自分たちが宇宙人だと「気づいてしまった」家族の物語。父は火星人、息子は水星人、娘は金星人、そして母は地球人。バラバラな家族は、その気づきを共有し、「美しい星・地球」を救う使命を託されたことで、不思議な一体感を獲得していく。
三島由紀夫の、愛すべき「へんてこりんな」小説を映画化する『美しい星』で、映画『桐島、部活やめるってよ。』『紙の月』の気鋭監督・吉田大八と、映画音楽からデヴィッド・シルヴィアンのツアーサポートまで多彩な活動で知られる音楽家・渡邊琢磨がコラボレートした。
主観と客観とが絶妙なバランスで共棲する吉田演出の映像を、あるときはセンシティブに、あるときはアクロバティックに飛翔させていく渡邊の楽曲。単に物語を追ってオチに辿り着くのとは別種の、享受と思考の歓びが本作には息づいている。
映画は「覚醒」する人物たちを描くが、それを見つめる私たち観客の感性もまた「覚醒」することになる。「目覚め」を与えるクリエイター二人の矜持を訊いた。
三島由紀夫の『美しい星』の自由さに何らかのかたちで関わりたい、こういう自由の一部になりたい、と思った。(吉田)
―吉田監督は三島由紀夫の小説『美しい星』を30年前から映画化したいと思っていたそうですね。
吉田:そうですね。初めて読んだのは20代の頃なんですが、『美しい星』は、どこにも属さない自由な感じがしたんです。この自由さに何らかのかたちで関わりたい、こういう自由の一部になりたい、と思ったのが出発点でした。
―どこにも属さない、というのは?
吉田:当時は今より、純文学とSFでカテゴリーの垣根が高かったはずだから、それが崩される瞬間はやっぱり快感がありましたね。三島が好きでもこの小説を知らなかったっていう人がいるし、逆に普段小説なんて読まないような人が読んでいたりもする。
―渡邊さんはこの作品にある「自由」をどう解釈しましたか。
渡邊:原作は時代の変遷とともに様々な解釈ができると思いますが、映画『美しい星』の音楽制作も大変「自由」なものでした。私はものごとがカテゴライズされると、過度に天邪鬼になるもので(笑)。そういう意味で非常にやりがいのある仕事でした。
―観客にも「自由」を差し出す映画だと思います。この映画は宇宙人家族の物語ですが、UFOの実在をめぐる物語でもある。ただ、アートにしろ何にしろ、「正しい解釈」が求められがちな時代に、物語を通して「これが答えです」と提示することはしていません。
吉田:特に意識しているわけじゃないんですが、むしろごくナチュラルに「正解 / 不正解」を意識しないで作った結果こうなりました。原作を初めて読んだ頃のような自由さを取り戻した感覚があります。
渡邊:自由ではあるけれど、音楽を作る際のイメージとして「SF」というジャンルは意識しました。「SF映画の音楽に携われる」という思い込みで、かえってゾクゾクしたもので。そう、最初の曲を大八監督に送ったとき「そういえばこれ、SF映画だったんですね」とおっしゃってました(笑)。
吉田:それを思い出させてくれてありがとう、という意味でした(笑)。
―それを思い出させる音楽とはどういうものだったのでしょう?
渡邊:この映画にはUFOが出現するのですが、実際に存在する円盤なのか、登場人物が脳内で幻視しているだけのことなのか判然としません。でも、音楽の塩梅として「円盤、いますから」という見え方、演出に寄せてみた。
あえてSF映画に見せることで、逆に観客が「でも実際どうなの?」と疑心暗鬼になるんじゃないかと。そういう観点で、今回の音楽作りは二律背反がうごめく感じでおもしろかったです。
映画『美しい星』より。突然の激しい揺れの後、玄関から降り注ぐUFOと思しきものによる不思議な光のなかに進み出る大杉重一郎(リリー・フランキー) / ©2017「美しい星」製作委員会
何が正解かわからないものが楽しかったはずなのに、今は、ひとつの答えに向けて窮屈に誘導されている気がする。(吉田)
―今のUFOの話にも通じますが、たとえば、見えちゃったものは真実になると思うんです。他人に「それは実在しないよ」と言われても、あるものはあるというか。錯覚も、夢も、間違いではないと思うんですよね。体験って、その人自身に属するものなのだということが強く感じられます。
吉田:そうですね。何が正解かわからないことに出会ったり、それを体験した者同士で共有したりすることが楽しかったはずなのに、なんとなく今、ひとつの答えに向けて窮屈に誘導されている気がします。
―今の若い人が、ひとつの答えのみを求めているということですか?
