王様は怒り狂うんです。そういった話も参考にしています。
―通常知られている『はだかの王様』よりも、かなり政治的で恐ろしい話なんですね。
田村:そう、とても血生臭いです。着るものによって属性を得た人が身につけるものをはぎ取られることで、全部のアイデンティティーを剥奪されてしまう、という内容なんです。
―大駱駝艦には「天賦典式(てんぷてんしき)」という、「この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とす」という意味の、全てを肯定する様式がありますが、そこにも『はだかの王様』との接点がある気がします。
田村:別の演出家が作れば、もっと違うところに関心を向けると思うのですが、僕が一番リアリティーを持てるのは、そういうところなんですよね。すべてを失ってしまった人間が、何もない更地に立たされたときにどうなるんだろう、とか。地球が滅んじゃって、最後の一人になった人が素っ裸でポツンと立っているとしたら、その人は本当に存在しているのかな、とか。今回の『はだかの王様』は、ある種の孤独さがテーマになると思います。
「個を消す」ために白塗りする側面もありますが、結果、「個」が余計に浮き立ってどんどん外に出てくることもある。
―『はだかの王様』から一度離れて、田村さんご本人について質問させてください。1998年、22歳の時に大駱駝艦に入艦(入団)されてますが、初めて作品を見たのは中学生の頃だそうですね。
田村:中学3年くらいの頃に、深夜の情報番組でたまたま作品を見たんです。母親が芝居好きで父親も英米文学の研究者だったので、知り合いに演劇をやっている人が多くて、小さい頃から劇場や芝居小屋に通う機会は多くあったんです。でも、大駱駝艦を初めて見たとき「なんだこれは!」というそれまでにない驚きと衝撃を覚えたんですよ。それで公演にも通うようになった。
特に大きかったのが、大駱駝艦を主宰する麿(赤兒)さんが出演する『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット作、鴻上尚史の超訳・翻案・演出による舞台)を見たことですね。「とにかくこの人だ。この人に付いていきたい!」と一瞬で確信しました。それで高校を卒業するときに進路相談で「大駱駝艦に入りたいです!」と先生に伝えたんですよ。
―大学ではなく、大駱駝艦が進路(笑)。
田村:そうそう(笑)。ところが進学校だったので、「白塗りして裸になって踊るんですけど」「……田村、それ本気か?」って話になっちゃって。そこで、舞踏批評などを書いている先生がゼミを持っている日大芸術学部の文芸学科に進学することにして、大学時代は戯曲や評論や詩を勉強したんです。とはいえ、お芝居もやっぱり好きでずっと続けていたら、ある年の夏休みに大駱駝艦のアルバイトをすることになったんです。
―アルバイトというと、ひょっとしてお化け屋敷ですか? 大駱駝艦では、艦員(団員)がお化け屋敷のオバケに扮する仕事をしていましたよね。
田村:まさにそれです。今ではお化け屋敷プロデューサーとして有名な五味弘文さんが麿さんのことを慕っていて、夏になると艦員に出演依頼をくださっていたんです。大駱駝艦の先輩に「明日の3時半、新宿駅のホームに来い!」と言われ、そのまま後楽園遊園地で全身白塗りの上に水玉模様を描いた「水玉オバケ」をやることになってました。それが最初の仕事(笑)。
それが、その「水玉オバケ」の所作って、ここでジッと固まる、ここで一気に飛び出る、ここで震える……とか、今思うと踊りの演出をされているのとほとんど変わらないんですよね。
―人を驚かせるお化け屋敷のメソッドが今も役立っているんですね。
田村:そうですね。お化け屋敷では、そんな身体の動かし方を探りました。その後、制作の仕事を手伝ったり、1997年の台湾公演に出演させてもらったりして、それで1998年に正式に入艦することになりました。
―望みどおりの進路に進めたわけですね。でも、常識的な感覚からすると人前で裸になるっていうのは抵抗があると思うのですが、学生時代の田村さんはどうでしたか?
