優しい面立ちとスマートでジェントルな立ち振る舞い、重厚さと柔和さを併せ持つ演技で、様々な役柄を魅力的に演じ分けていく実力派俳優・中村雅俊。中村の名前を耳にして、最初に思い浮かぶのは、そんな役者としての顔だ。だが彼は、主演俳優デビューを果たした1974年、シングル『ふれあい』で歌手デビューしたあとも、“俺たちの旅”や“心の色”、“恋人も濡れる街角”など多数のヒット曲を世に送り出してきた。
44年目に突入した音楽活動のなかで彼は毎年、全国ライブツアーを敢行。これまでこなしてきたライブ本数は、まもなく1500本を突破するという。さらに、今年は、通算54枚目のシングル『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』が間もなく発売に。俳優業と音楽業を見事に両立させてきた中村雅俊の「音楽家」としての顔に迫った。
ジョージ・ハリスンの家に招待されて、2時間くらい一緒に話をしたことがあるんですよ。
―中村さんは、1974年から音楽活動を続け、今年でワンマンライブ総数1500ステージを達成されるそうですね。単純計算しても43年間で年間34本以上。お芝居と音楽の両立のなかで、なかなか作れない記録だと思います。
中村:そう。音楽関係の方からも、よくそんなふうに言っていただきます。
―『われら青春!』(1974年)で、本格ドラマデビューと歌手デビューを同時に果たされた中村さんは、デビュー曲の“ふれあい”でミリオンセラーの大ヒットを記録し、一躍大スターになられました。
中村:『われら青春!』は学校の先生役だったんですが、あのドラマは青春学園シリーズで、俺は5代目だったんですよ。1代目から4代目の先生役がみんなレコードを出しているので、言われるがままレコードを出したという。歌手デビューなんて予定外だったんですけど(笑)。それが音楽活動のきっかけですね。
―「俳優・中村雅俊」のエピソードは知る機会が多くても、音楽の話を伺う機会は少ないので改めてお話をお聞きしたいです。中村さんはデビュー当時から、よくギターの弾き語りをなさっていたな、というイメージがあるのですが、ギターを手にしたのはいつ頃なのですか?
中村:ギターを始めたのは高校時代で、バスケット部の合宿で先輩に教わったのがきっかけなんですよ。そこから、大学時代はよく日記代わりに曲を作っていましたね。クラスとクラブの連中を集めて、臨時でバンドを組んで「中村の曲の発表会」というライブも数回やりました(笑)。相当適当な曲でしたけど、ラブソングとか、ウケをねらったコミックソングとか。エッチな曲もね(笑)。
―中村さんはご自身でも作詞作曲をなさいますよね。音楽的なルーツというのは、どういうところにあるのですか?
中村:同世代の多くが聴いていたような洋楽ですね。イギリスのロックは若い頃によく聴いていたんですけど、原体験というのなら、小学校5年くらいに出てきたThe Beatlesです。
―どの曲がお好きですか?
中村:ジョージ・ハリスンの曲が好きなんですよ。聞かれて必ず挙げるのは、“While My Guitar Gently Weeps”(1968年)。ああいう曲が好きです。ジョージ・ハリスンの家に招待されて、2時間くらい一緒に話をしたことがあるんですよ。
―えっ!? お会いになったんですか!
中村:ええ。The Beatlesが解散して、ジョージ・ハリスンは「Dark Horse」というレコード会社の社長になったんですけど、そこに所属していたアーティストにSplinterというデュオがいたんです。それが日本でレコードを出すことになって、彼らの曲(“Lonely Man”)の日本語詞版の歌詞を僕が作りました。その縁ですね。当時、俺は『俺たちの旅』(1975年)というドラマをやっていて、ドラマも主題歌(“俺たちの旅”)もヒットしたので、レコード会社がご褒美にヨーロッパ旅行をプレゼントしてくれたんですよ。
―すごい話ですね。
中村:今じゃありえないですけどね(笑)。それでロンドンでSplinterの連中と会ったとき、「ちょっとボスに連絡するけど、雅俊、会う?」と。あのときだけですよ、「大学で英会話クラブに入っててよかった!」と思ったのは(笑)。
自分のコンサートなのにThe Beatlesの曲が評判いいなんて、なんか癪だけどね(笑)。
―実際お会いしていかがでした?
