桑田佳祐の還暦を祝うべく、各界の著名人に「桑田佳祐」に対する思いを披露してもらう特別企画。その第6弾となる今回ご登場いただくのは、ハルメンズ、パール兄弟など、日本のニューウェーブバンドの一員として活躍し、近年はアイドルのプロデュースや著述家としての活動も積極的に行っている、ミュージシャン・作詞家・プロデューサーのサエキけんぞう。
共演歴など直接的な交流はないものの、桑田の2歳下であり、ハルメンズ時代はサザンオールスターズと同じくビクターに所属するなど、桑田佳祐の活躍を、近い場所で、近い世代として見続けてきた彼は、サザンオールスターズや桑田佳祐の音楽をどのように捉えてきたのだろうか。独自の音楽分析をもとに、“勝手にシンドバッド”から、先日地上波でもオンエアされた特別番組『桑田佳祐「偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~」』へと至るサザンオールスターズと桑田佳祐の音楽的な変遷はもちろん、それが現在の音楽シーンに持つ意義についてまで、縦横無尽に語ってもらった。
サザンオールスターズは、最初から結構スケベな歌も多くて。そこに、ちょっと親近感を持っていましたね(笑)。
―サエキさんは、ご自身のデビュー当時、かなりサザンオールスターズ(以下、サザン)に近い場所にいたとか?
サエキ:そうなんですよ。僕は1980年に、ハルメンズというバンドで、ビクター内の「FLYING DOG」というレーベルからデビューしているんです。で、「FLYING DOG」から派生して「Invitation」というレーベルが作られることになり、サザンは1978年にそこから“勝手にシンドバッド”でデビューして、いきなり大ヒットを記録したと。つまり、それは僕が所属していたレーベルの部署で起こった出来事だったんですよ。
―サエキさんは、桑田さんの2つ年下ですから、ほとんど同世代であって、ほぼ同じ時期にビクターで活動をスタートされたわけですね。
サエキ:そうですね。だから、デビュー当時にご挨拶をさせていただいたり、ハルメンズのアルバムをお渡ししたりしたと思います。あと、僕らもビクタースタジオで作業をしていたから、ちょうど上の階でやっていたサザンのレコーディングを見学させてもらったことがありました。確かそのときは、“C調言葉にご用心”(1979年、5枚目のシングル)を録音していたと思います。
あと、原由子さんがやっていたソロユニット「ハラボーズ」の宮田繁男(ドラム)や、ハラボーズとサザンでも一時期弾いていた国本佳宏(キーボード)、今もサザンでサポートを務める斎藤誠(ギター)や矢口博康(サックス)など、僕の地元仲間やバンド仲間が、桑田さんのサークルの後輩だったりして、一緒に演奏していたんですよね。パール兄弟の矢代恒彦も、1987年にサザンのサポートを務めていたり。だから、意外と縁が深いというか、間接的な接点は昔からたくさんあるんです。
―サエキさんの目に、当時のサザンはどのように映っていたのですか?
サエキ:ハルメンズはニューウェーブという洋楽的なエッジの立った音楽というか、あまりメインストリームではない音楽をやっていたから、ある意味サザンと僕らは完全に対極の位置にいましたね。当時はまだ「歌謡曲」という言葉が健在だった頃ですし。
あとサザンは、「BetterDays」という青山学院大学の音楽サークルの出身で、ちょっとおしゃれなイメージがありました。雑誌の『ポパイ』が創刊されたのが1976年なんですけど、そこで発信されていたイメージやカルチャーと重なるようなところがあったんです。それまで、そういうバンドはいなかったように思います。
―『ポパイ』のカルチャーや大学生のライフスタイルを表現しているバンドが?
