彫刻家・中谷ミチコがドイツで得た、自分の帰る場所を作る覚悟

自分の帰る場所はどこか? ドイツ東部の街・ドレスデンで滞在制作を行ってきた中谷ミチコは、それを探し求める彫刻家だ。彼女が現在、拠点としているのは三重県津市白山町。はじめて耳にする土地で、ネットで行き方を調べると、京都や名古屋から、たっぷり2時間はかかる。取材の日は、8月の敬老会特別企画 中谷ミチコ『When I get old』を津市の私立大室美術館で開催中だった。

なぜ彼女は都会から離れた津市を拠点に活動しているのか? ドイツでの生活の孤独さから抜け出したきっかけや、文化庁による海外研修の成果を示す『未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展』参加の思いまでを、語ってもらった。

帰る場所が定まっていれば、旅に出るにも勇気が持てる。

—中谷さんは長年ドイツを拠点に活動している印象があったのですが、いまは三重県の津市にお住まいなんですね。しかも、相当に自然豊かな場所に。

中谷:(笑)。ドイツには合計7年住んでいて、日本に戻ってきたのは数年前です。実家は東京なのですが、制作場所の確保と大型作品の保管場所を考えて、亡くなった祖父が住んでいたこの空き家に越してきました。

隣のガレージはアトリエに改装して、祖父が営んでいた犬の首輪工場は「私立大室美術館」という名前で展示スペースにしています。美術館と言っても、私のパートナーが改装、運営しているものなのですが。

8月に、三重県「私立大室美術館」にて取材中の中谷ミチコ
8月に、三重県「私立大室美術館」にて取材中の中谷ミチコ

—工場の痕跡が、ほぼそのまま残っている美術館ですね。

中谷:ええ。周囲に住んでいる人も遠縁の親戚が多いので、スッと入って行けるコミュニティーのある環境で、子育てにも合っています。それが、ここを住処に選んだ理由です。

—いまは、日本よりもドイツのほうが作品制作の面でも生活の面でも恵まれている印象があります。

中谷:それはそうかもしれませんが、ドイツでの暮らしでは借り住まいのような感覚を強く持っていました。なので、いつでも帰ってこられる場所を作りたいと考えていたのです。帰る場所が定まっていれば、旅に出るにも勇気が持てます。

「私立大室美術館」内観
「私立大室美術館」内観

—ドイツではドレスデンにお住まいでしたよね。最初の5年は自費留学、そして後半の2年は文化庁の在外派遣だと聞きました。なぜドイツだったんでしょう?

中谷:多摩美術大学の彫刻科を卒業して半年後に渡独しました。大学ではかなり保守的な具象彫刻を作っていましたが「このままではいけない!」と感じていたのです。それで、それまでの自分のコンテクストから離れた場所に行きたいと思い立ち、ドイツの語学学校に入りました。でも全然ダメでした。

—ダメというと?

中谷:それまでの作品を見せても「こんなのいまのドイツでやってるヤツはいないよ!」と全否定されたり……(苦笑)。しかも、ハイデルベルグという田舎町の語学学校に行って、制作と語学勉強にどっぷり浸かるつもりが、ちょうど与えられた宿舎は、その街には唯一と言ってよいくらいの13階建てのビルの最上階の部屋で、私以外に誰もいないのです。しかも英語もドイツ語も分からないから、誰とも喋らない生活。毎日窓から地平線まで広がる畑に夕日が沈むのを眺めていた最初の1ヶ月でした。

中谷ミチコ

—孤独ですね。

中谷:そのときに身近にあったのは、絵を描くことと、花だけ。毎日花を摘んで帰宅して、空きペットボトルに飾っていました。当時唯一日本語で話しかけても許してくれると思える共同生活者のような存在がその花でした。そのうちペットボトルじゃ申し訳なくなってきて空き瓶に生けるようになり、その周囲を自分で描いた沢山のドローイングで飾るようになった……。3週間くらい経ったときに、これはいよいよ精神的に追い詰められているなと気づきました。

—(笑)。

中谷:暗黒時代でしたね。でも後から考えると、その感覚と経験はすごく大切な事だったと思っています。

絵のような、ピュアなイメージを保つ彫刻を存在させることが、大きな目標でした。

—そんな暗黒時代から抜け出したきっかけは?

中谷:当時、ドイツにアーティストの開発好明さんが住んでいて、「ドレスデンが面白いらしいよ。」と教えてくれて。その翌日にドレスデンの大学を訪問したら、そこにたまたまいらっしゃった先生が、私のドローイングを面白がってくれました。そして「来年からうちに来てもいいよ」と言ってくれたのです。

—あっさりと(笑)。

中谷:はい。そのときは目の前にいる人が誰なのかもわからず夢中で話をしたのですが、後から調べたら、マーティン・ホナートという彫刻家で、じつは多摩美時代から大好きだった作家さんでした!