中村:ジョージ・ハリスンはすごく親切で、ジェントルでした。自分はとんでもない時間を過ごしたんだと、あとになってジワジワきましたね。
―ジョージ・ハリスンのジェントルさは、中村さんのジェントルな感じと近い気がします。
中村:いやぁ、どうですかねぇ(苦笑)。あの人は相当マイペースでいつつ、人をびっくりさせるところがありますから。
―たしかに過激さもある方ですよね。The Beatles在籍時も、いきなりMoogのシンセサイザーで作ったアヴァンギャルドな『電子音楽の世界』(原題は『Electronic Sound』。1969年発表)みたいなアルバムを出していましたし。
中村:そうそう。インドのシタールに興味を持ったのも、ジョージ・ハリスンが最初ですから。それにギターテクニックも特筆すべきですよね。そんなに「すごい」と思わせないけど、完コピすると彼のギターはすごいんだって、よくミュージシャンが語っています。
―中村さんも、ギターをコピーされたり?
中村:いやいや、完コピは無理だな(笑)。でも去年、コンサートでThe Beatlesを3曲歌ったんですよ。“Nowhere Man”(1965年)と“I Feel Fine”(1964年)と“Golden Slumbers”(1969年)をやったんですけど、けっこう評判はよかった。自分のコンサートなのにThe Beatlesの曲が評判いいなんて、なんか癪だけどね(笑)。
―ほかに思い入れのあるミュージシャンというと?
中村:年代的に、ニール・ヤングが好きですね。“Southern Man”(1970年)や“Heart Of Gold”(1972年)のような代表曲は、コンサートでもたまにやります。彼の音楽は、上手い下手を超越したところが魅力だなと思いますね。バンドでもひとりだけ異質な声だし、ピアノで弾き語りするときもピアノが上手くなくて、そのときだけサングラスをかけるんだけど、目がキョロキョロしてたりね。そういうところも微笑ましい。
僕がラッキーだったのは、偶然にも自分の歌を出せたこと。その先もずっと歌を出していけたこと。そんな43年間ですね。
―改めてお話を伺って、最初から歌の道を目指されていてもおかしくないなと感じたのですが。
中村:いや、もう全然。ただ、俺が大学で英語劇をやっていたときの演出家が奈良橋陽子さんだったんですけど、当時奈良橋さんは後にゴダイゴのプロデュースをするジョニー野村さんとご結婚されていて。その縁で、ジョニーさんがデモテープをレコード会社に売り込みにいきたいって言い出したことがありました。貧乏な大学3年の俺が作って歌った曲を(笑)。
でも、売り込んでも全部ダメでね。まぁ、もともと役者になろうと思っていたので、問題なかったんですけど。それがきっかけで、デビュー後もお二人がブレーンとしてついてくれました。
―デモテープはボツになったのに、いざ歌手デビューするとミリオンヒットを連発。43年間、ミュージシャンを続けていらっしゃる。人生、わからないものですね。
中村:そうですよね。でもずっと歌い続けてこられたのは、デビュー前にもいろんな要因があったからだと思います。大学3年で奈良橋さんやジョニーさんに出会ったこともそうだし、大学4年で文学座の研究生になってすぐ、同期が参加した自主制作の映画に俺が主題歌を作ったこともそう。
その映画は、役者憧れの紀伊国屋ホールで2日間上映したんですけど、自分の曲が映画で流れたことに感動しちゃってね。エキストラ代と曲代合わせて、ギャラはビール1本とハンバーグライスだけだったけど(笑)、すごく達成感があったな。
―役者を目指されつつも、やはり音楽で何か……という気持ちは当時なかったのですか?