サエキ:そうですね。あと、サザンはデビュー前に『EastWest』というヤマハが主催する音楽コンテストに出ていて、桑田さんがボーカル賞を獲っていたのですが、そこで歌った曲が“女呼んでブギ”(1978年、デビューアルバム『熱い胸さわぎ』収録)だったんですよね。だから、最初から結構スケベな歌というか、下ネタの曲も多くて。そこに僕自身は、ちょっと親近感を持っていたりしましたね(笑)。
―音楽のジャンルは違えども、シンパシーを持っていたと(笑)。
サエキ:まあ、僕も下ネタは好きなので(笑)。あと、サザンは当時から、レパートリーの幅がものすごく広かったんですよね。ラテンビートの“勝手にシンドバッド”でデビューしながら、“思い過ごしも恋のうち”(1979年、4枚目のシングル)とか“C調言葉にご用心”のような、メロウな雰囲気の曲もあって。そう、僕はその頃大滝詠一さんと交流があったんですけど、大滝さんがすごく桑田さんのことを好きだったんですよね。
―あ、そうだったんですか。
サエキ:電話でお話しすると、いつも「サザンは面白いから聴かなきゃダメだぞ」って言っていましたから。で、「あ、大滝さんも気に入っているんだ」って思ったり。“いとしのエリー”(1979年、3枚目のシングル)は、誰が聴いてもいい曲なので、僕のようなひねくれ者は当時あまり反応しなかったんですけど(笑)、“C調言葉にご用心”は、ちょっとAORっぽい感じがあって、「なんか泣けるなあ」って思っていましたね。
僕は仕事柄、そのバンドやアーティストに対する興味よりも、楽曲そのものに対する判断や思い入れが強いところがあるんですけど、そういう意味で初期のサザンにとって、“C調言葉にご用心”はすごく大事な一曲だと思います。
すべてをサザンで背負い込むことを表明した曲が“真夏の果実”だったと思う。
―サエキさんから見て、他にサザンにとって転機になっているような曲というと?
サエキ:まず、“海”(1984年、7枚目のアルバム『人気者で行こう』収録)という曲がありますね。それはもともとジューシィ・フルーツというバンドのために桑田さんが書いたもので、それをサザンでセルフカバーして、そのあと90年にアイドルの芳本美代子さんがカバーするんですけど、どのバージョンもすごくいいんですよ。
だから“海”は、シンガーソングライターとしての桑田さんの才能が示された曲であるし、そのあとも発展していく可能性を予感させる楽曲になっていたと僕は思っていて……で、その予感が的中するのが、90年にリリースした“真夏の果実”(28枚目のシングル)だったんです。
―予感が的中した、というと?
サエキ:あの曲は、サザンというか、桑田さんにとって革命だったと思うんです。“真夏の果実”は、桑田さんのサウンド史上でも革命的に素晴らしい。メロディーラインも曲に合致していて、「こぶしあり、泣きあり」というのが、編曲によって可能になっていると思ったんです。とにかく、あれはそれまでのサザンとは違う、まったく新しい曲だったように僕には思えたし、僕はそれに完全にノックアウトされたんですよね。
―その理由を、もう少し具体的に説明すると?
サエキ:それまでのサザンというか、80年代の桑田さんは、KUWATA BANDとして活動したり、音楽的なことをいろいろと試していた時期だったと思うんですよね。で、そのあとにリリースした“真夏の果実”を、ソロではなくサザン名義にしたというところがポイントで。つまり、「ソロもバンドもないんだ」という意識というか……もちろん、そのあともソロは定期的にやっていくんですけど、すべてをサザンで背負い込むことを表明した曲が“真夏の果実”だったと僕は思っていて。そのことにも感銘を受けたんですよね。
―もともと人気のあったサザンですが、その頃から、現在に繋がるJ-POP的なサウンドを身にまとうようになったし、そこからまた若い世代の新しいファンを獲得していったような気がします。
サエキ:そうですね。そのあたりから、サザンは一生もののバンドになったのかもしれないですよね。“真夏の果実”以降は、もっとJ-POP的なものになって、その集大成が、92年のアルバム『世に万葉の花が咲くなり』(11枚目のアルバム)だったと思うんです。
―なるほど。
サエキ:『世に万葉の花が咲くなり』のなかに入っている、“君だけに夢をもう一度”という曲がすごく好きでしたね。僕にとっては、“C調言葉にご用心”以来のヒットでした。あと、“シュラバ★ラ★バンバ”も、すごく面白いサウンドの曲だったし、“涙のキッス”もそのアルバムに入っていますよね。もう、桑田さんのサウンドメイクが爆発しているようなアルバムだった印象があります。
『葡萄』はすごい極北まできたなと思いました。もはや外国の人には分析不能なアルバムになっていますよね(笑)。
―そのあとのサザン作品としては、2015年のアルバム『葡萄』(15枚目のアルバム)を、サエキさんは非常に重要視しているとお聞きしましたが。
サエキ:そうですね。『葡萄』というのは、『世に万葉の花が咲くなり』以来の、新しいトライアルがすごく多いアルバムなんじゃないかと僕は思っていて。ただ、それはかなり分析していかないとわからないようなものなんです。