中谷ミチコ

—個人的な幼少時代の記憶をベースにしながら、普遍的なノスタルジーを感じさせる立体作品を作る彫刻家の方ですね。すごい偶然。

中谷:その偶然がとても大きかったです。藁にもすがる思いでドレスデンに移って、しばらくはひたすらドローイングを描いていました。ドイツ語が不自由だから、彫刻をしようにも粘土が置いてある場所を質問できなかった、というのも理由ですけど(苦笑)。

もともと絵のような彫刻を作れないかと思っていたこともあって、この時期は集中的にドローイングに向き合いました。それで最初のクラスプレゼンで、描きためた100枚以上のドローイングを紙芝居みたいに延々と見せたのです。それがみんなの印象に残ったみたいで。ドイツに来て初めて、自分に対する周囲の目が変わったのを感じました。

—何者でもなかった中谷さんが、何者かになった。

中谷:個人的な意見ですが、ドレスデンが、また特別な街なのです。旧東ドイツ側にあって、西側の都市と比べると外国人も少なく、10歳前後でベルリンの壁崩壊を東側で経験した同級生も多いです。

冷戦後の揺れ動きをいまも尚、生で感じられる場所でもあります。新しいものを吸収する喜びや痛み、それから古いものの引力も同じくらい街に宿っている。私にとっては居心地のよい街でした。

—ドローイングを経て、現在のレリーフ状の作品に移行したのもドレスデンですか?

中谷:そうですね。ようやく「粘土はどこにありますか?」と聞けるようになりまして(笑)、いろいろ試しました。白い壁に鉛筆でひたすら模様を描いて、そこに彫刻を掛けるとか、白い紙に彫刻を置くようなイメージでドローイングするとか。いまも続けていますが、脳裏のイメージを紙の上に流す用に描き続けたり。

彫刻は、絶対的に物質で、現実的な存在なので、必ずどこかに置かないといけない。しかも、置いた環境との関係性の中で別のコンテクストが立ち上がってしまう難しさがあります。その条件下で、絵のような、ピュアなイメージを保つ彫刻を存在させることが、大きな目標でした。

水粘土で作ったカタチは、そのまま置いておくと乾いてパラパラになってしまうので石膏などで型取りをします。そこにブロンズや樹脂など別の素材を流し込んだり貼り込んだりして作品にするのが一般的です。あるとき、型取りした女の子の顔のレリーフの雌型の内側を眺めていて、「なんだか気持ち悪い」と感じました。そこでその内側に着彩をして透明の樹脂を流し込んでみたのです。すると、さらに心がざわざわしてきました。

石膏に残った凹面に樹脂を流し込んで作られる、中谷ミチコの作品
石膏に残った凹面に樹脂を流し込んで作られる、中谷ミチコの作品

—「これだ!」と。ドレスデンが、現在の作風が生まれるきっかけになったんですね。

中谷:イメージを存在させることが彫刻の目的だとすると、イメージに限りなく忠実な存在感を探す必要があります。「そこにあるのに、ない」ということにいちばん近かったのが、いまに続くレリーフと樹脂の組み合わせだったのだと思います。

それから、キャリアを通してたくさんの女の子や動物が密集している作品を多く作っているのは、子どもの頃の経験が影響している気がします。保育園で身体測定するときに、みんな裸になって体育座りして並びますよね。そのときに、感じた独特の匂い……たぶん子どもの肌の匂いだと思うのですが、「見たいけど見られたくない」っていう自意識の葛藤と組み合わさった匂いの体感を、作品を作る上で、気配として大切に思い返す事があります。

女の子をモチーフにした、中谷ミチコの初期作品
女の子をモチーフにした、中谷ミチコの初期作品

自分を客観視せざるをえない場所が、たぶん私には合ってる。

—その後、中谷さんはドレスデン美術大学を卒業して東京に戻って来ます。そして2年後、文化庁の在外派遣で再びドレスデンに行くことになります。再度ドイツに渡った理由はなんだったのでしょうか?