中村:大学時代は、自分の作った曲がレコードになるのが夢でした。でも“ふれあい”が売れたあと、レコーディングディレクターに「雅俊、自分でも曲作ってるのか?」と言われて、いきなり2枚目のアルバム(1976年発表の『さよならの吸殻』)は全曲、大学のときに作った曲で出せましたからね。「夢って、叶うときは叶うんだなぁ」と思いました。僕がラッキーだったのは、偶然にも自分の歌を出せたこと。その先もずっと歌を出していけたこと。そんな43年間ですね。
20代から60代では、年代ごとに曲の解釈や表現が変わるんです。
―しかも、1年も休まずライブツアーも継続しての43年間です。
中村:そう……1500ステージもコンサートを続けてこられているのは、数少ない自慢のうちのひとつですね。昔はドラマも今のような1クールで終わりじゃなく、1年間続くのが当たり前だったので、その合間に60本、70本のコンサートをやっていたんです。けっこう大変でしたけど、歌が好きだったから充実感がありました。
中村:自分がどうこうというより、お客さんが来てくれるという事実が支えてくれているんですよね。自分がツアーをやりたくても、「中村のコンサートにはお客さんが来る」と信じてスタッフが動いてくれなければやれないわけですし。
その上で、お客さんに楽しんでもらうための自分なりの努力も続けなきゃいけない。楽器はとにかく練習しました。ピアノやサックス、ハーモニカ、ギターの技術を上げていった。そうすると、音楽がもっと好きになるんですよ。
―コンサートでは、“ふれあい”はもちろん、“俺たちの旅”や“恋人が濡れる街角”など、代表曲を長年歌い続けていらっしゃいますが、そこにこもる気持ちというのは、年月が経つと変化するものですか?
中村:そうですね。たとえば“ふれあい”も、20代から60代では、年代ごとに解釈や表現が変わるんですよね。単純に、歳を取ると喉や声も変わっていくので、それに合った表現になりますし。当然ほかの曲も、歌う気持ちが変わることもあります。
“ふれあい”の収録アルバム『ふれあい』
―とくにどの曲にそれを感じますか?
中村:たとえば……“心の色”(1981年)というヒット曲があるんですけど、作詞は僕が兄貴のように慕っていた大津あきらさんで、彼は1997年に亡くなられたんですね。そういう出来事があったりすると、自分の心のなかにある「“心の色”はこういう曲」という解釈とは別の感情が注入してきて、変化があるんですよ。グッと感情的になってしまったり。
―こみ上げてくるものがあるんですね。
中村:本当は、「無」の状態で歌いたいんです。あまり自分で意図を持たず、何も考えずに歌うほうが、歌本来の表情を出せるんじゃないかと思うので。でも……先日亡くなられた山川啓介さんに作詞していただいた曲、例えば“ふれあい”にしてもそうですが、いやがおうにも何か入り込んでくる。
―ご自身の心に響く言葉も、変わったりしますか?
中村:そうですね。僕は宮城県出身なので、東日本大震災のあとで“ふれあい”を被災地で歌うと、<人はみな 一人では 生きてゆけない ものだから>という言葉は、やっぱり特別な意味合いを持ちます。ときが経つと解釈も変わりますし、自分の伝え手としての責任だとか、別なものも曲に入り込んでくる。
桑田くんの曲で初めて、アーティストの仲間入りをしたと意識しました。
―役者さんは台本のセリフを解釈して芝居をされますが、歌詞の解釈の仕方とはやはり違いがありますか?