譜割りなど、細かいところにおいて、新しいトライが実はされている。桑田さんがお好きなボブ・ディラン的な譜割りと言いましょうか。それは最新シングル“ヨシ子さん”にも表れていたりするのですが、そうやって改めてディランに傾倒されたような形跡がある。あとは、歌詞のメッセージ性ですよね。逃げることなく、平和や社会へのメッセージを歌っているところに、僕は非常に感銘を受けました。
―それこそ、“ピースとハイライト”のような。
サエキ:それはディランというか、ジョン・レノン的ですよね。ただ、桑田さんの場合、そういった思いとかメッセージの込め方が、またいいんですよ。普通、そういうことを歌われると、ちょっと気持ちを逆なでされた感情が芽生えるものですが、桑田さんはそれをあくまでも腰の低いところからメッセージを発信されるので、聴いているほうの頭にも入ってきやすいと思うんです。
―さらに言うならば、桑田さんのなかにもともとあった歌謡曲的な要素も、『葡萄』には色濃く出ているように思いました。
サエキ:そうですね。だから、洋楽と邦楽が同居しているアルバムとも言えるし、それが変な折衷ではなく、その要素要素がきちっと明示されていて、全体で統一感があるんですよね。それまでは、洋楽寄りの曲と歌謡曲寄りの曲とで分かれていた印象があるんですけど、それがちゃんとブレンドされて、一曲のなかに両方の要素が入っている。そういった意味で、『葡萄』はすごい極北まできたなと思いました。もはや外国の人には分析不能みたいなアルバムになっていますよね(笑)。
―確かに、日本の歌謡曲史を踏まえないと、なかなか分析できない一枚かもしれないですね。
サエキ:そう。で、その集大成が、先日放送された番組(『桑田佳祐「偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~」』)だったと思うんです。前から歌謡曲のカバーはやっていましたけど、手応えが全然違う。やはりこれは、『葡萄』を経た番組なんだなっていうふうに僕は思いましたね。
桑田さんが歌う曲は、どれも確かに歌謡曲なんだけど、どこか洋楽的に聴こえるところがある。
―サエキさんは、『桑田佳祐「偉大なる歌謡曲に感謝~東京の唄~」』を、どのようにご覧になりましたか?
サエキ:ここで桑田さんが歌っている曲は、どれも確かに歌謡曲なんだけど、どこか洋楽的に聴こえるところがある。つまり、リズムのこなれ方が、もはや歌謡曲ではなく、ロックのレベルの強さになっているんですよね。といっても、それは歌謡曲にロックのテイストを入れたのではなく、歌謡曲を正々堂々とやりながらも、その中にロックの強さやリズムの魅力が入っているという。それが自然に行われていることに、僕はすごく驚きました。
―なるほど。
サエキ:昔の歌謡曲、特に浪曲時代の歌謡曲って、やっぱりちょっと暗いところがあるんですよ。でも、それをちゃんとポップス的にこなしている。それは、島健さんのアレンジのよさでもあるし、桑田さんの歌唱のよさでもあると思うんです。桑田さん流の歌唱法というのは、歌謡曲とロックの境目にあるんだけど、長年ロックを研鑽してきたことが、歌謡曲を捉え直すことを可能にさせたというか。そんな感じがしますよね。
―そう考えると、改めて桑田さんというのは何者なんだろうっていう思いが……。
サエキ:音楽が本当に好きで、ひとつでも多く、面白い音楽とか感動する音楽に出会いたいと思っている方なんじゃないですかね。しかも、そういうものを、自分の音楽として提供したいと思っている。その思いが強くなってきているんじゃないかと思います。そういう色が、『葡萄』にしろ、“ヨシ子さん”にしろ、この番組にしろ、すごく出ているような気がするんです。そういうところに僕は、惹きつけられているんでしょうね。
今、東京という街は、ものすごく変容していますよね。歌は街から生まれるものなんです。
―番組のテーマとしては、「歌謡曲」と、もうひとつ「東京」がありました。サエキさんは、サザンがデビューした1970年代から今にかけての東京の街の変容を、どう見ていますか?
サエキ:今、東京という街は、ものすごく変容していますよね。で、歌は街から生まれるものなんです。たとえば、はっぴいえんどは、60年代の終わりと70年代の初めぐらいの街の変化をすごく捉えているわけです。その頃って、新宿から渋谷にかけての風景も含めて、街がものすごく激変した時代なんですよね。
今回、桑田さんがこの番組をやった動機のひとつに、東京の街の変容があったんじゃないかと僕は思ったんです。たとえば、ここで歌われた“東京砂漠”(1976年、内山田洋とクールファイブ)の歌詞は、ちょっと異様なほど批評的だったりする。そういった歌の働きというのは、いつの時代にもあって、特にロックという音楽は社会批評が題材になることが多いんですよね。
―確かにそうですね。
サエキ:桑田さんは、この番組で、東京という街の変容を思いやっているのかもしれないですよね。その根底には、東京という街がどうしようもなく変わってきてしまっているという現実があり、そのなかで失われてしまう風景と情感、あるいは人間関係における温もりとか男女関係の情景がある。そういうものが失われてしまうことについてのオマージュを、この20曲でやろうとしたんじゃないかなって僕は思うんです。
―失われてしまうことについての「オマージュ」?