吉田:いや、僕と同世代に対してもそう感じますよ。でもなぜか若い世代は、もっと疑わずに、正解の可能性が低いものからどんどん切り捨てているような気がします。ほんとは正解以外のものもたくさん見えているはずなのに。
僕自身が、見えてしまったものを全部受け入れたり、それを楽しむ豊かさみたいなものを、この映画を作っているときに感じていたので、もっとそういう楽しさが広がっていけばいいなと。
断定的な誇大宣伝のようなものが飽和してきたときに、オルタナティブに対する飢餓感が大きくなるのでは。(渡邊)
―確かに「楽しむ」という言葉が適切かもしれないですね。
吉田:もっと楽しめばいいと思う。映画で驚いたり、音楽に興奮したり、それでいいんですよ。でも、そこに正解の保証がないと不安、という人が多い。
映画にしても、自分たちが観に行くのは青春映画なのか、コメディーなのか、泣ける映画なのか、どんな話かっていう入口を確認してからじゃないと手を出さない人が増えているような気がします。―ひとつもわからないものに飛び込むことは減っているかもしれません。
吉田:「自由」を楽しむ余裕があまりない。作り手としては、何だかわからないけど気持ちよかったとか、観た後で何か変なものが残っている感覚を、音楽の力も借りて、ばら撒きたいという野心があります。
渡邊:私的には、断定的な誇大宣伝のようなものが飽和してきたときに、「何? この映画?」「何? この音楽?」というオルタナティブに対する飢餓感が大きくなるのでは、という思いも多少なりともあります。
自分は映画の正当な血を受け継いでないという思いがあって。(吉田)
―「共有文化」の中では手っ取り早いものが好まれます。ただ、何かおもしろそうと予知する本能は誰にでもあるはずで、そうした予感は共有できるんじゃないかという気はします。
そもそも、人が映画を観たり、音楽を聴いたりするのは、何かを信じたいからだと思うんです。映画にも音楽にも実体はなく、受け取る側の信じる力によってのみ、何かが立ち上がる。お二人は、映画や音楽の何を信じていますか?
吉田:僕は映画の何を信じてるんだろう? むしろ自分が映画を作ってることそのものを疑うのが、基本モードかもしれないです。
―疑う、というのは?
吉田:CMディレクター出身ということもあるかもしれないけど、自分は映画の正当な血を受け継いでないという思いがあって。まず、単純に観ていない映画が多い。琢磨さんと比べても。僕は映画を愛していると言えるのか、この不確かな立ち位置で映画に愛される資格があるのかと思うんです。でも結局、そんなコンプレックスを抱えながら映画を撮っている自分自身に開き直るしかない。
―映画の「外」にいる感覚?
吉田:そう。いまも映画の世界にお客さんとして来ている感じがする。じゃあ、自分のホームはどこにあるかと言ったら、それは全然わかんないんですけど。誰と話していても、この人は自分より映画の血が濃いんじゃないか、こちらの薄さがバレたらどうしよう……という感覚がすごくあるんです。
―それも原動力になっているんでしょうね。
吉田:そうかもしれません。結局、そこにしか自分の足場がないということは意識するようになりました。もしかしたら大きな「映画」の流れには入れてもらえないかもしれないけど、その周辺でジタバタしながら作っていく。それを続けるしかない。それが「映画」と呼ばれるのかどうかわからないけど、「作り続けるんだ」とは思っています。
―三島もそうだったのかもしれませんが、不安があるほうが、作品は有機的なものになるのかもしれません。
吉田:三島由紀夫の場合、不安というより、何を信じるかについての模索そのものが創作と一体化していたと思います。神様も信じていないし、無意識もない、と言っているぐらいの人だから、ある意味非常に苦しかったんじゃないかなと。その七転八倒ぶりがあの人の魅力なんでしょうけど。
渡邊:私の場合、自分自身に対する不安感といいますか、懸念があります。お酒の飲み方が変だとかそういうことも含めて(笑)。そういう意味で、音楽は自分を「引き戻す」効果があるかもしれません。
―「引き戻す」というと?