中村:歌の詞は独特ですよ。いわゆる散文としての詩とも違いますしね。一度、松本隆さんに作詞してもらったときに合宿をして、松本さんの詞ができたら僕がすぐにその詞を読み上げる、ということをやったんですよ。そしたら松本さんに「いちいち読まれるのは嫌だなぁ。黙って見ろよ」ってずっと言われました(笑)。
なぜそういうことをやってたかというと、読むとより解釈しやすいと思ったからなんですね。歌詞は詩と違って、言葉の間にメロディーがつくので、詩として読んだり見たりするときの解釈とも変わってくるんですよ。
―松本隆さんも歴史に残る作詞家ですが、中村さんの楽曲には時代を代表するシンガーソングライターの方が書かれた曲もとても多いですね。小椋佳さん、吉田拓郎さん、桑田佳祐さん、呉田軽穂(松任谷由実の別名)さんや曽我部恵一さん……挙げればキリがないです。
中村:そう、すごい顔ぶれなんですよ。拓郎さんは僕がファンということもあってドラマのプロデューサーにお願いしたし、『俺たちの旅』のときはプロデューサーに「小椋佳さんに書いてくれるよう頼んでください」と言って実現しました。レコード会社が決めてくれた方もいるんですけど、向こうから書かせてほしいと言ってくれた人もいますね。すごく嬉しいことです。
―中村さんのファンなのですね。
中村:というよりも、『俺たちの旅』が大好きな人が多いんですよ。だから、中村雅俊のファンというより、俺がやっていた主役のファン(笑)。
―自分に真っ直ぐに生きる大学生「カースケ」こと津村浩介のファンだったと。1970年代の若者にとって、『俺たちの旅』の登場人物は、憧れの青春を体現する存在でしたからね。
中村:だから、依頼があったら「じゃあ、カースケのために書くわ」みたいな感じで引き受けてくれる(笑)。桑田くんなんかも、僕より5つくらい下なので、ちょうど世代でね。
―カースケが憧れの兄貴だったんでしょうね。
中村:そうそう。この間も、桑田くんが僕の田舎の女川に行って、自分のFM番組を収録したとき、けっこう俺の話をしてくれたみたいで。「雅俊さんはカースケだけど、俺はオメダだから」みたいなことを言ってた(笑)(田中健演じるカースケの親友がオメダ。「俺は駄目な男だ」が口癖)。嬉しいですよね。
―その桑田さんが作られたのが、“恋人も濡れる街角”(1982年)。中村さんのミュージシャンとしてのイメージも、あの曲でガラリと変わりました。
中村:そうですね。桑田くんの曲で初めて、アーティストの仲間入りをしたと意識しました。楽曲のテイストも、みなさんが僕を認めてくれた感じも、それまでと違ったし。
“恋人も濡れる街角”の収録アルバム『BORN NEW』
―清廉潔白で優しい中村さんが、桑田節全開のエロティックな歌を歌った衝撃もありました。歌い方も、桑田さん風でしたよね?
中村:そう、桑田くんは、仮歌もやってくれたし、レコーディングも朝まで付き合ってくれたんです。で、そのときの仮歌が、そのまま彼の調子だったので、自分の歌もそうなりました(笑)。あと、じつはその前にも一度、桑田くんは角川映画の主題歌で俺に曲を書いてくれたんですけど、売れなかったんですよ。
―もしかして、そのリベンジだったんですか? “恋人も濡れる街角”は。
中村:ええ。向こうから、「もう1回書かせてくれ」と言ってくれて。“恋人も濡れる街角”のおかげで、僕の音楽的な幅が世間にも認知されたんです。
1日が終わったときに「今日もよかった」と思える日を過ごすこと、その積み重ねが俺の人生。
―最近は、作詞は松井五郎さん、作曲は都志見隆さんという、こちらも日本を代表する名作家のお二人とタッグを組まれることが多いですね。通算54枚目となるダブルA面の最新シングル『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』も、このお二人が参加されています。
中村雅俊『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』(CD+DVD)ジャケット(Amazonで見る)
中村:都志見さんとはもう30年、中村ファミリーの一員として、ほかの方々よりも密接なお付き合いをしていますね。最近は、松井五郎さんもそうなってきている。二人とも年下だけど、わりと歳も近いしね。
―この2曲のタイトルを見るだけでも、お二人とも、60代の男性としての中村さんに「こういう歌を歌ってほしい」という意志を強く感じるんです。最近の音楽シーンは、若者の共感を得ようとする音楽はたくさんありますが、大人の男が大人の男に共感できる音楽はとても少ない気がしていて。だからこそ、若い世代が聴いて憧れる歌詞と曲ですし、歌にも説得力があります。