中谷:大きかったのは2011年の東日本大震災です。29歳という年齢のこともあったのですが。

—将来のことを色々考える時期に、ちょうど震災が起こった。

中谷:心も揺れて、迷って、作品を作れなくなって。でも、「これは自分から大きく動かないとダメだ!」と一大決心をして、文化庁に応募しました。当時の状況から離れて、安心して作品に取り組みたかったのだと思います。

実際、ドレスデンに戻って、通常の制作ペースを取り戻しました。ただ、「もう後には退けないぞ。作り続けるんだ」という気持ちは強くなり、制作と同時に、これからの活動のための環境をどう整えるかということにも頭を巡らせる2年間でした。

中谷ミチコ

—大切な時間ですね。

中谷:そうですね。その他に、もう一つ大きかったのが渡独して間もない時期にドイツで参加した写真家のハンス=クリスティアン・シンクさんとの二人展でした。かなり急な出展依頼を受けたのですが、フライヤーが刷りあがるまでそのタイトルが『Tohoku(東北)』だということを知らなかったのです。

—つまり、震災に対しての展覧会。

中谷:ある意味、震災から逃げてきたという負い目のようなものがあったので、シンクさんがすぐに現地へ足を運びリアクションしているのに対して、私は立ち尽くしてしまうほかありませんでした。写真と彫刻というメディアの違いもあるかもしれませんが……。シンクさんの写真は静かで厳しくて美しかったです。

当時、ドイツの人に言われたことがあります。「なぜ、(日本は)こんなに危険な状況と言われているのに逃げる人が少ないの?」って。でも、そう簡単に割り切れるものではないですよね。

ドイツ語に「Heimat(ハイマット)」という言葉があります。「故郷」とか「帰る場所」という意味が近いと思いますが、「Heimatが持つ引力って、とても強いんだよ。」そう答えたら、友人は黙ってしまいました。ドレスデンは常に「自分は外国人である」ことを意識させられる場所でもありました。

—アメリカ南部のような、ナショナリズムの強い土地なんですね。

中谷:ある意味ではそう言った側面もありますが一概には比べられません。ただ、自分を客観視せざるをえない場所でした。たぶん私には合っていたと思います。だからこそ2年の滞在期間を終えたときに、今度は自分の帰る場所を作ろうと思えたわけですから。

それから大きい声で言っておきたいのはドレスデンで沢山の暖かい人に出会いました。こんな何者かもわからない人間を受け入れて育ててくれたのですから、あの街には心から感謝しています。

自分がいたいと思える場所は、自分で作るしかない。

—そして、現在は三重に居を移した。

中谷:そうですね。

—中谷さんにとってのHeimat(居場所)は日本でしょうか? それともドイツ?

中谷:どちらも、です。あちらに行けばこちらが恋しくなるし、その逆もありますから。本当のことを言えば、私のHeimatはあってないようなものかもしれない。だから、自分が帰りたいと思える場所は、自分で作るしかない。

中谷ミチコ

—それって展覧会にも当てはまりますか?

中谷:もちろん、『DOMANI・明日展』に誘っていただけるのは嬉しいです。グループ展に参加した作家同士って、同じ時間を戦った同志のような関係になることもあるし、エネルギーに溢れたアーティストと時間や空間を共有するのは、私にとってはとても重要な時間。いまみたいな場所に住んでいると特に。ただ、それと同じくらいに、「自分の意思で作品を見せる大切な空間を一からを作れたら、それがどんなに遠い場所でも見に来る人は絶対にいる」という確信があります。

私立大室美術館では、毎年敬老の日限定で、自分の作品を展示するプロジェクトを始めています。この地域は高齢化が進んでいますが、私はここに移り住んで来て、まずはここに住んでいるじいちゃんやばあちゃんに、私が何をしているのかをきちんと伝えたいと思ったのが始まりです。2回目の今回はもはや、じいちゃんばあちゃんに作品を洗ってもらっているような感覚です。このプロジェクトは、ライフワークとして自分が死ぬまでずっと続けるつもりでいます。何十年でも、ずっと。だから『When I get old』とタイトルをつけています。

今年で20回目を迎える『DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』ポスタービジュアル。1月13日から開催。
今年で20回目を迎える『DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』ポスタービジュアル。1月13日から開催。(詳細はこちら

—作家としての覚悟が固まったということですね。

中谷:ドイツ東部では、作品はもちろん、家も展示場所も自分で作るアーティストが多いです。ベルリンなどと比べると、海外との窓口を持つビッグギャラリーは少ないけれど、そういう環境でもアーティストとして生活する術が成り立っている。全然名前が知られていなくても「俺は画家だから一日中絵を描くんだ」って言ってる60歳、70歳の人が、誇りを持って、パワーを失わずに生きている姿を見ました。それがいいと思うのです。それが文化を育む土壌だと思います。