田村:恥ずかしいと言えば、恥ずかしかったですよ。というか、今でも羞恥心と好奇心がせめぎあっている。白塗りせずに素の状態で稽古していると「ああもう早く白塗りしちゃいたいな」ってなります。冷めたもう一人の自分をどこかに持ちながら踊るという状態はダンサーにとってよいことですけど、そういう感覚を持てば持つほど、恥ずかしさも増すんですよね。でも白塗りするとそういう恥ずかしさなんて全く関係なくなる。
―白塗り特有の力があるんですね。
田村:白塗りってやっぱり不思議なものだと思います。「個を消す」ために、剃髪して、裸になって、白塗りする側面もありますが、そうすることで「個」が余計に浮き立ってどんどん外に出てくることもある。自分の身体の内側で、普段の自分と、完全に異質な自分が同居していて、押し引きするんです。
何かを表現しようとしているものの中には、じつは表現は存在していない。
―そういった様々な感覚があり、かつなかなか答えに辿り着かないからこそ、田村さんは舞踏をやり続けているのでしょうか?
田村:多分そうだと思います。「舞踏って何だ?」と問われて、答えられる何かを見つけちゃったらもう続けられないかもしれません。
具体的な型を見つけて、それに沿って舞踏をやろうとすると、まったく舞踏でなくなってしまうことが多くあります。大駱駝艦にはいくつもの型があって、例えば「獣の型」というのがありますが、いくら型をキレイに作ることができても、それだけでよいとは言えない気がします。
―バレエや伝統舞踊などは、「型」に身体を当てはめていくことが一つの上達の基準になっていますから、それとは異なる踊りが舞踏であるのかもしれません。
田村:自分が獣だとして、体毛がどういう風に生えているか、牙や耳や角はどうなっているか、今どんな所にどんな気分で立っているか、そういうことを本気で思って立つことが大切なんですよ。実は、そうやってイメージについて考えながら踊るというのはものすごく疲れるんです。
―自分の身体の変化に意識を向け続けるわけですから、カロリーの消費量も莫大ですね。
田村:麿さんの「舞踏のなかに舞踏はない」という言葉が好きなんですが、それは他のことにも当てはまると思います。 何かを自分で表現しようとしているものの中には、実はたいしたことはなかったりする。むしろ、ただ寒そうに立っているおばあさんの姿にこそ、その人の人生の厚みが表現されていたりする。「俺悲しいんだよお!」なんて大袈裟に主張している人よりも、例えば何かを見て、ふっと笑う……その笑みによってこそ、本当に悲しさが伝わるとか、そういうことがある。表現ってそういうものだと思います。
本当に空っぽになって、初めて身体は動かされる。だから踊りには、上手い下手ってないと思います。
―でも大駱駝艦への入艦を希望する若い人のなかには、自己主張がしたくてやって来る人もいると思うんですね。そういう人に、田村さんはどのように稽古をつけていくのでしょうか?
田村:まず、動きの価値観を変えさせることから始めます。言い方は悪いですが、要はバカにさせるということですよ。自我ほどつまらないものはないので。「お前のやっていること全部ダメだ」「じゃあ、どう動くんですか?」「動くんじゃなくて動かされるんだ」みたいに、自意識を取っ払う。
―かっこよく見せようと思ってもダメ、というか。
田村:そうですね。頭を空っぽにして、思考を停止させる。まずはそういう状態に持っていってあげるのが大事だと思います。
先輩がこういう風に動いていたから、自分もそれを正確にトレースしよう、というのでは何十年練習しても結局何も学べていないのと同じです。舞踏って、稽古の量や時間に比例して上手くなるものではなくて、ある瞬間にぽーんと理解するものだと思います。発見や閃きを繰り返しながら、何かを掴んでいくもの。言い換えると「空っぽになる瞬間」を増やしていくことかもしれません。もちろんその瞬間を掴むためには稽古をしなくてはならないのですが。
だから今回の『はだかの王様』に出演するメンバーは、長年一緒に稽古をしているので、僕の言うことを身振り手振りにするスピードがとても早くて面白い。動きに躊躇がないし、ずっと楽しくやっていられるんです。
―たしかに、先ほど見せていただいた稽古もストイックさではなく、溌剌とした雰囲気が印象的でした。健康的ですよね。
田村:意識的にバカっぽいことをやろうとしても、本当のバカさは宿らない。本当に空っぽになって、初めて身体は動かされる。だから踊りには、上手い下手ってないと思います。ただ、だめな踊り、よい踊りっていうのはあると思っていて。自分の身体に嘘をついている踊りが前者で、その感覚に対して真っ向から身を委ねた肉体でもって立つのが後者。後者の、正直な身体にはリアリティーと密度があるんですよね。
何かを本気でやっているからこそ生まれるエネルギーを伝えたい。
―最後に、あらためて『はだかの王様』の話を。田村さんは子ども向けのワークショップも数多く手がけています。今回の作品も家族向けなわけですが、観客にどんなインパクトを与えたいと思っていますか?