中村:そう、俺に歌わせたい曲を提供してくれているというのは、まさにその通りで。いろんなアプローチの曲を、頼む前から作ってくれています。<まだ僕にできることがあるだろう>なんて、若者に送る言葉じゃないですからね(笑)。“どこへ時が流れても”も、非常に自分と相性がいい。この曲には<いまを生きる>という言葉が何度も出てきますが、それがテーマなんですね。
この歳になると、残された時間を考えるんです。そこで出る結論はいつも、「やっぱり今だろう」ということ。1日が終わったときに「今日もよかった」と思える日を過ごすこと。その積み重ねが俺の人生なんだと思います。俺にとって<いまを生きる>という言葉とメロディーは、人に言いつつ、自分に向けて言っていることですね。
―本当に、等身大で歌える歌なんですね。
中村:そうですね、2曲とも。俺は俺の形で、役者をやりながら歌を歌って、ツアーをやり続ける。そのやり方で今を生きていますからね。すごく自分で納得して歌える詞です。
―<まだ僕にできることがあるだろう>という言葉も、今を生きているからこそ出てくるものです。中村雅俊さんにとって、「まだ僕にできること」とは何でしょうか?
中村:うーん……それはね、わからないな。人は誰しも何か才能を持って生まれてきていると思うのですが、俺が今やっていることが才能なのかどうかは、よくわからないんですよ。
―43年間ものキャリアがあっても、わからない?
中村:うん、わからないでやっています。役者や歌より、違う何かの才能がじつはあるのかも知れないし、わからないまま人生を閉じるかも知れない。でも、選んでよかった人生なんですよ、今の俺の人生は。
- リリース情報
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- 中村雅俊
『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』(CD+DVD) -
2017年9月13日(水)発売
価格:2,700円(税込)
COZA-1369/70[CD]
1. どこへ時が流れても
2. まだ僕にできることがあるだろう
3. どこへ時が流れても カラオケ
4. まだ僕にできることがあるだろう カラオケ
[DVD]
『中村雅俊コンサート「L-O-V-E」2016年12月3日 中野サンプラザホール』
1. 時代遅れの恋人たち
2. さらば涙…風の彼方に
3. 花になろう
4. 俺たちの旅
5. ふれあい
6. 心の色
7. 恋人も濡れる街角
8. 想い出のクリフサイド・ホテル
9. 70年代
10. 滑走
11. いつか街で会ったなら
12. はじめての空
13. ならば風と行け
- 中村雅俊
- リリース情報
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- 中村雅俊
『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』(CD) -
2017年9月13日(水)発売
価格:1,080円(税込)
COCA-173211. どこへ時が流れても
2. まだ僕にできることがあるだろう
3. どこへ時が流れても カラオケ
4. まだ僕にできることがあるだろう カラオケ
- 中村雅俊
- イベント情報
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- 『東建コーポレーション Presents 中村雅俊コンサートツアー2017~18「ON and ON」』
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2017年12月2日(土)
会場:東京都 中野サンプラザホール
料金:7,000円
- プロフィール
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- 中村雅俊 (なかむら まさとし)
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1951年2月1日、宮城県女川町生まれの俳優 / 歌手。慶應義塾大学卒。五十嵐淳子は妻。文学座に入団後、1974年にドラマ『われら青春!』の主役に抜擢されてデビューを果たす。自身が歌った同ドラマの挿入歌“ふれあい”が100万枚超のヒットを記録。以降、数多くのドラマや映画に出演、歌手としてもコンスタントに楽曲を発表し、デビューから毎年開催する全国コンサートも人気を博す。代表作は『俺たちの旅』『ゆうひが丘の総理大臣』『おしん』『夜逃げ屋本舗』など、代表曲は“心の色”“恋人も濡れる街角”ほか。2012年の「花は咲くプロジェクト」“花は咲く”にも参加。2017年9月の『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』でシングルは54枚を数える。
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