サエキ:やっぱり、他の国と比べて我々は、何か狂ったように物を変えてしまうようなところがあって。今の日本は、相当なところまできていると思うんですよ。桑田さんは、瓦版的な歌も歌っていますけど、この番組を見たときのいちばんのインパクトは、やはり日本に対する「憂い」というものでした。 この国には、そしてこの街には、こんな情感や景色があったんだよっていうことを、アップデートされたリズムのなかで歌い上げてしまうところが素晴らしいですよね。特に、“有楽町で逢いましょう”(1957年、フランク永井)とか“東京ナイト・クラブ”(1959年、フランク永井 / 松尾和子)、“新宿そだち”(1967年、大木英夫 / 津山洋子)など、地名がついた曲によく表れていると思います。
―アップデートされているからこそ、いわゆる「懐メロ」とは、明らかに質感が異なりますよね。
サエキ:そうなんです。これは懐メロではなく、歌謡曲が描き出した世界への、桑田さん自身の思いというか。で、それは今のJ-POPには見事にないものなんですよ。そういうある種の決算を、桑田さんはいちばん最後に歌った自分の曲(“悪戯されて”)でやったんだと思います。それはすごく見事な結末だなって思いましたね。歌謡曲史のなかに、桑田佳祐を位置づけてみせたというか。そういうことをやれる人は、桑田さん以外、他に誰もいないですよね。
新しい歳の取り方を提案されていると思うんですよね。すごく心強いなと思います。
―では最後、今年還暦を迎えた桑田さんに、何かひとつメッセージを。
サエキ:先日、山下達郎さんのライブに行ったとき、達郎さんが「俺はもう、やりたいようにやる!」っておっしゃっていたんです。相変わらず人気絶頂だし、何も衰えることなく、むしろ進化しているくらいなのに、「これからはやりたいことを、やりたいようにやる」って。で、それは桑田さんも同じだと思うんですよね。桑田さんの場合、フェロモン的にも横溢されているし(笑)。
というか、最新曲“ヨシ子さん”のように、やりたいことをやりたいようにやれるっていうのは、本当に素晴らしいことだと思います。それは新しい歳の取り方を提案されているということだと思うんですよね。だから、ますますそれを実践していっていただければ、僕らとしてはすごく心強いなと思います。
―何かに迎合することなく、自分のやりたいようにやると。
サエキ:そう、何かに迎合するんじゃないところが、本当にすごいですよね。だから、そういう意味では60歳を過ぎて、本当に解き放たれたというか。そういうものを“ヨシ子さん”には感じましたね。これが始まりぐらいの勢いがある。そこが何といっても桑田さんのすごいところですよね。
- リリース情報
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- ハルメンズX
『35世紀』(CD) -
2016年9月21日(水)発売
価格:3,000円(税込)
VICL-64637
- ハルメンズX
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- ハルメンズ
『ハルメンズ・デラックス+11ヒストリー』(CD) -
2016年9月21日(水)発売
価格:2,700円(税込)
VICL-64638
- ハルメンズ
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- 少年ホームランズ
『満塁ホームランBOX』(CD) -
2016年9月21日(水)発売
価格:7,344円(税込)
CDSOL-1755/6
- 少年ホームランズ
- イベント情報
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『ハルメンズXツアー』
2016年10月8日(土)
会場:福井県 NOSIDE2016年10月9日(日)
会場:京都府 T'sSTUDIO2016年10月10日(月・祝)
会場:愛知県 名古屋 得三『ハルメンズXの伝説』
2016年11月16日(水)
会場:東京都 渋谷CLUB QUATTRO
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- プロフィール
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- サエキけんぞう
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ミュージシャン・作詞家・プロデューサー。1958年7月28日、千葉県出身。千葉県市川市在住。1985年徳島大学歯学部卒。大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。沢田研二、小泉今日子、モーニング娘。、サディスティック・ミカ・バンド、ムーンライダーズ、パフィーなど、多数のアーティストに提供しているほか、アニメ作品のテーマ曲も多く手がける。大衆音楽(ロック・ポップス)を中心とした現代カルチャー全般、特に映画、マンガ、ファッション、クラブ・カルチャーなどに詳しく、新聞、雑誌などのメディアを中心に執筆も手がけ、立教大学、獨協大学などで講師もつとめる。その他、TV番組の司会、映画出演など多方面で活躍。著作多数。
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