渡邊:音楽をやっている限りは、ギリギリでブレないと言いますか、たとえば、二日酔いでもとりあえずピアノの前に座ると日常に戻ってく。逆に非日常に入っていく道になるときもある。映画も音楽も、世の中がどうもヘンだぞ、というときに、自分をブレないところに「引き戻す」作用があるんじゃないですかね。
吉田:琢磨さんは音楽がないと生きていけない、ということですか?
どこかで桶屋が儲かった瞬間、なんとなく僕もホワッといい気持ちになるんだろうなって。(吉田)
渡邊:もし音楽がなかったら、それでもどうにかやっていくとは思いますが、信じる、信じない以前に、音楽がないと自分の人生の塩梅がだいぶ困ったことになるだろうなと。
吉田:なるほど。僕の場合は、映画をやっていなくても生きていけそうな感じがあるから、不安なんだと思います。そんな自分が作ったものを他人に見せていいのかという思いがどこかにある(笑)。でも、可能性の話として、とりあえずここに埋めてさえおけば、もしかしたらいつか誰かが掘り当ててくれるかもしれない、と思っています。
―誰かに見つけてほしいということですか?
吉田:ぼんやりとしたロマンですかね。風が吹けば桶屋が儲かる、じゃないですけど、どこかで桶屋が儲かった瞬間、なんとなく僕もホワッといい気持ちになるんだろうなって。そういうことがまったく想像できないと息が詰まるし、絶望的な気持ちになります。だから、いつか桶屋が儲かるはずなんだと思って風を吹かす。
桶屋がいるかどうかがわからくても風を吹かし続けるほど、自分はタフじゃないはずなんだけど、それでもその可能性に賭けたいということは、言いたいこと、見せたいもの、感じさせたい何かが自分の中にあるんだろうなと最近思います。
渡邊:音楽も何年後かにタイムカプセルのように掘り起こされて、クラシックになるかもしれないし、長い文脈の中での「ある出来事」になる。音楽って平均律的には12音しかないわけで、一つひとつの音は私が発明したものでもなく、太古の昔からあるものです。
要するに、それをどういうふうに使うかということに過ぎないんですよ。たかがそれだけなんですけど、そこに大きな可能性がある。大八監督が言う「桶屋が儲かる」じゃないけど、歴史的文脈と自身の想像力の邂逅によって作られる何か、そういうところも含め、表現っておもしろいなと思います。
映画音楽にはいい意味での自己破壊、未知と出会うおもしろさがあります。(渡邊)
―太古からあるものを使っているという意味では、表現というものは、過去と未来を接続しているんでしょうね。
吉田:未来だけじゃなく、宇宙人にも伝わるとしたら、映画じゃなくてやっぱり音楽ですよ。『未知との遭遇』(1977年の映画。スティーブン・スピルバーグが、宇宙人と人類の接近遭遇を描いた)だってそうだし。
―あの映画では、ひとつの非常に単純な音階で、宇宙人と人類がコンタクトしますね。
渡邊:未知との遭遇ってことで言うと、映画音楽は共同作業だから、明らかに普段の自分が作らないようなものが引き出されますね。だから、映画音楽にはいい意味での自己破壊、未知と出会うおもしろさがあります。
だんだん歳をとってきて、価値観も間口も狭くなってきて、「俺はこういう人間だ」「こういう音楽が良い悪い」と決めつけてしまう部分もありますが、それじゃダメ、仕事になりません、ということになる。
―まさに未知との遭遇ですね。吉田監督にとっての、そういった出会いや可能性はどういうものですか?