……いや、私はぜんぜんダメなのですが……(苦笑)。でも、最後まで続けて、死ぬときに、それまで作ってきた作品が溢れかえって墓のような場所になっていたらいいし、それが自分のやりたいことだというのがいまは明確になりました。

「みんな(ここのよさを)知らないでしょ!?」と自信たっぷりに伝えたい。

—取材場所に「美術館」を指定されたので、てっきり中谷さんの強力なコレクターが住んでいる土地なのかなと思って今日は来たんですよ。でも、実際は中谷さんと家族が自力で作った場所で、取材中も近所の長老的なおじいちゃんや知り合いの人がたくさん訪ねてくる、とても穏やかで親密な場所に育っている。そのあり方に、すごく共感しました。

中谷:ありがとうございます。2017年2月に「さいたま市プラザノース」というスペースで個展をさせていただいたのですが、10年分の作品を展示しました。そのときに心がけたのは、一個一個の作品を見せることと同時に、それが視覚的に重なって関係が立ち現れてくるような空間作りです。格子状の仮設壁を設計してもらい、舞台美術のような空間を作りました。

1月の『DOMANI・明日展』でも、その延長線上にある見せ方をしたいと思っています。作品自体はそれぞれに完結していますが、1つや2つでは足りなくて、それらの連続性を意識させたい。それが、ドローイングや彫刻をずっとやって来た自分の生き方でもありますから。

2017年2月の「さいたま市プラザノース」での中谷ミチコ個展風景(撮影:Hayato Wakabayashi)
2017年2月の「さいたま市プラザノース」での中谷ミチコ個展風景(撮影:Hayato Wakabayashi)

2017年敬老会特別企画 中谷ミチコ『When I get old』の展示風景
2017年敬老会特別企画 中谷ミチコ『When I get old』の展示風景

—この場所での展覧会も、敬老の日という区切りでずっと続いていくわけですよね。作品は既に作られたもの、過去のものとしてしか接することができないですけど、この場所であれば、何十年も先の未来にも作品が続いていくことを想像できる気がします。

中谷:そこの角の家に、みね子さんという大好きなおばあちゃんが住んでいます。とにかく庭がきれいで。庭は放っておくとすぐに緑が生い茂って荒れてしまう。でも、みね子さんの庭は、常に手入れが行き届いていて美しいです。

一人暮らしで、腰も曲がったおばあちゃんが、毎日庭仕事を欠かさずに続けている。その姿が本当に美しいと思います。みね子おばあちゃんは「そんな大したものじゃないよ!」と言うと思いますが、実は敬老の日に展覧会を始めたのは、みね子おばあちゃんの庭に太刀打ちできるくらいの作品を作っていきたいと思ったのがきっかけだったりします(笑)。

中谷ミチコが拠点とする、三重県津市白山町の風景
中谷ミチコが拠点とする、三重県津市白山町の風景

中谷:この町で子育てしながら暮らしていると、都市で交わされているような美術の言葉から遠ざかってると感じて、とても焦ることもあります。でも、東京もドレスデンも作り続けるための場所と考えられなかったのは事実。考えてみれば、世界の大半の場所が故郷でないのは当たり前なのですが……。 自分が作るためにこの場所を選んで、日々を過ごす中で、「みんな(ここのよさを)知らないでしょ!?」と他の人に伝えることができるようになったのは、大きな喜びだと思います。

中谷ミチコ

リリース情報
『未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』

2018年1月13日(土)~3月4日(日)
会場:国立新美術館 企画展示室 2E
料金:1,000円

『未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』アーティスト・トーク『具象彫刻/在り方の可能性―現れる私』

2018年1月17日(土)
会場:国立新美術館企画展示室2E入口特設会場
出演:
中谷ミチコ
棚田康司
料金:無料

『日比谷図書文化館特別展 DOMANI・明日展 PLUS × 日比谷図書文化館 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果 Artists meet Books 本という樹、図書館という森』

2017年12月14日(木)~2018年2月18日(日)
会場:東京都 千代田区立日比谷図書文化館1F 特別展示室
料金:300円

プロフィール
中谷ミチコ (なかたに みちこ)

1981年東京都生まれ。ドレスデン造形芸術大学 Meisterschülerstudium修了。近年の主な個展に『私は1日歌をうたう』(さいたま市プラザノース、埼玉県、2017)『暗い場所から、明るい場所まで』(Maki Fine Arts、東京、2015年)、『souzou no kage』(森岡書店、多摩美術大学彫刻棟ギャラリー、ともに東京、2014年)、『Souzou no Yoroi』(Galerie Rothamel、フランクフルト、2014年)、『Schatten der Vorstellung』(Galerie Grafikladen、ドレスデン、2014年)など。



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