田村:作品としては、コミカルな動きが増えていますが、特別にどうこうしようという意識は少ないですね。最初にお話したように、むしろ舞踏や大駱駝艦の本質に迫る側面を持つ作品だと思っています。だからふだん大駱駝艦を見ている人にも見てほしいです。根っこにあるのは「子どもの頃の自分に見せたら、超喜ぶだろうな!」という舞台を作ることです。
―子どもの頃の田村さんのテンションが上がる舞台って、例えばどんなものでしょうか?
田村:何かわからないけれど「スゲー!!」って叫んでしまうようなものですね。もしも、子ども向けだからと言って、きれいごとを並べ、友情とか正義を表面的に語ったとしても、子どもはその違和感を一瞬で見抜くと思います。
先日、大駱駝艦で『パラダイス』という公演を行ったのですが、僕の知り合いが連れてきた小学3年生くらいの子が「感動した!」と言ってくれていました。麿さんの普段の大駱駝艦の作品だって、子どもが理解できないものではないってことです。
それは中学の頃にテレビで大駱駝艦を初めて見て、衝撃を受けた自分の体験とも重なっていて。見る側が、「この意味はああだ」「この振付はどうだ」とか頭を使うのではなく、もっと子どもの頃の目線、よくわからない世界に対して毎日感動を繰り返していたような、そんな「はだか」の状態で、『はだかの王様』を見ていただけたら嬉しいです。子ども向けとか大人向けとか関係なく、何かを本気でやっているからこそ生まれるエネルギーを伝えたいですね。
- イベント情報
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- あうるすぽっと+大駱駝艦プロデュース
『はだかの王様』 -
2016年8月25日(木)~8月28日(日)
会場:東京都 池袋 あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)
原作:アンデルセン(『皇帝の新しい服』より)
振付・演出:田村一行
監修:麿赤兒
出演:
田村一行
我妻恵美子
松田篤史
高桑晶子
塩谷智司
湯山大一郎
若羽幸平
小田直哉
阿目虎南
- 関連企画
『はだかの王様ってどんな服?』 -
あうるすぽっとでは、新しい服が大好きな「はだかの王様」に、王冠と服を描いて投稿するぬりえ企画を実施中。応募いただいたぬりえは、特設の「はだかの王様ギャラリー」に掲載されるほか、応募者の中から抽選で5名様に特製王冠バッジがプレゼントされる。
- あうるすぽっと+大駱駝艦プロデュース
- プロフィール
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- 田村一行 (たむら いっこう)
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舞踏家・俳優・演出家。1998年大駱駝艦に入艦。舞踏家・俳優である麿赤兒に師事。2002年より大駱駝艦のスタジオ「壺中天」にて、自らの振付・演出作品の創作を開始。2008年文化庁新進芸術家海外留学制度により、フランスを拠点に活躍する振付家、ジョセフ・ナジの元へ留学。小野寺修二、宮本亜門、白井晃、渡辺えりの舞台など客演も多数。2016年8月25日(木)よりあうるすぽっとにて『はだかの王様』を上演する。
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