吉田:そうですね、普段こういうタイプの映画をあまり観ない若い人が、たとえば亀梨和也くん(映画『美しい星』に大杉一家の息子・一雄として出演)をきっかけにして映画館に来てくれるなら、それは自分にとっては希望のひとつです。何か見たことのないもの、変なものを見たなという感覚だけでも持ち帰ってくれたらいいなって。
そうしたら、映画に限らず何かおもしろそうなものを見つけたり、それと同じ匂いをかぎわけたりするセンサーがだんだん育っていくと思う。その希望は僕のモチベーションにもなっています。
―出会い、ですね。この作品には、出会いの可能性が詰まっていると思います。
渡邊:私が「円盤、登場しましたよ!」というふうに、独断で音楽を作っても、依然として観客の解釈やイメージの「余白」が幽玄にあると思いますし、その余白をこちらは逆用して、音楽を作ることもできます。
映画『美しい星』メインビジュアル(サイトを見る)
―何かに寄り添うわけでも、突き放すわけでもないゆとりがありますよね。だから吉田監督は、優しいのか、冷たいのかわからないところがいいなって(笑)。
吉田:(笑)。誰だって、両方あるんじゃないですか?
―ええ。だから、右脳にも左脳にも、両方に訴えかけてくるのだと思います。ありがとうございました。
- 作品情報
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- 『美しい星』
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2017年5月26日(金)から全国公開
監督:吉田大八
脚本:吉田大八、甲斐聖太郎
原作:三島由紀夫『美しい星』(新潮文庫)
音楽:渡邊琢磨
出演:
リリー・フランキー
亀梨和也
橋本愛
中嶋朋子
佐々木蔵之介
配給:ギャガ
- イベント情報
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- 『「美しい星」オリジナル・サウンドトラック リリースツアー』
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2017年6月8日(木)
会場:福岡県 GraPre
料金:3,000円2017年6月9日(金)
会場:大分県 大分県立芸術文化短期大学・大講義室
料金:無料2017年6月10日(土)
会場:大分県 カモシカ書店
料金:1,000円
※トークのみ
- プロフィール
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- 吉田大八 (よしだ だいはち)
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1963年生まれ、鹿児島県出身。CMディレクターとして国内外の広告賞を受賞する。2007年『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』で長編映画監督デビュー。『第60回カンヌ国際映画祭』の批評家週間部門に招待され話題となる。その後の監督作として『クヒオ大佐』(2009年)、『パーマネント野ばら』(2010年)。『桐島、部活やめるってよ』(2012年)で『第36回日本アカデミー賞』最優秀作品賞、最優秀監督賞受賞。『紙の月』(2014年)で『第38回日本アカデミー賞』優秀監督賞受賞。今年は舞台『クヒオ大佐の妻』を5月に上演予定。2018年公開作として映画『羊の木』が待機中。作・演出を手がける舞台『クヒオ大佐の妻』が、東京芸術劇場シアターウエストにて6月11日まで上演中。
- 渡邊琢磨 (わたなべ たくま)
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1975年生まれ、宮城県出身。高校卒業後、米バークリー音楽大学へ留学、作曲を学ぶ。帰国後、活動開始。2000年、NYに渡り鬼才プロデューサー、キップ・ハンラハンとアルバムを共同制作。以降、国内外のアーティストと多岐にわたり音楽活動を行う。2007年、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアー18か国30公演にピアニストとして参加。バンド「COMBOPIANO」や、本人主宰による室内楽アンサンブル「Piano Quintet」などでも活動。主な映画音楽担当作品に、冨永昌敬監督の『コンナオトナノオンナノコ』(2007年)、『ローリング』(2015年)、染谷将太監督の『シミラーバットディファレント』(2013年)、『清澄』(2015年)、熊切和嘉監督の『ディアスポリス -DIRTY YELLOW BOYS-』(2016年)など。また「劇団、本谷有希子」などの舞台や多くのCMに多数の楽曲を制作・提供している。
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